ボビー・ソロ (vm) Bobby Solo
本名ロベルト サッティ、1945年3月18日ローマ生、自作自演歌手。
1980年代後半から90年代初めに、ロザンナ・フラテルロ(ROSANNA FRATELLO)、ボビー・ソロ(BOBY SOLO)とリトル・トニー(LITTLE TONY)の三人でにロボット(RO.BO.T.)というユニットを組み、活動をしました。 
                     
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母はジュリアナ、父はフリウリ(いずれもイタリアの北東部)出身で、航空会社幹部の裕福な家庭の子供として生まれました。 10 代から音楽に興味を持ち、特にロック・ン・ロールを歌うエルヴィス・プレスリー(ELVIS PRESLEY)のファンになります。またギターを覚え、作曲もするようになりました。
60年代初め父の勤務がローマ国際空港からミラノ・リナーテ国際空港へ転勤となり、彼もミラノに引越しをしました。リコルディ・レコードを見学に行った時、芸術監督のヴィンチェンツォ・ミコッチ(Vincenzo Micocci)に認められ、彼の歌を聞いたミコッチは直ぐに契約し、63年SRL-10330 (1963 RICORDI - RICORDI) 想い出を失って(ORA CHE SEI GIA UNA DONNA)/やさしいヴァレリア(VALERIA)でシングル盤デビューします。
64年サンレモ音楽祭にフランキー・レイン(Frankie Laine)をパートナーに“ほほにかかる涙(UNA LACRIMA SUL VISO)”で出場が決まりました。作詞はモゴール(Mogol)で、作曲はボビー・ソロ自身でしたが、まだSIAEに登録していなかったのでイレール・パタッチーニ(Iller Pattacini)がペンネームとして使っていたルネーロ(Lunero)を使用しました。
サンレモ音楽祭最終日、最大の不幸、体調を崩し歌えなくなりました。ミコッチは55年サンレモ音楽祭でクライディオ・ビルラが風邪で歌えなくなり、誰もいない舞台にレコード演奏だけが流れた光景を思い出し、同じ光景がTV中継されることを想像すると、傾いたリコルディを立直すため大切に育てたい大物新人を傷つけられず、“口パク”をするように指示しました。
禁じ手を犯したため、優勝曲を決める審査では「投票除外曲」になってしまいました。が、その後のレコードセールスは、週間チャートに14週ランク・インし、ナンバー・ワン・ヒットのミリオン・セラーになり、年間ランキング第3位となる大成功を収めました。ちなみに第1位はジャンニ・モランディ(Gianni Morandi)の“貴方にひざまづいて(IN GINOCCHIO DA TE)”、2位はフランスのリシャール・アントニー(Richard Anthony)の“チン・チン (CIN CIN (CHEAT CHEAT TWIST))”、優勝したジリオラ・チンクェッティの“夢みる想い”は10位でした。
 
ボビー・ソロの国内盤
HIT-1038 (1964410SEVEN SEAS - キング) ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)/こらえきれないぼく (NON NE POSSO PIU') 初版(定価330円):再版(定価370円)
 
初版 イメージ 2HIT-1038 イメージ 3 再版
 
HIT-1101 (196491SEVEN SEAS - キング) 涙の胸のうち (NON CRERCARE SCUSE)/想い出を失って (ORA CHE SEI GIA' UNA DONNA')
 
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17M-1015 (1964101SEVEN SEAS - キング) 17cm CP サン・レモのすべて第6集 (TUTTE LE SAN REMO Vol. 6)
.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)
 
MH- 188 (19641020SEVEN SEAS - キング) 30cm LP ほほにかかる涙/ボビー・ソロのすべて (UNA LACRIMA SUL VISO)
.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

.想い出を失って (ORA CHE SEI GIA' UNA DONNA')
.こらえきれないぼく
(NON NE POSSO PIU')
.ブルー・オン・ブルー
(BLU E' BLU)
.やさしいヴァレリア
(VALERIA)
.涙の胸のうち
(NON CRERCARE SCUSE)
.ぼくを信じて
(CREDI A ME)
.ぼくの宝石
(LE COSE CHE NON HO)
.恋なんかもうしない
(TROPPE VOLTE)
10.
恋の後には
(QUALCOSA PESTERA)
11.
もう決して聞かないで
(NON CHIEDERMI NULLA)
12.
恋が最高 (HA, HA!!! AH)
 
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HIT-1158 (1965115SEVEN SEAS - キング) すてきなクリスティーナ (CRISTINA)/ぼくを信じて (CREDI A ME)
 
MH- 189 (19653SEVEN SEAS - キング) 30cm LP一緒にカンツォーネを歌おう第1集 (LE PIU' BELLE CANZONI Vol.1)
.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

.想い出を失って (ORA CHE SEI GIA' UNA DONNA')

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ボビー・ソロ2は1965年サンレモ音楽祭の後に続きます
 
 
 
リリー・ボナート (vf) Lilly Bonato
本名カルラ・ボンボナート(Carla Bonbonato) 194724日ボローニャとヴェネチアの中間にある小都市レンディナーラ(Lendinara)生、歌手。 
 
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本名のカルラ・ボンボナートで早くから音楽活動を始めました。62年メアッツィ(MEAZZI)のサンレモ音楽祭出場曲を書き、芸術監督もしていたジャンニ・ファッラブリーノ(Gianni Fallabrino)に見出され、63年に“Luna continentale”で彼の楽団からデビューしました。その後、ヴェネチア音楽祭の銀のゴンドラで“La nostra età”を歌い優勝し、「アンチ・パヴォーネ」と呼ばれました。
 64年たった一度のサンレモ音楽祭に出場し、スイスのリシャール・モゼールJr.をパートナーに“泣かないであなたTu piangi per niente)”を歌いましたが入賞できませんでした。彼女の国内盤は発売されませんでしたが、正式デビュー前のウィルマ・ゴイク(Wilma Goich)がサンレモ音楽祭のコンピレーション(オムニバス)盤用に吹き込んだ曲が、日本で発売されていましたので、曲自体聞き覚えのある方も多いと思います。
その年の第1回夏のディスク・フェスティヴァルに“海の出来事(L'HO CONOSCIUTO AL MARE)”が参加42曲中14曲の最終選に入賞を果たしました。スペインのバルセロナ音楽祭には“No tengo no edad”で出場し、チューリッヒ音楽祭では“Il ragazzo twis”を歌いました。
65年シングル盤E' la fine del mondo”/“Il mio solo amore”の販促キャンペーンでマイク・ボンジョルノのTV番組La fiera dei sogniに出演しました。66年レオ・キオッソ(Leo Chiosso)作曲の“ビート・ボーイ(IL RAGAZZO BEAT)”に裏面がグレン・ミラー(Glen Miller)の“ムーンライト・セレナーデ(Moonlight serenade)”をカヴァーしたシングル盤をリリースし、ランキングにも入りまずまずの成績を残しました。それからはレコード発売も途絶え、72年25歳で歌手生活を引退し、その後わずかにピアノ・バーで歌うことがあったようです。実力の割には弱小レーベルの所属だったため目立つ存在となり得なかった歌手でした。
 
所属レコード会社は63~68年MEAZZI
 
リリー・ボナートの国内盤
US- 245 (196712UNION - . テイチク) ビート・ボーイ (IL RAGAZZO“BEAT”)/ムーンライト・セレナーデ (MOONLIGHT SERENADE)
 
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