「眺められた」現実の様相 | 小動物とエクリ

「眺められた」現実の様相

 

 

新芸術の不評
 
「社会学的観点から見た」新芸術の特徴は、社会を、新芸術を理解できる人間と理解できない人間の二つの階層に分けるところにある、と私は考える。
 
新芸術は、ロマン主義芸術のようにすべての人を対象としたものではなく、特に才能を持っている少数者に向けられた芸術なのである。ここに大衆が新芸術に対して憤りを感ずる原因があるのである。
 
政治から芸術の分野にいたるまで、社会は、当然あるべき二つの階層というか階級、つまり、すぐれた人間の層と凡俗な人間の層に再構成される時が近づいているのである。
 
今日の生のあらゆる局面の根底には、腹だたしい不正が息づいている。つまり、人間は完全に平等であるというあの誤った仮説がそれである。われわれが人びとの間に分け入り、足を一歩踏み出すごとにその反対の事実があまりにも明白になるので、一歩一歩が苦痛に感じられるほどである。
 
 

芸術のための芸術
 
新芸術がだれにでも理解しうるものでないとすれば、それはその手段が総括的に人間的なものではないことを意味している。そうした新芸術は一般向きではなく、一般人よりすぐれているとはいえないかもしれないが、しかし一般人とは明らかに異なっている特殊な階層向きの芸術なのである。
 
彼らにとって芸術とは、興味深い人間的な事象との接触を可能にしてくれる諸手段の総体なのである。
真に芸術的なフォルムや非現実性や想像力の介入も、彼らが人間の姿とその有為転変を明確に感じとる上に妨げにならない範囲内でのみ認めるわけである。
 
こうしたかかわり方の可能性を提供しない芸術作品は、彼らが役割を演ずる余地を与えないのである。
 
芸術作品の人間的な側面にのみとらわれるということは、厳密な意味での美的快感とは、相入れないものなのである。
 
何ものかを見ようとする場合、われわれは視覚機関をある特定の方法で調節しなければならない。
この調節が適切でない場合は、ものは見えないか、見えたとしてもぼやけてしまう。
窓のガラス越しに庭を眺めている姿を思い描いていただきたい。
 
このように、庭を見るということと窓のガラスを見るということは両立しえない二つの操作であり、一方が他を排除するとともに、それぞれ異なった視覚調節を必要とするのである。
芸術作品は、それが非現実的である程度においてのみ芸術的なのである。
 
ところで、大多数の人びとは、芸術作品というガラスに、彼らの注目の焦点を合わせることができない。
そこをきづかずに素通りしてしまい、作品に暗示されている人間的現実に執着し熱狂するのである。
 
事実、そこには人間的事象はなく、芸術的に透明なもの、純粋に潜在的な力があるだけだからである。
 
新芸術は芸術的な芸術なのである。
 
 
現象学の数滴
 
つまり、一つの現実も、これを相異なる視点から眺めた場合、多くの相異なった現実に分割されるのである。そこで次のような疑問が生じる。これを無数に分割された現実のうち、どれが真正な現実なのか。われわれが、どれをとったとしても、それは恣意的たらざるをえない。われわれがどれかを選択するとすれば、その選択は気まぐれ以外の根拠を持ちえないのである。これらの現実はすべて等価値なのであり、それぞれの現実はそれに相応する視点に立った場合には真正なのである。われわれがなしうることをいえば、こうした観点を分類し、その中から実際的にいっていちばん正常で自然だと思えるものを選び出す以外にない。そうすることによってわれわれは、絶対的というにはほど遠いが、少なくとも現実に対する実際的で標準的な概念をうることができるのである。
 
われわれがあるものを現実に見ることができるためには、つまり、ある事実がわれわれが眺める対象となるためには、その事実をわれわれから引き離し、われわれの存在の生きた一部であることを止めさせねばならない。
 
われわれがその尺度の一方の端に位置した場合には、この世界ーー人間、事物、情況ーーの一つの様相、つまり「生きられた」現実を見出し、反対の端からはすべてをその「眺められた」現実の様相において見ることになるのである。
 
ここでわれわれは、美学にとって本質的なことを指摘しなければならない。
 
つまり、先のような相異なった視点に相応する現実の様相の中に、それ以外のすべての様相がそこから派生し、すべての様相の前提となっている一つの様相があるという事実である。現実の様相のうち生きられた様相がそれである。
 
観念は、それによって事物を思考するとき、われわれは観念を「人間的に」用いているといえるのである。
 
 
芸術の非人間化始まる
 
新芸術は、目まぐるしい速さで、種々様々な方向と試みへとむかって自己分解してきた。それらの生み出した作品の相違を強調することはきわめて容易である。しかし、それ以前にまず、すべての作品にみられる共通の基盤ーーそれは相異なる形で、また時には相矛盾する形で表われるーーを限定すべきで、それをせずに、差異性、個別的な特殊性を強調することは無意味であろう。
 
1860年の画家が、それ以上の多くの複雑な美的意図を持っていたことも考えられるが、しかし重要なことは、まずはっきりと似せるというところに出発点があったことである。
 
ところが最近の絵画では事情は逆で、われわれはそうしたものを見分けるのに苦労する。
 
最近の絵画では、これとは全く逆のことが起こるのである。
つまり、画家が失敗するとか、脇道にそれてしまって実物(自然的=人間的)に到達しないというのではなく、彼らの方向は、われわれを人間的な対象に導く道とは全く逆の道を指し示しているからなのである。 
 おぼつかない足どりで現実を目ざして歩いてゆくのとは反対に、画家は大胆にも現実に反抗しているのである。
画家は大胆にも現実をデフォルメし、現実の持つ人間的様相を破壊し、現実を非人間化しようともくろんでいるのである。
われわれは伝統絵画の中に描かれている事物となら、幻覚のうちに共存することができる。  
 
画家はわれわれを一つの抽象的な世界にとじ込められたままに放置し、われわれに、人間的に接触することが不可能な対象との接触を余儀なくするのである。
 
俗人は現実から逃避することはたやすいことだと考えるが、実はこの世で最もむずかしいことなのである。
 
「現実」は、芸術家の逃亡を防ごうとして常時待ち伏せている。
それをまいてみごとに逃げきるには、芸術家側にどれほどの抜け目なさを必要とすることだろうか。
 
 
理解への招待
 
ところで、様式化するということは現実を変形することであり、非現実化することである。
つまり様式化は非人間化を意味するのである。
 
 
芸術の非人間化は進む
 
生きられた現実は、われわれを強く補えずにはおかず、われわれをその現実に感情的に参加させ、その結果、それら現実をその客観的な純粋さにおいて眺めることを不可能にしてしまうのである。
 
見るという行為は距離を必要とする。美術というものはすべて、それぞれの幻燈機を持ち、事物を遠ざけ、変形してみせる。
 
詩人は、それ自体としてらすでに存在している現実に、一つの非現実的な大陸を加えることによって、世界を拡大する。
作家autorの語源はauctorつまり、増大させる者である。
 
どちらを見てもわれわれが遭遇するのは以上と同一のこと、つまり、人間からの逃亡である。
非人間化の方法自体は数多くある。
 
しかしながら、今日の音楽がドビュッシーに始まった歴史の一章に属しているのと同じように、すべての新しい詩はマラルメが指し示した方向へと進んでいるのである。個々の芸術家の着想によって画された諸々の小さな事で印から目を上げ、新様式の基本線を探し出そうとするならば、この二人の芸術家を結びつけることが肝要であると私は考える。
 
 
タブーと隠喩
 
われわれができる最高のことといえば、ある事物にほかの事物を加えたり、差し引いたりすることくらいである。
そうした中にあって隠喩のみが、現実からの脱出を可能とし、現実の事物の中に空想の岩礁をつくり出し、軽やかな浮き島を出現させることを可能にしてくれるのである。
 
隠喩は、ある対象を、その上を他のものの相貌で覆うことによって、掻き消してしまう。われわれとしては、こうした隠喩の背後に、現実を避けようとする人間のある種の本能の働きを認めないわけにはいかないのである。
 
最近、ある心理学者が隠喩の起源を研究し、その根源の一つが「タブー」の心理にあることを発見して驚いた。
 
詩の武器は、自然の事物に反逆し、それを傷つけあるいは殺しているのである。
 
 
超現実主義と下部現実主義 
 
隠喩は非人間化のための最も基本的な手段ではあるが、しかし唯一の手段ではない。
それぞれ効果を異にする様々な手段があるのである。
 その中でも最も単純な手段として、慣習的な遠近感に変化を与えるという方法がある。人間的な観点に立った場合、事物には特定の順位というか、序列がある。ある事物は、われわれにとって非常に重要なものに思えるのに対して、他の事物はそれほど重要とも思えないし、まったく無意味にさえ思える事物もある。したがって、非人間化の願望を満足させるためには、事物の本来の形を変形させなければならない。つまり、事物の序列を逆転させ、生における最も些細な出来事が記念碑的な雰囲気のうちに前景に浮き出るような芸術を作ればよいわけである。
 
隠喩による超自然主義と下部現実主義とも呼びうる手法によって、現実の回避と現実からの逃亡という同一の心理が満足させられるのである。
 
 
反転法
 
観念とは、われわれが世界を眺める望楼のようなものである。
 
われわれは観念によって事物を見るのであり、精神が事前に活動している場合には、目がものを見るときに目自体は見えないのと同様に、われわれも観念そのものには気づかないのである。別のいいかたをするならば、考えるということは、観念をとおして現実を把握したいという願望であり、精神の自然な動きは、観念から世界に向かう方向をとるのである。
 しかしながら、観念と事物との間には、つねに絶対的な距離がある。現実は、つねに、その現実を内包しようとする観念から溢れ出てしまう。事物は、つねに、その観念の中で考えられた以上のものであり、別の様態をしているものである。観念はまたつねに、一つのあわれな図式のようなもの、われわれが現実に近づこうとして組み立てる足場のようなものに過ぎない。しかしながら、一般的には、現実とはすなわちその現実についてわれわれが考えたことであるとする傾向があり、現実と観念を混同し、観念を事物そのものと看做してしまう。要するに、われわれの生に根ざすリアリズムへの熱望が、現実の無邪気な理想化という方向にわれわれをおとしいれるのである。これがわれわれの生得的、「人間的」な傾向なのである。
 
なぜならば、観念は、事実上、非現実的なものであり、それを現実と看做すことは、とりもなおさず理想化することであり、邪気なく偽造することだからである。観念にその非現実そのものの状態において生命を与えることは、いうなれば、非現実を非現実として現実化することなのである。この場合、われわれは精神から世界へという動きはとらず、その逆に、図式、つまり、内在的、主観的なものに成形力を与え、客観化し、世界化するのである。
 
一枚の肖像画を描く画家は、モデルとなっている人物の現実を把握しえたかのようにふるまうものだが、実際には、その現実の人間を構成している無限の要素の中から、画家が自分の頭で図式的に選択したものしか画面にとどめていないのである。
 
現実と張り合うことを断念することによって、その絵は、真にそうあるべきもの、つまり、一枚の絵=一つの非現実に代わるのである。
 
画家は、事物を描くことから観念を描くことへ移った。
芸術家は、外部の世界に対して目を閉じ、彼の内部にある主観的な景観に瞳をこらすようになったのである。
 
 
偶像破壊
 
今日の芸術は、なぜ、生命ある形体の柔らかな線に従うことにかくも嫌悪を感じ、それを幾何学的な図式に置き換えてしまうのであろうか。
 
宗教と芸術の歴史においてしばしば爆発を繰り返しているこの偶像破壊という現象を徹底的に研究してみることは、非常に有益なことであろう。新しい芸術に、こうした偶像破壊を望む奇妙な感情が作用していることは明らかである。
 
 
過去の否定的な影響
 
過去の現在に及ぼす影響を論ずる場合、以上のことが忘れられているのが普通である。一つの時代の作品には、そのまえの時代の作品に大なり小なり似せようとする意志があるのだ、となんの疑問もなく認めできたのが従来の立場であった。つまり、過去の及ぼす否定的な影響を認め、新しい様式は、多くの場合、伝統様式に対する快楽さえ伴う意識的な否定によって形成されているのだ、ということを認めるのは、ほとんどの人にとってかなりむずかしいことらしいのである。
 ところがロマン主義から今日にいたるまでの芸術の起動は、過去の芸術を否定し、攻撃し、嘲笑するという気質を美的快感の一要素と看做さない限り、理解することはできない。
 
実のところ、新しい感受性が原始美術にひかれるのは、作品そのものにひかれるというよりも、その純真さ、すなわち、伝統の不在、まだ伝統が形成されてはいない芸術だという理由である。
 
今日あまりにも一般化されているのは過去の芸術を攻撃するという態度は、つまるところ、芸術そのものに反逆することを意味するからである。なぜならば、芸術とは、具体的にいって、今日にいたるまでの間に作り上げられたものにほかならないからである。
 
芸術に対する憎しみは、科学に対する憎しみ、国家に対する憎しみ、要するに文化全般に対する憎しみが芽ばえているところでなければ、生まれないのである。
 
過去の芸術が未来の芸術に否定的に作用する際の心理的メカニズムを分析してみるのは興味のあることである。さしあたっては、とにかく一つきわめて明白なものがある。倦怠がそれである。一つの様式の単純な繰り返しは、感受性をにぶらせ疲れさせる。ヴェルフリンは、『美術史の基礎概念』において、この倦怠がしばしば美術を動かし、変形を余儀なくせしめたことを証明している。
 
 
アイロニックな運命
 
芸術が自分自身の中には引きこもった事実がもたらす最初の結果は、いっさいの感傷性の追放であった。
「人間性」で覆いつくされていたときの芸術には、生に附属した重々しさが反映されていた。
 
新しい発想はすべて、喜劇的というただ一本の弦をかなでている。
 
しかし作品の内容が喜劇的なのではない。もしそうならば、「人間的」様式の一つに逆戻りしたことになるであろう。
 
つまり、芸術そのものに向かってゆくのは、まさに芸術を笑劇と看做しているからである。
 
しかし今日の芸術家は、われわれが、冗談である芸術、まさに自嘲そのものである芸術を眺めるように仕向ける。
実は自嘲こそ、新しいインスピレーションの喜劇性があるのである。新芸術は、特定のだれかとか特定の何かとを嘲笑する代わりに、芸術そのものを嘲笑するのである。
 
芸術は、こうした自嘲において以上に、その魔術的な資質を最高に発揮することはないのである。
というのは、芸術は自殺行為を行ないながらも芸術であり続けるのであり、自己否定は驚異的な弁証法によって、自己保存となり勝利となるからである。
 
芸術の使命は、現実には存在しない地平線を出現させることにある。その使命を達成するためには、われわれの現実を否定し、そうすることによって、われわれをその現実の上に引き上げなければならない。つまり、芸術家であるということは、われわれが芸術家でない限りそうであるようにきわめて真面目な人間を真面目にとりあげないことである。
 
 
芸術、この重要たらざるもの
 
今日の芸術は、雰囲気が厳粛さを失いはじめ、事物がいっさいの形式から自由になった軽々と跳びはじめるのに気がついたときはじめて、そこに芸術の成果を感じはじめるのである。
 
芸術が人間を救うことがあるとすれば、それは人間を生の厳粛さから開放し、思っても見なかった幼年時代に帰してくれるからに過ぎないのである。
 
歴史は、長大な生物的リズムによって動いているのである。
 
歴史はこの両極の間をリズミカルに往復しており、ある時代には男性的資質が、そして他の時代には女性的資質が支配的になり、またある時代には青年的特質が、そして他の時代には円熟味という老人的特質が称揚されてきたのである。
 
芸術は外見的にはその属性をなんら失ってはいないが、より遠く、より軽い、二次的なものとなってしまったのである。
 純粋芸術的をあこがれることは、一般に信じられているように傲慢な態度ではなく、その逆に非常に謙遜な態度なのである。人間的感傷を拭い去った芸術は、重要さというものを全く持たず、芸術たること以外を望まない芸術そのものと化すのである。
 
 
結語
 
現実の構成要素、現実のもつ相貌は無数なのである。
 
そして対象としている現実が生まれたばかりで、これから生の軌道を描き始めようとしている場合には、なおさらのこと、その偶然に出会う可能性は少なくなるのである。
 
芸術は、つねに伝統の枠内に存続しうるのだ、と叫ぶことはきわめて簡単である。しかしながら、この快適な言葉は、絵筆やペンを片手に、具体的なインスピレーションの到来を持っている芸術家には、何の役にもたたないのである。

 
 『芸術の非人間化』 オルテガ・イ・ガセット/著、川口正秋/訳より抜粋し、引用。