ズレの知覚と誤知覚 | 小動物とエクリ

ズレの知覚と誤知覚

 

 

 

序章 多元的無知とは

多元的無知(pluralistic ignorance)とは、「集団の多くの成員が、自らは集団規範を受け入れていないにもかかわらず、他の成員のほとんどがその規範を受け入れていると信じている状況」として定義されてきた。

それは、彼らが自分の考えを表明するとき、その表明は大抵の場合、「集団が何を感じているか」という幻想によって歪められてしまうためだという。このように、集団の各々のメンバーが他者の考えを互いに読み誤っている状況が多元的無知である。

 

 

1 多数派への同調

1.1 Aschの同調実験
多元的無知という現象を理解する上で外せない社会心理学の古典的概念の1つに、「同調(conformity)がある。同調とは、個人が、自己の信念と集団規範あるいは集団成員の多数派が示す標準との不一致を認識し、集団成員からの暗黙の圧力を感知して、その規範や標準に合致するよう態度や行動を変化させることである。

 

 

1.2 日常生活における同調

いつのまにか暗黙の規範が生まれ、同調によってそれが共有されるという事態がしばしば生じる。すなわち、集団の成員一人一人が、(そうとは意識しないままに)特定の規範なるものを創り出したり、維持したり、変容させたり、といった役割を担っている。

こうした個人レベルでの現象の理解を超えて、社会現象としての同調が暗黙の裡に生起する集合的なプロセスへと、視野を広げていくこととしたい。

 

 

2 社会現象としての同調ーー多元的無知

 

2.1 『はだかの王様』に描かれた集団規範の創発過程

周囲の他者に同調した個々人は、自らの同調行動が社会現象の一部を構成することを意図したわけではもちろんなく、行動が、今度は別の他者に影響され、受動的に振る舞ったに過ぎない。しかし、そのような個人の行動が、今度は別の他者から観察され、新たな同調行動を生む。同調は、このような自他のインタクラティブなプロセスを通じて、社会現象としての広がりを見せることになる。

多元的無知とは、集団や社会の多くの成員が、自らを受け入れていない規範について、他者の大半がそれを受け入れていると推測している状況を意味する。こうした誤った推測が集団レベルで維持されてしまう理由は、誤推測に基づいて生じた同調行動が成員に互いに観察し合うことで、各々が自らの(誤った)推測に対する確信を深め、ますます同調を強めていくからにほかならない。多元的無知は、こうした集団成員の誤推測と行動の連鎖によって初めて、社会現象として立ち現れるのである。

 

 

2.2 名誉の文化研究

Nisbett & Cohen(1996)は、こうした地域からの入職者がアメリカ南部で再び牧畜を生業したことによって、名誉の文化がアメリカ南部に持ち込まれ、根づいたと推論した。

 

 

2.3 名誉の文化と多元的無知

南部の白人男性の多くが「他者は自分よりも暴力的である」と認識し、また「自分よりも他者の方が、名誉のための暴力を望ましいと考えている」と推測していることが示唆されたのである。

かつてAsch(1951, 1952)が実験室に見た「同調」とい事象は、社会とその一員たる個人とのダイナミックな相互構成的関係を視野に入れることにより、改めて社会現象としての理解可能になる。

 

 

3 多元的無知に関するこれまでの実証研究例

3.1 大学生の飲酒規範

男子大学生の多くは他者に合わせて飲酒を行っているうちに自分も飲酒を好むようになり、飲酒習慣に関する多元的無知は3ヶ月の間に解消された

 

 

3.2 日本人の相互協調性

東アジアの人々は欧米の人々に比べ、周囲の人々の間に集団主義的価値が共有されていると(実際以上に)知覚している場合が多く、またそのような知覚をもつ人は、個人的にはその価値を重視していなくても、集団主義的な行動をとりやすいという

「個人としては相互依存的な生き方をより好ましいと評価しながらも、そうした振る舞いをすれば他者から嫌われ、世の中でうまくやっていけないだろうという信念を人々が共有していること」

このような信念ゆえに日本人は相互協調的に振る舞うという予言の自己上述的プロセスが介在している

すなわち、日本文化に優勢とされる相互協調性が、実は多元的無知によって維持されている文化規範である可能性が示唆される

 

 

3.3 働き方改革の推進を阻む職場規範

周囲の他者の考えを誤ってネガティブに推測した場合には、実際の育休取得行動が抑制されてしまう可能性を示唆している

 

 

4 本書の主眼ーー多元的無知研究の新たな展開を目指して

4.1 多元的無知を引き起こす個人の認知メカニズム

他者の選考についてどのような推測がなされた場合に他者に追随する行動がとられるのか、また多数派に追随せずに独自の行動をとる個人が現れた場合にどのような評価がなされるのかといった問題について、精緻な検討を行う。これらは、集団成員が互いの行動を観察し、その背後にある意図を読み合うことで、個人的には不支持な規範が維持・再生産されるという一連の流れを可視化する試みである。

 

 

4.2 多元的無知に影響を及ぼす社会環境要因

長年にわたって同じ顔触れで共同体が構成されているような流動性地域と、住民の入れ替わりが激しい高流動性地域とでは、多元的無知現象の様相は異なっている可能性がある。

 

 

4.3 ビジネスの現場に見る多元的無知1 : 個人特性との関連

同じ環境に身を置いていても、他者からの評判低下を懸念する程度や、他者に同調せずに自分の思うままの行動を志す程度には、各個人の特質に応じた差異もあるだろう。

すなわち、「個人が自由に集団を移動し、新たな他者と新たな関係を構築する能力」を意味する。

 

 

5 本書における多元的無知と集団規範の定義

多元的無知とは集団規範の維持がいかにしてなされているかを示す概念である。

「個々の成員が自身の選好に反して、他者が受け入れている(と信じる)規範に従った行動を採用することにより、結果的にその規範が維持される状況」というもう一つの定義を加える。

経済学者の松井(2002)は「明示的にせよ暗黙的にせよ人がとるべき行動をさし示す言明」という価値判断の基準として規範を定義した上で、「集団の成員の多くがとっている行動様式」であるところの慣習を支える一つの要素であると述べている。

 

 

第1部 多元的無知を生み出す認知メカニズム

観察対象の人物は、全員がたまたま同じ選好をもっていて各々が自らの選好に基づく行動をとっている可能性もあるが、中には周囲の他者に合わせて自分の選好と一致しない行動をとっている(つまり、既に存在する規範に追随している)人がいるという可能性もある。すなわち、規範が生起する場面と規範が維持される場面とでは、他者の選好に関する実験参加者の推測は異なったものになると考えられる。

 

 

第1章 多元的無知はどのように生起するのか(研究1)

3 結果 : 仮説の検証

3.2 対応バイアスが生じる場面

「他者の行動は、たとえ消極的選択の結果であっても、積極的選択の結果である、すなわち他者の選好を反映していると判断されやすいだろう」というものだった。

自らの選好を統制した上でも推測された他者の選好の効果が有意であることを示しており、行動意思決定において推測された他者の選好が影響を与えることを示している。

 

 

3.5 正当化によって多元的無知は解消したか

多元的無知状態の解消に至るほど各集団成員が規範を内在化させることが困難であることを示している。


4 考察 : 多元的無知の生起・維持メカニズムに関する検討

人は多元的無知に基づく行動の後、自らの好みを当該の行動と同じ方向に変化させるが、そのことによって自身の態度と(推測された)他者の態度のズレは完全に解消するとは限らず、依然として多元的無知状態が存在し続ける可能性があることが示唆された。

 

 

4.1 多元的無知と文化の維持に関する2つのメタ理論

「文化への制度アプローチ」を提唱とする増田・山岸(2010)は、「人間は自分の目標(選好)の実現を求めているが、他の人たちを無視して自分の好きなことをするわけにはいかない」という前提に基づき、個人は「一般に人間はこういった状況でこう行動するだろうといった、人間一般についてのモデル(信念)」を用いて行動し、その行動が他の人々の信念の内容に影響力を及ぼす、と論じている。

日本人は(個人の選好としては)自分の意見をはっきり言うなど相互独立的に振る舞いたいと思っていても、「他の日本人は独立的な振る舞いをとる人物に対して悪い印象を抱く」と考えて、実際には相互協調的に振る舞う、というモデルである。さらに、ここでの相互協調的な振る舞いによって、その振る舞いを目にした別の他者に対して、「他の日本人は協調的な振る舞いを高く評価する」という信念をより強く抱かせると考えられる。
 このように、人々が自らの好みに一致しない行動を選択し続けることによって文化が維持されていることを指摘した研究もある。これらのアプローチのポイントは、個々人が実際にもっている選好ではなく、より一般的な人間像についてのモデル(この状況でこのように行動すると他者からの印象がどう変化するか)によって、人々の振る舞いが規定されているという点である。このようなアプローチは、人々の行動が他者の選好についての推測の影響を受けているという点で多元的無知研究と近いと考えられる。
 一方で、「文化は実質的に心を作り上げており、また同時に文化そのものも、多くの心がより集まって働くことによって、維持、変容されていく」(北山)すなわち、人々の選好(心)が行動に反映され、集合的に共有されることによって文化が維持されるという主張もある。

 

 

4.2 選択行動後の好みの変化ーー2つの異なった認知的不協和

人は他者から嫌われたくないという思いを持っているとするなばらば、他者の選考に合致するかどうかわからない行動をとることは認知的不協和を生み出すだろう。

パートナーの価値付けに関する推測の変化は、「自分の選択行動は他者を喜ばせるために行ったものである」という正当化によって、認知的不協和の解消を図ったもの考えられる。
 自分の選好には合致するが他者の選好に合致するかどうかわからない状態での選択が認知的不協和に結びつくのであれば、自らの選好に即した行動をとることが必ずしも不協和を引き起こさない選択だとは言えない。人が、自らの選好ではなく(推測された)他者の選好に合わせた行動をしばしば選択するのは、このような、言わば他者由来の認知的不協和を避けようとする動因に基づくものと考えられ、個々人がこうした他者由来の認知的不協和の回避を目指すことによって、多元的無知状態が集団レベルで維持されると考えられるだろう。

 

 

第2章 多元的無知が維持されりメカニズム(研究2)

3 研究 2-2 : 5人集団な規範維持プロセスを追った実験室実験

他者からの期待を感じた上で他者と異なる行動をとった可能性(=規範逸脱者としての可能性)と同時に、そもそも他者からの期待を感じなかった可能性(=規範非認知者としての可能性)も存在している。

 

 

3.2 結果 : 仮説の検証

他者が下す評価の推測と規範遵守行動(作業仮説2)

「他者の行動が選好と反していると推測する人ほど、当該行動に規範性を認知し、それに沿って振る舞う」

 

 

4 研究2のまとめ

多元的無知が生起する場面においては、「他者は選好に沿った行動をとっている」と予測する人ほど他者に合わせた行動をとっていた。これは、他者が好んでとる行動に自分も追随することで、その集団の中に馴染むことを意図したものとして理解することができる。一方、多元的無知が維持される場面においては、「他者は選好と反した行動をとっている」と予測する人ほど、他者の行動に従っていた。これは、他者の行動が選好と乖離しているという規範性を認知し、自分も追随することが望ましいと判断したと考えられる。いずれの場面においても、集団成員は集団に馴染むことや(認知された)規範に従うことを志向しており、同じ行動をとることで他のメンバーとの良好な関係性を保とうとしていることがうかがえる。逆に言えば、他者と異なる行動をとれば、集団内での自己の評判が下がるのではないかという懸念を抱いているとも考えられる。

 

 

第Ⅰ部のまとめ

選好と反する行動をとる他者を観察し、自身も選好と異なる行動をとった人物が、別の他者に対して選好に反した行動をとることを再帰的に促しているのである。集団内の個々人は、単に他者から一方的な影響を受け、他者に追随するだけの受動的な個人ではなく、彼らの行動もまた別の他者からの観察対象となり、その人物に同調を促し、その結果として集団現象としての多元的無知状態が維持されると考えられる。


第Ⅱ部

多元的無知が生じやすい社会環境の検討

 

 

第3章 関係流動性の高さと多元性無知の関係(研究3)

1 背景と仮説 : 関係流動性と評判予測の関連

1.1 評判予測の2側面と関係流動性

これまでの研究から、規範を遵守すること(あるいは規範から逸脱すること)の規定因として、「他者からの評判の予測」の重要性が指摘されている。

日本は新たに対人関係を結ぶことが困難な社会(閉ざされた社会)であるがゆえに集団から排斥されるコストが大きいことを指摘した上で、日本人は他者の反応を気にしつつ、自らの選好(=相互独立的に振る舞いたい)とは異なる行動(=相互強調的な振る舞い)をとっている

流動性の低い社会環境では、評判の統制的役割やネガティブな評判を回避するインセンティブが大きいと考えられる。

関係流動性(relational mobility)

「ある社会において、必要に応じて新しいパートナーと関係を結ぶことができる機会の多さ」

個人が他者と関係を結んでいく際の戦略にも影響を与えることが理論的に示されている。 

関係が流動的でない場合、規範からの逸脱に伴う評判低下の可能性を高く予測する人ほど、規範に沿って振る舞うという仮説を立てる。

実際は評判が上昇(低下)しないにもかかわらず、個々の集団メンバーが「規範に従うと(規範から逸脱すると)評判が上昇(低下)する」と誤って予測し、規範に従っているような状況があるならば、それは他者の信念の誤推測によって規範が維持されている多元的無知状態であると言うことができる。

 

 

1.2 評判を正確に予測することはできているか

この評判予測が実際に個々の人々が規範の遵守者や逸脱者に対して行う評価と合致していないとすれば、そのような言わば「誤った」予測が、規範を維持するドライブとして力をもつということになる。

このように、他者からの評判低下予測を強化させ規範遵守行動を促し……、というダイナミックな循環プロセスがたどられる。

人々は規範逸脱が発覚した際の評判低下可能性をより高く見積もる、この傾向は低流動性社会の人々において顕著であるという仮説を立てる。

流動性の高低によって実際の評判の様相にも違いが見られることが考えられる。

①関係流動性を高く認知する人ほど、正直な人物に報酬を与える傾向にあること

②関係流動性を低く認知する人ほど、正直でない人物を罰する傾向にあること

 

 

1.4 仮説のまとめ

仮説1 : 関係が流動的な場合、個人特性(賞賛獲得欲求)にかかわらず、規範遵守に伴う評判上昇の可能性を高く予測する人ほど、規範に沿って振る舞うだろう
仮説 2 : 関係が流動的でない場合、個人特性(否定的評価回避欲求)にかかわらず、規範からの逸脱に伴う評判低下の可能性を高く予測する人ほど、規範に沿って振る舞うだろう

 

 

第4章 居住地流動性の高さと多元的無知の関係(研究4)

1.3 仮説のまとめ

例えば、ある人物が規範に従った場合、ここでの規範遵守行動が他の他者の評判予測に影響を与え、他者の規範順守行動を促進すると考えられる。逆に、ある人物が規範から逸脱した場合、他者は規範逸脱に伴う評判低下可能性を低く予測し、他者の規範逸脱を促進しうる。評判を軸に人々の規範遵守行動を捉えると、一人一人の集団メンバーは他者からの評判を考慮する受動的な存在であると同時に、他者の評判予測や行動に影響を与える能動的な存在であると同時に、評判予測と行動の関連を分析することは、集団メンバーの相互作用が集団規範を構成するに至るマイクロ=マクロ・ダイナミクスの分析につながる。

 

 

4 考察 : 居住地流動性と評判予測、多元的無知の関連

4.2 流動性と多元的無知の関係

関係流動性を低く認知する人が評判低下可能性の過大視に基づく規範遵守行動をとるという結果が得られていることを考慮すると、多元的無知状態は流動性の低い社会で維持されやすいという解釈は妥当であると考えられるだろう。

 

 

4.3 研究4の課題と展望

自己の魅力が低くても知人が離れることのない低流動性社会とは異なり、高流動性社会では各々が関わる相手を自由に選ぶことが可能である分、自己の魅力が低い場合には知人から離れられる可能性がある。そのため、高流動性社会においては関係構築のためのみならず、関係維持のためにもエネルギーを投資する必要がある。今後は関係構築に加え、関係維持の観点からも評判と規範遵守行動の関係を検討する必要がある。

 

 

第Ⅱ部のまとめ

居住地流動性の高い社会において、関係構築力が高い人は規範遵守に伴う評判上昇を予測するほど規範に従う一方、関係構築力の低い人ではそのような関係は見られなかった。このことは同じ流動性の環境の中でも、それを活用して対人関係を構築できる人とそうでない人とがおり、両者の間で行動戦略が異なっていることを示唆している。

 

 

第Ⅲ部
ビジネスの現場を対象とした応用的研究

転職行動とはつまり、社会の流動性(転職する機会)を活用して新たに対人関係を構築するという側面を持つ。本書では転職行動を社会の流動性を活用する行為として捉え、個人のパフォーマンス(職務能力)の高さと転職行動の関連を検討する。

 

 

第5章 個人のパフォーマンスと転職行動との関連(研究5)

4 考察 : 個人のパフォーマンスと転職意図の関連とその調整要因

4.2 個人のパフォーマンスと流動性の活用

転職行動に影響を及ぼす要因として包摂性の風土とパフォーマンスの交互作用が見られ、職場の居心地が悪い(包摂性の風土が低い)場合に限って、パフォーマンスの高い人ほど転職することが示されている。

彼らは、問題解決や処理能力の高さ(resourcefulness)・交友関係の広さ(social connections)・身体的魅力(physical attractiveness)といった社会的価値(social value)の高い人ほど流動性を高く認知することを示している。

すなわち、労働市場においては、個人のパフォーマンスの高さが、当該個人の関係構築力を決定づける重要な要素の1つであると言えるだろう。

 

 

4.3 個人のパフォーマンスと規範遵守行動および多元的無知との関連

評判低下可能性が高い状況では、エリート層のほうが一般層よりも転職意図が高いという傾向が見出された。転職に伴う評判低下可能性が高い状況を「離職・転職は望ましくない(長く勤めることが望ましい)」という規範が存在している状況として捉えると、こうした状況下での転職は、転職を控えるべきという規範からの逸脱行動に他ならない。

 

 

第Ⅱ部で見た通り、規範逸脱に伴う評判低下の可能性を個々の集団成員が過大視し規範に従った場合、集団の中で多元的無知状態が生まれることとなる。

 

 

4.5 研究5の限界

エリート層もそうでない人も同様に現状の職務満足度が低くなるにつれ転職の意図を高めたことがわかるが、だからといって両者とも転職を叶えることができるとは限らない。エリート層は行動レベルでも転職を叶えることができる一方、一般層は意図レベルでは転職への意欲があっても、実際に転職を成就させることができないという可能性もある。

パフォーマンスの高い人は状況に応じて転職機会という流動性を活用するのに対し、パフォーマンスの低い人は望ましくない組織風土のもとで流動性を活用することが難しいことを示している。

 

 

第6章 職場における多元的無知とその帰結(研究6)ーー職場間比較の視点

1 背景と仮設 : ダイバーシティ信念をめぐる多元的無知の可能性

1.1 職場規範に関する多元的無知を扱った先行研究とその限界

「ズレの知覚(misalignmdent)」
「誤知覚(misperception)」

従来の多くの研究は、自己信念の集団平均と推測された他者信念の集団平均に差があることをもって多元的無知の存在を示してきたが、集団内の個々の成員のズレの知覚や誤知覚は、必ずしも一様ではない。

 

 

1.4 多元的無知の帰結としての対人葛藤

まず、個人レベルでのズレの知覚に注目すると、自分よりもダイバーシティに対して否定的な信念を保持している(と推測される)同僚に対してネガティブな感情を抱き、結果、対人葛藤が促進されると考えられる。

 

 

3 結果: 仮説の検証

3.2 個人レベルでの乖離

むしろマジョリティである男性のほうがダイバーシティに対して肯定的であること、また自己の信念と他者の信念とのズレの知覚に性差があるとは言えないことが示された。

 

 

3.3 職場レベルでの乖離

職場レベルのズレの得点はほとんどの職場でマイナスの値だったことから、異業種出身が多く、業種のダイバーシティが高い職場ほど、自分の信念と推測された同僚の信念との間のズレが小さくなりやすく、多元的無知が起きにくいことがわかった。

 

 

4 考察 : 職場における多元的無知とその帰結としての対人関係

4.2 職場レベルの多元的無知

ダイバーシティは常に組織にポジティブな結果だけをもたらすとは限らず、日本でも特徴の異なる相手との協働が葛藤を強めた事例が見られる。

ダイバーシティが高い集団では低い集団と比べて熟考が促された結果、多元的無知が緩和された可能性も考えられる。ダイバーシティが高い集団では、成員間の摩擦や懐疑が生じやすく、当たり前の前提を疑うことを強いるために、同調が抑制され、熟考が促されることを指摘する研究がある。さらに、ダイバーシティの高い職場ほど、「人は互いに考え方が違う」という前提のもとで成員間の対話が進むことによって、誤推測が解消された可能性もある。

 

 

4.3 多元的無知の帰結としての関係葛藤

個人レベルでズレの知覚・誤知覚が高く、したがって同僚の考えを過剰に否定的に推測するほど、関係葛藤の知覚が高まっていた。

 

 

第Ⅳ部
不人気な規範が解消されるには

第7章 本書のまとめ
ーー多元的無知を引き起こす認知・環境要因と個人差

1 多元的無知を引き起こす個人の認知メカニズム

他者の選好と行動とのギャップこそが規範性であることを示唆する結果

他者の選好の推測と他者からの期待に沿った行動の選択という個人レベルの対人認知・行動から、多元的無知状態という集団レベルの現象が創発するに至る、「マイクロ=マクロ・ダイナミクス」のプロセスを示唆する知見であると言える。

 

 

2 多元的無知に影響を及ぼす社会的環境要因

「他者は選好に基づいて行動をしていると推測する人ほど、推測された他者の選好に合わせて意思決定を行う」

「他者は選好に反した行動をしていると推測する人ほど、自身も他者に合わせて選好に反する行動をとる」

結果は矛盾するものではなく、むしろ多元的無知の生起から維持、再生産に至る一連のプロセスの異なるフェーズを切り出したものと考えられる。すなわち、個人が誤って推測された他者の選好に合わせることから多元的無知状態は生起する一方、個人が他者の行動と選好の乖離から遵守するべき集団規範の存在を認知しさらなる追随行動へと結びつくことで、多元的無知状態が維持・再生産される。

低流動性社会の人にとっては排斥に伴うリスクが大きく、彼らは自らの排斥リスクや評判低下のリスクを下げるために、規範逸脱に伴う評判低下可能性を実際以上に高めに推測し、規範遵守行動をとるよう自らを動機づけると考えられる。こうして各々の集団成員がが規範逸脱にともなう評判低下可能性を過大視し、嫌々規範に従うことで、その集団では不人気な規範が多元的無知によって維持されると予想される。一方で、高流動性社会では排斥に伴うコストが相対的に小さいため、評判低下可能性を高めに予測する必要性は小さく、したがって多元的無知状態も生起しにくいと予想される。

流動性は関係流動性尺度をもって測定されたものであり、社会の流動性の高さそのものではなく、各回答者が社会の流動性の高さをとのように認知しているかを測定したものである。そのため、流動性を高いと認知している個人と低いと認知している個人の比較を行うことができた一方で、流動性の高い社会と低い社会の比較を行うことはできていないという限界があった。

 

 

3 個人特性に応じた多元的無知への対処

転職とはある会社から別の会社へと移動することであり、まさしく流動性を活用する行為であるが、転職が容易にできるか否かは労働市場における個人の職務能力(パフォーマンス)の高さに大きく依存する。

パフォーマンスの高い人は多元的無知状態で自らの選好に沿って規範から逸脱する一方、平均的なパフォーマンスの人は多元的無知状態で規範に従うことを示唆している。

 

 

4 多元的無知の帰結と集団間比較

多元的無知状態において、個々人は集団メンバーの属性にばらつきがあることが職場のパフォーマンスを高めるという信念を抱いている一方、「他者はそうした信念を抱いていない」と推測しているため、多元的無知状態で規範が維持されている集団のメンバーは自他の信念にズレを感じ、より強い関係葛藤を感じると考えられる。

 

 

第8章 本書の社会的・文化的・実践的意義と展望

1 本書の意義

1.2 心の文化差をめぐる問題に対する意義

従来の文化心理学の研究は、西洋と東洋を対比した上で、西洋人は相互独立的な人間観を持っていて相互独立的に振る舞うこと、東洋人は相互協調的な人間観を持っていて相互協調的に振る舞うことを明らかにしてきた。
 しかし、橋本(2011)の調査研究によれば、日本人の多くは現実には相互協調的に振る舞っているが、理想的には相互独立的に振る舞いたいと思っているという。

こうした推測のズレによって相互協調的な振る舞いが1つの文化的規範として存在していると捉えれば、日本における相互協調性はまさに多元的無知状態で維持されている可能性がある。

 

 

1.3 経営やマネジメントをめぐる諸問題に対する意義

すなわち、パフォーマンスの低い従業員は、評判低下の可能性を恐れて望まぬ規範に従うことによって、図らずも当該の望まぬ規範の維持に寄与してしまうのである。

 

 

2 本書の展望と課題

2.1 多元的無知が解消されるためには

橋本(2011)は、日本社会においては相互協調的な振る舞いを是とする規範が多元的無知状態で存在している可能性について考察している。

雇用の流動性が高まることによって、伝統的な日本企業が多元的無知状態で抱えてきた不人気な規範は、次第に解消に向かうことになるのかもしれない。

 

 

2.3 残された研究課題

社会階層の低い人ほど自分の力で将来をコントロールできるという感覚が低く、他者と協力することで危機を乗り越えようとするが、これらの知見を考慮すると、社会階層の低い人ほど他者との関係性を維持するために、より高い頻度で規範に従う可能性がある。実際に、社会階層の低い人ほど向社会的であることも示されている。

多元的無知状態は集団メンバー同士のダイナミクスによって構成される複雑な現象であるがゆえに、簡単にはその全容を理解することはできない。しかし、多元的無知状態と関連する現象は日常にもありふれており、ときにわれわれにとって望ましくない帰結を導きうる。本書で解明できたことは多元的無知現象のごく一部かもしれないが、今後さらなる検討を進めていきたい。


『多元的無知 不人気な規範の維持メカニズム』岩谷舟真・正木郁太郎・村本由紀子/ 著より抜粋し、引用。