★ペピーノ・ディ・カプリ (vm) Peppino Di Capri
本名ジュゼッペ・ファイエッラ(Giuseppe Faiella)1939年7月27日カプリ生、歌手。
1967年から2005年までサンレモ音楽祭に15回出場2回優勝しています。

彼の祖父や父ベルナルドもカプリ島でレコード楽器店をし、暇な時は楽団でサックス、クラリネット、ヴァイオリンやベースを演奏する音楽家でした。そんな音楽一家に彼は生まれました。1943年4才の時、クリスマス島にいるアメリカ進駐軍の前で初めてピアノを弾きました。ナポリの厳格なドイツ人音楽教師のもとでクラシックを勉強する一方、53年からドラマーになる友達のエットーレ・ファルコニエーレとカプリ島やイスキア島のクラブでドゥオ・カプレーゼの名前で演奏を始めます。
56年二人はエンツォ・トルトーラ楽団と一緒に最初のTV出演をし好評を得ます。翌57年彼らは友達とアメリカ音楽に触発されジャズ・スウィング・バンド、カプリ・ボーイズ(i Capri boys)を結成、オリジナル曲も作り地元で活動していました。彼とギタリストのマリオ・チェンチは正式にSIAE(音楽著作権協会)に登録しました。
58年8月彼らはイスキア島で演奏していたところ、休暇中のカリッシュ・レコードの幹部がそれを聞いていて、彼らに契約を申し込みました。9月ミラノに呼ばれ、クラブで好評の10曲を吹込みます。彼はカプリから来たので、ペピーノ・ディ・カプリ、バンドはロッカーズと名付けられました。デビュー曲は彼らが作った“Let me cry”/“You're divine dear”(VCA-26025)になりました。
VCA-26025

録音された10曲は年内に5枚のシングル盤として発売されました。その内3枚目と5枚目は翌年大ヒットとなります。
“Pummarola boat”/“Nun è peccato(罪もなく)”(VCA-26027)
VCA-26027
VCA-26029


“'mbraccio a mme”/“Malatia(病める人)” (VCA-26029)
59年年間ランクに“罪もなく”が45位、“病める人”が35位、さらに59年に出した“Ghiaccio”/“Chissà pecché...”(VCA-26083)の“Ghiaccio”が同33位の大ヒットになりました。59年サンレモ音楽祭のヒット曲もカヴァーしていますが、彼らの得意とするところは、ナポリターナをマンボ、チャ・チャ・チャ、ロック・ン・ロールなどにアレンジして歌うことでした。
60年は年間ランクに驚異の7曲を送り込みます。“Nessuno al mondo (君だけの世界)”が4位のメガヒット、“Voce 'e notte(夜の声)”26位、“I' te vurria vasa'(あなたのくちづけを)”35位、“Notte di luna calante(欠けたお月さま)”68位、“Mai dire mai”77位、“Luna caprese(カプリの月)”83位、“Che vita!”90位と凄まじいものでした。ペピーノ・ディ・カプリとロッカーズは一躍大スターです。
61年も年間ランクに6曲を送り込みます。“Parlami d'amore Mariù(マリウ、愛の言葉を)”27位、“Per un attimo”39位、“Ciento strade”47位、“Aprile a Napoli”54位、“Piscatore 'e Pusilleco(プシレコの漁師)”59位、ルイジ・テンコ(Luigi Tenco)の初期のヒット曲として知られている“Quando(クァンド)”を83位のヒットとしています。
62年は彼の頂点の年かもしれません。8曲のヒットを出しています。チャビー・チェッカーの“Let's twist again(レッツ・ツィスト・アゲイン)”のカヴァーが8位、“St. Tropez twist(.恋のサントロペ)”が10位のメガ・ヒット、“Speedy Gonzales(スピーディー・ゴンザレス)”22位、“Daniela”32位、“The Jet”60位、“Torna piccina mia(帰っておいで、いとしい人)”63位、“Sogno d'amore twist”71位、“Madison time”100位の成績でした。
63年はジェームス・ダーレンの“恋も涙もさようなら(GOODBYE CRUEL WORLD)”のカヴァー“Addio mondo crudele”が8位のメガ・ヒット、“Roberta(ロベルタ)29位、“T'hanno visto domenica sera(土曜の夜のあなた)”55位、“Vita difficile”57位、カンタジーロ・ジローネA出場曲“Non ti credo(キッスはうそつき)”61位、“Don't play that song(あの歌を歌わないで)”68位。
さすがに人気も落ち着いてきた64年はランク・インが4曲になります。“Baby(ビー・マイ・ベビー)”31位が最高で、第1回夏のディスク・フェスティヴァル入賞曲“Solo due righe(たった2行で)”49位、“Piccatura”72位、“Se ti senti sola(君知るならば)”91位でした。
65年に入ると急速に人気が衰え、ラン・クインは“Malinconia”1曲のみ、第2回夏のディスク・フェスティヴァルに“La lunga strada”で、66年第3回も“Operazione sole”出場しますが、2年連続で入賞できませんでした。遂に66年にはラン・クインする曲は無くなりました。その年の第14回ナポリ音楽祭に“Lucia(ルチア)”で出場し、ナポリ音楽祭だけは入賞を果たしています。
その状況の中で67年初めてのサンレモ音楽祭に出場しています。再度ナポリ音楽祭に“'O tiempo 'e Maria”で出場しますが入賞できません。低迷が始まります。69年古巣カリッシュから独立し、70年自分の会社スプラッシュを設立、再起を目差します。
ペピーノ・ディ・カプリの国内盤
IPS-1001 (1964年 CARISCH - コダマプレス) ウンバラ節 (I MARZIANI)/みんなで笑おう (E VOI RIDETTE) /ビー・マイ・ベビー [伊] (BE MY BABY [I])
IPS-1001
IPS-1002


IPS-1002 (1964年 CARISCH - コダマプレス) たった2行で (SOLO DUE RIGHE)/ブーム!ブーム・サーフ (BOOM!.. BOOM!... SURF!...)
IPS-1003 (1964年 CARISCH - コダマプレス) 恋のサントロペ (ST. TROPEZ TWIST)/あの歌を歌わないで (DON'T PLAY THAT SONG)
IPS-1003
K-571~3


K-571~3 (1964年11月8日 KODAMA - コダマプレス) 17cm Flex コダマ57号追い越し野郎/シェルブ-ルの雨傘 フィルム・シート
1-1.恋のサントロペ (ST. TROPEZ TWIST)
1-2.シェルブールの雨傘 (LES PARAPLUIES DE CHERBOURG)
1-1 ペピーノ・ディ・カプリ; 1-2 レインボー・ポップス
1-1.恋のサントロペ (ST. TROPEZ TWIST)
1-2.シェルブールの雨傘 (LES PARAPLUIES DE CHERBOURG)
1-1 ペピーノ・ディ・カプリ; 1-2 レインボー・ポップス
IPS-1004 (1964年 CARISCH - コダマプレス) キッスはうそつき (NON TI CREDO)/誰が星に灯をつけた (CHI ACCENDE LE STELLE)
IPS-1004
K-581~3


K-581~3 (1964年12月6日 KODAMA - コダマプレス) 17cm Flex コダマ58号アイドルを探せ/太陽の国のカンツォーネ フィルム・シート
2-1キッスはうそつき (NON TI CREDO)
2-2. 野のゆり (LILIES OF THE FIELD)
2-1 ペピーノ・ディ・カプリ; 2-2 レインボー・ポップス
2-1キッスはうそつき (NON TI CREDO)
2-2. 野のゆり (LILIES OF THE FIELD)
2-1 ペピーノ・ディ・カプリ; 2-2 レインボー・ポップス
※コダマ時代のペピーノ・ディ・カプリに関して殆ど資料はありません。この他に出ているかもしれません(特にシート)。ご存知の方がいらっしゃれば教えてください。
この続きペピーノ・ディ・カプリ 2は1971年サンレモ音楽祭の後になります