早速、わが友より“チン・チン”の情報が入りました。訂正をいれています。
 
リシャール・アントニー (vm=f) Richard Anthony
本名リカルド・ブテッシュ(Ricardo Btesh)1938年1月13日にカイロ (エジプト)生、 フランスの歌手
 
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父エドガー・ブテッシュ(Edgar Btesh)はシリアのアレッポ(Alep)の出身、繊維関係の仕事でエジプトに住んでいました。母マーガレットは、イギリス人で彼女の父はアレキサンドリア(イラク)の名誉領事でした。アルゼンチンやイギリスでも生活をし、有名なブライトン・カレッジに入学、1951年フランスに帰国、パリのlycée Janson-de-Sailly大学に行きました。
彼は英語が堪能だったので、ポール・アンカ(PAUL ANKA)の“君はわが運命(YOU ARE MY DESTINY)”とバディー・ホリー(BUDDY HOLLY)の“ペギー・スー(PEGGY SUE)”をリチャード・アンソニーとしてコロンビア・レコードへ売込みに行きました。採用されて3作目“Nouvelle Vague”がヒットし、リシャール・アントニーの名前も知られるようになりました。そのままヒット歌手になるかと思われましたが、ジョニー・アリディ(JOHNNY HALLYDAY)という絶対的なスターがいたので、次第とアメリカのフォーク・ソングに転換していきます。
62年テディ・マーティン・ラスヴェガス・ツィスターズ (実の作者はフランスのジェリー・メンゴ(Jerry Mengo)の変名)の “かっこいいツィスト(La leçon de twist)”のカヴァーと“汽車の汽笛J'ENTENDS SIFFLER LE TRAIN”が大ヒットします。この曲はアメリカのピータ、ポール&マリー(PETER, PAUL AND MARY)などがヒットさせた“500マイルも離れて(FIVE HUNDRED MILES)”のフランス語カヴァー曲でした。
彼の名声を高めたのは67年スペインのホアキン・ロドリーゴ(Joaquin Rodrigo)の“アランフェス協奏曲(Concerto d'Aranjuez)”にフランス語の歌詞を付けて歌い、大ヒットさせたことです。今では色々な歌手が歌っていますが、歌として“わが心のアランフェス(ARANJUEZ, MON AMOUR)”を歌ったのは、彼が最初で彼の代表作となりました。
 
彼はまたイタリアで独自のヒットを出しています。63年年間28位になる大ヒット“Per questa voltaToo late to worry)”と同56位“E il treno vaJ'entends siffler le train)”、64年では年間第2位 “チン・チン(Cin cin (Cheat cheat twist))”、同第4位“La Mia festa (It's my party)” となるメガ・ヒットに60位の“(Il Mio mondo)”、65年第10位“Piangi (Boy's cry)”、52位“Le Ragazze d'oggi (That's how it goes)”、66年81位“悲恋(NESSUNO DI VOI)”(ミリバは91位)です。
まず63年のイタリア題Per questa volta”、フランス題は“チャンスが欲しいの(DONNE-MOI MA CHANCE)”で元曲はアメリカの女性歌手バブス・ティーノ(BABS TINO)の“涙のロマンス(TOO LATE TO WORRY)”です。“E il treno vaJ'entends siffler le train)”“500マイルも離れてFIVE HUNDRED MILES)”です。
イタリアでの最大のヒット、“チン・チン(Cin cin (Cheat cheat twist)” は一番のヒットなのでオリジナルがすぐ見つかると思いましたが、全く手がかりもつかめません オランダのZZ&マスカーズ(ZZ en De Maskers)の“Cheat Cheat (Cin Cin)”でした。 64年第4位が“La Mia festa”レスリー・ゴーア(LESLEY GORE)“涙のバースデイ・パーティー(IT'S MY PARTY)”、イタリアのウンベルト・ビンディ(Umberto Bindi)の“わたしの世界(IL MIO MONDO)”でフランス題は“イル・ミオ・モンド(CE MONDE”になっています。
65年“Piangi (Boy's cry)”は“ボーイズ・クライ(LES GARCON PLEURENT)”、日本で出ていないと思いますが、64年イギリスのエデン・ケイン(Eden Kane)が歌ったのがオリジナルのようです。“Le Ragazze d'oggi (That's how it goes)”のフランス題は“Les filles d'aujourd'hui”で元曲はトニー・ハッチ(Tony Hatch)作詞作曲、イギリスのグループ、ブレイカウェイズ(BREAKAWAYS)の“恋のなりゆき”でした。
66年の“悲恋(NESSUNO DI VOI)”はミリバ(Milva)のパートナーとして歌い入賞しました。その後のレコード・セールスもミルバが年間ランク91位に対し、81位なのでリシャール・アントニーのイタリアでの人気の高さを再認識させられます。
 
リシャール・アントニーの国内盤(イタリア関係)
OR- 1494(196655ODEON - 東芝音楽工業) 青空に住もう (UNA CASA IN CIMA AL MONDO)悲恋 (NESSUNO DI VOI)  ピノ・ドナッジォ (PINO DONAGGIO)リシャール・アントニー
 
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OP- 7484 (19665ODEON - 東芝音楽工業) 30cm LPシャンソンの新しき花 第3集 (LES FLEURS DE LACHANSON Vol.3)
11.この胸のときめきを[仏] (JAMAIS JE NE VIVRAI SANS TOI - IO CHE NON VIVO (SENZA TE) )
 
 
OP- 4162 (19667ODEON - 東芝音楽工業) 17cm CP
.悲恋 (NESSUNO DI VOI)
 
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OP- 8452 (1968910ODEON - 東芝音楽工業) 30cm LPリシャール・アントニーと一緒に (PRESENTING RICHARD ANTHONY)
.イル・ミオ・モンド (CE MONDE - IL MIO MONDO [F])
 
NFA-9250110 (1992 JAZZY - ジャジー・プランニング) CD 10Boxロピアン・ポップス '60s ⑧ (EUROPEAN POPS '60s FRENCH POPS No.1) 非ライセンス商品
11.チン・チン (TCHIN TCHIN (CHEAT CHEAT TWIST))
 
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パオラ・ベルトーニ (vf) Paola Bertoni
19431010日ラヴェンナ生、歌手。
 
                     
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言語学の学生で、地方の幾つかののど自慢大会に参加した後、サンレモ音楽祭の登竜門でもあるカストロカーロ音楽祭に、2年間出場し1962年 (準決勝出場) 、63年はフレッド・ボングスト(Fred Bongusto)の“ドーチェ・ドーチェ(DOCE, DOCE)を歌い、会場に来ていたカリッシュ(Carisch)のオーナー、アルベルト・カリッシュ(Alberto Carisch)に見出されました。そして新人発掘レーベルMRCと契約し、19641029Quando sei con lei”/”Se tu volessiでシングル・デビューをしました。
翌1965年第2回夏のディスク・フェスティヴァルに参加し、ゴルニ・クラメール(Gorni Kramer)の曲“夏の遊戯(UN GIOCO D'ESTATE)”で44曲中の見事3位入賞しました。66年初めてで唯一度のサンレモ音楽祭に出場しました。マイナー・レーベルながら世界的ヒットを出しているジョン・フォスター(John Foster)のパートナーで“踊り続けたい(Se questo ballo non finisse mai)”を歌いましたが、マイナー同士の組合わせではやはり入賞は難しかったようです。
二匹目のどじょうで第3回夏のディスク・フェスティヴァルにクラメールの“Accompagnami a casa”で参加しますが、そう世の中上手に行かず予選敗退となります。秋に開催されるヴェネツィア音楽祭に出演し“Venezia no”を歌いました。
68年マイナーのタイガー(Tiger)に移籍しシングル盤を1枚出した後、約10年の歌手活動から引退しました。
 
パオラ・ベルトーニの国内盤はありません