★パット・ブーン (vm=a) Pat Boone
本名チャールズ・ユージン・パトリック・ブーン(Charles Eugene Patrick Booen)1934年6月1日米国フロリダ州ジャクソンビル(Jacksonville)生、アメリカの歌手、俳優、作家。アメリカ独立戦争の英雄ダニエル・ブーンの子孫と名乗る(少なくとも3人の内の)芸能人の1人です。

フロリダ州で生まれたブーンは2才とき家族と共にナッシュビルに引越し、テネシー州育ちました。1952年ナッシュビルのデビッド・リプスコム高等学校を卒業します。弟もポップ歌手で芸名はニック・トッド(NICK TODD)といい、50年代のポップ・スターで、現在は教会の音楽の指導者です。
彼は最初ナッシュヴィルにあるキリスト教のデヴィッド・リップスコム・カレッジ(David Lipscomb College)に入学します。53年19才直前に突然結婚をします。相手は有名なカントリー歌手レッド・フォーリー(Red Foley)とジュディ・マーティン(Judy Martin)の娘シャーリー・リー・フォーリー(Shirley Lee Foley)でした。ブーンはその後コロンビア大学に代わり58年卒業しました。
その間の54年りパブリック・レコードでレコードを出しました。55年ブーンがチャームス(the Charms)がオリジナルの“Two Hearts Two Kisses”をカヴァーして週間ランク16位になっていました。その実績からテネシー生まれのランディ・ウッド(Randy Wood)のドット(Dot)・レコードのB面に黒人が歌った曲を白人向けカヴァーの録音で、ファッツ・ドミノ(Ain't That a Shame)の “エイント・ザット・ア・シェイム(Ain't That a Shame)”を発売し、ナンバー・ワン・ヒットとなりました。(特に南部での人種差別は日常的に顕著な形で行われていました。)
56年ナンバー・ワン・ヒットになった“I Almost Lost My Mind”は黒人のアイボリー・ジョー・ハンター(Ivory Joe Hunter)がオリジナルで、ナット・キング・コール(Nat King Cole)も既にカヴァーしていました。またランキング4位でしたが日本でよく知られている“アイル・ビー・ホーム(I'LL BE HOME)”、ナンバー・ワン・ヒットは57年“Don't Forbid Me”と日本でも大ヒットした“砂に書いたラブレタ-(Love Letters in the Sand)”などです。
このようにロック・・ロールを歌うエルヴィス・プレスリー等の様な「不良」歌手ではなく、バラードを歌う「優等生」として、公私共に活動してきました。
イタリアでは本国では余りヒットしなかった“愛の言葉(WORDS)”が60年週間ランキング1位となり、“スプリング・レイン(SPRING RAIN)”が同8位、62年“スピーディー・ゴンザレス(SPEEDY GONZALES)”が62年週間ランク1位(ランク・イン17週、年間ランク第5位)という大ヒットになりました。66年サンレモ音楽祭に出場し2曲を歌い、2曲共入賞しています。
パット・ブーンの国内盤(イタリア関係)
JET-1099 (1962年7月 DOT - 日本ビクター) クァンド・クァンド・クァンド (QUANDO QUANDO QUANDO)/愛して愛して (WILLING AND EAGER)
JET-1099
SJET-7120


SJET-7120 (1962年9月 DOT - 日本ビクター) ステレオ:映画音楽辞典Ⅰ (THEME FROM GREAT AMERICAN FILMS Vol.1)
14.武器よさらば (A FAREWELL TO ARMS)
JET-1664 (1966年6月 DOT - 日本ビクター) マイ・マイ・マイ・バレンティーナ (MAI, MAI, MAI, VALENTINA)/愛のひきしお (SE TU NON FOSSI QUI)
JET-1664

★ルチアーナ・トゥリーナ (vf) Luciana Turina
1946年8月13日ヴェローナ郊外の山間の町マラヴィチーナ・ディ・ロヴェルベッラ(Malavicina di Roverbella) 生、歌手、女優、司会者。
N-9625

1965年カストロカーロ新人コンテストでイヴァ・ザニッキ(Iva Zanicchi)のヒット曲でソロモン・バーク(Solomon Burke)の“Cry to Me”のイタリ語ヴァージョン“あなたが欲しい(Come ti vorrei)”と“Ieri oggi e domani”を歌いプリニオ・マッジと共に優勝しました。その時エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)、マヘリア・ジャクソン(Mahalia Jackson)を彷彿とさせる大物歌手(実際に体も大きく、愛すべき性格だったのですが)と言われ、早速CGDが契約をしました。
その年“愛の道しるべ(Sei il mio male - THE WAY OF LOVE)”/“あなたが欲しい(Come ti vorrei - Cry to Me)”でレコード・デビューしました。A面の曲はダリダ(Dalida)もイタリア語でカヴァーしているキャシー・カービー(ケイシー・カービー Kathy Kirby)の曲です。66年サンレモ音楽祭にリコルディのジーノをパートナーに“しあわせを贈ろう(Dipendesse da me)”で出場しましたが入賞できませんでした。
5月に3枚目シングルN-9625 “Il mio male”/“Non prendere la vita così com'è”(顔写真用ジャケット画像をご参照)、翌6月に多分デビュー曲であろう“Il mio male”とB面は3枚目の同じB面の曲“Non prendere la vita così com'è”を出し、これがCGDでの最後の盤となりました。
68年RCAイタリアーナの新レーベル(後にナーダが入ります)・タレント(RCA Talent)の1号歌手として契約します。
TL- 1 (68年 Talent – RCA Italiana) Imogene/Notte senza fine
TL- 1

歌手も「人気商売」で歌が上手いばかりでは評価してもらえず、タレントからのレコードはこの1枚で終わり、俳優の仕事に重点を置きます。映画は69年2本、72年4本と70年代は映画俳優の仕事をしながら、サントラ盤が中心であったチネボクッス(Cinevox)から2枚のシングル盤とアルバムを出しました。
72年、映画「神様の蛇(IL DIO SERPENTE)未公開」の映画音楽をアウグスト・マルテッリ(Augusto Martelli)が作くり、シングル盤を出しました。この歌はサントラ盤には収録されていません。
SC-1074 (1972年 Cinevox - Cinevox) Djamballà (il mio tempo arriverà)/Cena per due
SC-1074
PA- 101


日本ではサントラの曲がアブストラクション(ABSTRACTION)の演奏として出ています。
PA- 101 (1972年7月 TRIO -トリオ) 明日への扉 (Djamballà)/ペピート(PEPITO DAS MURAS)
そして同年彼女の唯一のアルバムをチネヴォックスから出しました。
SC-3313

1.Vicino Al Po (Remix)
2.Lei E Una Donna DI Mondo (Remix)
3.Chi Sara (Remix)
4.Cosa Trovo Nei Tuoi Occhi (Remix)
5.Grazie Signore (Remix)
6.Lasciami Cantare Una Canzone (Remix)
7.Le Stagioni DI Un Uomo (Remix)
8.Quando L'acqua Brucera (Remix)
9.Tu Che Ne Sai (Remix)
ルチアーナ・トゥリーナの国内盤
SH- 265 (1966年11月10日 SEVEN SEAS - キング) 30cm LP カンツォーネ専科 (LE CANZONI D'ORA Vol.1)
13.しあわせを贈ろう (DIPENDESSE DA ME)
13.しあわせを贈ろう (DIPENDESSE DA ME)
SH- 265
SLCS-7153


SLCS-7153 (1993年3月21日 SLC -サウンドトラック・リスナーズ・コミュケーションズ) CD 椿姫(未公開) (LA STORIA VERA DELLA SIGNORA DALLE CAMELIE)
4.小さな創作者(PETITE CREATURE)
4.小さな創作者(PETITE CREATURE)