カルメロ・パガーノ (vm) Carmelo Pagano
1946 年 9 月 10 日シチリアのパレルモ生、、歌手、作曲家
 
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花屋の息子で、子供の頃から音楽好きで、カルメロ・パガーノはピアノ、アコーディオン、ギターを弾くことを独学しました。やがて電気工学の勉強を始めましたが、同時に何人かの友人とバンドを結成しました。彼らはシチリア島でビートルズやローリングストーンズの曲を演奏し始めました。
ソロ歌手として、いくつかののど自慢に参加し、1965 年「若者の歌声」で優勝しました。66年アリッチャで開かれたテディ・レーノが主催する「名もなき者の音楽祭」に参加し、勝利しました。テディ・レーノが彼の美声を認めマネージャーとなったお陰でRCA イタリアーナのレコーディング契約が出来ました。 
数ヶ月後に、ローマで開催された第3回バラのフェスティヴァルに“ルイーザ・カサーリをパートナーとしてL'amore se ne va”を歌い、優勝しました。これが彼のデビュー曲になり、ダスティー・スプリングフィールドが“あなたを愛するときGive me time)”※として英語カヴァーをして世界的ヒットともなりました。
 
 
 この実績で、出場辞退したジョニー・リヴァースの代役としてでしたが、67年サンレモ音楽祭に“私を信じて(Devi aver fiducia in me)”で唯一の出場が出来ました。その夏カンタジーロのジローネAに“ヴァ(Va)”で出場しました(この年は順位がつかず)。この曲は4枚目のシングル盤として発売されました。2枚目のシングルは映画の挿入歌でした。映画「大スパイ(仮 Spia spione)」のテーマ“まさにその日(Il giorno tutto giusto”は唯一の国内盤で発売された曲でもあります。
 68年アリストンに移籍します。69年唯一のアルバム“Melodie eterne”をリリースしました。彼はペンネーム、ヴィクター・パガーノ名を登録して作詞家ジュゼッペ・カッシア(Giuseppe Cassia)と作曲の仕事を始めます。71年ビートに再移籍し1枚のシングル盤を出しましたが、翌72年、70年にカッシア興したピッチ(PICCI)に移り、ここでも1枚シングル盤を出しています。
 レコードの発売はここまでですが、歌う仕事をつづけ70年代前半はRAIの仕事をし、後半はライヴ活動を行っています。2008年突然アルバム“Ricomincio da...prima”を出し、音楽活動を続けています。
 
カルメロ・パガーノの国内盤
SHP-5618 (1967515VICTOR - 日本ビクター) 30cmLP イタリア映画音楽フェスティヴァル (CANZONI AL SINEMA)
11.
まさにその日 (IL GIORNO TUTTO GIUSTO)
 
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SPCR-00016 (20071027AVANZ -アヴァンツ ) CDグランデジィオ・テーマ・フイルム ジリ45 アンコーラ・ウナ・ボルタ (GRANDEGGIO ! TEMA DAL FILM GILI 45 ANCORA UNA VOLTA)
21. まさにその日 (IL GIORNO TUTTO GIUSTO)
 
 
 
ロベルタ・アマデイ (vf) Roberta Amadei
1949年3月20日にボローニャ生。歌手。
 
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 彼女のデビューは1966年第10回カストロカーロ新人コンテストで、ロベルタ・アマデイとアンナリタ・スピナーチ(Annarita Spinaci)の二人が優勝をして、サンレモ音楽祭の出場権を獲得しました。
 67年サンレモ音楽祭にはカルメロ・パガーノがパートナーで“私を信じて(Devi aver diducia in me)”を歌いましたが、入賞できませんでした。パートナーだったカルメロ・パガーノの印象では、極めて普通の女の子で、何十年経った後では、どんな子だったか余り印象に残っていなかったとのことです。
 同年のカンタジーロ・ジローネB(新人部門)に“Accipicchia l'Angelicchia”を歌っています。
 ロベルタには7才年上の姉がいました。名前はクリスティーナ・アマデイ、歌手でした。ロベルタは姉クリスティーナと同じ道をたどっています。姉クリスティーナは61年カストロカーロで優勝して、リコルディから歌手デビューをしています。ただサンレモ音楽祭には出場していませんが、61年第1回カンタジーロ・ジローネBに“Pioggia a settembre”を歌っています。10年ほど歌手を続け引退をしています。
 ロベルタはサンレモ音楽祭後、69年までリフィから3枚のシングル盤を出し、ダンスホールの楽団付き歌手となり、歌手勝つ度を続けたということです。
 
ロベルタ・アマデイの国内盤
SFON- 7083 (19676FONTANA - 日本ビクター) 30cmLP愛のわかれ/サン・レモ・フェスティバル'67 (XVIII FESTIVAL DI SAぴなーtN REMO)
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私を信じて (DEVI AVERE FIDUCIA IN ME)
 
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ザ・バチェラーズ (compl=e) Bachelors
1957年に結成されたアイルランドのダブリン出身のハモーニー・ポピュラー・ミュージック・グループ
 
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グループのメンバーは
リード・ヴォーカルのコンレス・クラスキー(Conleth Cluskey愛称コン、1941 年11月18日生。
ギターのデクラン・クラスキー(Declan Cluskey愛称デク、1942年12月23日生。
ベースのショーン・ジェームス・ストークス(Sean James Stokes) 愛称ジョン、1940年8月13日生。のヴォーカル・・トリオです。
 
 1957年結成当時ハーモニコーズというインストロメンタル・グループでした。59年3月ダブリンでのエド・サリバンショーの特別番組に“ダニーボーイ”を演奏できました。その後色々なラジオ番組に出演するようになり、60年に英国デッカのA&Rマンのディック・ロウから「ザ・バチェラーズ」にグループ名を変更するように提案され彼らはバチェラーズとなりました。
 その後ヨーロッパのヒット・チャートばかりでなくソ連、南アフリカ、オーストラリア、遂に雨リマまで、古い名曲“シャルメーヌ(Charmaine)”、“ラモーナ(Ramona)”のリバイバル・ヒット曲送り込み、彼ら独自のジャンルを確立しました。
 67年サンレモ音楽祭に出場し歌った2曲とも入賞する快挙を遂げました。彼らの活動は84年まで続きましたが解散し、ニュー・バチェラーズとストークス&コーに分裂しました。
 
 
ザ・バチェラーズのイタリア関係国内盤
TOP-1067 (196691LONDON - キング) 生命をかけて [] (CAN I TRUST YOU - IO TI DARO' DI PIU' [E])/誰のところに (WHO CAN I TURN TO)
 
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TOP-1128 (1967420LONDON - キング) 夢の誓い (PER VEDERE QUANTO E' GRANDE IL MONDO)/平和の花に (PROPOSTA)
 
TOP-1187 (196791LONDON - キング) 限りなき世界 (MY WORLD (IL MONDO))/マルタ (MARTA)
 
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