リッキー・ジャンコ (vm) Ricky Gianco
本名リッカルド・サンナ(Riccardo Sanna)1943年2月18日ミラノの南東30kmにある小都市ロディ生、自作自演歌手、ギタリスト、レコードプロデューサー。リッキー・サンナの芸名を使った時期もあった。 
                  
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 1954年ヴァラッツェの素人のど自慢で、公のデビューをしました。ミーナやトニー・ダララを代表とするウルラトーリ(urlatori)全盛の時代に、イタリアでロック・ミュージックを始めました。ロック・ン・ロールのギタリストでジーノ・サンテルコーレ(Gino Santercole)の仲間として、アドリアーノ・チェレンターノ(Adriano Celentano)のバック・バンド、リベルリ(I Ribelli)のリード・ギターとしてデビューしています。58年後にディク・ディク(Dik Dik)となるペペ(PepeErminio Salvaderi))、ピエルトゥルッチョ(PietruccioPietruccio Montalbetti))、ラッロ(LalloGiancarlo Sbriziolo))と共に活動しました。
 59年フォニット・チェトラ(Fonit Cetra)のロック・ン・ロール・レーベル、エクセルシャス(Excelsius)からリッキ―・サン(Ricky Sann)の名前でレコード・デビューしました。それはチェレンターノの“チャオと云うよ(Ciao ti dirò)”とエヴァリー・ブラザーズ(Everly Brothers)の“バイ・バイ・ラブ(BYE BYE LOVE)”のリッキー・ヴァージョンでした。
2枚目は女性ロック・ン・ローラーのブルネッタ(Brunetta)の“Precipito”でした。ブルネッタはミーナと同世代の歌手で、リコルディ、リフィ(サブ・レーベルのプリマリー)に所属していましたが、日本では一度も国内盤は出ていない歌手の一人です。
 60年リベルリと共演しミーナのいたイタルディスクからシングル盤を出しました。同年イギリスのバンド、トミー・スティール(Tommy Steele)の弟のコリン・ヒックス&キャビン・ボーイズ(Colin Hicks & The Cabin Boys)がトリノ公演をした時、コリンが病気で歌えなくたので、リッキーがサポートしたそうです。
イタリアのマネージャーはバック・バンドのシェル・シャピロ(Shel Shapiro)達のいるキャビン・ボーイズをコリンから切離し、イタリアに留めました。彼らはリタ・パヴォーネ(Rita Pavone)のバックなどをするようになり、後にロークス(The Rokes)としてイタリアでヒットを出すようになりました。
その後サックスのルイジ・デンコ(Luigi Tenco)やピアノのエンツォ・ヤンナッチ(Enzo Jannacci)と共にリッキー・サンナとそのバンド(Ricky Sanna e il suo complesso)としてセルジョ・エンドリゴ(Sergio Endrigo)もいたリコルディのサブ・レーベルのタヴォラ・ロトンダ(Tavola Rotonda)から4枚のシングル盤を出しました。
 後にロベルタ・マッツォーニ(Roberta Mazzoni)やフランコ・バッティアート(Franco BattiatoがデビューしたN.E.T.から1枚、ヌッチア・ボンジョヴァンニ(Nuccia Bongiovanni)とデュエットでリッキー&ヌッチアとツィスターズ(Ricky & Nuccia con i Twisters)名義でリコルディから1枚出し、操業開始したチェレンターノの会社クランの第1号歌手リッキー・ジャンコとして契約します。
チェレンターノとは特定の「親衛隊」的歌手以外は付いて行けないようで、リッキーも63年彼の下を離れ、自分のためのジャガー・レーベルを設立します。第1作目の“Il tramonto”が年間ヒット70」位のヒット、3枚目“Ti cercherò” が同37位の大ヒットとなり、やっと陽の目を浴びるようになりました。
65年唯一のサンレモ音楽祭に歌手として出場しました。ソング・ライターとしては67年8位“ピエートレ(Pietre)”、70年参加曲“できごと(Accidenti)”、72年10位“好きなんだ(Ti voglio)”、同参加曲“イギリス旅行(Un viaggio in Inghilterra)”、73年12位“若い恋人(Tu giovane amore mio)”を提供しています。
 66年リコルディに戻り、翌67年“L'ora dell'amore”が週間ヒット・チャート14位になるヒットとなり、68年まで在籍します。その後、ソング・ライターや映画の仕事もいていたようです。
 73年から78年までTVアニメ「ポパイ(Braccio di FerroPopeye the sailor man)」でポパイの声優、イタリア版アニメ・ソングをポパイ(Braccio di Ferro)名義で自分の会社インティンゴ(Intingo)から出す一方、74年ナンニ・リコルディとウルティマ・スピアッジャ(Ultima Spiaggia)を興しレコードを出し続けますが、78年会社が倒産してしまいます。
 80年代以降は、別の道を歩んだカンタウトゥーリとして昔の仲間たちとライヴ活動を続けています。晩年良い味を出しているので、日本でも発売して欲しい歌手の一人です。
 
 日本と契約のあるレコード会社にも所属していましたが、
リッキー・ジャンコの国内盤はありません。
MH-  10(Y) (1963320KING INTERNATIONAL キング) 30cm LP ジューク・ボックス・トップ・カラー (JUKE BOX TOP COLLOR)
11. 2万4千のキッス (24,000 BACI) {リッキー・サンナとして}
 
MH- 10(Y)イメージ 4  MP-2085イメージ 5
 
MP-2085 (19706POLYDOR 日本グラモフォン) 30cm LPサンレモ1970第20回サンレモ音楽祭 (SAN REMO 1970)
.心の剣 (LA SPADA NEL CUORE)
 
MW-2029 (19716RICORDI 日本グラモフォン) 30cm LPサンレモ1971第21回サンレモ音楽祭 (SAN REMO 1971)
.ケ・サラ (CHE SARA')
 
MW-2029イメージ 6 MW-90112イメージ 7
 
 
MW-90112 (197112RICORDI ポリドール) 30cm 2LPカンツォーネ・パーフェクト40 (CANZONE PERFECT 40)
2-19.ケ・サラ (CHE SARA')
 
MW-90156 (19725RICORDI ポリドール) 30cm 2LPカンツォ-ネのすべてVol. (ALL ABOUT GOLDEN CANZONE Vol.1)
1-.ケ・サラ (CHE SARA')
 
MW-90156イメージ 8 MW-80012イメージ 9
 
 
MW-80012 (19736RICORDI ポリドール) 30cm 2LPカンツォ-ネのすべてVol. (ALL ABOUT GOLDEN CANZONE Vol.1)
1-.ケ・サラ (CHE SARA')
 
MW-98012 (19744RICORDI ポリドール) 30cm 2LPパーフェクト・シリーズ  カンツォーネ (PERTECT SERIES CANZONE)
1-11.失われた愛を求めて(UN GRANDE AMORE E NIENTE PIU')
 
MW-98012イメージ 10 MW-3001イメージ 11
 
MW-3001 (19754RICORDI ポリドール) 30cm LPほほにかかる涙 (JOY FOREVER CANZONE UNA LACRIMA SUL VISO)
13.失われた愛を求めて(UN GRANDE AMORE E NIENTE PIU')
 
MW-2180 (197610RICORDI ポリドール) 30cm LPカンツォ-ネ・ヒット大全集Vol.V (HISTORY OF GOLDEN CANZONE Vol.V)
.アンナ (ANNA)
 
MW-2180イメージ 12 MWX-99513イメージ 13
 
 
MWX-99513 (1977121RICORDI ポリドール) 30cm 3LPゴールデン・カンツォーネ・ベスト・コレクション (GOLD CANZONE BEST COLLECTION)
2-.ケ・サラ (CHE SARA')
 
NDL- 9019 (1970年代 RICORDI 日本ディスクライブラリ-(ポリド-ル制作)) 30cm 10LP Box或る愛の物語 (HISTORIA DE UN AMORCANZONE SE PIANGI, SE RIDI)
9-11.ケ・サラ (CHE SARA')
 
NDL- 9019イメージ 14
 
 
 
 
 
 
オードリー (vf=d) Audrey
本名アドリアンナ・メディーニ(Adrianna Medini)1942年3月7日(17日の説もあり)ドイツ南西部都市マンハイム(Mannheim)生、2012 年6月 9日アメリカのネヴァダ?没、フルネームはオードリー・アルノ(Audrey Arno)、主にフランスで活動したドイツの女性歌手。 
           
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  本名からしてイタリア系ではと思いますが、確証はありません。父はサーカスのピエロで、彼女は馬乗りをしていたそうです。1960年パリ・ポリドールと契約し、オードリー・アルノ名でフランスで歌手活動を始めました。外人の宿命でカヴァー曲が多かったようですが、60年キューバのニュー・リズムの“ラ・パチャンガ(LA PACHANGA”が全米チャート87位ながらランクされました。
    
     EP La Pachangaイメージ 3   
 
 その間TVのショー番組や62年と64年には映画出演しています。64年アンリ・サルヴァドール(Henri Salvador)のレコード会社RIGOLOと契約しました。レコードはレスリー・ゴーア(LESLEY GORE)の“恋を夢みる17才(THAT'S THE WAY BOYS ARE)” や“メイビー・アイ・ノウ(MAYBE I KNOW)”など多くはカヴァー物でしたが、その出来は素晴らしかったようです。
 65年唯一度のサンレモ音楽祭に出場し70年代初頭アメリカのラス・ベガスにムーラン・ルージュのショーで歌うために行き、そのまま定住、アメリカで亡くなりました。
 
オードリーの国内盤はありません