★メモ・レミージ (vm) Memo Remigi
エミディオ・レミージ(Emidio Remigi) 1938年5月15日(27日説もある)ミラノの北30kmにあるエルバ生、歌手、作詞作曲家、ラジオ司会者。
彼はリアンツァ地方の繊維織物実業家の息子として生まれ、少年の頃はコモのサッカー予備チームの選手が夢でした。その後工業技術研究院に通いながらピアノの勉強もし、色々なバンドで演奏するようになります。
サッカーでもイタリアやヨーロッパでの試合で何度も勝利をしました。ゴルフは数多くのトーナメントに出場し、ビング・クロスビーや有名プレイヤーともラウンドし、人生の岐路ではプロ・ゴルファーか歌手になるか迷い、歌手の道を選びました。因みに彼はモトファーノ・カントリー・クラブでゴルフをしていた時に知合ったミラノのルチア・ルッソと恋に落ちて結婚しています。
音楽では、父の弾いているピアノの傍でアコーディオンを習い、30年代の沢山のレパートリーを身につけました。ある夕べ彼は海辺のテラスで、ジョヴァンニ・ダンツィ(Giovanni D’Anzi,)の映画音楽を聴きながら鼻歌を歌っていました。巨匠ダンツィがそこにいて聞いていたのでした。この出会いは彼をミラノに向かわせ、初めて吹込みをし、“Ti amo”でレコード・デビューすることになりました。
KN-123 (1962年 Karim - Karim) Ti amo/Le tue lacrime
KN-123 KN-160
KN-160 (1962年 Karim - Karim) Ti amo/Le tue lacrime
1962年ファブリツィオ・デ・アンドレの父たちが作ったカリム(Karim)からオリエッタ・ベルティと共にデビューしました。この年5枚のシングル盤を出し、翌63年ベルギーのリェージュで開かれた「リエージュ・カンツォーネ・フェスティヴァル」にこの5枚目の曲“Oui je sais”を歌い優勝しました。
64年リフィに移籍します。この年のシングル盤は1枚しか確認できていません。65年彼の代表作ともいえる曲“(Innamorati a Milano)”で第2回夏のディスク・フェスティヴァルに参加曲しました。後にオルネラ・ヴァノーニ(Ornella Vanoni)がカヴァーして再評価された曲です。
RFN・NP-16095 (1965年Ri Fi - Ri Fi) Innamorati a Milano (ミラノで愛し合う)/Come se noi due
RFN・NP-16095
彼はこの曲は妻ルチアへの躊躇いのない愛の告白がモチーフとなって作られたことを自ら語っています。またこの“ミラノで愛し合う”は78年元大統領ベルルスコーニのフェニンヴェスト財閥が持つマスコミ・グループの代表的放送局カナレ5の前身のTV局テレミラノ58のオープニング・テーマに使用されています。
66年幸運が訪れます。サンレモ音楽祭への初参加です。とはいっても作家としてのサンレモ・デビューです。サンレモ音楽祭は本来新曲コンテストですから、今では考えられないでしょうが作者としての存在の方が重要視されています。
彼は2曲出品しています。オルネラ・ヴァノーニとオリエッタ・ベルティが歌った”生命をかけて(Io ti darò di più)”とイヴァ・ザニッキとヴィック・ダナの“わかれの夜(La notte dell'addio)”です。厳密には作曲家は1人1曲とされていますが、“わかれの夜”をジュゼッペ・ヂヴェリオ(Giuseppe Diverio)と共作で切り抜けたと思います。見事2曲とも入賞しました。彼の作家として曲を提供したのは72年22回スペインのアグアヴィーヴァ(Aguaviva)が歌った“チャオ・アミコ・チャオ(Ciao amico ciao)”と後に大歌手アリーチェとなったカルラ・ビッシ(Carla Bissi)の“さよならを云った心(Il mio cuore se ne va)”があります。
66年リフィを離れ、イタリア・デッカから1枚シングル盤を出しましたが、カロセッロ(Carosello)に移籍をしました。水に合ったのか81年にシングル盤を出していますから約15年在籍します。歌手としてサンレモ音楽祭に出場したのはこの時代でした。67年17回セルジョ・エンドリゴのパートナーとして“孤独な青春(孤独な青春)”で入賞、69年19回は自作“愛のだんらん(Una famiglia)”をイザベラ・ヤンネッティ(Isabella Iannetti)をパートナーに、1人制になってから73年23回に“花開く世界(Il mondo è qui)”を歌い13位入賞をしています。
彼の歌は年間ヒット・ランキングに入ることのない地味な存在でしたが、67年9月に出た映画「パリのめぐり逢い」のカヴァー曲(国内盤も発売)はセールス的に成功したようです。一人の妻を愛した紳士で人格者だったようで、後にゼッキノ・ドーロや、トッポ・ジージョ子供向けの曲を書いたりもました。
また彼の後半は放送、特にラジオの司会者、パーソナリティーのとして活躍しています。2013年ロンバルディア州の中道連合(Unione di Centro)の議員として選出されています。
メモ・レミージの国内盤
SFON- 3014 (1965年3月 FONTANA - 日本ビクター) 17cm CP '65サンレモ・ベスト4第2集 (XV FESTIVAL SANREMO 1965 Vol.2)
3.あこがれはいつも心に (HO BISOGNO DI VEDERTI)
4.明日を待とう (ASPETTA DOMANI)
3.あこがれはいつも心に (HO BISOGNO DI VEDERTI)
4.明日を待とう (ASPETTA DOMANI)
SFON- 3014 SFON- 7051
SFON- 7051 (1965年5月 FONTANA - 日本ビクター) 30cm LP '65サンレモ・フェスティバル (FESTIVAL SAN REMO 1965)
3.明日を待とう (ASPETTA DOMANI)
9.あこがれはいつも心に (HO BISOGNO DI VEDERTI)
3.明日を待とう (ASPETTA DOMANI)
9.あこがれはいつも心に (HO BISOGNO DI VEDERTI)
HIT-1489 (1968年1月 10日 SEVEN SEAS - キング) パリのめぐり逢い (VIVERE PER VIVERE)/水上のロンド (CERCHI NELL'ACQUA)
HIT-1489 GW- 17~8
GW- 17~8 (1969年5月20日 SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP第19回サンレモ音楽祭 (FESTIVAL DI SAN REMO 1969)
2-5. 愛のだんらん (UNA FAMIGLIA)
2-5. 愛のだんらん (UNA FAMIGLIA)
SR- 313~5 (1969年10月20日 SEVEN SEAS - キング) 30cm 3LP Boxカンツォーネ・スター大名鑑 (PANORAMA DI CANTANTI)
2-13. 愛のだんらん (UNA FAMIGLIA)
2-13. 愛のだんらん (UNA FAMIGLIA)
SR- 313~5 SR- 605~6
SR- 605~6 (1971年3月10日 SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LPサンレモ音楽祭のすべて第3集 (FESTIVAL DI SAN REMO (III))
1-4.生命をかけて (IO TI DARO' DI PIU')
1-4.生命をかけて (IO TI DARO' DI PIU')
GW- 239~40 (1973年3月SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LPラヴ・ミー・トゥナイト/くたばれサンレモ (NON FINALISTE DI SAN REMO)
2-3.愛のだんらん (UNA FAMIGLIA)
2-3.愛のだんらん (UNA FAMIGLIA)
GW- 239~40 GP- 316
GP- 316 (1973年6月SEVEN SEAS - キング) 30cm LP失われた愛を求めて/サン・レモ1973 (SAN REMO 1973)
9.花開く世界 (IL MONDO E' QUI)
9.花開く世界 (IL MONDO E' QUI)
GW- 247~8 (1973年8月SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP カンツォーネを歌おう/第6回カンツォーネ・コンクール課題曲集 (CANZONI DATI DI CONCORSO VOCI NUOVE)
1-10.生命をかけて (IO TI DARO' DI PIU')
1-10.生命をかけて (IO TI DARO' DI PIU')
GW- 247~8 GXF- 81~90
GXF- 81~90 (1979年2月5日 SEVEN SEAS - キング) 30cm 10LP Boxサン・レモ音楽祭大全集 (FESTIVAL DI SAN REMO)
7-16.愛のだんらん (UNA FAMIGLIA)
7-16.愛のだんらん (UNA FAMIGLIA)
9-18.花開く世界 (IL MONDO E' QUI)