★ウド・ユルゲンス (vm=ou) Udo Jurgens
本名ウド・ユルゲン・ボッケルマン(Udo Jürgen Bockelmann)、1934年9月30日オーストリアの中央南部の中都市クラーゲンフルト(Klagenfurt)生、オーストリアの歌手、作曲家。

父ルドルフ(Rudolf)、母ケテ(Käthe)の間に生まれ、弟マンフレッド・ボッケルマン(Manfred Bockelmann)は有名なオーストリアの画家、写真家です。
ユルゲンスはケルンテン州にある両親の居城で兄ジョン、弟マンフレッドと一緒に育ちました。後で体系的な教育を受けますが、独学でピアノを弾きます。ヒトラー青年団で、体力が弱い彼は顔の深刻な平手打ちで片方の耳が難聴になりました。第二次世界大戦後、彼はザルツブルクのザルツブルク・モーツァルテウム大学で音楽を学びました。
1950年、ウドはオーストリア放送の作曲家コンテストに“Je t’aime”で応募し、300人の参加者中最年少で優勝します。61年“ゴールドフィンガー(GOLDFINGER)”の大ヒットを出す前のシャーリー・バッシー(Shirley Bassey)に“Reach For The Stars”という曲を提供しています。64年コペンハーゲンで開催されたユーロヴィジョン・ソング・コンテストにオーストリア代表として“想い出は涙だけ(Warum nur, warum?)”出場し、6位になりました。このシングル盤は彼の日本デビュー盤、墺VOGUE第1弾でもありました。フランスでは彼の歌がナンバー・ワン・ヒットになりましたが、英米ではマット・モンローの英語版“Walk away”がヒットしました。

ウドはユーロヴィジョンにはその後66年まで3年連続出場し、3年目にして遂に“メルシー・シェリー(MERCI CHERIE)”で優勝しました。
US- 127・V (1965年8月 VOGUE – テイチク) 想い出は涙だけ (WARUM NUR, WARUM)/夢見る君 (BEAUTIFUL DREAM GIRL)
US- 127・V
US- 202・V


US- 202・V (1966年9月 VOGUE – テイチク) メルシ・シェリー[日]/[英] (MERCI CHERIE [J]/[E])
65年サンレモ音楽祭に初出場し“強く抱きしめて(Abbracciami forte)”を歌い入賞しました。再度68年“生きるために(Per vivere)”でしたが今度は入賞できませんでした。いずれも国内盤は発売されませんでした。
彼の活動の前半は主に歌手としてですが、80年代以降社会問題などを題材とした楽曲の創作も重要な活動となっています。
日本では“夕映えの二人(THE MUSIC PLAYED)”が“別れの朝”の邦題が付き大ヒットしたので、ウド・ユルゲンスの名前を知らなくても、この曲をご存知の方は多いと思います。
DP-1822 (1971年11月10日 POLYDOR - ポリドール) 夕映えの二人 [英]/[独] (THE MUSIC PLAYED/WAS ICH DIRY SAGEN WILL)
DP-1822
L- 1059・A


L- 1059・A (197年10月25日 ATLANTIC – ワーナー・パイオニア) 別れの朝 (THE MUSIC PLAYED) /夜のカーニバル (YORU NO CARNIVAL) ペドロ&カプリシャス (初代リードヴォーカル前野曜子)
ウド・ユルゲンスの国内盤 (イタリア関係分)
US- 162・V (1966年3月 VOGUE – テイチク) 愛のことづけ (ORA CHE IO TI AMO / SAG IHR, ICH LASS SIE GRUSSEN [I])/恋の涙 (SE NON TI CAPIRA' / DU SOLLST DIE WELT FUR MICH SEIN)
US- 162・V

A面は65年ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト出場曲のイタリア語ヴァージョン、ドイツ語ヴァージョンのシングル盤(DP-1868 POLYDOR 1972年8月.)は“別離のことづけ”と付けられています。B面ドイツ語ヴァージョンの邦題は“君ゆえに”と付けられています。イタリアで発売されたのと同じ編成で国内盤も出されました(J 35065×45 VOGUE – SAAR 顔写真画像ご参照)
★ペトゥラ・クラーク (vf=e) Petula Clark
本名ペトゥラ・サリー・オゥエン・クラーク(Petula Sally Olwen Clark)1932年11月15日イギリス・ロンドン近郊の小都市エプソム (Epsom,) 生、歌手、女優、作曲家。

イングランド出身の父レスリー・ノーマン・クラークとウェールズ出身の母ドリス(旧姓フィリップス)の間に生まれました。母はエプソムのグローブ病院で看護師長でした。子供の頃はクラーク教会聖歌隊に入り歌を習い、家族や友達にヴェラ・リン(Vera Lynn)など当時流行した歌手のマネをして喜ばしていました。
1942年10月BBCラジオの海外派兵慰問メッセージを家族が送る番組に、9才の彼女はオジに放送するため父とスタジオに行き、空襲にあいました。爆撃中、参加者の不安を和らげるためペトゥラはその間「バラのように(Mighty Lak' a Rose)」を歌い皆を勇気づけました。彼女のラジオ・デビューでした。
度々ラジオ出演するようになり、44年映画監督モーリス・エルヴィ(Maurice Elvey)にスカウトされ「うずまき(I Know Where I'm Going!)」など子役として映画出演をしました。
49年ポリゴンで初めてのレコーディングをし、50年代に入ると次々にレコードを出します。54年の“小さな靴屋さん(THE LITTLE SHOEMAKER)”は世界的ヒットとなり、オーストラリアでナンバー・ワン・ヒットになります。55年ポリゴンはニクサ(NIXA)に売却され、ニクサもパイ (PYE)に統一されていきます。
57年彼女はパリのオランピア劇場に招待されます。レコード契約の時に仏ヴォーグ(VOGUE)のクロード・ウォルフ (Claude Wolff)に出会いました。彼と結婚し活動拠点をフランスに移すのは、もう少し後になります。61年運命に1曲に出会います。フランク・プールセルとポール・モーリアがJW.ストールとデル・ローマの変名で作った"夢の幌馬車(CHARIOT)”でした。翌年ドイツ語、イタリア語でも録音され、世界的大ヒットになります。
もう1曲64年の“恋のダウン・タウン(Downtown)”です。町の喧騒音を使った曲で、遂に65年1月23日~30日の2週米国ビルボード・トップ10のナンバー・ワン・ヒットになります。翌65年サンレモ音楽祭に出場します。イタリアで“愛のシャリオ”をヒットさせたベティー・クルティスのパートナーとして“悲しい運命(INVECE NO)”を歌いました。
ペトゥラ・クラークの国内盤(イタリア関係分)
K25P- 374 (1983年10月 5日 SEVEN SEAS – キング) 30cm LP 恋のダウン・タウン/ペトュラ・クラーク (DOWN TOWN/PETULA CLARK GREATEST HIST)
13.悲しい運命 (INVECE NO)
K25P- 374
SWX-10013


SWX-10013 (1970年6月25日 VOGUE –日本ビクター) 30cm LPペトュラ・クラーク/スーパー・デラックス (PETULA CLARK SUPER DELUXE)
14.ボラーレ (VOLARE)