ロス・ブラボ-ズ (compl=e)  Los Bravos
ロス・ブラボーズは1965年に結成されたスペインのビート・グループで、マドリードに拠点を活動していました。
 
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メンバー
・マイケル・フォルケル・コーゲル(Michael Volker 'Mike' Kogel)リード・ヴォーカル
1945年4月5日ドイツ、ベルリン生。 独立後マイク・ケンディー(Mike Kennedy)名を使う。
・マニュエル・フェルナンデス(Manuel Fernández)オルガン
1943年9月29日セリビア生-1967年5月20日(自殺)
・ミギュエル・ヴィセンス(Miguel Vicens Danus)ベース
1944 年6月21日マリョルカ島パルマ生
・トニー・マルティネス(Antonio "Tony" Martinez)リズム楽器、リード・ギター
1945年10月3日マドリッド生。
・バブロ・ゴメス(Pablo Gomez)ドラムス
1943年11月5日バルセロナ生。
 
バンドはマドリッドのロス・ソノ-ル(Los Sonor) とマヨルカのザ・ランナウェイズ(The Runaways) 2つのポップ・グループが合体してできました。リード・ヴォーカルのマイク・コーゲルはドイツ生まれで、歌うスタイルはアメリカのジーン・ピットニーのような高音を使った歌唱法でした。
1966年に大ヒットした彼らの代表作“ブラック・イズ・ブランク”はイギリスのシングル・チャート2位、アメリカのビルボード・ホット100で4位の世界的ヒットになりました。そもそもダスティー・スプリングフィールドなどをプロデュースしていたイギリスのアイヴォール・レイモンドがイギリスに連れて来て、ヘイズ&ウェイディというデュエット・グループでデビューすることになっていたトニー・ヘイズとスティーヴ・ウェイディが書いた曲をロス・ブラボーズにレコーディングさせたものでした。
 
TOP-1071 (1967410日 LONDON キング) ブラック・イズ・ブラック (BLACK IS BLACK)/アイ・ウォント・ア・ネイム (I WANT A NAME)
 
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 この曲はフランスのジョニー・アリディーもカヴァーしました。その後の“アイ・ドント・ケアー(I Don't Care)”は全英シングル・チャート16位となり、67年サンレモ音楽祭でミルバのパートナーとして“太陽の勝利”を歌いましたが入賞はできませんでした。
 その年5月、マニュエル・フェルナンデスが自殺をしました。彼の不注意で奥さんを自動車事故死させてしまったのが遠因だったようです。69年にはリード・ヴォーカルのマイケル・コーゲルがソロとして独立しマイク・ケネディーを名乗ります。メンバー交代をしながら音楽活動を続けました。
 
ロス・ブラボ-ズの国内盤 (イタリア関係)
TOP-1129 (1967410日 LONDON キング) 太陽の勝利 (UNO COME NOI)/ベイビー・ベイビー (BABY BABY)
 

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マリオ・ガルネラ (vm) Mario Guarnera
1949年5月15日ボローニャ生、、歌手、作曲家。
 

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彼は最初、故郷ボローニャで同郷の先輩ルチオ・ダルラ(ルーチョ・ダッラ)やアンドレア・ミンガルディ(Andrea Mingardi)などのベーシストをしていました。 
マリオ・ガルネラのデビューは毎年年末から翌年のお正月にかけて放送される「イタリアの紅白歌合戦」カンツォニッシマ1966年“王の階段(Scala Reale)”で芸名をパペーテ(Papete)でした。この年のカンツォニッシマはスター歌手がキャプテンとなり、ベテラン歌手、中堅歌手、外人歌手、新人歌手などで4歌手で1チームを作り、チーム対抗戦勝ち進んでいく方法が取られました。
そのため多くのマッシーモ・ラニエリ、ロザンナ・フラレルロなど新人歌手がデビューしました。その新人歌手を発掘する番組が必要だったと思われるのですが、1966年から日曜の午後2時間の名前で出ていた新人歌手が良く知られるようになっていました。初めはフランス語の「プペット」からきた、腹話術の人形「パペット」かと思いましたが、大阪弁で言う「イキリ」という「いきり立って」といういみかもしれません。
 67年サンレモ音楽祭でオルネラ・ヴァノーニの歌う“音楽は終ったのに(La musica è finita)”のパートナーに抜擢されました。同じレコード会社の大歌手ヴァノーニは彼の芸名にクレームを付けました。こんな軽い名前のパートナーでは出場しないとクレームをつけ、本名のマリオ・ガルネラに戻ることになりました。その年の夏のディスク・フェスティヴァルには“Mille ricordi”で参加しました。
 翌68年サンレモ音楽祭の出場し、今度もパートナーに恵まれ、リトル・トニーと“恋に泣く男(Un uomo piange solo per amore)”を歌い10位入賞をしました。カンタジーロにはジローネA(スター部門)で“Congratulations”で出場しました。69年デビューしたアリストンのサブ・レーベル、ファーストから“Il concerto del leone”出した後、レコード・リリースが途絶えます。
 75年ミーナの会社PDUから“Adriana”のシングルとアルバムを1枚をリリースしました。カンタウトゥーリが流行のスタイルを取り入れた曲ですが、成功したとは言えなかったようです。舞台音楽の作曲家をしていたようです。
 また4年ほどレコードを出しませんでしたが、RCAイタリアーナが販売していたミラノのマイナー・レーベルのWEPWithout End Production)から79年から81年まで1枚ずつのシングル盤を出しています。
 82年からCMソングの作曲家として活動し始めました。最初に手掛けたハイネケンのCMジングルは年間最高CMとなったようです。92年の作品“Arrogance”は年間最高ジングルを受賞しました。またジーノ・パオーリの音楽出版社センサ・フィーネに所属し、ソングライターとしてもオルネラ・ヴァノーニの“誠実(SINCERITA')”やエンツォ・ジャンナッチなどのも曲を提供しています。
 国内盤で“恋に泣く男”が出ていて“音楽は終ったのに”が出ていないのは、ヴァノーニの“音楽が”が優先され、キングに販売権のないリトル・トニーに変り“恋に泣く”が使われたのでしょう。
 
マリオ・ガルネラの国内盤
SR- 6056 (1971 310SEVEN SEAS - キング) 30cm LP サンレモ音楽祭のすべて第3集 (FESTIVAL DI SAN REMO (III))
2-
. 恋に泣く男 (UN UOMO PIANGE SOLO PER AMORE)
 
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GXF-  8190 (197925SEVEN SEAS - キング) 30cm 10LP Box サン・レモ音楽祭大全集 (FESTIVAL DI SAN REMO
6-14.
恋に泣く男 (UN UOMO PIANGE SOLO PER AMORE)