フランコ・トッツィ (vm) Franco Tozzi
1944年3月26日、長靴の足首辺りの飛びだした半島にある小さなリゾートの町ロディ・ガルガニコ生、歌手。
 
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 自作自演歌手ウンベルト3人兄弟の2番目として生まれます。父が警備員の仕事をプーリアで見付け、子供時代はそこで過ごしました。人気歌手となったウンベルト・トッツィはトリノに引越してから1952年に生まれています。60年代の初めキヴァッソのランチア自動車の工場で働いていましたが、音楽好きの仲間とバンド、パーズ(i Pard's)を結成するために工場を辞めてしまいます。
1964年カストロカーロ音楽祭で“Due case, due finestre”が優勝し、ピエール・ベニト・グレコの紹介でフォニットと契約でき、優勝曲がデビュー曲となりました。65年初めてのサンレモ音楽祭に出場し、ジョニー・ティロットソン(Johnny Tillotson)をパートナーに“変わらぬ運命(Non a caso il destino (ci ha fatto incontrare))”を歌いましたが入賞できませんでした。
しかし65年の第2回夏のディスク・フェスティヴァルで優勝曲のオリエッタ・ベルティ(Orietta Berti)の“この想いをあなただけに(TU SEI QUELLO”が2888票(年間ヒット28位)に対してフランコの緑の瞳(I TUOI OCCHI VERDI”は2829票の僅差で2位となりますが、曲は大ヒットし年間ランク30位になりました。その後8月26日にダンサーのカルメン・ノヴェッリと結婚、兵役に就き歌手活動を中断します。
翌66年再度サンレモ音楽祭に出場、アメリカのボビー・ヴィントン(Bobby Vinton)をパートナーに“冷たい恋人(Io non posso crederti)”を歌いましたが参加曲にとどまりました。夏のディスクにもNon vorrei volerti bene”で出場しましたが入賞できませんでした。67年カリッシュからEMIイタリアーナに吸収されたオデオン(Odeon)・レーベルに移籍し、再度夏のディスクに“L'ultimo giorno”入賞しませんでした。その後68年にカリッシュに再移籍します。
70年自分のバンド、フランコ・トッツィ・オフ・サウンド(Franco Tozzi Off Sound)をつくり、弟のウンベルト・トッツィ(Umberto Tozzi)をギタリストとしてメンバーに加え、カンサス(Kansas)・レコードから再デビューし、75年頃までライヴ活動を続けました。
弟ウンベルトは70年代半ばから自作自演歌手として頭角をあらわし、79年“グロリア(GLORIA)”が世界的大ヒットとなり、87年ジャンニ・モランディ(GIANNI MORANDI)、エンリコ・ルッジェリ(ENRICO RUGGERI)と三人で“もっともっと(SI PUO' DARE DI PIU')”をサンレモ音楽祭で歌い優勝しています。(ウンベルト・トッツィは別項目で掲載します。)
 
フランコ・トッツィの国内盤
FS- 33 19654. FONIT – テイチク変わらぬ運命 (NON A CASO IL DESTINO (CI HA FATTO INCONTRARE))捧げしこの恋 (PER QUESTO AMORE)
 
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SH- 269 19661210 . SEVEN SEAS – キング 30cm LP カンツォーネ専科第2集 (LE CANZONI D'ORA Vol.2)
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変らぬ運命 (NON A CASO IL DESTINO)
11.緑の瞳 (I TUOI OCCHI VERDI)
 
SR- 6112 197161 . SEVEN SEAS – キング 30cm LP 夏のディスク・フェスティヴァルのすべて (UN DISCO PER L'ESTATE)
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.緑の瞳 (I TUOI OCCHI VERDI)
 
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 GW- 23940 19733. SEVEN SEAS – キング 30cm LP ラヴ・ミー・トゥナイト/くたばれサンレモ (NON FINALISTE DI SAN REMO)
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.変らぬ運命 (NON A CASO IL DESTINO)

 
 
 
ジョディ・ミラー (vf=a) Jody Miller 
本名マーナ・ジョイ・ミラー(Myrna Joy Miller)1941年11月29日アメリカのアリゾナ州フェニックス(Phoenix, Arizona)生、アメリカのカントリー・ミュージック歌手。
 
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 父は技術者で6人姉妹の末っ子のジョディは6才の頃、一時カリフォルニアのオークランドに住んでいましたが、オクラホマ州に引越してそこで育ちました。
彼女のキャリアは1960年代初頭、ロサンゼルス地域でトム・パクストン(Tom PaxtonのTV番組にフォーク・ポップ歌手として出演したのが始まりです。ナイト・クラブで歌っている彼女を見出したのはオクラホマ出身の西部劇俳優デール・ロバートソンDale Robertson,)でした。彼の紹介でキャピトル・レコードに行き幸運にも即、期待のポップス・カントリー歌手契約をしてもらえました。63年キャピトル・レコードでフォークソングのアルバムWednesday's Child is Full of Woe”を出しています。
64年ポップ・ソングささやかなヒットを出しました、“He Walks Like a Man”(チャート66位)という曲でした。ところでジョディ・ミラーがなぜサンレモ音楽祭に出場できたのか、その理由が私には解りませんでした。今回彼女の事を調べ、この曲名が出てきたのでやっと理解で出来ました。
  He Walks Like a Manは64年ミーナが“私のあの人(E' L'UOMO PER ME)”としてナンバー・ワン(年間ヒット第7位)のメガ・ヒットにしています。ジョディのレコードも売れたと思いますが、ミーナのお陰です。65年サンレモ音楽祭にピノ・ドナッジォの“この胸のときめきを(Io che non vivo (senza te))”とリッキー・ジャンコの“君でなければ(Devi essere tu)”のパートナーとして2曲歌いました。ただカントリー歌手の彼女がカンツォーネを歌うのに適していたとは言えず、余り良いできばえではなかったと思います。
 この年の後半、このサンレモ音楽祭に出場していたイギリスのダスティー・スプリングフィールドが“この胸のときめきを”の英語カヴァーを出し、世界的大ヒットとなりました。また後年エルヴィス・プレスリーも英語でカヴァーし、リヴァイヴァル・ヒットしています。
 ジョディもこの65年に大ヒットを出しました。“クィーン・オブ・ザ・ハウス(QUEEN OF THE HOUSE)”です。この曲はロジャー・ミラー(ROGER MILLER)の“キング・オブ・ザ・ロード(KING OF THE ROAD)”(トップ・テン第4位)のアンサー・ソングなのですが、チャート12位、その年女性カントリー歌手部門のグラミー賞を取りました。
 
ジョディ・ミラーの国内盤
CR- 1288 (1965615CAPITOL -東芝音楽工業) クィーン・オブ・ザ・ハウス(QUEEN OF THE HOUSE)/グレーテスト・アクター (THE GREETEST ACTOR)
               
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