この第17回はルイジ・テンコの初日の夜に自殺したことに尽きます。伝説のような話も残っていますが、動機が何だったのか今以って不可解なことから出てくるのでしょう。彼は遺書を残しました。
『私はイタリア国民を愛し、私の5年間の人生を過ごしました。(何もかも)人生に飽きたので、これを行います。 “バラのほほえみ”と“恋の革命”を入賞とした選定委員会委員、審査員に対する抗議の行為として。この考えが明らかになることを願っています。チャオ, ルイジ』
トニ-・デル・モナコ (CGD) マルチェロス・フェリアル,{ロス・} (CIRCUS)
第17回 1967年1月26日(木)~28日(土) サンレモ市カジノ付属劇場
司会:マイク・ボンジョルノ (Mike Bongiorno)、レナータ・マウロ(Renata Mauro )
楽団指揮: 25名の指揮者で演奏された。
オーガナイザー:サンレモ市ホテル観光協会 (ATA-Azienda Turistico Alberghiera)、監督ジャンニ・ラヴェーラ (Gianni Ravera)
形式:出場曲数26曲を各曲外国人歌手またはイタリア人歌手とパートナーを組み1曲2歌唱で第1夜、第2夜に15曲を歌い、各夜の中から6曲の入賞曲を選出し、敗者復活でもう1曲を選び各夜7曲づつ最終夜に出場権を与え、最終夜に出場した中から優勝を決め2位から14位までの入賞曲を発表する。
楽団指揮: 25名の指揮者で演奏された。
オーガナイザー:サンレモ市ホテル観光協会 (ATA-Azienda Turistico Alberghiera)、監督ジャンニ・ラヴェーラ (Gianni Ravera)
形式:出場曲数26曲を各曲外国人歌手またはイタリア人歌手とパートナーを組み1曲2歌唱で第1夜、第2夜に15曲を歌い、各夜の中から6曲の入賞曲を選出し、敗者復活でもう1曲を選び各夜7曲づつ最終夜に出場権を与え、最終夜に出場した中から優勝を決め2位から14位までの入賞曲を発表する。
出場歌手は58歌手(グループは1歌手)で、アメリカのジーンン・ピットニーとイギリスのバチェラーズ、デュエットとソロ歌手で出場したソニーとシェールのシェールが2曲歌った以外は、総て1歌手1曲の歌唱でした。
初出場34歌手(内外人13歌手)、出場レコード会社19社で初出場4社、外人歌手のみの出場会社は4社です。ただしボビー・ゴールヅボローが出場しているユナイテッド・アーティスツがどこの販売か分かりませんので不明1社としておきます。 [数]は外人歌手数
CGD10 [5]; RCA ITALIANA 7 [1]; RICORDI 7 [2]; FONIT CETRA 5 [0]; SAAR 4 [2]; RI FI 3 [0]; DURIUM 2 [0]; CAROSELLO 2 [0]; ARISTON 2 [0]; CARISCH 2 [1] ;V.C.M. 1 [0]; PHONOGRAM 1 [0]; Clan Celentano 1 [0] ; VEDETTE 1 [0]; BLUE BELL 1 [1];新Parade2 [0];新Interrecord 1 [0]; 新CDI 1 [1];新Tiffany 1 [1] ●不明 United Artists 1 [1]
アントワ-ヌ (Vogue) ロベルタ・アマディ (RI FI)
審査方法は審査委員の投票で6曲選び、選定委員会がもう1曲を敗者復活で最終日に残す方法でした。第1夜、“恋の革命”と“チャオ・アモーレ・チャオ”が敗者復活候補で残り、それぞれを推す委員が「暴力を伴う」選考を行い、委員が辞任する事件が起きました。
これが大きな一因ですが、すでにテンコが舞台で歌う様子は異常に大きく張り上げた歌い方をしており、舞台裏でパートナーのダリダは『まるで歌を台無しにしている』と嘆いたそうです。
世界的な流れでプロテスト・ソングが主流になっていましたが、テンコは歌に政治的主張を込めるのことには抵抗していたようです。彼はこの状況に「平手打ち」を食らわしたのではないかとも言われ、単に落選したのが原因ではなく計画的“確信犯”だったかも知れません。
『5年間』は何だったのでしょうか。彼の芸歴は長く学生自体に友人のブルーノ・ラウツィと作曲をしていたようで、サックスを覚えジャズ・バンドやアドリアーノ・チェレンターノのサポートバンドにも在籍していました。おそらくソロ歌手になり “クァンド(QUANDO)”や“失われた日々(I MIEI GIORNI PERDUTI)”のレコードを出し始めた頃からの時期を言っているのだと思います。
ある意味決して“出来の良い自作自演歌手”でなかったかも知れませんが、彼の人生を未完にすることによって、人々が彼を理解しようと試み今日まで名前を残す存在になったのだと思います。5年間(10年弱)の期間にそれほど多くの曲を残さず、時代を駆け抜けていった歌手ルイジ・テンコについては「サンレモの歌手たち」で、改めて紹介していきましょう。
<参加曲>
◆ 一つの命 Nasce una vita (S.Bardotti - J.Fontana) 出版社 RCA ジミー・フォンタナ (vm) Jimmy Fontana (RCA Italiana – RCA Italiana) PM45-3385 [45] :エドアルド・ヴィアネッロ (vm) Edoardo Vianello (RCA Italiana – RCA Italiana) PM45-3388 [45]
PM45-3385 PM45-3388
◆ 世界を信じたい Non prego per me (Mogol - L.Battisti) 出版社LES COPAINSミーノ・レイターノ (vm) Mino Reitano (Ricordi – Ricordi) SRL-10・448 [45] : ザ・ホリーズ The Hollies (Parlophon – Carisch) QMSP-16402 [45]
SRL-10・448 QMSP-16402
◆ 愛を知らずに Quando vedrò (M.Terzi - C.A.Rossi) 出版社 C.A.ROSSI ロス・マルチェロス・フェリアル (compl) Los Marcellos Ferial (Circus - Durium) CN・A-9226 [45] : ザ・ハプニングス (comp=a) The Happenings (CDB INTERNATIONAL - CDB) CDB-1100 [45]
CN・A-9226 CDB-1100
◆ 想いをこめて Una ragazza (V.Pallavicini - B.Pallesi - W.G.Malgoni) 出版社 GENERAL Mus. ドナテラ・モレッティ (vf) Donatella Moretti (Parade – Parade) PRC-5024 [45] ボビー・ゴールズボロ (vm=a) Bobby Goldsboro (United Artist – ?) UA-3112 [45]
◆青空に叫ぶ Sopra i tetti azzurri del mio pazzo amore (V.Pallavicini - D.Modugno)出版社 CURCI ドメニコ・モドゥーニョ (vm) Domenico Modugno (Curci - Carosello) SP-10・17 [45] :ジディウリ (vm) Gidiuli (Jolly - SAAR) J-20408×45 [45]
SP-10・17 J-20408×45
◆太陽の勝利 Uno come noi (G.Bertero - U.Martucci - M.Marini)出版社 RIMIミルバ (vf) Milva (Ricordi – Ricordi) SRL-10・449 [45] : ロス・ブラボ-ズ (compl=sp) Los Bravos (Tiffany – Tiffany) TIF-519 [45]
SRL-10・449 HIT-1425
TIF-519 TOP-1129
1967年第17回 以上30曲
リキ・マイオッキ (CBS) アンナ・ゲルマン (CDI)
残る最後の初出場のレコード会社はパレード(Parade)です。初出場ながら2人の歌手を出しています。国内盤でも何枚かマカロニ・ウェスタンのサントラ盤を出しているので知っている方もあるでしょう。RCAイタリアーナの芸術監督からリコルディの芸術監督となり、その後このパレードを作り倒産、イト(IT)を興したイタリアレコード界の大物ヴィンチェンツォ・ミコッチの会社です。詳しくは私の過去ブログ「インテルメッツォ~ヴィンチェンツォ・ミコッチ」(http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio/9012827.html)をご覧ください。
彼の弟子達、歌手ニコ・フィデンコ、作曲家エンニオ・モリコーネ、作詞家カルロ・ロッシと奥さんの歌手ルイゼールなどが支えた会社です。
・優勝・入賞曲と参加曲を含め全体を言う場合、出場曲と表現します。
・順位をつけない入賞曲の頭には"◇"を、参加曲の頭には"◆"を付けます。
・太字は国内盤で出ていた曲と歌手。
・サンプル音声ファイルは著作権侵害を避け、なるべくAmazon MP3のサンプル音声を利用します。昔のイントロは長く、歌が出ないまま終わる曲があります。全曲聞きたい方はYou-Tubeを探してください。見つかることもあります。