イ・リベルリ (compl) I Ribelli
アドリアーノ・チェレンターノ(Adriano Celentano)のバック・バンドとして結成され、独立したバンド活動を続け、チェレンターノのレコード会社クランからも離れ、チェレンターノとは関係なくバンド活動をしました。
 
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1966年サンレモ音楽祭時の構成
ジョルジョ・ベナッキオ(Giorgio Benacchio (1959-1970 年、1977-ギター、ボーカル。
ジャン・クロード・ビカーラ(Jean Claude Bichara (1964-1966 )ベース。
フィリッペ・ビカーラ(Philippe Bichara (1964-1966 )-ギター。
ジャンニ・ダラリオ(Gianni Dall'Aglio (1959-1970 年、1977 年と 1986 年現在から)ドラムス、ボーカル。
ナターレ・マッサーラ(atale Massara (1961-1970 年、1977年)ボーカル、サックス
※印のメンバーとエンジェロ・サルヴァーダがサンレモ音楽祭の出場メンバーという説もあります。
 
その他の構成メンバー
ディノ・パスクァディビシェリエ(Dino Pasquadibisceglie (1959-1964)ベース、ギター
ジーノ・サンテルコーレ(Gino Santercole (1959-1962)ヴォーカル、ギター
エンツォ・ヤンナッチ(Enzo Jannacci (1959-1960) 鍵盤楽器
リヴィオ・パゾリーニ(Livio Pasolini (1960)ベース
ナンド・デ・ルカ(Nando de Luca (1960-1961) 鍵盤楽器
ジャンニーノ・ツィンツォーネ(Giannino Zinzone (1961-1962)ベース
デット・マリアーノ(Detto Mariano (1961-1966) 鍵盤楽器
ジジ・マルゾン(Gigi Marson (1963) 鍵盤楽器
ジャンフランコ・ロンバルディ(Gianfranco Lombardi (1963)ベース
エンジェロ・サルヴァーダ(Angelo Salvada (1966-1970)ベース
デメトリオ・スタラトス(Demetrio Stratos (1966-1970) ヴォーカル、鍵盤楽器
(再結成メンバーは省略)
 
アドリアーノチェレンターノは1959年にバックバンドのロック・ボーイズ(Rock Boys)解散後新しいサポート・バンドを見つけなければなりませんでした。そこでマントヴァ出身の若いドラマーのジャンニ・ダラリオを中心に鍵盤楽器のナンド・デ・ルカ、チェレンターノの甥のジーノ・サンテルコーレにダラリオがいたオリジナル・クァルテット(Original Quartet)の仲間のドメニコ・パスクァトーレ(ギター)、ジョルジョ・ベナッキオ(ベース)が集められた。バンド名はチェレンターノの初期のヒット曲“反逆児(IL RIBELLE)”から付けられたと言われています。
デビューはミラノのラヴィッツァ公園で開かれた催し物で、チェレンターノの新曲“テディー・ガール(TEDDY GIRL)”をバックで演奏をしました。チェレンターノが兵役に就いたため、リベルリは同じイタリアのロック・ン・ローラーのクレム・サッコ(Clem Sacco)のバック・バンドとをしました。
その後61年頃ナターレ・マッサーラやジャンニーノ・ツィンツォーネが加わりメンバー・チェンジしながら活動を続け、62年頃にリッキー・ジャンコ(Ricky Giancoのバック・バンドを務め、イギリスのバンド、トミー・スティール(Tommy Steele)の弟のコリン・ヒックス&キャビン・ボーイズ(Colin Hicks & The Cabin Boys)がトリノ公演をした時サポートしています。その時コリンが病気で歌えなくたので、リッキーがサポートしたためです。さらに言えば、キャビン・ボーイズのシェル・シャピロ(Shel Shapiro)達メンバーが後のロークス(The Rokes)となります。
チェレンターノがいたグルトラー(Guertler)のチェルソン(Celson)・レーベルからシングル盤を出していましたが、チェレンターノは兵役後復帰し、自分のレコード会社クラン・チェレンターノ(Clan Celentano)を立上げ、彼の仲間やチェレンターノを慕う“子分たち”が集まり、リベルリもクランに所属しました。65年ジェントリーズ(The GENTRYS)の“キープ・オン・ダンシング(Keep on dancing)”のカヴァー曲Chi sarà la ragazza del clanが年間ランク34位となる大ヒットを出しました。
1966年第16回サンレモ音楽祭に親分アドリアーノ・チェレンターノが久々の出場を決めたのは自社の歌手を売出すためで、その候補がリベルリでした。彼らはアメリカのニュー・クリスティー・ミンストレルス(New Christy Minstrels)をパートナーとして“あなたのために(A la buena de eDios)”を歌いなんとか入賞を果たしました。その後モゴール(Mogol)と新進ルチオ・バッティスティ(Lucio Battisti)が作った“青空の微笑 (1リラのために - PER UNA LIRA)”を歌いました。そんな親分期待のリベルリですが、この直後ビカーラ兄弟が脱退し、ロス・ブラボス(Los Bravos)のベースのエンジェロ・サルヴァーダとギリシャ人でヴォーカル、鍵盤楽器のデメトリオ・スタラトスに交代し、リコルディへ移籍をしてしまいました。
67年カンタジーロのジローネCに“望みなき思い(PUGNI CHIUSI)”が入賞し年間ランク68位となりました。65~67年の間がリベルリのピークとなり、70年の秋解散します。77年一度再結成され、86年に再々結成し活動をつづけています。
 
リベルリの国内盤
LL-  2105NC (196712 COLUMBIA INTERNATIONAL - 日本コロムビア) ヘイ・ヘイ・ガール (EHI... VOI)青空の微笑 (リラのために - PER UNA LIRA)
 
LL-  2105NCイメージ 2 SR- 176イメージ 3
 
SR- 176 (1968510SEVEN SEAS -キング) 30cm LP ヒット・パレード・イン・イタリー第(HIT PAREDE IN ITALY Vol.1)
10. 望みなき思い (PUGNI CHIUSI) RICORDI原盤
 
 
 
 
チャッド & ジェレミー (duo=e)  Chad & Jeremy
チャド & ジェレミーは、60年代に活躍した英国のフォーク・ロック・デュオ。ビートルズを筆頭とするブルティッシュ・インヴェンションの一員に数えられ、ブリティッシュ・ロックやポップミュージシャンとしてアメリカ音楽シーンに大きな影響をあたえました。
・チャッド、本名デヴィッド・スチュアート・チャドウィック(David Stuart Chadwick)1941年 12月 10日英国ウィンダミア生。眼鏡がけ。
・ジェレミー、本名マイケル・トーマス・ジェレミー・クライド (Michael Thomas Jeremy Clyde)1941 年3月22日英国バッキンガムシャー・ドーニー生。
 
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1964年“イエスタデイズ・ゴーン(YESTERDAY'S GONE)”を英国エンバーから発売し注目を浴びました。その後“そよ風のキッス(A SUMMER SONG)”が全米7位になるなど活躍し、66年サンレモ音楽祭にセルジョ・エンドリゴ(Sergio Endrigo)のパートナーとして“去り行く今(Adesso sì)”を歌い入賞しました。しかし人気のあった時期は60年代一杯だったようです。
 
チャッド & ジェレミーのイタリア関係の国内盤はありません