ドメニコ・モドゥーニョ (http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio/8331311.html) の続きです
★ドメニコ・モドゥーニョ (Domenico Modugno) 1958年から1963年まで
1928年1月9日、長靴の踵の付け根辺りの小都市ポリニャーノ・ア・マーレ(Polignano a Mare)生、1994年8月6日シチリア島とチュニジアの中間にある保養地の小島ランペドゥーサ島(Lampedusa)没、自作自演歌手、俳優、監督、イタリアの政治家でした。

彼はフォニット移籍後すぐに、今までの曲のセフル・カヴァーのアルバム“Domenico Modugno e la sua chitarra - Un poeta un pittore un musicista”の1集、2集の2枚出します。そしてその頃に国立映画実験センターで知り合った友人リッカルド・パッザーリア(Riccardo Pazzaglia)が書いたナポリ語の詩に作曲をします。“ラッザレッラ(LAZZARELLA)”という曲でした。
この曲はアウレリオ・フィエルロ(Aurelio Fierro)が57年第5回ナポリ音楽祭で歌い優勝しました。モドゥーニョもレコードを出し、裏面は“ラッザレッラ”の陽気さと正反対の彼の作詞作曲で悲しい恋の曲“白い道 (ストラーダ・ンフォッサ (STRADA 'NFOSA))”になります。彼は56年サンレモ音楽祭入賞曲“ミュゼット”、ナポリ音楽祭優勝曲“ラッザレッラ”とソング・ライターとして有名になりました。
58年はじめてのサンレモ音楽祭に自作“ヴォラーレ(Domenico Modugno)で優勝します。自作自演での出場は今まで前例がなく自分の曲を歌わせて欲しいという嘆願書を提出します。オーガナイザーは自作の歌を歌うことを排除する規定がないとして願いが叶います。彼のレコード会社フォニットはサンレモ音楽祭の前月(57年12月)にチェトラと合併し、国営放送RAIの傘下に入ったことが影響していないとは言い切れない筈です。そしてフランコ・ミリアッチ(Franco Migliacci)の詩は13ヶ国語に翻訳され、アメリカでは第1回(59年)グラミー賞大賞と歌曲賞を外国曲でありながら受賞し、イタリアで80万枚、全世界で2200万枚を売る世界的ヒットとなり、サンレモ音楽祭も国際的に認知され、音楽祭も大きく変化をします。
この大ヒットの後の新曲として“ぼくといておくれ (レスタ・クンメ (RESTA CU 'MME))”をディノ・ヴェルテ(Dino Verde)の詩で作曲します。この曲はその後マルチェラが“哀願”としてもリヴァイバルさせた名曲のひとつです。翌59年サンレモ音楽祭で連続優勝をする“チャオ・チャオ・バンビーナ”はこのコンビの作品です。
モドゥーニョは“三匹目のドジョウ”を狙います。彼は“ヴォラーレ”のフランコ・ミリアッチと再び60年サンレモ音楽祭の優勝をするため“自由気ままに(リベロ Libero)”を歌います。しかし世の中はそれほど甘くなく“ロマンティカ”が優勝し、後塵を拝する第2位で終わります。
この年サンレモ音楽祭で一緒だった今売り出し、人気絶頂のミーナと一緒に映画「歌え!太陽(Appuntamento a Ischia)」の主役をします。彼は元々、歌手になりたかった(三流?)俳優だったので非常に多くの映画にかかわっています。また歌自体も非常に映画(ヴィジュアル)的て、ストーリー性があり直ぐにそのままプロモーション映像になる曲ばかりです。
61年サンレモ音楽祭出場を取止め、舞台関係の仕事を中心としています。ミュージカル・コメディーのリハーサル中に足を骨折し、しばらくお休みを取ることになりますが、この頃は舞台俳優として時間を多く費やしています。62年4度目のサンレモ音楽祭に挑みます。作詞は3度目の正直、フランコ・ミリアッチと組み、パートナーはクラウディオ・ビルラを選びます。レコード会社フォニット・チェトラの各レーベルの看板2大スターで優勝を目指し“アディオ・アディオ(Addio… addio…)を歌いました。この年は売り出しの一般投票券で投票したので150万票弱という圧倒的な強さで優勝をしました。
ドメニコ・モドゥーニョの国内盤
DS-113 (1958年10月 DECCA - テイチク) ヴォラーレ (NEL BLU DIPINTO DI BLU)/マリティ・イン・チッタ (MARITI IN CITTA)
DS-113
JDL-6080


JDL-6080 (1958年12月 DECCA - テイチク) ドメニコ・モデューノが歌うイタリーの愛唱歌 (DOMENICO MODUGNO SINGS NEL BLU DIPINTO DI BLU) 30cm LP
1.ヴォラーレ (NEL BLU DIPINTO DI BLU)
2.ヴェントゥ・テスターティ (VENTU D'ESTATI)
3.マリティ・イン・チッタ (MARITI IN CITTA)
4.ドン・フィフィ (DON FIFI)
5.ヴェッキオ・フラク (VECCHIO FRAK)
6.オー・カッフェ (O CAFÉ)
7.ストラーダ・ンフォッサ (STRADA 'NFOSA)
8.ピッツァ・カ・プマローラ (A PIZZA C' 'A PUMMAROLA)
9.レスタ・ク・ンメ (RESTA CU 'MME)
10.ラ・チコリア (LA CICORIA)
11.オ・スペキオ (O SPECCHIO)
12.パスカリーノ・マラージア (PASQUALINO)
2.ヴェントゥ・テスターティ (VENTU D'ESTATI)
3.マリティ・イン・チッタ (MARITI IN CITTA)
4.ドン・フィフィ (DON FIFI)
5.ヴェッキオ・フラク (VECCHIO FRAK)
6.オー・カッフェ (O CAFÉ)
7.ストラーダ・ンフォッサ (STRADA 'NFOSA)
8.ピッツァ・カ・プマローラ (A PIZZA C' 'A PUMMAROLA)
9.レスタ・ク・ンメ (RESTA CU 'MME)
10.ラ・チコリア (LA CICORIA)
11.オ・スペキオ (O SPECCHIO)
12.パスカリーノ・マラージア (PASQUALINO)
DS-119 (1959年1月 DECCA - テイチク) イーオー (IO)/わたしと共に (RESTA CU 'MME [E?])
DS-123 (1959年8月 DECCA - テイチク) コメ・プリマ (COME PRIMA)/ストラーダ・ンフォッサ (STRADA 'NFOSSA)
DS-178 (1960年6月 DECCA - テイチク) オー・ソレ・ミオ (O SOLE MIO)/オリンピア (OLYMPIA)
DS-178
DS-189


DS-189 (1960年8月 DECCA - テイチク) 白い道 (ストラーダ・ンフォッサ (STRADA 'NFOSA))/チャオ・チャオ・バンビーナ (PIOVE)
DS-202 (1961年1月 DECCA - テイチク) コーヒーの歌 (オー・カッフェ (O CAFE))/レスタ・クンメ (RESTA CU 'MME)
DS-202
FS- 4


FS- 4 (1961年5月20日 FONIT - テイチク) あなたと共に (レスタ・クンメ (RESTA CU 'MME))/自由気ままに (リベロ (LIBERO))
FLP-10 (1962年4月25日 FONIT - テイチク) 第12回サンレモ歌の祭典 (XII FESTIVAL DELLA CANZONE SANREMO (1962)) 25cm LP
1.アディオ・アディオ (ADDIO... ADDIO...)
FLP-10
FLP-13


FLP-13 (1962年8月25日 FONIT - テイチク) ジュークボックス・オン・パレード (PARATA IN JUKE BOX) 25cm LP
1.アディオ・アディオ (ADDIO... ADDIO...)
FS- 22 (1963年4月25日 FONIT - テイチク) 風になびく旗 (LA BANDIERA)/ノッテ・キアーラ (NOTTE CHIARA)
FS- 22
DW- 36


DW- 36 (1963年10月25日 FONIT - テイチク) ベスト・オブ・ドメニコ・モドゥーニョ (BEST OF DOMENICO MODUGNO) 17cm CP
1.ヴォラ-レ (NEL BLU DIPINTO DI BLU)
2.コメ・プリマ (COME PRIMA)
3.チャオ・チャオ・バンビ-ナ (PIOVE)
4.レスタ・クンメ (RESTA CU 'MME)
2.コメ・プリマ (COME PRIMA)
3.チャオ・チャオ・バンビ-ナ (PIOVE)
4.レスタ・クンメ (RESTA CU 'MME)
またの機会につづく