異化された仮象 | 中味のない人間 04 | 小動物とエクリ

異化された仮象 | 中味のない人間 04

 

 

第九章 芸術作品の根源的構造

ヘルダーリンが根源的な特性として芸術作品にあてがうリズムとはいったい何なのか、ということである。
 「リズム」という話は、西洋の思想の伝統と無縁なものではない。たとえばわれわれは、アリストテレスの『自然学』の決定的な箇所、第二巻の冒頭で、この単語に出会う。まさしくこの場面で、アリストテレスは、先人たちの理論を解説し批判したのち、自然を定義するという問題に着手する。実を言えば、ここでアリストテレスは、リズムという語に直接言及しているわけではなく、それ自体にリズムを失いたものという欠如表現を用いている。現に、アリストテレスは自然の本質を探究しながら、アンティフォンというソフィストの所見に言及している。この所見によれば、自然とは、リズムを欠く第一者、それ自体としては無定形で構造を欠くもの、いかなる形相や変化にも順応する未分化なままの質料、すなわち、諸説ごとに火、土、空気、水として同定される還元不可能な第一の元素なのである。「リズムを欠く第一者」とは反対に、リュトモスとは、この不変の基体に付加されるものであり、付加されることによってこの実体を構成したり形づくったりするものであり、そして、この実体に構造を付与するものなのである。この意味で、リズムは構造であり、形状なのであって、元素となる未分化の質料と対立するものなのである。

 このような観点から理解するならば、ヘルダーリンの一節がおそらく意味するのは、あらゆる芸術作品は唯一の構造であるということであり、それゆえに、芸術作品の根源的なあり方は、リュトモスとして、構造として解釈できることが暗示されていることになるだろう。もしほんとうにそうならば、ヘルダーリンの言葉はーー伝統的な美学という地を捨ててーー芸術作品の「構造」の探究にのりだしたときに現代の批評が歩みかけた道をも、ある意味では予告しているのかもしれない。
 だが、ほんとうにそうなのか。結論を急がないように注意しよう。今日、人文科学において「構造」という用語が帯びている多義的な意味をよく検討するならば、それらの意味のいずれもが、ラランド著『哲学辞典』第二版において以下のようなかたちで要約されたゲシュタルト心理学に由来するひとつの定義の周囲をめぐっていることに気づくことだろう。つまり、「構造〔struttura〕」という語句が指し示しているのは「単なる諸要素の組合せとは逆に、各現象が他の諸現象に依存し、この相互関係においてのみ、なおかつ、この相互関係を介してのみ成立しうるような諸現象の連合から形成される総体」なのである。
 要するに、ゲシュタルトとしての構造とは、諸部分の単なる総和以上の何かを包含するようなひとつの総体のことなのだ。
 さて、現代の批評による「構造」という単語の使用法をより仔細に観察して気づくことは、この語に、根本的な両義性が存在していることである。この語に、根本的な両義性が依存していることである。この語は、その両義性のおかげで、あるときは当該の対象の還元不可能な第一元素(基底となる構造)を指し示し、またあるときは総体を存在者たらしめるもの(すなわち諸部分の総和以上の何か)、いいかえれば総体を等身大たらしめるものが指し示されるのである。

 この両義性は、単なる不正確さに起因するわけでも、あるいは「構造」という話を使用する研究者たちの恣意に由来するわけでもなく、むしろ、アリストテレスが『形而上学』第七巻の未尾ですでに指摘していたアポリアの結果なのである。

なぜならいまや総体は、その諸部分プラスもうひとつ別の元素から帰結されることになるため、それ以上進むことができないような還元不可能にして究極の元素を際限なく探究することがまたもや問題になるからだ。
 このことがあてはまるのはまさに、自然の特性をリズムを欠く第一者として規定することによって、原初的な諸元素を探求した思想家たちの場合だった。とりわけピュタゴラス学派は、物質的であると同時に非物質的でもあるその際立った本性の点で、数を、それ以上は遡行し
えない原刻的な諸元素であると考え、万物の根源的な諸原理とみなしたのである。アリストテレスは、ピュタゴラス学派が数を元素として、すなわち究極の構成要素、極小量であると同時に、あるものを存在者たらしめているもの、すなわち総体が現存するための根源的原理であるともみなしていたとして、ピュタゴラス学派を批判した。
 あらゆるものをその諸部分の総計以上のものたらしめる「別の何か」とは、アリストテレスにとってむしろ、根本的に異なる何かでなければならなかった。すなわち、その何かとはーーたとえ原初的でより普遍的であるとしてもーー他の諸要素と同一の尺度で存在するひとつの元素なのではなく、むしろ無限に分割される地を抛棄することによってはじめて見出されるものなのであり、そうすることで、より本質的な次元へと参入してゆくものなのである。この本質的な次元をアリストテレスは、「存在因」として、実体として、起源を付与し万物を現存のうちに確保する原理として規定している。

そして彼は、むしろ自然を、つまり現存の根源的原理を、「形相」の同義語という意味での構造、すなわちリュトモスと同一視するのだ。
 人文科学における「構造」という用語の両義性についての検討にあらためて話を戻すならば、人文科学は、ある意味でアリストテレスがピュタゴラス学派に対して非難したのと同じ誤りを冒していることがわかる。実際、人文科学は、構成要素以上の何かを含んでいるようなひとつの全体としての構造という観念から出発する。にもかかわらず人文科学はーーまさしく哲学的探究の地を捨てることによって、「科学」としてみずからを打ち立てようとするかぎりーー今度はこの「何か」を、元素として、第一元素として、それを越えると物体がその実在を失ってしまうような極限量として理解するのである。そして、ピュタゴラス学派ですでに生じていたように、数学は一見したところ無限背進を回避するための方策を提供してくれるようにみえるものだから、構造分析はいたるところで、その対象を構成する現象の根源的な数を探究することになり、ますます数学的方法をとりいれる傾向をもつようになる。こうすることで構造分析は、人間的事象の数学化という全般的プロセスのなかに組みこまれてゆくのである。このプロセスこそ、現代の本質的な特色のひとつにはかならない。
 この数学化が行きわたった結果、構造は単なるリュトモスとしてだけでなく、数および基底となる原理として理解されることになるが、それは、まさにギリシア人がこの構造という話に与えた意味とはまるで正反対のものである。◉批評や言語学において構造が探究されればされるほど、逆説的にも、根源的な意味での構造はますます茫漠としたものとなり、背景へと後退してゆくのである。
 要するに、構造主義の探究においては、作用量という概念を導入して以来、現代物理学で起こったのと同じような現象が起こるのである。この概念では、粒子の位置(デカルトがギリシア語の形状に対応する表現で述べたところでは「図形」)と粒子の運動量をもはや同時に認識することはできない。リュトモスという意味での構造と、数、という意味での構造とは、この構造という表現が現代物理学で帯びている意味において、正規に結びついた二つの量のことなのであり、それら二つを同時には知りえないのである。(すでに量子物理学で起こったように)統計学的-数学的方法を採用する必然性はここに由来するのであり、この方法のおかげで、結びついた二つの量を一元的な表象のなかで関連づけることができるのである。
 だが、少なくとももっぱら数学的な方法だけを採用することが不可能ならば、構造主義的な探究は、「構造」という話をめぐる二つの対立する意味論的な極ーーリズムとしての構造、すなわちある何かを存在者たらしめるものとしての構造と、数、元素、極小量としての構造ーーのあいだでたえず立在生せざるをえない。それゆえ、◉芸術作品が問題となるかぎりにおいて、形式という美学観念は、構造主義批評がー一質料〔素材〕と形相〔形式〕という芸術作品の美学-形而上学的な規定に依存しつづけ、したがって芸術作品をアイステーシスの対象であると同時に根源的な原理として想い描いている点でーーうまく回避することはできても乗り越えることはできない最後の暗礁なのである。
 もしこれがまさしくそのとおりであり、リズムと数が二つの対立する実在であるとするならば、冒頭に掲げたヘルダーリンの一節が、現代における構造主義批評の活動領域の方向を指し示すことはよもやありえないのである。リズムは、数、極小量、始原の元素という意味での構造ではなく、むしろ実体であり、芸術作品をその根源的な空間において開示し保持するための現存の原理なのである。そういうものとしてのリズムは、計量可能なものでも合理的なものでもなく、だからといって、一般にそう受けとられているようなひたすら否定的な意味での非合理なものでもない。逆に、まさしくリズムが芸術作品を芸術作品たらしめるものであるかぎりにおいて、◉リズムはまた、「尺度=拍子」でもあり、現存における本来的な場=留に万物を一致=調律させるものというギリシア的な意味でのロゴス(理性)でもある。このような本質的な次元に到達するからこそ、また、このような根源的な意味での「尺度=拍子」であるからこそ、はじめてリズムは、人間の経験にひとつの領域を開示することができる。そして、この領域においてリズムは、〔ギリシア語の〕数、もしくは〔ラテン語の〕数=韻律として、すなわら数というかたちで表現されうるような計測可能な足度として捉えられるのである。◉芸術作品の本質そのものが俎上に載せられる次元へとリズムを位置づけることではじめて、作品そのものが合理的で必然的な構造であると同時に関心なき純然たる遊戯でもあるといった両義性が可能となる。そして、この両義的な空間では、計算と遊戯がたがいに交錯しているようにみえるのである。
 とはいえ、もしそうだとすれば、リズムの本質とはいかなるものなのか。芸術作品にその根源的な空間を一致=調律させる力とは、いかなるものなのか。◉「リズム」という語句は、ギリシア語の「流れ去る、過ぎ行く」に由来する。流れ去り過ぎ行くものは、時間的次元で流れ過ぎ、時系列に沿って流れてゆく。一般的なイメージでは、時間とは実際、純然たる流れであり、無限の線に沿って隣間瞬間がたえず継起してゆくことにほかならない。すでにアリストテレスは、時間を運動量=運動の数と考え、瞬間を点と解釈することによって、数量の無限継起という一次元的な領域に時間を位置づけている。そして、この領域こそが、われわれにとってなじみがあり、われわれのクロノメーターがますます正確に測定するーーこの測定の厳密さという目的のために、たとえば一般の時計におけるような歯車運動、あるいは原子クロノメーターにおけるような物質の質量や放射線が利用されているーー時間という次元なのである。
 にもかかわらずリズムはーーふだんわれわれがそう想い描いているとおりーーこの永遠の流れのうちにひとつの分岐、ひとつの中断を導入しているように思える。したがって、たとえなんらかの方法で時系列に沿っているものだとはいえ、音楽作品では、われわれは、瞬間の絶えざる逃亡をを免れる何か、いわば時間における非時間的なものの現存として現われてくる何かとして、リズムを知覚しているのである。このように◉ある芸術作品を前にするとき、あるいは現存の光に包まれた風景を前にするとき、われわれは、時間が中断されたと感じる。それは、あたかも突然いっそう根源的な時間のうちに突き落とされたかのようである。未来から過去のうちへと消えてゆく瞬間の不断の流れのうちには中断、断絶があって、この断絶や中断こそまさに、特有のステータス、すなわち、われわれが眼の前にする芸術作品や風景に固有の現在様態を与え、そのヴェールを剥ぎとるものにほかならない。われわれは、あたかも何かの前で中断したままに引きとめられているかのようだ。だが、この引きとめられているというあり方はまた、いっそう根源的な次元において、外にあること、つまり、脱存=法悦〔ek-statu〕でもあるのだ。
 ◉こうしたーー与えておきながら同時に与えたものを覆い隠すーー保留は、ギリシア語ではエボケー〔=休止〕といわれる。この語の派生源であるエペコーという動詞には、実際に二重の意味がある。つまり、「引きとめる、宙吊りにする」という意味とともに「さしのべる、さしだす、提供する」という意味をもっているのである。時間のいっそう根源的な次元のヴェールを剥ぎとるとともに、それを瞬間の一次元的な逃亡のうちに覆いすリズムについてすこし前で述べたことを考えあわせるならば、われわれはおそらく、一見しただけてはかなり強引に思えるかもしれないがーーエボケーをリズムと翻訳し、「リズムとはエボケーであり、与えられたものであり、保留である」ということができるだろう。とはいえエペコーというギリシアの動詞には、先の二つの語義を結びつけるような第三の意味がある。つまり、「現前している、支配する、保有する」という意味での存在するという語義である。だからこそギリシア人は「風があるということで、「風が現前している、風が支配している」と言っていたのである。
 ギリシアの思想がその根源的な言葉を発した時代に活躍したある詩人の詩句をわれわれは、まさにこの第三の意味において理解しなければならない。

リズムがとらえるとはつまり、リズムが与え、引きとめ、支配することなのだ。リズムは、より根源的な次元における法悦にみちた逗留=休止を人間たちに付与するのと同時に、計量可能な時間の逃亡のうちへと人間を陥れるものでもある。リズムは、与えつつ引きとめるエポケーにおいで人間の本質をとらえる。つまり、リズムは、存在とともに無を、作品の自由空間への要求とともに暗黒や破滅への衝動をも、人間に付与するのである。リズムとは、人間世界の空間を人間に開示する根源的な法悦なのであり、この空間を経てはじめて人間は自由と疎外、歴史意識と時間の混乱、真理と誤認を経験することができるのである。
 おそらくいまやわれわれは、芸術作品に関するヘルダーリンの冒頭の一節を本来の意味で理解することができるだろう。それは、芸術作品を構造としてーーすなわちゲシュタルトであると同時に数としてーー解釈することを指し示すわけでも、作品の様式的な統一性やその本来の「リズム」にもっぱら注意を促すわけでもない。なぜなら、◉構造分析も様式分析も、アイステーシスの(科学的に認識可能な)対象や遂行の所産たる形式原理と同様、芸術作品の美学的概念の内部にとどまっているからだ。むしろヘルダーリンの言葉は、芸術作品の根源的構造をエポケーやリズムとして規定することを指し示すのであり、かくして、この根源的な構造が位置づけられるのは、人間という世界内存在の構造、および人間が真理や歴史と結ぶ関係の構造そのものが賭けられているような次元なのである。その真の時間的次元を人間に開示することによって、芸術作品は実際また、世界にそれが帰属する空間をも開示するのである。そして、この空間のなかではじめて人間は、地上における自己の居住の根源的な尺度を測り、直線的な時間の途切れることのない流れのなかに現存する自己の真理を見出すことができるのである。
 こうした次元において、地上における人間の詩的なステータスは、その本来の意味を発見する。◉人間が地上において詩的なステータスをもつわけは、人間のために世界の根源的な空間を基礎づけるのがポイエーシスだからである。◉詩のエポケーにおいて人間がみずからの世界内存在を本質的な条件として経験するからこそ、はじめて世界は、人間の行為や実在に向かって開示される。もっとも無気味な力や現存への生-産を包含するからこそ、はじめて人間は実践や意志による自由活動を包含することができる。さらにポイエーシス的行為のうちで、時間のいっそう根源的な次元に近づくことではじめて、人間は、おのれの過去とおのれの未来とにたえずかかわるような歴史的存在となるのである。
 それゆえに、◉芸術の贈与は、人間の根源的な位置そのものの贈与であるがゆえに、もっとも根源的な贈与である。芸術作品は、文化的な「価値」でも、観賞者のアイステーシスにとっての特権的な対象でもなく、さらにいえば、形式原理の絶対的な創造力ですらない。むしろ芸術作品とは、歴史と時間におけるその根源的な水準へと人間をたえず参入させるものであるがゆえに、いっそう本質的な次元に位置づけられるものなのである。だからこそアリストテレスは「形而上学」第五巻のなかで「さまざまな技芸、とりわけ建築=棟梁の匠の技術もまた、姫源 アルカイと呼ばれると言うことができたのである。
 ◉芸術が建築的であるということ。このことが意味するのは、語源に即して言えば、芸術、ポイエーシスが始源の生-産であり、芸術は人間の根源的空間を与えるもの、とりわけ「建築的なもの」だ、ということである。◉あらゆる神話伝承の体系に見られる儀式や祭典を挙行する目的とは、世俗的な時間の同質性を中断することなのであり、神話の根源的な時間を再現前化させることによって、人間は、神々と同じ時間を共有するものとして再生成し、あらためて創世の始源的次元に達することができるのである。芸術作品においてもまたこれと同じように、直線的な時間の連続体は分断され、人間は、過去と未来のあいだに、自己の現在=現在する空間を見出すのである。
 かくして、◉ある芸術作品を見つめることは、より根源的な時間へと企投されること、与えつつ引きとめるリズムのエポケー的な開示における脱存=法悦を意味する。人間と芸術作品の関係をめぐるこの状況から出発してはじめて、いかにしてこの関係がもしそれが真の関係であるとすればーー人間にとっての最高の使命でもあるのかが理解されうるのである。つまり、この最高の使命は、人間を真理のうちに引きとどめ、地上における人間の居住にその根源的なステータスを与えているのである。◉芸術作品を経験するとき、人間は、真理のうちに、いいかえればポイエーシス的行為においてようやくヴェールを制がされる始源のうちに直立しているのである。この使命、つまり、リズムのエポケーへのこの企投のうちに、芸術家や観賞者は、両者の本質的な連帯と共通の土壌とを見出すのである。
 ◉逆に芸術作品が美的享受に供され、その形式的な局面が評価され分析されるとしたら、それは、いまだ作品の本質的な構造に接近するのとは程遠いもの、つまり、芸術作品において与えられ保留されている始源からははるかに遠いものなのである。それゆえ美学は、芸術を芸術本来のステータスに即して考察することができないのでありーーこのステータスが美的=感性的な観点に囚われつづけているかぎりーー芸術の本質は人間には閉ざされたままなのである。
 今日、芸術作品のこの根源的な構造は、陰翳に隠されている。その形而上学的な運命の極点において、芸術は、ニヒリスティックな権力、「自己を無にする無」となって、美の領土という砂漠を彷徨い、永劫にわたって自己の分裂のまわりをめぐりつづけている。芸術の疎外は、人間の根源的な史的空間そのものの疎外を指すがゆえに、根本的な疎外である。◉芸術作品とともに人間が喪失しかけているものとは、実際、それがどれほど貴重なものであるとしても、単なる文化財ではないし、また創造のエネルギーの特権的な表現ですらない。そうではなく、むしろ人間の世界という空間そのもの、そこでしか人間が人間として自己を見出すことができないような空間、そこでしか行為し認識することができないような空間をこそ、人間は失いかけているのである。
 もしそうだとすれば、自己の詩的なステータスを喪失してしまった人間は、それ以外の場に自己の尺度を再構成するだけではすまない。「危険のある場所から到来しないあらゆる救済は、いまだに救いのないままである」。芸術は、地上における人間の居住の根源的な尺度を測るという使命をなおも果たすことができるのか、とすればそれはいつのことなのか、これは予知できるような問題ではないし、美の領士にたれこめた見渡すかぎりの黄昏の彼方に、はたしてポイエーシスがその本来のステータスを見出すことができるのかどうかを明言することもできない。われわれが唯一言えるのは、ポイエーシスがその運命を凌駕するには、自己の影の向こう側へと跳躍するだけではけっしてすまないだろう、ということだけである。

第十章 メランコリーの天使

 「ぼくの本に出てくる引用は、通行人に武装攻撃して、彼の信念の重みを軽くしようと、路傍で待ち伏せする追いはぎみたいなものだ」。こう言明した当人ヴァルター・ベンヤミンは、文化の伝承可能性に生じたある根本的な変化とそこから不可避的に帰結する過去との新たな関係に気づいた、おそらくはヨーロッパ最初の知識人だった。◉ベンヤミンによれば、引用固有の力は、実のところ、過去を伝承し蘇生させるその能力から生まれるのではなく、むしろ逆に、「邪魔者を一掃し、コンテクストから引き剥がす、その破壊的な」力から生じるのである。過去の断片をむりやりその歴史的なコンテクストから切り離す引用は、真正な証言という性格をこの断片から一挙に奪することによって、まぎれもない攻撃力となる異化のポテンシャルをこれに付与する。生をかけて引用だけで構成される本を書こうとしたベンヤミンは、引用が召喚する権威が、まさに文化史上の状況からある種のテクストに帰されるような権威の破壊に基づいていることを理解していた。すなわち、ベンヤミンが『歴史哲学テーゼ』のひとつ〔第三テーゼ〕で、最後の審判の日に「議事録にのぼる引用」を明確に定義するとき、◉引用のになう真理の使命とは、生きたコンテクストから異化された仮象の一回性という機能なのである。その異化の刹那に、ほんの一回だけ現われるイメージのなかでのみ、あたかもある記憶な危機の瞬間に思いがけなく脳裡をよぎるように、過去は定着されるのである。
 過去とかかわるこの特異な方法は、ベンヤミンが生来、親近感を抱いていたある人物像、つまり蒐集家の仕事の基盤をなしてもいる。蒐集家もコンテクストの埒外で対象を「引用」し、そのようにして、対象それ自体の価値や意味を内包する秩序を破壊する。芸術作品にしろ、日用の商品にしろ、好みの趣味によって蒐集家はそれらを熱中の対象にまで高める。いずれにしても蒐集家は、それら物品の使用価値と同様、物品が伝統から背負わされてきた倫理・社会的意味をも一挙に奪することによって、物品を変容させるという課題をみずからに引きうけるのである。
 こうして物品は、それが本物であるかぎり、蒐集家の手で「有用性という隷属状態から」解放される。唯一、この物品の真正性だけが、コレクションにその物品が含まれることを正当化するのである。しかし、この真正性のほうも、異化を前提としているのであって、その異化作用をつうじて、その解放は到来し、好事家の価値が使用価値にとって代えられるのである。言い方をかえるならば、対象の真正性が、その異化価値を測定するのであり、かたや、この価値こそ、コレクションを成立させる唯一の空間となるのである
 まさしく過去の異化を評価するという点で、蒐集家のイメージは、革命家の相貌といわば同盟を結ぶ。革命家にとって新たなるものの出現は、古いものの破壊によってのみ可能なのである。それゆえ、典型的な大蒐集家たちがまさに伝統の解消と革新の熱狂の時代に活躍したとしても、あながち偶然ではない。実際、伝統的な社会では、引用も蒐集も想像することはできない。というのも、そうした社会は、過去を伝承する伝統の網目をけっして分断することができないからである。
 芸術作品の権威や伝統的な価値が揺らぎはじめる現象を察知していたベンヤミンは、この過程を要約して「アウラの凋落」と呼んだ。しかし、奇妙にも彼は、この「アウラの凋落」によって、結果的に「対象が文化的外皮から解放」されたり、その瞬間から政治的な実践に基づくようになったりするのではけっしてなく、むしろ、新たな「アウラ」が再構成されてしまうことに気づいていなかった。この新たな「アウラ」によって、対象は、別の次元でその真正性を再創造し最大限高めながら、われわれがすでに蒐集に関して指摘した異化の価値とまったく同類の新たな価値を帯びてきたのである。複製技術(ベンヤミンは芸術作品の伝統的な権威を侵蝕する主動因をそこに求めていたのだが)は、対象をその真正性から解放するどころか、逆に真正性をとことんまで駆りたてる。つまり複製技術は、オリジナルの増幅によって、真正性が把握しがたいものの暗号そのものとなる契機なのである。
 芸術作品は、権威、および、伝統のなかに芸術作品を組みこむことでその権威を生じさせてきた保証を失う。その伝統によって芸術作品は、過去と現在の結節点が絶え間なく生じる場や対象を構成してきたのである。だが、複製可能になることで芸術作品の真正性は放棄される(したがって「詩が計算可能で習得可能なものになる」というヘルダーリンの念願がかなえられる)どころか、芸術作品は逆に、筆舌に尽くしがたい究極の秘儀、すなわち感性的な美の顕現が生じる空間となる。
 この現象は、とりわけボードレールに顕著である。もっともベンヤミンは、彼のことをアウラの凋落のいちばん典型的な表現が見出される詩人と考えていたのだが。
 ボードレールは、新しい産業文明における伝統的権威の解体に直面せざるをえなかった詩人である。それゆえ、彼は新しい権威を発見しなければならない状況にあった。つまり、彼は、文化の伝承不可能性そのものを新しい価値に転化し、芸術作品自体のただなかでショックを経験させることによって、この課題を成し遂げたのである。ショックとは、ある特定の文化秩序のなかで事物がもっていた伝承可能性や理解可能性が喪失するときに、事物が帯びることになる軋轢の力である。もし芸術が伝統の崩壊を生き延びようとするならば、芸術家はショックの経験の根源にある伝承可能性の破壊そのものを作品のなかに複製しようとつとめなければならない。ボードレールはそのことをよく理解していた。こうして彼は、作品を伝承不可能性の媒介そのものに変えることができたのである。美しいものを一隣の捉えがたい顕現(「一瞬の燦き……次いで闇!」)として理論化することによって、ボードレールは美を伝承不可能性の暗号にしたのだ。かくしてわれわれは、蒐集家の活動と同様、引用の根底にもみとめられた異化価値が何に由来しているのかを見定めることができる。異化価値を生みだすこと、それは現代の芸術家に特有の課題となったのである。この課題こそ、文化の伝承可能性の破壊にほかならない。
 ショックの経験において伝承可能性の解体を複製することは、すなわち、事物自体に対する感覚と価値の究極の源泉になり、こうして芸術は、人間をその過去に依然として結びつけている最後の絆になる。◉美の顕現が生じる束の間の瞬間における過去の生存は、結局のところ、芸術作品によって実現される異化であり、かたや、この異化は、芸術作品の伝承可能性の破壊、すなわち伝統の破壊の尺度にほかならないからである。



 伝統的な休系において、文化は、それが伝承されているとき、つまり、その伝承が生きているときにしか存在しない。◉過去と現在、古いものと新しいもののあいだに断絶はない。なぜならあらゆる対象は、その対象のうちに表現を見出してきた信念体系や概念体系をたえず十全に伝承する。正確を期するならば、むしろこの種の体系では、伝承に依存しないような文化については語りえない。というのも、伝承と分離した対象を構成するような、またその実在自体がひとつの価値であるような、諸観念や諸規則の遺産の蓄積は、存在しないからである。逆に、神話=伝統の体系においては、伝承行為そのもの以外に、いかなる倫理的、宗教的、美的な価値もないという意味で、伝承行為と伝承されるものとのあいだには、絶対的な同一性が存在している。
 伝統がその生命力を失ってはじめて、伝承行為と伝承されるもののあいだに不釣合いや齟齬が生じ、伝承されるものがその伝承から独立した価値として位置づけられるようになる。こうして、非伝統的な社会に特有の現象を支える基盤、つまり文化の蓄積が形成されることになる。
 ◉伝統の破棄は、一見そう思われるかもしれないが、実際には逆に、過去の喪失や過去の過小評価を何ら意味するわけではない。それどころかおそらく、いまという時点においてのみ過去は、それまで知られることのなかった重圧や影響とともに、過去としてその姿を現わすことになるだろう。◉むしろ、伝統の喪失が意味するのは、過去がその伝承可能性を喪失したということであり、以後、過去との関係を結ぶ新しい方法が見つかるまで、過去は、ひたすら累積の対象となるのである。こうした状況で人間は、みずからの文化遺産をいうなればひとつ残らず保存する。というより、この文化遺産の価値はめまぐるしく増加する。だが、人間は、文化遺産から行為や精神的な慰安の試金石を導きだす可能性を失うとともに、自分自身の起源や宿命について自問することで、過去と未来のあいだの関係として現在を創設するために与えられた唯一の具体的な場も失ってしまう。実際、この具体的な場こそ、過去の伝承可能性である。この伝承可能性のおかげで、人間は、じかに感じとられる意味や価値を文化に帰属させながら、自己の過去の重圧に煩わされることなく未来に向けて自由に行動することができる。◉しかしながら、文化がみずからの伝承手段を見失うと、人間は、参照点を喪失し、たえず自分の肩に堆積し、解読できなくなったその中味の増加によって人間を抑圧する過去と、いまだ所有されてはおらず、過去との葛藤のなかで人間にいかなる光も与えない未来とのあいだで縛られるようになる。実際、今日のわれわれにとって既成事実となっている、伝統の断絶は、ひとつの時代をきりひらく。◉この時代にあっては、いわゆる巨大アーカイヴのなかに古いものを無限に累積させるか、さもなければ、この同じ媒体をつかって、古いものの伝承をたすけるような異化作用を生じさせるかする以外に、古いものと新しいもののあいだにもはや何のつながりもないのである。不明瞭な命令や山積の仕事によって村にのしかかる、カフカの小説における城のように、文化の累積は、生きた意味を失って、まったく自覚できない脅威として人間にのしかかってくる。古いものと新しいもの、◉過去と未来のあいだの空隙に宙吊りにされた人間は、時間のなかへと投げこまれる。まるで、人間の手をたえずすり抜けながらも先へ先へと彼を導いていく未知なるもののなかへと投げこまれるように。だが人間は、その時間のなかにけっして自分の確かな立脚点を見出すことができないのだ。



『歴史哲学テーゼ』の一節〔第九テーゼ〕で、ベンヤミンは、とりわけ巧みなあるイメージのなかに、自分の過去とのつながりを失い、もはや歴史のなかに自分自身を見出すことのできない人間の状況を描き出している。ベンヤミンはこう書いている。「《新しい天使》と題される一枚のクレーの絵がある。◉そこには天使がひとり描かれていて、じっと見つめている何ものかからいまにも遠ざかろうとしているように見える。眼を大きく見開き、口をあけて、翼を拡げている。歴史の天使はこんな姿をしているにちがいない。彼は過去に顔を向けている。われわれには一連の出来事と見えるところに、彼はカタストローフしか見ない。そのカタストローフは、とどまることなく瓦礫に瓦礫を積み上げ、彼の足元を瓦礫だらけにする。できたら彼は、そこにとどまって、死者たちを甦らせ、砕け散ったものを元通りにしたいのだろう。だが、翼が楽園から吹きつけてくる嵐につかまり、その風のあまりのはげしさに天使は翼を閉じることができない。この嵐は彼をいやおうなく自分が背にしている未来のほうに押し流してゆく。それにつれて彼の眼前には瓦礫の山が天に届くほど積み重なってゆく。◉われわれが進歩と呼ぶもの、それはこの嵐なのだ」。
 ベンヤミンがクレーの絵に与えた解釈とのある類比を示しているデューラーの一枚の版画がある。この絵には、沈思黙考、瞑想にふけりながら坐っているひとりの翼をもった人物が描かれている。そのかたわらには、石臼、鉋、釘、鉄槌、三角定規、鋏、鋸といった活動的な生の道具類の数々が地面に転がっている。天使の美しい顔は陰翳に沈んでおり、彼の長衣と足元の地球儀だけが光を反射している。天使の背後には、砂の流れ落ちている砂時計、釣鐘、天秤、魔方陣が、背景である海の上には、鈍い光彩を放つ彗星が見える。画面全体には、黄昏の雰囲気が漲っていて、あらゆる細部からその物質性が払拭されているようだ。
 クレーの《新しい天使》が歴史の天使であるなら、デェーラーのこの版画の翼をもったメランコリックな天使以上に、芸術の天使を体現するものはないだろう。歴史の天使が、過去に眼差しを注ぎかけつつも立ち止まることができず、たえず未来に向かって後ずさりながら逃げざるをえないとすれば、デューラーの版画にあるメランコリーの天使は、おのれの眼前を不動のまま凝視する。歴史の天使の翼に絡めとられた進歩の嵐は、ここでは鎮まりかえっており、芸術の天使は、時間を超越した領域に浸っているようにみえる。それはまるで、歴史の連続体を絶ち切る何かが、一種のメシア的な停止のうちに、とりまく現実を固定してしまったかのようである。しかし、過去の出来事が解読不能な瓦礫の堆積として歴史の天使の前に立ち現われるように、メランコリーの天使のまわりに散乱する活動的な生の道具やその他の品々も、日用品として与えられていた意味をすでに喪失し、それらを捉えがたいものの暗号に変貌させる異化のポテンシャルを帯びている。歴史の天使が理解する能力を失ってしまった過去は、芸術の天使の前でその姿をふたたび取り戻す。とはいえ、この相貌は異化されたイメージである。◉異化されたそのイメージにあって、過去は、真理を否定するというかぎりでのみ、みずからの真理を見出し、新しいものの認識は、古いものの非真理性においてのみ可能となる。芸術の天使は、美的な判断=審判の最後の日に現われて、実際のコンテクストの外で過去を引用する。こうして◉天使が過去に与える救済とは、すなわち、審美的特徴からなる博物館における過去の死(より正確には、死の不可能性)にほかならない。天使のメランコリーとは、異化をして自己の世界たらしめたという意識であり、非現実的なものとする以外にはもはや保持できなくなった現実に寄せる天便のノスタルジーなのである。
 いうならば美学が果たす任務とは、ある意味において、断絶がもたらされるまでは伝統が果たしてきたのと同じ任務である。◉つまり、過去の網の目のなかでほつれてしまった糸を繕い直すことで、美学は古いものと新しいものの軋轢を解決する。この軋轢の宥和なくして人間は生きることができない。なぜなら人間というこの存在は、時間のうちに自己を見失いながらも、時間のうちにふたたび自己を見出さねばならず、したがってあらゆる瞬間において、自己の過去と自己の未来にさらされているものだからだ。◉伝承可能性の破壊をつうじて、美学は、否定的なしかたで過去を回復する。こうして伝承不可能性は、感性的な美のイメージにおいてそれ自体ひとつの価値になり、それゆえに人間の行為や意識を基礎づけうるひとつの空間が過去と未来のあいだに拓かれることになる。
 この空間こそ美の空間である。しかし、そこで伝承されるものは、まさしく伝承の不可能性であり、伝承される真理は、その内容の真理の否定である。◉文化は、伝承可能性とともにみずからの真理の唯一の保証人を失い、絶え間なく累積していくみずからのナンセンスに脅かされる。だがその文化が、いまや芸術にみずからの保証を与えるのである。したがって芸術は、みずからの保証を失うことによってしか保証されえないものを保証する必要に迫られるようになる。◉職人の謙虚な活動はかつて、人間に仕事=作品の空間を開示し、そうすることで、伝統がみずからの過去と現在をたえず結びつける場所や対象が構築されてきた。しかしいまやそれが、天才の創造活動にとって代わられ、美を生産せよという命令が重く圧しかかることになる。この意味で、美を芸術作品の直接の目的と考えるキッチュは、美学特有の産物といえるのであって、同様に別の面では、キッチュによって芸術作品に喚起される美の亡霊こそ、美学が基盤を見出している文化の伝承可能性の破壊にほかならないのである。
 もしこうしたことが事実であり、◉芸術作品とはすなわち、古いものと新しいものとが真理という現在の空間で互いの軋轢を成り立たせるべき場であるとするならば、今日の芸術作品とその命運をめぐる問題は、われわれの文化を悩ませる他の諸問題のなかの、単なるひとつの問題なのではない。その理由は、芸術が文化的諸価値のヒエラルキー(崩壊しつつあるが)において上位の座を占めているからということではもはやない。むしろ、文化の生存そのものが芸術にかかっているからだ。過去と現在との軋轢に引き裂かれた文化は、われわれの社会において、美の異化というかたちのなかで、その極端で一時的な和解を見出した。測量技師Kによる不屈の脱神話化の行為のみが、ウェストウエスト伯爵の城に、それが装っている見せかけだけの現実を保証するように、芸術作品だけが、文化の累積に、「幻影のごとき生存を保証するのである。しかし、◉いまやこの文化という城は、すでに博物館=美術館となっている。そこにおいて一方では、過去の遺産ーー人間はもはやけっしてそのなかで互いを認識しあうことができないーーが、共同体メンバーの美的享受に供されるために蓄積される。他方、この美約享受が可能になるのはひとえに、過去の遺産から、その直接的な意味を剥奪し、さらに人間の行為や意識に空間を開示するその生産力を奪する、異化作用をつうじてなのである。
 ◉したがって美学は、西洋人の感性が進歩するにつれて、もっとも固有な場として芸術作品にあてがわれるようになった単なる特権的な領域ではない。◉すでに伝統が解体し、もはや人間が過去と未来のあいだに現在という空間を見出すことができず、歴史の直線的な時間のなかに埋没している時代にあって、美学は、むしろ芸術の運命そのものなのである。その翼を進歩の嵐に絡めとられている歴史の天使と、時間を超越した領域に過去の廃墟を固定する美学の天使は、切り離すことができない。個人であれ集団であれ、人間が古いものと新しいもののあいだの軋轢を和解させる別の方法を発見しないかぎり、したがって自己の歴史性を自分のものとしないかぎり、この分裂をぎりぎりまで駆りたてずにはすまない美学を克服することは、ほとんど不可能であるように思われる。



 カフカのノートに綴られたあるメモには、過去の歴史と未来の歴史の緊張のなかで人間が自己の空間を見出すことの不可能性が、「鉄道旅行者たち」のイメージのうちに、並はずれた精確さで表明されている。「鉄道旅行者の一団は、トンネルに入って入口の光がもう見えなくなるやいなや、たちまち災難に出くわすものだ。しかも、出口の光は、はるか遠くにちっぽけにしか見えないので、視線は、光をたえず求めるが、たえず見失うはめになる。しまいには、どっちがトンネルの先頭で末尾かすらもおぼつかなくなってくる」。
 すでにギリシア悲劇の時代、すなわち、勃興しつつあった新しい道徳的な世界の圧力のもとで伝統的な神話体系が凋落し始めていたとき、芸術は、古いものと新しいものの軋轢を和解させるという課題をみずから引き受け、無実なる罪人、悲劇の英雄という姿のなかでこの課題に答えていたのである。その姿のうちには、偉大さと悲惨さのすべてにわたって、もはやそうでないものといまだそうでないものとのあいだの歴史的な間隙に挟まれた人間行為の不安定な意味が表明されている。
 カフカは、終始一貫この課題をわが身に引き受けつづけた現代の作家である。おのれの歴史的な前提条件を体得することができないという人間の不可能性に直面して、カフカはむしろ、この不可能性を、自己を再発見するための土壌そのものにかえようとした。この企てを実現するために、カフカは、歴史の天使というベンヤミンのイメージを逆転させたのである。つまり、実際には、天使はすでに楽園に到着ずみだった、というよりも、最初からずっとそこにいたのだ、と。また、嵐にしても、進歩の直線的な時間に沿って一貫して逃亡する天使の姿にしても、自分の意識を欺こうとして、自分が置かれた永続的な状況をなおも達成されるべき目標にかえようとして天使がみずから創りだした幻想にすぎないのだ、と。
 まさにこうした意味でこそ、『罪、苦悩、希望、真実の道についての考察』における次の二つの文に表明されるような、一見逆説的とも思える考え方は理解されなければならない。「ゴールはあるが、道がない。◉われわれが道と呼んでいるのは、われわれの躊躇にほかならない」。「世界の審判を最後の審判という名でわれわれに呼ばせているのは、われわれの時間観念にすぎない。本当は、即決裁判なのだ」。
 人間はつねにすでに審判の日に立ち会っている。審判の日は人間の通常の歴史的状況であり、この状況に直面することへの人間の恐れだけが、彼をしてその日がなおも来るべきものだという錯覚を抱かしめるのだ。カフカは、空虚で直線的な時間に沿って際限なく展開する歴史観(これこそ《新しい天使》をいやおうなく駆りたてているものだ)に代わって、歴史のあり方の逆説的なイメージを打ち出す。このイメージにおいては、人間の発展にとって根本的な出来事は不断に進行中で、直線的な時間の連結術が粉々に分断されているにもかかわらず、それ自体を越えるような突破口を開くことができない。ゴールが接近不可能なのは、それが遠い未来にあるからではなく、ここ、われわれの眼前に現前しているからだ。だが、◉このゴールの存在は、人間の歴史性、不在の小道の途上での人間のたえざる遅れ、自己の歴史的な状況をわがものにできない人間の無能さを構成する。だからこそカフカは「これまで起こったあらゆることに無効宣告する革命運動が正しいのは、実際にはまだ何ひとつ起こってはいないからだ」と言うことができたのである。したがって、歴史のなかで見失われた人間の状況は、最後には『万里の長城の建設』において語られる華南人たちの状況に似たようなものになる。
彼らは、「想像したり信じたりする能力の乏しさに悩み、このために北京の衰退から帝国を救うことも、一度でいいから触れ合いを感じてから死ぬことだけを夢みている臣民の気持ちでありありと帝国を抱きしめることもできない」。にもかかわらず、彼らにとっては「この乏しさは、団結するためのもっとも重要な動機のひとつ、いやそれどころか、大胆な言い方をさせてもらえるならば、われわれが生きる地盤そのものであるように思われる」。
こうした逆説的な状況に直面して、芸術の課題を問うことは、最後の審判の日における課題がいかなるものであるだろうかと問うのに等しい。すなわち、歴史の天使が足止めされた(カフカにとっては人間の歴史的なあり方そのものである)状況で、過去と未来の間隙で、人間は、おのれの責任と向かい合っている。カフカは、芸術が伝承行為の伝承となりうるかどうか、つまり、伝承する行為が、伝承されるべきものとは独立に、伝承という課題そのものをその内容に引き受けることができるかどうかと問うことで、この要求に答えている。ベンヤミンが理解していたように、直面する未曾有の歴史的状況を洞察したカフカの天才とは、「伝承の可能性のために真理のほうを犠牲にした」ことだった。◉ゴールがすでに現前するがためにそこへと至る道がない。だからこそ、遅ればせながらも伝承という課題そのものをメッセージとしてたずさえてくる使者の、不屈の粘り強さだけが、歴史的なあり方を体得する能力を喪失した人間に、その行為や意識を形成するための具体的な空間を送り返すことができる。
 こうして、美の巡礼も限界に達すると、芸術は、伝承されるものと伝承する行為とのあいだの差を無効にし、伝承されるものと伝承する行為のあいだに完全な同一性が存在していた神話=伝統的体系に近づいていく。しかし、たとえ「この最後の限界に立ち向かうこと」で美的領域を超越し、伝承するという課題そのものを内容とするまったく抽象的な道徳体系を構築することによって、キッチュにささげられたこの領域の運命をはぐらかしてみたところで、たしかに、芸術は神話のとば口にまでたどりつけはするだろうが、それを越えることはできない。もし人間がおのれの歴史的状況を自分のものとし、直線的な時間の涯てのないレールに沿ってたえず押し流してゆく嵐の幻を霧散させることによって、その逆説的な状況から脱することができるとすれば、たちまち人間は、新しい天地創造に生命を吹きこみ、歴史を神話に反転させることのできる全体認識に接近することだろう。だが、芸術だけではそれは無理である。なぜなら、芸術が神話から解放され歴史に結びつけられるようになったのは、まさしく過去と未来の歴史的な軋轢を和解させるためなのだから。
 ◉真理を眼前にした人間の遅れの原理を詩的な手続きに転じ、伝承可能性のために真理の保証を放棄することによって、芸術はふたたび、古いものと新しいもの、過去と未来のあいだの世界にたえず宙吊りにされた歴史的なあり方から脱することができる。そして過去と未来に挟まれた空間そのものも、自分の棲処 ディモーラの根源的な寸法を現在のうちに測定し、行為の意味をそのたびごとに再発見できるのだ。
 家が炎に包まれたときにはじめて建築の根本的な問題が見えるようになるという原則にしたがうなら、芸術は、その運命の極限に達することで、ようやくみずからの根源的な見取図=企投を明るみにだすのだ。

 

『中味のない人間』ジョルジュ・アガンベン/著、岡田 温司、多賀 健太郎、岡部 宗吉/訳