〈超えてゆく〉ではなく〈降りてゆく〉 | 小動物とエクリ

〈超えてゆく〉ではなく〈降りてゆく〉

 

 

 

第20節 理性と狂気

宇宙全体にあてはまることは、私たちの心的状態にもあてはまる。私たちの心的状態も無意識の、結局のところ不整合なエネルギーによって焚きつけられながら、このエネルギーを飼いならし、純粋な整合性へと向かわせるのである。

自分自身になるために、自分自身であるために、自分自身でありつづけるために精神は《自制し》なければならない。しかしつねにそうだったわけではない。本能に対する抑制が弱まり、それによって〈何か或るもの〉へ向かう方向が突如としてあらわれると、情報処理の組織化が行なわれ、そのとき初めて精神の労働に必要なエネルギーが呼び覚まされる。

束ねようとする力は不整合なエネルギーの散逸とただちに釣りあったわけではない。 このように無意味から意味へと移行するとき、そこでは〈ない〉の不定形のかたまりのなかへ意味が流入するという現象が生じる。この流入によって狂気のプラズマが生まれ、そこから理性が初めてあらわれてくる。 

古代の人々は何もいたずらに聖なる神的狂気について語ったわけではない。

たしかに自然のあらゆるものは思慮分別を欠いたままであるが、しかし〈わかれてゆくこと〉と〈ひとつになること〉との最後の闘いの時期に生まれたものどもは〈意識のある状態〉と〈意識のない状態〉の両方に属しているし、人間に直接に先立つ自然の所産に認められるのは、酩酊にも似た状態にあって人間へ向かって彷徨する姿だからである。

予感することのできる民族が太古の自然崇拝において、その酒神祭において讃えたのはーー本質を直視することによって自然が陥るーーこの熱狂的な〈野生のよろめき〉だったからである。

というのも、音楽をおいてほかにあの内なる狂気に似ているものなどないからである。

音楽はそれ自体が回転する車輪である。この車輪はただひとつ点から出発しながら、ありとあらゆる放蕩の果てに、くりかえし〈始まり〉へと駆け戻るのである。

ここで問題となっている根源的狂気は、〈自己自身を意味論的に組織する意識〉が発生するために必要な予言述的とでもいうべき前提だからである。このような前提であるからこそ、根源的狂気は〈ひたすら散逸するしかなく、まさにそれゆえにつねに危険に晒されたままである意識〉の構造にとって有効なエネルギー源でありつづける。

このような認識以前の狂気を構想するとき、みずからが古代の伝統のなかにいるということをシェリングはわきまえている。

つまり、この狂気という構成要素は、意識が苦労して手に入れる意味論的次元の全体に先まわりしつつ、〈この次元がつねに要求するだけで自分自身では生み出さない或るもの〉との接触を維持するのである。言いかえると、〈何か或るもの〉への定位が生まれるのである。私たちが私たちの意味論的状況を一義的に整理しようとするとき、私たちを統一へと方向づけるもの、それがこの《気の狂った》予言的な関連づけである。〔一義的に〕整理しようとするこの努力のせいで、ある意味でつねに私たちは意味論の圏内にとらえられているので、それよりもいっそう深いところにある、このような予言述的な関連づけが、私たちの視界にはいるのは稀である。「〈自己の内に定立されていること〉が人間を邪魔している。私たちの言葉〔ドイツ語〕が見事に言い表しているように、〈自己の外に定立されること〉が人間を助けてくれる」。

この〈狂気をおびた構成要素〉は認識に先立つ脱自性であるが、これは〈或るものが存在する〉とはどのようなことか、ということについての理解を完全に刷新するための基礎を与えるだけではない。シェリングがカントを乗り越えていく様子も、この要素はきわめてはっきりと示しているからである。

 

伝統的理論

(一)
このことによって与えられるのは述語Fではなく、述語Fによって情報がもたらされる探求戦略である。

(ニ)
存在を決定する探求戦略は、存在の認識論的意味をあらわしている。

(三)
存在の認識上の意味は、〈ある〉は実在的述語ではなく(カント)、二階の述語あるいは、もろもろの述語の性質である(フレーゲ)というテーゼに総括される。

シェリングの脱自的な存在概念

(一)

存在は認識論的に中立である。別言すれば、〈ある〉の意味は意味論的に組織された私たちの探求の次元を超えた地点にまで及んでいる。

この或るものを、私たちは言語的記述によって特徴づけることはできず、せいぜいよくて代名詞(〈何か或るもの〉)によって暗示しうるだけである。

(二)意味論的次元を超越している、このような〈ある〉の意味について、そもそも私たちに情報が与えられているならば、私たちが意味論的次元の周辺地域となんらかの仕方で接触している、ということが前提されている。原理的にいって、すでに私たちの感性によって、私たちはこのような接触を保持しているのである。

(三)それゆえ問いは、〈意味論的・感覚的に特徴づけられうるもの〉の周辺地域があるとして、そのような領域との接触をいかにして私たちは保つのか、ということになる。

私たちは意味論的・感覚的領域の内で同一性を構築するにもかかわらず、私たちの心的状態は根本的意味においてつねにすでにそのような意味論的・感覚的領域の外にある。率直にいうと、意味の深層においては、私たちは実際に私たちの外にあるが、それはそもそも私たちが私たちへと到来しうるためなのである。この〈自己の外にあること〉にはひとつの経験様式が含意されている。〈私たちの妥当要求が主観に依存していない〉ということに意味を与えようとするとき、つねに私たちはそのような経験様式を必要としているのである。同じことが私たちの存在理解についてもいえる。それによれば、〈或るものが存在する〉というのは〈存在をたしかめるまでもなく存在する〉というのと同義である。

要するに、究極の意味では〈ある〉はものでも、述語でも、世界でもない〈何か或るもの〉の性質なのである。〔それゆえ〕〈ある〉は総じて性質などではなく、あらゆるものが存在するための〈それだけで十分な条件〉である。

つねに考慮しなければならないのは、シェリングの要求しているのが、概念的に決定されうる〈ある〉の意味の説明ではなく、この種のあらゆる決定がすでに依拠している〈ある〉の意味の説明である、ということである。

「理性は絶対的な意味で脱自的である」。このような合理性以前の〈ある〉の意味、このような脱自的な存在《概念》は〈何か或るもの〉をあてにしている。〈何か或るもの〉の存在はあらゆる概念性に先行しており、それゆえ〈何か或るもの〉は概念的ではなく、概念なしに、ただ経験的にのみ認証されざるをえない。

「この〈たんなる存在するもの〉においてはまさにこの〈たんに存在する〉ということ以外のことは考えられていない」。

このようなシェリングの脱自的な存在概念によって批判〔哲学〕的制限をもつカントの理性概念が粉砕されてしまう。

たとえカントをはるかに超え出ているとしても、シェリングはいまだに正統的カント主義者なのである。

私たちがたんなる理念(魂、神、世界)から、それに対応する〈存在するもの〉へと推論するならば、理性は不正に使用される。

このようにして理念に対応する〈存在するもの〉へと推論が行なわれ、〔限界が〕踏み越えられると、幻想にもとづく仮象の認識だけが生み出される。批判的観点からみて、このように私たちの理性使用が制限されている、ということについては、シェリングも同じ意見である。それにもかかわらずシェリングは超越論的理想に対して存在を否認しようとしていない。

だとすると私たちに必要なのは、あらゆる概念にすでに先んじている経験だということになる。私たちはこのような経験をすでに意味論的次元の外で行なっているのだから、そもそも私たちにはこの次元を踏み越える〔超越する〕必要などない。私たちがこの意味論的次元に再び舞い戻ることができるような配慮しさえすれば、それでこと足りるのである。このような経験があるならば、問題は〈超えてゆくこと〉ではなく〈降りてゆくこと〉である。それゆえシェリングは言う。「積極哲学は(上から下へ向かう)〈降リテユク哲学〉である、と。
 〈何か或るもの〉は存在しているが、ただ存在しているだけである。言いかえると、それは述語によって(Fとして)規定されうる制限なしに存在している。

いずれにしてもこの経験は、私たちが私たちの外にあるという、つまり、私たちが私たちのもとではなく〈何か或るもの〉のもとにあるという、ただそのことによってのみ、私たちが行ない種類の経験でなければならない。この種の経験をシェリングは〈狂気〉、〈脱自〉としてとらえている。

私たちは最初に〈何か或るもの〉のもとにあり、そのあとで初めて私たちのもとにある、ということである。
 このように私たちは、根源的な〈外にあること〉からしだいに目覚め、ようやく私たちへと到来する。

「〇〇へと向かい、つかまえるとき、現有(ダーザイン)は最初それが閉じこもっていた内なる領域から初めて出てくるというわけでは決してない。そもそものあり方からして、現有はすでに《外に》ある。それは、そのつどすでに発見されている世界の内部で出会われる〈あるもの〉のもとにある」。

そこではーーあたかもシェリングの直観を相続するかのようにーー現有が脱自的地平から客観化を行ないつつ初めて〈ものども〉へと帰還するさまが分析されている。「事実的な現有は……〈現〉の統一において脱自的に自己と世界とを理解しつつ、この地平からその内部で出会わされる〈あるもの〉へと立ち戻る。理解しつつ、〇〇へと立ち戻ることは、〈あるもの〉を現前化しつつ、それと出会わせることの実存論的意味であり、だからこそこの〈あるもの〉は世界内部的と呼ばれるのである」。

この直観によれば、私たちはある意味でつねにすでに意味論的次元の外に、〈存在する何か或るもの〉のもとにいて、つねに私たちはこの〈何か或るもの〉からようやく〈限定された存在するもの〉へ帰ってくる、ということになる。私たちがつねにすでにそのもとにあるものは、〈述語的なもの〉、〈概念的なもの〉を何ひとつそなえていないし、概念から出発して初めて推論されるものでもない。このような〈存在する或るもののもとにすでにあること〉についてはカントの批判はあてはまらない。

むしろ、〈あらゆる概念に先行するもの〉の〈ある〉を超越的〈ある〉とよび、この超越的〈ある〉のもとにありながら、私が概念へと進むなら、そのとき私は超越的〈ある〉を踏み越えはしたが、それによって再び内在的になったのである。……カントは形而上学に超越することを禁じている。しかし彼はただ〈独断的にふるまう理性〉に対してのみ、言いかえると、〈理性自身から推論を介して存在へ達しようとする理性〉に対してのみ、それを禁じているのである。

〈何か或るもの〉について私たちに自由に使えるような理解はひとつもないということになるが、この理解がないと〈限定された何か或るもの〉についての理解も失われてしまうからである。〈存在する何か或るもの〉へのこのような関連づけは〈あらゆる限定された述語づけ〉のなかにまで染みわたっている。

このようにシェリングの思弁は〈述語づけと関連づけの理論〉から出発しつつ、それへと回帰するような形而上学的理論である。

〈宣言する真偽判定可能なロゴス〉がその背後にある〈脱自的な予感するプシュケー〉をさし示している、ということを理解したのは、プラトンのあとではただシェリングだけであり、その理解は前例のないほど徹底したものであった。

シェリングの思弁の徹底性には依然として〈精神の安定をゆるがすもの・狂わせるもの〉がある。〈危険のあるところ救いもまた育つ〉とヘルダーリンは形而上学的慰安のための標語を定式化した。シェリングの確信はこれとは正反対である。〈救いのあるところ危険もまた育つ〉。

 

 

第5章 後記

シェリングの形而上学がはなつ魅力は、彼の思想による発掘が次のような地層にまで及んでいるということに、その理由の一端がある。つまり、根という根がことごとく朽ち果てるので、そこにはもはやいかなる存在者〔本質〕も根を下ろしえない地層のことである。

むしろシェリングが提示しているのはーー偶然にではなくーー必然的に危険に晒されているひとつの合理性の理論である。

想起しなければならないものでありながら同時に回避しなければならない前提がそのようなもの〔力の源泉〕なのである。

つまり、源泉との距離を失う危険と源泉との接触を失う危険とである。この考え方にしたがえば、私たちが合理的と呼びうるのは、みずからの諸前提を意識しながら、決してこれらによって追いつかれない態度である。

たとえば、私たちは私たちが置かれている歴史を自覚しながら同時に歴史の強制力に巻き込まれないようにしなければならないが、ちょうどそのような具合にこれらはふたつともに必須なのである。この交差(二重性)はバランスを喪失する危険を積極的に自己の内に取り込む。この危険がそなえる積極性は、合理性には除去できないものが、つまり歴史性があるということの指標である。

シェリングの解釈にしたがえば、人類の合理性は宇宙の生成過程の〈こだま〉である。つまり、この宇宙の生成過程は、自己認識する宇宙という様式をとって、私たちの認識体制までも貫通して進むのである。

このような形而上学の企図の競合相手はーー科学でなくーー神話である。この意味においてシェリングの『諸世界時代』はいまだに〈新しい神話〉・〈理性の神話〉を求める『ドイツ観念論の最古の体系計画』の実現を指針としている。
 この企図がいまだ利用可能であると、今日の私たちに思われるとすれば、それを可能にしているのは、この形而上学の採用する〈述語づけの理論〉というアプローチであるのはまちがいない。事実このアプローチにしたがって私たちの再構成は行なわれたのである。

この形而上学は最小の認識と解釈されうる。それは合理性の危険地帯に定住する形而上学である。この形而上学は認識の零度の近くに、不確実性の経験の圏内に、いずれにせよ発見的言説の内に住まっている。ここにこそ合理性の実験室はある。というのも「対象にまだ秘密が、不明なものが残っているときにのみ、精神はあれこれの対象のあいだで活動する」からである。

この学は火の光を恐れなければならないわけではないが、しかしやはり私たちが何ひとつ真に受けないあいだ、すなわち思索に没頭しているあいだつねにいるところに住まう学なのである。

私たちは同定しつつ述語づけることによって世界を分節するが、しかしこの分節はつねにただ志向性のベクトルを現実化するにすぎないからである。

持続を求めるくだんの名詞的探求は、存在する〈何か或るもの〉という意味においてつねにあらかじめ代名詞に見出されているのだから、それは〈述語以前の探求モデル〉によって確立されているのである。要するに《無限ノ存在ニ関スル直知ニモトヅク知識》として。

〈何か或るもの〉への方向づけがはっきりとあらわれるにつれて意識はますます明晰になる。けれども原則として意識は名詞的にいえば放心状態にある。代名詞的な方向づけによって私たちはアプリオリにあらゆる限界の彼岸にいる。言いかえると、私たちは名詞的に超限(transfinit)なのである。私たちがそもそもこの境界・定義を〔私たちによる〕限界規定として認識しうるのも、すなわち制限する権限をもつのも、この代名詞的方向づけのおかげなのである。
 この意味において超限的探求モデルは、私たちの情報処理が開いたままであるという、まさにそのことを保証する。

この〈開け〉そのものが、さらに〔私たちの〕神経装置の性質なのだろうか。

情報処理の有限な操作は自己自身の超限的序曲にもとづいて可能となっているのである。だとすると〔たとえこのように想定してみたところで〕どうしても〈私たちの脳みそのものがひとつの窓を作ったのだ〉と言わざるをうない。

この窓からは未規定性という乳白色の微光が私たちのなかへ差し込んでくるのである。この微光は向日性を生み出す。つまり情報処理がひとつの方向をもつようになるのである。この向日性を象徴しているのが超限的探求モデルである。このモデルによって認識上の有限主義が初めて可能になる。

未規定性こそが真の謎である。未規定性ーーシェリングの言葉では根源的否定ーーは形而上学の真髄である。この否定において意味論的観念論は挫折する。したがって真なるものは全体である、ただひとつの例外をのぞくならば。


『述語づけと発生 シェリング『諸世界時代』の形而上学』ヴォルフラム・ホグレーベ /著、浅沼 光樹/訳、 加藤 紫苑/訳より抜粋し引用。