今までフランコ・リッチとトゥリオ・パーネしかナポリの歌手は出場していませんでしたが、第7回大会ではナポリの男女大物歌手や経歴の違う歌手達が出場しました。
 
★ヌンツィオ・ガロ(Nunzio Gallo
1928年3月25日ナポリ生、2008年2月22日ナポリから北東50kmの山里テレーゼ・テルメ没、歌手、俳優。
彼はナポリのサン・ピエトロ・ア・マジェラ音楽院でヌンツィオ・バリ教授とマリオ・カンパニーノ教授の指導の下テノールを勉強しました。最初はテノールで後にバリトンになる整った美しい力強く柔軟な声でした。1945年ナポリのパルメ劇場でオペラ歌手としてデビューし彼のキャリアを開始、、1948年彼は「軽音楽のコンテスト(Un concorso di musica leggera)」で2位となりRAI に所属しました。
1952年には、総監督カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini)、レナータ・テバルディ(Renata Tebaldi)主演のヴェルディの歌劇「椿姫」に端役ながら出演が出来ました。1956年の第1回カンツォニッシマで“マンマ(Mamma)”をうたいジーノ・ラティルラの“新年おめでとう(BUON ANNO... BUONA FORTUNA)”と共に優勝しました。
第7回サンレモ音楽祭に初出場し“ギタ-の弦”で優勝、ほか第8位と参加曲2曲を特別際で“世界で最も美しい歌が第3位となり、その年のユーロヴィジョン・ソング・コンテストに出場し第6位になりました。62年に2回目で最後となるサンレモ出場で2曲(1曲は11位入賞)を歌っています。
1959年に彼はビアンカ・マリア・ヴァッリアーレ(Bianca Maria Varriale)と結婚4 人の子供が生まれ、それぞれ歌手、俳優に育ちます。1961年に出した“16才(SEDICI ANNI)”がミリオン・ヒットとなりスターの座を確実なものとしました。
ナポリ音楽祭には56年第4回に“太陽の光を(MANNAME NU RAGGIO 'E SOLE)”で入賞、58年第6回に彼の代表作、ナポリ音楽祭の名曲“ヴリア(VURRIA)”を歌って優勝、入賞曲“舟に帰ろう(TORNA A VVUCA')”も歌いました。60年第8回には3曲歌い“ばらとあなた('E RROSE E TU)”、“面影を求めて(STI 'MMANE)”が入賞。61年第9回はミルバをパートナーに“クレーデレ(CREDERE)”で優勝、“終りなき愛(AMMORE SENZA FINE)”が入賞。63年第11回は“アンナマリア(ANNAMARIA)”が3位、“恋のきずな(CATENE D'AMMORE)”、“海のセレナード(SERENATA MARENARE)”3曲を入賞させ、64年第12回では日本人が好んで歌う“アンモーレ・ミオ(AMMORE MIO)”でオルネラ・ヴァノーニをパートナーにして第2位なるなど1970年まで出場を続けました。
晩年は映画俳優として活躍し、1979年アルフォンソ・ブレシア監督(Alfonso Brescia)の映画「Il mammasantissima」、マリオ・ビアンキ監督(Mario Bianchi)の映画「Napoli storia d'amore e di vendetta」ほか20本ほどの映画に出演しています。
2007年9月23日午後、ピエディグロッダ祭で永年功労賞受賞式中に脳出血で倒れ、闘病生活を送りますが、2008年2月22日に亡くなりました。
 
所属レコード会社はデビューから1959年 OdeonCarischi)、1960年~1967年 Vis Radio、1968年~1971年 Phonotype、1972年~ Zeus
 
 
ヌンツィオ・ガロの国内盤
HM-1045 (19594ANGEL - 東京芝浦電気工業) ヴリア (VURRIA)/マレキアーレの夢 (SUONNO A MARECHIARE) [45]
 
HM-1045イメージ 1  HW-1052イメージ 2  
 
HW-1052 (1960ANGEL - 東京芝浦電気工業)ナポリの歌声(THE VOICE OF NALPOLI) [25cm LP]
.フニクリ・フニクラ (FUNICULI' FUNICULA)
.マレキアーレ (MARECHIARE)
.マリア・マリ
(MARIA MARI')
.オー・ソレ・ミオ
('O SOLE MIO)
.マリウ愛の言葉を
(PARLAMI D'AMORE MARIU')
.チャオ・チャオ・バンビ-ナ(CIAO CIAO BAMBINA (PIOVE
)
.恋のブルース
(IO SONO IL VENTO)
.ヴリア
(VURRIA)
.マレキアーレの夢
(SUONNO A MARECHIARE)
10.
ヴォラーレ
(NEL BLU DIPINTO DI BLU)
 
HV-1036 (19596ANGEL - 東京芝浦電気工業)ナポリ民謡の祭典 (CANZONE NAPOLETANA) [LP]
.うるわしきセレナータ (SERENATA ARRAGGIATA)
.歌い語り
('O CANTASTORIE)
.まごころ
(SINCERITA')
.何故ナポリで歌う
(PECCHE' SE CANTA A NAPULE)
.舟に戻れ
(TORNA A VVUCA')
10.
ヴリア
(VURRIA)
11.
お前に望む
(VOGLIO A TTE)
14
恋さえあれば
(BASTA 'AMMORE PE' CAMPA')
 
 HV-1036   HW-1080イメージ 4  
 
HW-1080 (196111ANGEL - 東芝音楽工業)ママと子供たち () [25cm LP]
.フニクリ・フニクラ (FUNICULI' FUNICULA)
 
HW-1087 (19628ANGEL - 東芝音楽工業)サンレモからのプレゼント (SANREMO BEST SONGS) [25cm LP]
.チャオ・チャオ・バンビ-ナ(CIAO CIAO BAMBINA (PIOVE
)
.ヴォラーレ
(NEL BLU DIPINTO DI BLU)
 
                            HW-1087イメージ 5
 
 
 
 
 
 
★ティナ・アローリ (Tina Allori)
1924年10月12日フィレンツェ郊外のポッジョ・ア・カイアーノ(Poggio a Caiano)生、1989年2 月27日ローマの北北東100kmの山中にある小さな町アマトリチェで没。
  教職の資格をとりフィレンツェ近郊のガッルッツォ(Galluzzo)の小学校教師になりますが、1940年ラジオ公開素人のど自慢に優勝したので教職を諦めます。最初ローマのラジオ局で歌う時、伴奏はアルトゥーロ・ストラッピーニ(Arturo Strappini)楽団です。それは1942年彼女の芸能生活の始まりでした。
1942年、彼アルマンド・フラーニャ(Armando Fragna)楽団やネッロ・セグリーニ(Nello Segurini,)楽団をと共演し、特にセグリーニ楽団とトリオ・カピネーレ(Trio vocale Capinere)とのデビュー曲“Notte e dì夜と昼と)”、“フィオリン・フィオーレロ(Fiorin fiorello)”が大ヒットしました。
それ以降、戦争が激化する中でラジオの戦時歌謡を歌いヒットさせていました。戦後50年代になり映画にも出演し、52年にフェルッチョ・チェリオ(Ferruccio Cerio)監督の「La donna che inventò l'amore」にも出ました。55年ストックホルムで開催されたナポリターノのコンサートに参加し好評を得ます。
1957年ただ一度のサンレモ音楽祭で3曲歌い1曲が入賞しました。60年ピエロ・ソフィッチ楽団に替わり海外の活動を重点をおき、ソ連で“アリヴェデルチ”を500万枚売上ました。その後も海外活動を続け、82年ストックホルムで最後の公演を行いました。
レコード会社はチェトラのみですが、59年以降に合併後のフォニットから、63年のジューク・ボックスのコンピレーションに2曲も収録されています。
 
ティナ・アローリの国内盤はありません
 
 
 
★ジ-ノ・バルディ (Gino Baldi
1922年7月1日米国サン・フランシスコ生、2010年コロンビアのボゴタ没、50年代のイタリアの歌手。
 1928年イタリアに戻り、1955年テレビ放送開始の時に歌い注目されました。1957年第7回サンレモ音楽祭にただ一度の参加をし特別祭を含む4曲を歌いました。
その後ポピュラー音楽をやめ、オペレッタに専念しました。晩年は中南米で生活し、2010年南米コロンビアで亡くなりました。サンレモ音楽祭出場歌手の中では特異な経歴の持ち主です。
レコード会社は資料が少ない中確認できるのはフォニットのみです。
 
ジ-ノ・バルディの国内盤はありません
 
 
 
★ポーカー・ディ・ヴォーチ (Poker di Voci)
1953年トリノでピエロ・パゼーロ(Piero Pasero)の主導で結成された男性4人の三声構成ボーカル・グループで、1970年に解散しました。
メンバーは
ピエロ トラーパニPiero Trapani) 1930年 4月10日~2011年11月19日トリノ生・没
ジョルジョ・カルダーナGiorgio Caldana) 1930年4月29日~1996年6月2日トリノ生・没
ピエロ・フィエルモンテPiero Fiermonte) 1921年8月26日ローマ生、2009年9月9日トリノ没、 クルト・ウェッホウスキーKurt Wehowski)1925年8月 29日ドイツのポツダム
 
グロリア・クリスティアン、ナタリーノ・オット、ジーノ・ラティルラ、カーラ・ボーニ、フレッド・フスカリオーネなどの有名歌手のバック・コーラスをしました。57年一度だけのサンレモ音楽祭で特別祭を含め7曲歌いました。後にウィリアム・ガラッシーニ楽団からミッェルーチ楽団に所属変えをしています。ゲイローズ(The Gaylords)やペトゥラ・クラーク(Petula Clark)の英語やフランス語の歌をイタリア語ヴァージョンで歌っていました。
所属レコード会社は955年~59年チェトラ、1960年以降エマヌエラ、1966年 DKFからも出ています。
 
ポーカー・ディ・ヴォーチの国内盤はありません