イヴァ・ザニッキ (vf) Iva Zanicchi
1940年1月18日リゴンキオ(Ligonchio)生、歌手、テレビ司会者、女優。
ミーナを「クレモナの虎」("Tigre di Cremona")、ミルバを「ゴーロの豹」("Pantera di Goro")と言われているのはご存じだと思いますが、日本では一般的になっていませんがイヴァ・ザニッキは「リゴンキョの鷲」('"Aquila di Ligonchio")と言われています。
                 
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1965年初出場のサンレモ音楽祭でも、夏のディスク・フェスティヴァルの曲も若者が中心になった音楽市場では受入れてもらえませんでした。
リフィは既にシングル盤として発売されている曲を含む彼女の最初のアルバム“イヴァ・ザニッキ(Iva Zanicchi)”で市場に参入します。彼女は放送作家で司会者のコッラド・マントーニ(Corrado Mantoni)の新たな提案で、昔流行した曲“けれど恋は(Ma l'amore no)”アウグスト・マルテッリ(Augusto Martelli)の現代的なアレンジで歌いました。この曲を収めたアルバムは批評家賞を取りました。
 
RFLLP-14014 (196511 RI FI – RI FI) Iva Zanicchi (イヴァ・ザニッキ)
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Come ti vorrei (クライ・トゥ・ミー  Cry to me  * ソロモン・バークローリング・ストーンス)
.Caro mio (Cara mia カラ・ミア [伊] * デビッド·ホイットフィールド;ジェイ&アメリカンズ)
.Non tornar Mai (
ヒア・カムズ・ザ・ナイト Here comes the night *ゼム)
.Caldo è l'amore - (アーリー・モーニング・ブルース・アンド・グリーンズ Early Morning Blues And Greens 
* Diane Hildebrand)
.Credi - (
Gettin Ready For The Heartbreak  * チャック・ジャクソン)
.I tuoi anni più belli (恋に時を忘れて)
.Accarezzani amore - (わたしだけを愛して)
.Se - (
イフ [] If (They Made Me a King))
.Mi cercherai
10.Ma l'amore no (
けれど恋は)
11.Non era vero
12.
Un altro giorno verrà - (All Cried Out  *Darlene Paul)
※“アーリー・モーニング... ”のオリジナルはアメリカのモンキーズで、作ったハイドブランドの両方とも67年にしかこの曲を出していません。イヴァは65年に出しているので、時期の誤差が解明できません。誰かが65年以前に歌っていたのでしょうか?
※“オール・クライド・アウト”のダーレン・ポールはマイナーな白人女性歌手としか分かりません。この曲のB面は“夢みる想い(This is my prayer)”です。一度聞いてみたいものです。 
           
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 新人の初アルバムになると、出したシングル盤の曲をすべて収めようとするのですが、それを極力抑え、多彩な曲をバランス良く、しかもイヴァ向きのアレンジが施され、新人離れしたアルバム歌手になることが予測されるような作りをしています。確かに批評家賞を取ったことはうなずけます。
 66年1月に発表される音楽週刊誌「チャオ・アミチ」の人気投票の女性歌手部門でミーナ(Mina)、リタ・パヴォーネ(Riva Pavone)に次いでイヴァ・ザニッキが第3位に入りました。サンレモ音楽祭では新人のカンタウトゥーリのメモ・レミージ (Memo Remigi)が書いた“わかれの夜(La notte dell'addio)”で入賞を果たしました。
 そして第4回夏のディスク・フェスティヴァルに“ふたりの間Fra noi (è finita così))”で出場し、最終戦まで行きましたが、入賞出来ませんでした。9月の第14回ナポリ音楽祭に“私の欠点(MA PECCHE')”が8位入賞、“誠実なあなた(TU SAIE' A VERITA')”は参加曲という成績でした。年末のカンツォニッシマ「王への階段(Scala Reale)」にも出場でしました。この年はスターがキャプテンとなり新人、ベテラン、外人歌手などタイプの違う歌手達4人がチームを作り、予選はチーム戦、決戦はキャプテンが歌って勝敗をきめました。イヴァ・ザニッキは優勝したクラウディオ・ビルラ・チームで、キャプテンの優勝に貢献しています。
 
 
イヴァ・ザニッキの国内盤
SFON- 3019 (19666 FONTANA - 日本ビクター) 17cm CPサンレモ・ベスト4 (FESTIVAL DI SAN REMO 1966)
.別れの夜
(LA NOTTE DELL'ADDIO)
. 愛は限りなく (DIO, COME TI AMO)
 
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SFON- 7055 (19666 FONTANA - 日本ビクター) 30cm LP カンツオーネの名花/ミーナとイバ・ザニッキ (MINA & IVA ZANICCHI)
.わたしだけを愛して
  ACCAREZZAMI AMORE [J]
別れの夜 (LA NOTTE DELL'ADDIO)
10.愛は限りなく
(DIO, COME TI AMO)
11.
生命をかけて
(IO TI DARO' DI PIU')
12.
イフ
(SE)
13.
カラ・ミア
(CARA MIA)
14.
わたしだけを愛して (ACCAREZZAMI AMORE)
 
SFON- 1005 (1966101FONTANA - 日本ビクター) 悲しみは星影と共に (OLTRE LA NOTTE)  イヴァ・ザニッキ/ボブ・ミッチェル(アウグスト・マルテッリ)楽団 (AUGUSTO MARTERRI {BOB MITCHELL} (orch))
 
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この続き(イヴァ・ザニッキ3)は67年サンレモ音楽祭の後になります
 
 
 
 
★プリニオ・マッジ (vm) Plinio Maggi
1940 年10月21日シチリア島東岸のカターニア(Catania)生、作詞家、作曲家、歌手。
 
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 カターニア大学の薬学の学生ですが、声がよく友人に勧められ1965年カストロカーロ新人コンテストに出場しました。カストロカーロではメアッツィ(MAZZI)・レコードの芸術監督ジャンニ・ファッラブリーノ(Gianni Fallabrino)が作った“Se le mie parole non bastano”、”Questa sera non ci lasceremo”の2曲を歌い、ルチアーナ・トゥリーナ(Luciana Turina)と共に優勝。66年サンレモ音楽祭出場権をつかみました。
 出来レースなのか、すんなりとメアッツィと契約をし、デビューもこの2曲でした(顔写真用ジャケット画像をご参照)。
66年サンレモ音楽祭は自分とファッラブリーノの“君を愛す(Io ti amo)”でアンナ・マルケッティ(Anna Marchetti)をパートナーに出場、入賞はできませんでした。サンレモ直後アリエール(Ariel)に移籍し“Una storia senza fine”を出し、初夏のカンタジーロのジローネBにCBSから“I miei pensieri”で参加します。
 
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67年CBSではもう1枚 “Che notte”を出します。またバークレイの子会社ラーレ(RARE)に移籍し、TV歌番組セッテ・ヴォーチェに出演の“La mano nella manoが最後の盤となりました。歌うのに疲れたと言い、曲作りに専念します。
 
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68年ジガンンティI GigantiUn uomo va cantataが最初の仕事で、70年サンレモ音楽祭参加曲“別離(L'addio)”もマッジの作品です。またイヴァザ・ニッキの“逢瀬(AMORE IN VENDITA)”もそうです。70年代半ば引退し、故郷の薬局に戻りました。
 
 
プリニオ・マッジの国内盤はありません
(ご参考)
HIT-1736 (1970 4 1 SEVEN SEAS - キング) 別離 (L'ADDIO)純な恋 (AMORE VERO) ルチア・リッツィ (LUCIA RIZZI (vf))
 
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