1月下旬に「インテルメッツォ」を入れて、2ヶ月以上にもなりますのでこの辺りでもう一度「インテルメッツォ」にしてみます。
 随分前から探していたレコードを手に入れる事が出来ました。スアンの“オルゴールの恋唄”というシングル盤です。発売時期からして東京音楽祭の曲だと、ズッと思い込んでいました。1975年第9回ヤマハのポプコンで渡辺真知子(PIAというデュエット・グループ)が歌って、審査員特別賞(川上賞)を受賞した曲のイタリア語盤。B面の“ティ・アモ”は75年ヤマハ世界歌謡祭の曲(この時はアンナマリア・バラッタ名)で出場しています。
 スアンことアンナマリア・バラッタを紹介していきましょう。
 
スアンの国内盤
DSP- 105 (19767 DISCOMAIT – ビクター音楽産業)  オルゴールの恋歌 (NINNA NANNA D'AMORE INCARILLON)/ティ・アモ (TI AMO)
 
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KICP- 572 (199749 SEVEN SEAS – キング) CD アヒルのオレンジ風味 (N L'ANATRA ALL'ARANCIA)
.アヒルのオレンジ風味~メイン・テーマ(ヴォーカル・ヴァージョン) (CANARD A'L'ORANGE)
.いずれきっと
(PRIMA O POI)
.エンファド
(ENFADO)
.ターニング・ミー・オン
(YOU KEEP ON TURNING ME ON)
10.
アヒルのオレンジ風味~メイン・テーマ(ヴォーカル・ヴァージョン)
(CANARD A'L'ORANGE)

KICP- 572イメージ 2 KICP- 607イメージ 3
 
KICP- 607 (1997926 SEVEN SEAS – キング) CD エスプレッソ【昼】 (ESPRESSOCINEMA ITALIAN STYLE)
.ターニング・ミー・オン (YOU KEEP ON TURNING ME ON)

KICP-3214 (2007711 SEVEN SEAS – キング)  イタリアン・ナイト・ジャズ・ボサ・ラウンジ (ITALIAN NIGHT JAZZ-BOSSA LOUNGE)
24.アヒルのオレンジ風味(CANARD A'L'ORANGE)

KICP-3214イメージ 4 NKCD-6412イメージ 5
 
NKCD-6412 (2008317 KING – 星光堂(キング)) オーガニック・カフェ ORGANIC CAFE')
14.アヒルのオレンジ風味~メイン・テーマ(ヴォーカル・ヴァージョン) (CANARD A'L'ORANGE)

 
 
スアン {アンナマリア・バラッタ}  SUAN { ANNAMARIA BARATTA } (vf) 
本名アナマリア・バラッタ(ANNAMARIA BARATTA) 1950年10月1日~1996年12月5日ローマ生・没、歌手、声優。 スアンの芸名は74年以降に使われ、デビュー当時はANNA MARIA BARATTAの表記をしていた。
 
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1967年ローマのパイパー・クラブ※で有名振付師ドン・ルリオ(Don Lurio)とめぐり会ったのが歌手になるきっかけでした。彼は彼女のダンスを見て、ミタ・メディチ(Mita Medici)の対抗馬にしようとしますが、彼女はその気がありません。 実際はイタリアで撮影の米女優ラクエル・ウェルチのスタントをしています。
その後、女優をしながら学校も続けます。RCAの新人オーディションでは「試験採用」ので入社をすることが出来ました。.68年夏に自分が出演した番組主題歌で歌手としてデビュー、“Stanotte sognerò”は良い曲でヒットしました。
TL-  11 (1968TALENT – RCA ITALIANA)  STANOTTE SOGNERO'E STRINGO IL VENTO
 
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ウィキペディア・イタリア版ではTL-  11がデビュー盤として紹介されていますが、レコード番号としてはそれより若いTL-   7 (1968TALENT – RCA ITALIANA)  CIAO NICOLO'QUANDO GUARDO I TUOI OCCHIが出ています。翌69年サンレモ音楽祭に“なんて寒い(Ma che freddo fa)”を歌うべくイメージ・チェンジを図りますが、1年後輩のナーダ(Nada)にその座を奪われてしまいます。この事辺りから彼女の運気逃します。
 69年男の子を出産し産休の1年です。RCAに違約金を払い、70年SIFのRAREに移籍後 “Ciao devo andare” を出し注目されますが、トラブルに巻き込まれ、その間またもや第2子を妊娠し活動停止します。
72年復帰後フォニット・チェトラからアルバム(顔写真に使った画像)を出します。レベルの高い盤ですが、レコード会社がプロモーションをせず売上は良くありません。 74年運気を変えるため白鳥(Swan)を連想させるスアン(Suan)を芸名にしました。そしてニコラ・クロワジールのカヴァー曲“Pazzia (Il ne pense qu'a toi) ”とシコ・フアルキのカヴァー曲“Canto di ringraziamento (Partido Alto)”をマーキューリーから出しました。
75年愛の宿命 (Ti Amo (I Love You))76年ドンナ・リベーラ (Donna Libera (Free Woman))で日本のヤマハ世界歌謡祭に連続で出場しました。(部の正確さを欠きますが参考になります)。日本でしか“愛の宿命 (Ti Amo (I Love You))”は “ティ・アモ”として発売されませんでした。76年、前年契約したYEPとトラブルが起き、別にカムのリッツォーリから映画「アヒルのオレンジ風味」のサントラ盤を残します。挿入曲“ターニング・ミー・オン (YOU KEEP ON TURNING ME ON)”は76年冬のディスコ曲として評判となったそうです。
77年WEAイタリアーナのエレクトラから“Pelle (sigla di "Auditorio A") / Flas”を出します。これが彼女の最後の盤となりました。78年サント・カリフォルニアとのツアー途中でキャンセルし、ローマに戻ってしまいます。その後ラジオ司会者をし、アニメの声優となりました。
 
 色々見ていくと本人の責任も大きいのですが、運の悪さも感じる歌手でした。
 
日本でもサンレモ音楽祭やユーロヴィジョン・ソング・コンテストを真似て、世界歌謡祭が開催されていました。ヤマハ世界歌謡祭は70年から秋に開催し、昭和天皇重篤のため89年開催中止になるまで続き、その後はユニセフ協賛の音楽祭となります。もう一つがTBS主催であった東京音楽祭です。 72年から92年まで年前半に開かれました。バブリ-でした。
 サンレモ音楽祭が51年から途切れず毎年開催されている事は、凄いことだと言えるでしょう。
 
 
※パイパー・クラブ(Piper Club
65年2月17日からローマで営業を始めたイタリアを代表するクラブ、地元ではパイパーで通じる若者向けのクラブ。当初からイタリアやヨーロッパの有名歌手やバンドが出演し、名が知れ渡っていましたが、特に所属する代表女性歌手が「パイパー・ガール(La ragazza del Piper)」と呼ばれ、開店当時の初代がカテリーナ・カセルリ(CATERINA CASELLIでブロンドに染めたショートカット・ヘアだったため「黄金のヘルメット(Casco d'oro)」と仇名されました。また2代目も「お人形さん(LA BAMBOLA)」パティ・プラヴォー(PATTY PRAVO)も大スターとなり、その次がミタ・メディチでバラッタは4代目になっていたかもしれません。