線の始まり | 小動物とエクリ

線の始まり

 

 

 

第4章 述語づけと発生ーー『諸世界時代』

「過去は知られ、現在は認識され、未来は予感される。知られたことは物語られ、認識されたことは叙述され、予感されたことは予言される」。

この命題は読者に知、認識、予感を約束する。すべてが合わさった説明・叙述・予言された「生ける現実の存在者〔本質〕の発展」になると言われている。したがって、これは伝記である。任意の存在者〔本質〕の伝記ではなく、「原初の生ける」存在者〔本質〕の伝記、それゆえ「最古の存在者」の伝記である。

その原理は自己認識する宇宙という表象(イメージ)を後ろ盾とするもので、始原に関する知の保存則てして定式化できる。宇宙を生み出したエネルギーは、宇宙が〈ソモソモノ始メカラ〉認識の経験をつむような具合に、宇宙を生み出したので、最初に知られるものは宇宙の経験のあらゆる産出活動に伝播するのである。

シェリングが言いあらわすように「ものごとの源泉から汲みとられ、それと等しいので、人間の魂は創造の共和(Mitwissenschaft)をそなえる」のである。

この〈始まり〉は第一のものへかかわるが、この第一のものはあらゆる発展に関して第一のものである。発展と発展の〈始まり〉とはら、つねになんらかの自然的なものである。しかしこの自然的なものは物理的宇宙よりもいっそう古い。したがってこの〈始まり〉は「そこから神的生命の発展も含めてあらゆるものが始まる」第一のものなのである。

つまりそれは形而上学(メタフィジーク)、より厳密にいえば、原自然学である。原自然学の素材はそこかは神、世界、人間が生まれいずる素材である。これらの生成の発酵過程が『諸世界時代』の対象である。

この基礎をシェリングがみずからひとつの〈述語づけの理論〉として導入している。この理論から私たちが手に入れるのは、代名詞的〈ある〉と述語的〈ある〉のあいだにある第一の対立である。この対立をここでシェリングは根源的否定と根源的肯定の対立としてとらえている。この対立を命題的〈ある〉によって調停しようとする試みは述語的回帰の説へと通じている。

命題的〈ある〉は代名詞的〈ある〉と述語的〈ある〉の対立へと再び転落し、自分自身を再建してはまたしても倒壊し、それをくりかえすのである。

この生成エネルギーは今日においてもなお生成のあらゆる所産の根底にある。そしてそれはあらゆる命題にとって戦慄すべきものてありつづけている。シェリングの理論によれば、この次元は合理的領域のための持続する非合理的前提、あらゆる秩序の深層にひそむ発酵するカオスである。

実質的にいえば、この問題を解決するとは、安定した同一性の関係の成立を説明するということにほかならない。このような同一性の成立とは時空の発生であり、要するに宇宙の発生、言いかえると真なる命題の発生である。

 

 

第14節『諸世界時代』の〈述語づけの理論〉的アプローチ

主語と述語はおのおのがそれ自体ですでに統一である。総じて紐帯と呼ばれているものは〈統一の統一〉をあらわすものにほかならない。さらに、単純な概念においてもすでに判断が前もって形成されているし、判断には推論が含まれている。それゆえ概念は折りたたまれた判断、推論は拡げられた判断にほかならない」。

こうして『諸世界時代』の全体構想のない的な構造原理を求めると、そこには伝統的論理学の一部である概念・判断・推論の理論が含まれている。

『諸世界時代』第一巻は内的に制御されているがゆえに制御しうるような思弁となるのだから。

 

 

第15節 根源的否定と根源的肯定

〈始メニ何カガアッタ〉。世界があったが、しかしそれ以前にすでに〈何か或るもの〉があった。しかしこの世界以前の無知の霧のなかで私たちが手にしているのは、私たちの指示対象である〈絶対に未規定なもの〉でしかない。

分類も特徴づけもできないので、この対象は〈それがそれであるところのもの〔本質〕であって、それ以上でもそれ以下でもない。しかしたんにそれだけだろうか。この対象が〈それがそれであるところのもの〉であるとしても、いったいそれは何なのか。このように問うやいなや、原初の未規定性、散漫な無差別はひき裂かれる。〈何か或るものとは何か〉と私たちが問うやいなや、〈何か或るものは何か或るものである〉というように、この問いはすでにふたつのものを確立している。したがって、世界がある以前に〈何か或るもの〉であった、その〈何か或るもの〉をすでに私たちは手にしている。言いかえると、〈絶対に未規定な、それゆえ散漫な統一しかない何か或るもの〉という根源的虚構は一転、二重性へと分解したのである。

このようにきわめて回りくどくとしか言いあらわしえないことも、述語づけの同一性に関するシェリングの理論を借りれば、もっと簡単にわがものにすることができる。

シェリングもただちにそれをそのように、つまり代名詞的〈ある〉と述語的〈ある〉との対立としてとらえている。そしてこの対立を解釈して、シェリングは〈代名詞的〈ある〉が意味するものは述語的〈ある〉が意味するものではない〉と述べている。すなわち、〈何か或るもの〉がさしあたり個別的なものとして、しかもそのようなものとしてのみもつ性質は、何か或るもの〉が述語を有する場合にもつ性質からは区別されうるというのである。

シェリングは代名詞的〈ある〉のことを根源的否定とも呼んでいる。これと向い合っているのが述語的〈ある〉である。

述語的〈ある〉のことをシェリングは根源的肯定と呼んでいる。もちろんふたつの契機はたがいにたがいを求めあう。つまり、どこまでもたがいに区別されうるにもかかわらず、ふたつの契機はついには判断を形成することによって最終的な結合を果たすのである。

つまり、私たちはこの最終的結合において生成した第一のものとしてでなければ、原初の〈何カ〉に近づきえないのである。

根源的否定と根源的肯定によって形作られる、この基礎的な二元性において私たちがたたちにとらえうるのは散漫な〈何カ〉でしかない。

代名詞的〈ある〉はこの〈何カ〉の《あること》、《自性》、《分離》である。述語的〈ある〉は《愛》、《自性の無》、《あらゆる本質の本質》であり、《それだけでは支えがなく》、《何によっても担われていない》のである。《自己性、我性の永遠なる力》として代名詞的〈ある〉はさしあたり述語的〈ある〉の《根底となる》のでなければならない。述語的〈ある〉は《湧きでる、拡散する、自己を与える本質》であり、総じて《本質》である。

おそらく人間は《肯定するものを自然に偏愛する》けれども、《否定するものは嫌悪する》だろう。すなわち「世界はあらゆるものが純然たる柔和や善意から成りたっているのはほとんどの人はなによりも自然なことと見なすだろう。しかし彼らはそれとは反対であることにただちに気づくのである」。

古代の神話は始原的なものと私たちの共和をはるかにありのままに描写することができた。そこでは、あの対立は光と闇の、男性的なものと女性的なものの対立として語られている。これに対して時はすぎ、《あの根源感情とはますます疎遠になった時代》になると、とりわけ〈述語的なものをいっさい受けつけない否定する力〉を除去することが目論まれる。そういう風にしてたびたびこの対立の還元と抹消が試みられた。こうして「不可解なものをことごとく悟性に、あるいは(ライプニッツのように)表象に解消する」ことが企てられたのである。それどころか「観念論は私たちの時代の一般的体系であり、そもそもこの体系はあの否定する根源力の否認や無視において成りたっている」のである。

彼は観念論を消極哲学としてとらえるだろう。
消極哲学は〈代名詞的〈ある〉の理論〉である積極哲学によって初めて修正され、補足され、完成される。

もっとも、シェリングの理論では、同一のものの根源的な二元性だけが問題になっているにもかかわらず、あたかも根源的な二元論が話題となっているかのような印象をここで与えないように、シェリングはただちにこう付言している。「しかしその際なおも同一なもの=xがふたつの原理(AとB)なのである。

すでに私たちには周知のように、ここで高次の統一と言われているのはくだんの命題形式の結合である。代名詞的〈ある〉と述語的〈ある〉とは命題的〈ある〉によってそのような結合に入るのである。もっとも私たちの論述はここではまだそこ〔命題的〈ある〉〕まで達していない。

要するに、その動機がありえないのだから無差別が根源的統一の外へと歩みでるのは理解できないが、対立によって失われた統一を回復することには十分な動機がありうるのである。
 動機がありえないのに生じるものは盲目的に生じる。しかしなぜなのだろうか。内的に無差別な〈何カ〉の散漫な統一は、あらゆるものを自己の内に含んでいる。

ここには矛盾としての矛盾はまだない。だからあらゆる矛盾があるが、矛盾する力を欠いている。要するに、根源的な〈何カ〉には主張しない〈ある〉しかないのである。

このあらゆるものにおいて自己を所有するものは、同時にあらゆるものにおいて自己を喪失するものである。〔つまり〕決断がなされること自体にはいかなる意味もありえないからこそ、突発的な決断に敏感に反応するような、一種の爆破性の混合物こそが、この〈何カ〉なのである。

このビッグバンは「必然性と不可能性とのひしめき合いのなかにありながら、盲目的に統一を打ち破る暴力によってしか生じえない」のである。

〈或るものが存在する〉という事態が意味しているのは〈述語がある〉ということではなく、〈述語があてはまる何か或るものがある〉ということである。

この事態が意味しているのは〈述語とものだけで十分である〉ということではなく、〈命題がなければならない〉ということである。

この事態が意味しているのはーーあとになって初めてわかるだろうがーー〈命題だけでも十分ではない〉ということである。というのも、たしかに命題は私たちに〈ある〉の意味を保証するが、しかしその意味は規順とはなるものの、定義ではないからである。すなわち、定義を述べるならば、存在とは宇宙の性質なのである。

このような〈ある〉ことへの要求という症候群において唯一の問題は始めることだけだ、ということである。

これらのポテンツをシェリングは〈ポテンツ〉と言いあらわしている。

あらゆる始まりはひとつの〈起点〉(terminus a quo)だからである。何はさておきここで本質的なのは、幾何学的意味における点は延長を欠くということである。

「線の始まりは、それ自身が延長を欠いているからではなく、あらゆる延長を否定しているがゆえに幾何学的点である」。

線の始まりがすでに線であるというのではない。

始まりにおいては、線はまだあるのではなく、ただ求められているにすぎない。始まりにおいて求められているものはまだあるのではない。

シェリングの言葉を借りていえば「運動の始点(〈起点〉)は何も行なわれていない空っぽの始点ではなく、運動の否定であり、現実に生じつつある運動は、この否定の克服なのである。否定されなかったら、運動は明示的に定立されることもありえなかった。だから否定はあらゆる運動に必然的に先行するもの(prius)である」。このように開始ポテンシャルは、開始収縮という固有の特性をもつ。

そうすると、存在の始まりは存在し始めるものの否定である。〈何か或るもの〉があろうとし始めるならば、それはこの〈何か或るもの〉が将来それがなるだろうものではないからである。「否定の内にのみ始まりはある」。「したがって否定はつねに無から或るものへの第一の移行である」。

直観な単純である。その直観によれば、開始ポテンシャルは〈何か或るもの〉を〈何かでありうるもの〉と対立させながら〈ある〉ようにするのである。このような性格描写において、代名詞的〈ある〉はたんにいっそう詳しく規定されることによって、始原的〈ある〉、純粋な即時的〈ある〉、永遠の否定などとしてあらわれる。このうち永遠の否定の意味を噛みくだいていえば、開始ポテンシャルからはただちに〈絶対単数〉が噴出される、ということになる。〈絶対単数〉とは、〈社会化するものが何も見出されず、どのような述語的なものによってもつかまえられない何か或るもの〉のことである。だから端的に個的なものはあらゆる言明に先立つものでもある。〈個体は把握サレエナイ〉。

「みずからが仕事にいそしんでいることを示し、〈ないもの〉ではないことを表明するには、否定するポテンツに頼らざるをえない。かりにもし否定がなかったら、無力な肯定があるだけだろう。非我なしには自我はなく、そのかぎりにおいて非我は自我に先立つ」のである。ここで自我、肯定、〈あるもの〉は述語的〈ある〉を、つまり言明することをあらわしている。言明するためには言明されるものがなければならない。それと同じく、それについて述語が肯定されたり否定されたりするものがなければ、述語の意味は支えを失うのである。なるほど個体との関係でみると、述語は自立しており、純粋に個体であるかぎりの個体からは説明できない。それにもかかわらず述語は述語だけでは《満ち足りておらず》、具体例として個体を必要としているのである。

述語による肯定がなければ、始まりは即死するだろう。

述語による肯定がなければ、始まりは或るものの始まりにまでこぎつけることができず、〈ある〉のたんなる稲光にとどまるだろう。こうして述語的〈ある〉は始まりの継続ポテンシャルである。そのようなものとして述語的〈ある〉は〈何か或るもの〉が或るものとして顕現しうるための条件である。

そのためにも述語的〈ある〉に代名詞的〈ある〉は服従しなければならない。つまり、たんに個的なものであるにすぎない代名詞的〈ある〉は述語によって《覆われ》なければならない。そのかぎりにおいて、たんなる個的なものである代名詞〈ある〉はそのようなものとしては否定せざるをえない。そのかぎりにおいて、たんなる個的なものである代名詞的〈ある〉はそのようなものとしては否定せざるをえない。

「なぜならばおのおのがただ反転のみを必要としているからである。つまり隠れたものは顕わに、顕わなものは隠されることによって一方が他方へと変ずること、いわば変身することが求められている」。

実際、始まりにとっては、〈何か或るもの〉があり、この〈何か或るもの〉が〈何か或るもの〉として継続する、ということだけでは十分でない。むしろ、〈何か或るもの〉が〈何か或るものである何か或るもの〉として保持されたままであること、ひとつの形態を見出すということも配慮されていなければならない。

しかしそのためには、まずは代名詞的〈ある〉と述語的〈ある〉がたがいを拘束しあいながら命題的〈ある〉を準備しなければならない。その上でこの相互拘束はFaということ、〈何が或るものがなんらかの性質をそなえる〉ということによって確立されるのである。

ところで、私たちの始まりとの関係でいえば、その終わりに私たちはいるのだ、と考えられるかもしれない。

このような状況へ私たちな秩序をもたらしたことになるかもしれない。しかしこの秩序にどれほどの安定性があるのだろう。忘れてはならないことがある。私たちの原力動論においてもともと問題にしていたのは、始原的なもののエネルギーポテンシャルでしかないということ、つまり現実に存在する何かではないということである。

とはいうものの、それは三つの可能性の秩序のひとつでしかない。というのも、依然として三つの可能性のおのおのは〈あわよくば自分だけが基礎的現実でありたい〉という要求を等しく抱えているからである。この要求を前にするとき、実現された秩序は無力となる。

「頂上に達すると、おのずから運動は振り出しにもどる。というのも〈あるものである〉という権利を三者のひとつひとつが平等にもっているからである。」

述語的構造のこのような崩壊は簡単には理解できない。

安定性の問題があいだにあって述語的構造の実現をさまたげている。別の言い方では、この構造が存立するかしないかは〈ある〉のきまぐれな運命にかかっている。それはちょうど天気の観察命題の真理値のようなものである。それゆえ私たちが構造として獲得したものを状況的なものから分離しようとしても、それはまだ不可能なのである。

 

 

第16節 述語的回転

私たちが到達したのは、現実的始まりというみずからの目標を実現しない可能的始まりである。

なんらかの点から始める用意が私たちにできてさえいれば、そのかぎりにおいて実際に現実的始まりが問題となっている。ところがなんらかの点から始めるとは、可能的始まりを作るということである。鉛筆の先端によって《選ばれた》、言いかえると、限定された点はそれ自体としては何も指示していない。つまり、それは〈何か或る点〉を象徴している。だからこれまで私たちが考察してきたのは〈始まりの例〉にすぎない。安定した〈始まりの変数〉を獲得するならば、そのとき初めて私たちは現実的始まりを手に入れたことになろう。

すなわち、そもそも〈始まりの例〉について語りうるなら、実際のところ〈始まりの変数〉へのかかわりがすでに含意されているのではないか、と。

私たちに足りないのは、これまでの分析をこのような視圏(パースペクティブ)へと向けてはっきり特徴づける、ということだけである。しかしそれは時期尚早である。事実私たちの手もとにはさしあたり〈始まりの例〉しかない。その上で〈生成の過程を考慮に入れようとする〉ということがいったい何を意味するのだろうか。そのことを私たちはいっそう厳密に問うてみなければならない。

したがって、もし私たちが世界過程を停止させてしまえば、それ以上何の動きもなく、生成も理解されないままになる。もし私たちが私たちの分析を発生的観点へと開かれたままにしたければ、私たちは世界過程を継続さそることによって〈何か或るもの〉の伝記を書き進めなければならない。しかし私たちはこれをどうやって行なうべきなのか。
 私たちは代名詞的〈ある〉から出発し、それと述語的〈ある〉との対立を見えやすいものにし、両者を命題的〈ある〉によって《和解》させた。これ以外のエネルギーポテンシャルを私たちは自由に用いることはできない。

私たちのエネルギー資源が尽きた以上、どうやってこの過程を継続させうるのか。ここで私たちにはほかの選択肢は残っていない。すなわち、継続は反覆として起こらざるをえないのである。たとえ以前にどのようなものだったとしても、〈何か或るもの〉は再び別の〈何か或るもの〉になるしかない。別のものになるもの〔今の〈何か或るもの〉〕はまたもや、それがすでにそうだったもの〔昔の〈何か或るもの〉のもうひとつの例でしかない。

つまり私たちが生成を考慮に入れることが、できるのは、これまで分析された過程の反覆という様式においてなのである。

このことが含意しているように、反覆モデルは〈狂わせるもの〉をそなえた避けられなさの象徴である。

生成の過程がその降り出しに戻るということが生成の反復構造である。この構造が象徴している通り、私たちがここでかかわっているのは〈現実の始まり〉ではなく、つねに〈たえず刷新される可能的始まり〉を記録しつづける〈始まりの例〉でしかない。「なるほどそれはポテンツの始まりである。そのかぎりにおいて可能性の面からみれば〈始まりでありうるかもしれない或るもの〉である。しかし現実の始まりではない」。根本的にみれば、この反復を通して、つまり「この円運動を通して始まりと終わりの概念は再び」廃棄される。シェリングによれば、この構成によって私たちは《第一の自然に関する完全な概念》を手に入れる。「あの盲目の〈第一の生命〉はいわば〈みずからの始まりも終わりも見出しえないものである。このような観点からは〈それは(真の)始まりも(真の)終わりもなしにある〉と言いうる。
 この空転する過程は宇宙エネルギーの脈動、宇宙の心臓の鼓動である。

というのも、いまや〈うつろいゆくもの〉は比較的安定しているからである。この安定性は同時に証言、つまり、あの空転するものになんらかの仕方で《ブレーキをかける》ことができて初めて空間・時間的な〈ある〉が可能になった、ということの証言でもある。したがって宇宙の〈根源的に空転するもの〉は宇宙の内密(Heimliches)である。しかしこの宇宙の内密は私たちにとって〈不気味なもの(Unheimliches)〉である。

宇宙の〈根源的に空転するもの〉は「たえず自己自身を生んでは食らい尽くす内的生命の力である。

〈あるもの〉のこの回転は、宇宙の根源的不整合〔支離滅裂〕の、《思考の深淵》の、言いあらわしえないものの、「永遠にみたされない〈ある〉への渇望」の象徴である。

そこでシェリングは、この宇宙の根源的不整合に気づいたときの驚愕をありありと描写している。「稲妻が光る。暴風雨は空と地を今にも混ぜ合わせそうだ。あらゆる元素がいましめを解かれて荒れ狂う。大地の屋台骨がふるえる。おそろしい反乱が人の社会に勃発する。古い信頼と友情が失われる。戦慄すべき事件がつぎつぎに起こる。あらゆる絆がほどける。このとき、人はあの状態が今もなおそこにあると感じる。まるで魂を戦慄させる丑三つ時でもあるかのように、あの状態は私たちに不気味なものとして迫ってくる」。

述語づけがそれに対するひとつの答えであるような基本的な問いとは《これは何か》という単純な問いである。

つまりその問いは〈これがそれであるところもの、それは何か〉となる。この問いへの次元はひとつの前提によって《制限されて》いる。〈たとえそれがどのようなものであろうと、それはまさにそれがあるところのものである〉というのが、その前提である。この制限の内部でのみ《これは何か》という問いには意味がある。

要するに、〈問いかける〉ことによって私たちは、真である答えがない世界を視野に入れることができるのである。

つまり偽である答えにとっては整合的であるが、真であるあらゆる答えにとっては不整合である。

〈決定的な意味において真であるような知はそもそもないのだ〉

認識に関していえば、実のところ私たちは無力なのではないか。そしてこの無力は、世界の構造が認識能力と相容れないことに、もっぱら由来しているのではないか。

そして私たちがこの要求を世界に対して不正に入手したのなら、それを私たちは私たち自身に対しても不正に入手したのではないか。私たちとは誰なのか。

ひょっとすると私たちはやはり〈私たちがそれであるところのもの〉ではないか、私は〈私がそれであるところのもの〉ではないのではないか。このような問いとともに世界は私たちの手からすべりおち、私たちは私たち自身の手からすべりおちる。

深い泉はそれを知っている
泉に身をこごめ、一人の男がその意味をとらえた
とらえてすぐまた、なくしてしまった

「始まりから終わりまで運動の連関を維持するには、強靭な魂が必要だからである」。

私たちは宇宙の最初の状態を回転する《〈現にある〉への衝迫》として、《交代する定位》として思い描かざるをえない、という意味である。これまでのところ私たちが示したのは、始まりは具体的にどのように考えられうるのか、ということだった。

述語づけの手つづきが堂々めぐりをしながらくりかえされ、確固たるものがいまだ得られないとすると、何かが生まれようとしながらも、それが何かはわからないままま、確固たる差異をことごとく飲みこんで空転する盲目的な生成だけがあとに残される。

一般にいえるのは、宇宙の回転するエネルギーの脈動が認識レベルで具体的にとらえられるのは、特に〈私たちが問い、疑い、熟考し、探求する〉場合、要するに〈同時に創造的局面でもある認識上の不確実性の局面に私たちが置かれている〉場合だ、ということである。なるほどこれは私たちが長時間は耐えれない局面である。謎を解く思想、探し求められた答え、文字通り《私たちを救う着想》によって、私たちは解放されることを望む。

これこそが〈万物における生成エネルギー〉としての〈述語的回転〉のもつ普遍的意義である。

述語的構造の確立にともない、ひとつの〈始まりの具体例〉が与えられた。この具体例のもとにとどまっていれば、変化のない完結し静止した世界が描きだされる。これに対して、まさにその変化を考慮に入れようとしていまや私たちが手にしているのは、持続的構造もなくひたすら生成し空転するだけの世界である。盲目的回転は「必要に」、荒れ狂う必然(Notwende)に「迫られて」あらんとし、「みずからのために自然を探し求めるが見出せない(quaerit se natura, non invenit)のである。はじめ私たちは述語的構造を手に入れ、それとともに答えを得たが、根拠のある問いはなかった。いまや私たちは苦渋にみちた問いかけだけがあって答えはない。それゆえ、私たちの喫緊の問題は〈いかにしてこの狂ったように回転する車輪に《ブレーキをかける》ことができるのか〉ということである。

〈いかにしてこのカオスを構造化しうるのか〉、あるいはシェリングの言葉を借りれば、「いかにして、あるいは何によってこの駆り立てから解きはなされ、生命は自由へと導かれるのか」ということである。


第17節 カオスから秩序へ

古代においてこのような世界は、流れることを止めない変化にあらゆるものが服さざるをえない〈ヘラクレイトスの宇宙〉として議論された。

私たちす代名詞的〈ある〉、述語的〈ある〉、命題的〈ある〉を不条理な交替から救いださなければならない。

始まりのポテンシャルは〈同時に他のものであることによってあらゆるものであろうとすること〉を断念しなければならない。まさにこのような意慾に駆り立てられているからこそ、始まりのポテンシャルそのものは〈ある〉ことができなかったのである。

「たがいに折り重なってあるように強いられるものの、それらはたがいに相容れないわけだから、何かが〈あるもの〉であるなら、それ以外のものはどうしても〈ないもの〉にならざるをえない。それゆえ、三者が等しく〈あるものである〉ことを断念するならば、ただその場合にのみこの必然性は止められる」のである。

しかしこのように〈ある〉を断念するというのはどのようなことだろうか。言うまでもなく同時にそれは、代名詞的〈ある〉、述語的〈ある〉、命題的〈ある〉以外の何かが〈あるもの〉である、ということを承認することである。

それはシェリングのいう「それ自身はポテンツをもたないもの」でなければならないだろう。それは三つの始まりのポテンシャルに場所をあけ、空間を与えるものでなければならないだろう。三つの始まりの〈例〉にとって、その場所となるものは、それ自身は〈例〉ではなく、三つの〈例〉がそれの〈例〉であるようなものである。あきらかに、このものは〈始まりの変数〉が意味するもの以外の何ものでもありえない。

それは三つの始まりに空間(スペース)を与えるもの、そのかぎりにおいて三つの始まりを可能にするものである。三つの始まりを可能にするものに私たちは同時に《自由》という言葉を結びつける。ここでいう《自由》とはたとえば〈私たちがなんらかの点から鉛筆で線を引き始めることができる〉ための前提にほかならない。

このような〈始まりの変数〉をシェリングにならって「超えてあるもの」て名づけることができる。

つまり、このような過程のなかで自然は同時に「〈発話するもの〉であること、〈あるもの〉であること」を放棄することによって「たんに発話されるものに」なる、と。

私たちの立場から言いかえると、このような要求を自然は〈命題の変数〉へゆだねるのである。

命題的なものを、あるいは意味を分節化するための条件として空間と時間が生まれる。それゆえ空間と時間は、回転する根源的狂気を押しのけるための形式でもある。「言いあらわしえないもの」が「言いあらわされるもの」になる。

〈言いあらわしえないもの〉にとって言葉は先在する〈変数の意味(Bedeutung)〉である。というのも、〈変数の意味〉は《超えてあるもの》だからである。そのようなものとして〈変数の意味〉は「つねに自己の内にあるのではなくーー時と場合によるがーー自分以外のものに対してある」。

〈変数〉は同時にまた〈非変数でないもの〉である。

つまり、変数の過去である《盲目の》素材、変数の在りし日の不整合、無意識からでなければ、それは受けとられないのである。なんであれ代入が行われることによって初めて変数は《見るように》なる。それはかつての自分の姿を《見る》。すなわち、具体化によって変数は自己を意識するのである。

「形のないものから形のあるもの」が生じ、述語づけの可能な宇宙、整合的でありうる宇宙が成立した。ここでの発生は不整合な諸前提にもとづく推論、自己発見、意識化の過程、《何か或るもの》から《誰かある人》への移行をモデルとしている。ここに見出される代名詞の際をシェリングは成果ととらえる。というのも〈何か或るものが自己を見出したとき初めて〈誰かある人〉は話すことができるからである。

「自己を言いあらわそうとするものは、はじめに自己自身に到達し[なければならない]」。しかしいかにして〈何か或るもの〉は自己自身に到達するのだろう。シェリングはそれを〈探求と発見〉をモデルとしてこのように記述している。「自己に到達すべきなら、それは自己を探し求めなければならない。このものの内には、それゆえ〈探求すると同時に探求される何か〉がなければならない」。

すなわち、私たちのなかにある〈何か或るもの〉は〈言いあらわされるもの〉であろうとしているので〈言いあらわすもの〉によって〈何か或るもの〉は言いあらわされるのである、と。このように〈語り手を探し求めること〉は、シェリングによると、〈言いあらわされるようになりたい〉という自然の憧憬である。それは、盲目的な述語的反復からのがれ、述語づけの可能な構造へ至りたい、つまり〈意味の構造〉を獲得したい、命題を形作ることができるようになりたい、狂気から逃げおおせ〈狂気の凪の状態〉になりたいという憧憬でもある。このような憧憬は命題の次元のたんなる魔術的作用として生まれる。生成の渦、原初的不整合、根源的無意味は、この意味の魔術にぶつかって打ちくだかれる。生成の渦はたんなる〈一なるもの〉であった。それがいまや魔術的に〈一切〉になる。

〈何か或るもの〉と〈誰かある人〉とのあいだに〈代名詞の差異〉が確立されることによって意識が生まれ、述語づけの可能な宇宙が生じる。構造をなしえない述語的反復からこのような宇宙はあらわれた。

「〈一なるもの〉が〈一切〉となったあの言葉によって、この力はいわば魔法をかけられて大人しくなっただけなのである」。

 

 

第18節 自己組織化と統一

シェリングが確立したのは第四の次元である。この第四の次元は〈可能性の余地〉の三つの次元によって行われる〈排除の競争〉を停止させるわけではない。しかしそれは、このような競争に構造と相容れうる〈フルマイ〉を与えるのである。

もっとも、この過去から独立しているのは第四段階〔そのもの〕ではなく、ただ〈野生状態の平定を可能にするもの〉だけである。すなわち、〔あたかも〕霧散霧消したかのように、野生状態は宥められてあらゆる構造を受けとるにもかかわらず、野生状態という過去はつねに脅威としてとどまり、あらゆる構造にその〈否(ナイン)〉として潜伏しているのである。
 シェリングのいう第四段階は、自己組織化の過程を説明する際に、H・ハーケンが臨場感たっぷりに《隷属化の原理》と呼んでいるものに似ている。それによると、複数の散漫な運動の進行にエネルギーが供給されると、それらはひとつの運動の構造を形作るが、この運動の構造が発生するのは、複数の競合する運動モデルをこのモデルのひとつそのものがみずからに《隷属させる》ことによってである。この〔みずからに〕《隷属させる》モデルをハーケンは《支配者(Ordner)》とも呼んでいる。〈支配者〉は競争相手のなかからただひとり選びだされた、いわばその当座の調教師のようなものである。

「〈見えざる手〉によって駆り立てられるかのように個々の部分は配列されるが、その一方で逆に、個々の経験はその協働によってこの〈見えざる手〉を初めて作り上げるのである。すべてを秩序に従わせるこの〈見えざる手〉を私たちは《支配者》と名づけたい」。この〈支配者〉は、このことがらに外部から介入するのではなく、この事象そのものが自己を組織する仕方の一部である。まさにそうであるがゆえに、この〈支配者〉は自己組織化のたんなる〈調整する原理〉なのである。ある程度の合法則性をそなえたこの自己組織化によってカオス状態は秩序ある状態へ《導かれる》。

「このような合法則性が非物質的領域にも見出されうる」と推測される。「この領域に属するのは、たとえば社会学においては、新しい種類の観念にとつぜん従うようにみえる複数の集団全体、流行、文化の精神的潮流、絵画技法の新しい方向、あるいは文学の新動向などにみられる姿勢である」。

「ジグソーパズルのように、予想もしなかつった新しい連関をもつイメージが私たちの目の前にあらわれる。私たちの脳のなかで意識の〈相転移〉の一種が生じ、これまでは無関係だった多くのものが一転して秩序だった有意味なものになり、苦痛にみちた熟考がふいに解放感あふれる確信に場所をゆずる。すでに長いあいだ、新しい認識が私たちのなかで微睡んでいたのだが、唐突にその認識が光明のように私たちを照らすのである」。このおなじみの現象にハーケンは次のように注釈をつけている。

「しかしこうしたことのすべてはまたしてもただ自己組織化としてのみ行なわれるーー私たちの思想も新しい洞察へ、新しい認識へと自己自身を組織するのである」。
 ところで、シェリングの行なっている第四段階の特徴づけは、このような〈支配者〉の果たしている役割と、その構造の面からみてたいへんよく似ている。代名詞的〈ある〉、述語的〈ある〉、命題的〈ある〉という三つの《ポテンツ》のあいだで対称性の破れが生じ、シェリングのいうように、その平衡が失われると、命題的モデルがある意味で優勢になり、代名詞的〈ある〉と述語的〈ある〉を《隷属させる》、言いかえるかと、これらを強制的に〈構造と相容れる状態〉の内へ置き入れるのである。

要するに、第四の契機とは統一にほかならないとすれば、あらゆる〈支配者〉はこの統一の具体化なのである。この〔それ自身は〕性質をもたない〈一なるもの〉へと関係づけられることによってのみ、述語的回転というカオスは自己自身を克服しうるようになる、言いかえるかと、自力で自己を組織しうるようにもなる。

そもそも〈支配者〉がひとつの役割を努めうるように自然の過程において配慮しているもののことを、シェリングは自然の《魂のような本質》と呼んでいる。

というのもそのような感受性こそが自然の自己組織化のための前提だからである。

この方向づけのことをシェリングは自然の憧憬と呼んでいる。

〈一なるもの〉がたんに〈ある〉ということが、可能的なものの回転する混乱状態へ魔術的作用を及ぼし、それに魔法をかけるのである。魔法をかけられて混乱状態はあたかも初めて呪縛されたかのように大人しくなる。こうしてそれは構造へともたらされるのである。

ここはあきらかに〈世界の始まり〉に対する魔法型の誘因しかない。

述語的回転という世界に先立つ野生の陶酔においては、なるほどそのあらゆる要素自身が無形の〈押し合いへし合い〉から逃れたいと望んでいる。しかしそれらはいわばひたすら反対者を打ちまかすことによって、自分だけが〈あるもの〉であろうと渇望して止まない。

シェリングは〈一なるもの〉から始める。この〈一なるもの〉は《永遠の自由であること》あるいは《何も欲しない意志》とも呼ばれている。このふたつの言いまわしを理解するには、それらをその反対概念である〈必然であること〉と〈或るものを欲する意志〉と対比してみなければならない。
 ◎何かが必然的にあるならば、このものは決定因子に依存している。しかしこうした依存は非自立性の指標である。同じことが〈或るものを意志する意志〉についても言える。つまり、意志とは〈満ちたりていない〉ことをあらわし、自分自身でない或るものを切望する或るもののことであり、欠乏の指標である。

〈何も欲しない意志〉にふさわしいのは〈何ひとつとして欠けていないもの〉である。実際にこのふたつの規定に交わるところで〈一なるもの〉をとらえるならば、〈一なるもの〉はひそかに〈生ける一〉になる。というのも、〈生ける一〉でないなら、いかにしてみずからの有無を選択しうるだろうか。

シェリングは、この自立的・自足的な〈一なるもの〉を〈自然なきもの〉とも呼ぶ。「存在者〔本質〕でもなければ〈あるもの〉でもないが、その反対でもないもの、永遠の自然が切望して止まない、あの〈自然なきもの〉」。

〈一なるもの〉は「性質をもたない」。

それは、〈一なるもの〉の疑いようもなく散漫な意味を、〈数の一〉の定義へと撤退することによって除去することはできない、ということである。G・フレーゲ以来、〈数の一〉は〈抽象による定義〉にまでさかのぼることによって定義されている。〈抽象〉によって私たちは、はじめに〈数の等しさ〉の概念を定義し、ついで総数(Anzahl)の概念を介して基数(Kardinalzahl)を導入するのである。
 私たちは、たとえ数えることができなくても、一義的な割りあて(全単射)によって〈数の等しさ〉を定義する。しかしこのような〈数の等しさ〉の直観的理解は、つねにすでにあの〈一なるもの〉の意味をとりくずして生きている。それゆえ、この〈一なるもの〉の意味は〈同一性によって固定されている数の大きさ〉によって、つねにただ記録されるにすぎないのである。

この〈同一性の関係〉のおかげで、私たちは《もの》を《自分自分に等しい或るもの》によって置きかえることができるのである。しかしここでは《或るもの》が統一的意味をもつこと、変数xが一義的であることも、すでに確立していなければならない。ところが、
変数が何なのかが言われていないと、〈或るもの〉はフレーゲのいう〈意味〉をもたず、《ひとつの対象を暗示するだけである》。このように対象を暗示するためにも、すでに〈一なるもの〉の意味がなければならない。この意味は関係記号〈=〉に関する私たちの理解によっても完全には取りのぞかれず、あきらかにそれよりも深部に位置している。

変数のおかげで私たちは普遍性を確保するものの、意味は犠牲になる。

「実際たしかにそれは無である。しかしそれが無であるのは〈純粋な自由〉が無であるのと同じ意味においてである。つまり何も意志しない、いかなることも切望しない、それにとってはあらゆるものが等しい、それゆえ何ものにも動じない、そのような〈意志〉が無であるのと同じ意味において、それは無なのである。このような意志は無であるとともに一切でもある。それは無である。なぜならば、それは自分が活動したいとも思わないし、なんであれ現実化されることを求めもしないからである。それは一切である。なぜならば、〈永遠の自由〉であるこの意志からのみ、あらゆる力は生まれるからであり、この意志はあらゆるものを自己にしたがえ、あらゆるものを支配しているが、いかなるものによっても支配されないからである。

ここでなしえたのは、〈私たちはこの困難を無視することによってそれを克服しようとしない〔無視を克服ととりちがえない〕という洞察を読者に公言する、ということでしかない。

 

 

第19節 シェリングの世界公式

〈同一性の公式〉は以下のように解釈されるべきである。すなわち、A=Bであるとき、同一のものであるのはA ² であり、そのようであるということがA ³であるが、このことにはつねに(B)が対立している、つまり〈この関係が、同一性の与えられ方が同一性そのものによって脅かされている〉ということが対立している、と。それゆえフレーゲ的に言いあらわすならば、〈同一性の関係〉があるのはただ意義(ジン)があるからである。ところが意義はつねに〈同一性の与えられ方〉でしかなく、同一性そのものではないので、同一性がなければ無である。

実行という面からみれば、肯定(A)は否定(B)と同一である。なぜならば、判断する際に私たちはつねに対立する思想のあいだで選ぶからである。

どのような判断においても〈実行の面からまた同一性〉と〈判定されるものの差異〉とは共属しているが、この共属性があらわしているのが命題(A ³)である。

言いかえると存在の面からみれば、立場のこのような表明はその指令を外から受けとっているのである。この指令によって立場の表明は〈一なるもの〉を経験する。ただし〈一なるもの〉は〈それに対して立場が表明されうるものが何であろうとかまわない〉ということの否定として経験されるのである。

*〈述語づけの理論〉にもとづくこのような解釈は同時に宇宙論的意味ももつ。というのも、どのようなエネルギーによって宇宙に形が与えられようと、そのエネルギーは結局のところ宇宙だけからでは説明のつかない〈カオスの非可逆遷移〉をとりくずして自己を維持しているからである。〈一なるもの〉という牽引者(アトラクター)によって初めて〈対称性の破れ〉と〈相転移〉が生じ、〈自分で自分を組織する宇宙〉が生まれる。こうしてシェリングは、ここでBによって象徴されている《否定する力》をありありと描いてみせる。それは「〈ある〉を飲みこもうとする炎である。それゆえ、この炎は〈それに魅惑されるもの〉と一心同体になる。……〈魅惑されるもの〉ないし〈飲みこまれるもの〉とは〈永遠の自然〉、〈一切〉である。

シェリングの直観はここでは以下のようなものであるように思われる。内的にみればどれほど強かろうと、宇宙の〈自己を組織する力〉は取りのぞくことのできない弱点をかかえている。〈依然として外部の何かに依存している〉という弱点である。この〈何か〉とは競争相手ではなく、自分に自分を《隷属させる》もの、言いかえると自己を収縮させる力であり、要するに〈一なるもの〉である。この自己収縮の吸引ーー〈一なるもの〉の吸引ーーによって初めて敵対する諸力は恍惚の状態を去って、自己自身を(〈支配者〉によって)組織化しうるようになる。同じことは認識論的解釈にもあてはまる。自分自身の内部でどれほど強力に私たちが認識能力を発展させたとしても、その力には取りのぞくことのできない弱点がある。依然として〈外的に〉、言いかえると〈始まりと終わりに関して〉〈一なるもの〉に依存している、という弱点である。私たちの認識能力が〈一なるもの〉を自力で作り上げるのではない。私たちの認識能力は、それが総合する際に〈一なるもの〉によって《魅惑される》にすぎない。私たちの認識能力は、この〈魅惑する力〉をつねに必要とし、ゆえにこのような総合を行なうことによって、それを証示するにすぎないのである。
 それゆえ、この世界公式によってシェリングが指摘している最低限の内容は、〈発生の次元〉が《開かれている》ままであるために、たえまないエネルギー供給が必要だ、ということである。このエネルギーを供給するのが根源的否定である。さらに別の言い方をすると、シェリングがことさらに強調して指摘しているのは、単数の〈一ナルモノ〉は〈始めにして終わり〉である、ということである。基礎的な述語づけにつねにすでに先立っているのだから、〈一ナルモノ〉は〈始め〉である。どのような述語づけに対しても自立したもの、《誰も完全には考えの及ばないもの》にとどまるのだから、〈一なるもの〉は〈終わり〉である。存在の面(オンティッシュ)からいえば、意味論的なものを集めた全体は〈単一のもの〉を自己の外にもっている。ただそれだけの理由によって相転移が生まれ、意味論的なものの集成もそもそも自己を組織しうるようになり、知と知の増大とがある。述語も命題も代名詞的〈ある〉を抹消できない。言いかえると、意味論的観念論は代名詞的〈ある〉において挫折するのである。〈何か或るもの〉は〈合理的なもの〉に突きささった〈合理性以前の棘〉である。

いずれにしてもこのような状況は、否定の肯定の〈過去〉である、とも言いあらわされる。

否定を排除することによって初めて肯定が可能になる。〈アラユル限定ハ過ギ去リシ否定デアル〉。

「決断によってなんらかの行為がほんとうの意味で始まるべきならば、そのような決断が意識されるようなことがあってはならない。それは呼び戻されてはならない。そうすることはすべて〈決断を撤回することである〉といっても過言ではない。決断をくりかえし白日の下に晒そうとしない人、そのような人は決して始めることはない」。

「〈始まり〉が自己自身を知るようなことがあってはならない。言いかえると、〈始まり〉は自己自身が〈始まり〉であることを知ってはならない。〈根拠〉ないし〈始まり〉があるというだけでは、つまり、始まってすぐには、この〈根拠〉あるいは〈始まり〉に対する何ものもない、あるいは何も認識されない」。言いかえると〈始まり〉は盲目である。ことがらの面からみると、〈始まり〉はつねに〈先なるもの〉てある。

存在するものはすべて、それが存在するかぎり、この「〈始まり〉であることを止めることのない」〈始まり〉の上に安らいでいるのである。
 〈始まりが始まりであることを止めない〉というのは〈或るものが存在する〉ということである。さらにいえば、これは〈時間がある〉ということである。

存在するあらゆるものにおいて〈始まり〉は《〔過去へと〕押しのけられた》ままにとどまる。時間というのは、〈押しのけられたもの〉として〈始まり〉が与えられているという、そうしたあり方のことである。自然の自己組織化においてあらわれては消えてゆくあらゆる構造にとって、盲目的意欲の根源的統一は〈押しのけられたもの〉でありつづけている。

「しかしこの統一はもはや対立を自己の外にもつのではなく、それと一体になってしまっており、もはや〈自由で静止した統一〉としてあらわれることができないので、この統一は自分のことをいわば死に瀕しているように感じている」、と。この〈自然のゴルゴダの丘〉をシェリングは「あらゆる生命の内奥をなす、それどころからなさざるをえず、つねに宥められていないとただちに勃発する辛酸の源泉」とも呼んでいる。この《辛酸の源泉》、《あらゆる生命の奥底にある不満》、《生命の毒》こそ、ほかのところでシェリングがーーアドルノの〈否定性の美学〉を先取りしながらーー〈芸術の対象〉と呼んでいるものである。「人間に対して自然がもつ魅力については多くのことが言われている。しかし人間に対して自然がもつ最も卓越した魅力は憂鬱である。自然の上には憂鬱があまねく降りそそいでいる。この憂鬱をいわば人間に向けられた無言の非難である。もし人々の関心を呼び覚まそうとするなら、芸術家や詩人は自然の憂鬱からその甘い毒を吸引することを学ばなければならない」。

(ヘーゲルにならって〈理念の感性的映現〉としての美について語られるとき、これに対するシェリングの応答が〈美は狂った理念の感性的映現である〉と定式化されるならば、なおさらそう言える)。いかなる形姿をとろうと、その内で〈押しのけの過程〉が堅持されつづけるのならば、そのことが意味しているのは〈宇宙の存在は永久に脅かされている〉ということ、〈いますぐにでも宇宙を爆縮しかねない〉ということ、この瞬間に「あらゆるものは瓦解し、ものは解体して再びカオスへ戻り」かねないということでしかない。宇宙が内部にかかえるこの脅威は同時にまた宇宙の発生の条件でもあるーーこのことを洞察したということが『諸世界時代』執筆時、シェリングの原動力となった経験であったし、この経験の魔力からシェリングはついぞ逃れられなかったように思われる。だからこそ〈あらゆるものの内に統一がある〉ということに一種の慰めを見出すと信じ、〔あらゆるものに〕調和をもたらそうとする企てーー観念論的どころか汎神論的とでも呼べるような企てーーシェリングは驚きを禁じえなかった。「しかしこのような企てがものの外面を突き破りその内面にまで至りうるなら、あらゆる生命と〈現にある〉こととの真の素材がまさに〈身の毛のよだつもの〉であることを見るだろう」。

このシェリングの震撼によって思想に地震が生じ、その地震計が『諸世界時代』の諸々の断片なのである。

この力わざによって論証的なものはことごとく背後に棄却され、この不整合の理解のためにある意味で〈喚起にもとづくサポート〉だけが与えられるである。比喩の狂乱のなかで哲学的言説がこっぱみじんとなる章句においてシェリングは、みずからが哲学〔史〕全体的を見わたしても比類を絶する言語能力の使い手であることを立証している。たとえばシェリングは発生の内なる症候群を記述している。発生の内なる症候群というのは、不整合(盲目の意志)のエネルギーと整合(純粋な統一)のエネルギーのあいだで生じる〈押し合いへし合いの撹乱〉のなかで、自然と精神からなるひとつの全体が自分を産もうとしているという、そうした事態のことである。

すなわち、不整合なエネルギーが整合的なエネルギーによって刺激されると、〈純粋な整合性を抹消するためにみずからが整合的になろうとする試み〉のなかで、盲目的意志の原初的な自閉症が打ち破られる、というようにである。このような整合性の試みが、ひとつの自己認識的宇宙のもろもろの所産であるが、これらの所産は私たちが認識しうる宇宙の自己組織化のモデルとなる。

はたらきつつあるポテンツはいきなり全幅の力をもってあらわれるわけではない。それは深いうたた寝から目ざめる前にも似た、かすかな魅惑のようにあらわれる。

しだいに強さを増すにつれて、〈ある〉の内ですでに力が呼びさまされて〈朦朧とした盲目のはたらき〉へ至ると、強大であるが形のない所産のかずかずが浮かびあがる。というのも、このはたらきには精神のおだやかな統一など無縁なのだから。あの親密の、ないし透視の状態にもはやあるはずもないのに、いまだに至福の、未来を予言する幻視のとりこになって、この矛盾のさなかにある存在者は、〈ある〉から、それゆえ〈過去〉から浮きでてくる夢に、いくつもの重くるしい夢にうなされるかのように身悶えしている。葛藤がはげしくなるとすぐに、あの夜の所産はたけり狂う幻覚となって、この存在者の内面を通りすぎてゆく。この夜の所産において初めて、この存在者は自己の本質のもつ〈身の毛のよだつもの〉をあますところなく感じとるのである。ここを支配している感覚は、そして〈ある〉をめぐって相争うあまたの〈向き〉にふさわしいのは不安の感覚である。

それにもかかわらず収縮力はおのれの生命を手ばなしてしまい、みずからがいわば〈すでに過ぎ去ったもの〉であることを知るので、この収縮力自身の上にあたかも稲妻のように、みずからの本質のいと高きすがたが、純粋な不動の精神があらわれる。ところで収縮する盲目の意志にくらべれば、この純粋なるものは正真正銘の統一である。この統一を住まいとしているものに自由、悟性、区別がある。

しかもこの意志に対峙しているのは、このものよりも優位にある不可解な精神なのである。したがって盲目の意志はこの精神があらわれると肝をつぶしてしまう。なぜならば、この精神が自己〔盲目の意志〕の真の本質であること、温和であるにもかかわらず厳粛である場合よりもはるかに強大であることを、盲目の意志は敏感に感じとっているからである。そういうわけでこの意志は、あの精神を見るやわれを忘れたようになり、わけもわからずそれにつかみかろうとし、まるでひょっとするとそれをつかまえておくことができるかのように、みずからが生み出すものどもにおいても、この精神を内側から模倣しようとするのである。しかし盲目の意志が生み出すものどもは、見しらぬ語性のようなものである。盲目の意志もそれを用いることはできるが、手なずけることはできない。それは意識の完全なる夜と思慮深い精神との中間にあるものでしかない。
 たとえば世界構造のなかにある分別や秩序をそなえた部分は、このような精神の照明から生まれたのである。このような部分があるからこそ、実際にも世界構造は内なる精神の外なる類型としてあらわれる。

この描写によれば、発生というのは不整合なエネルギーによる企てである。つまり、純粋な整合性を模倣することによってそれを抹消しようとする、そのような比類なき偉大な企てのことである。この試みは成功しないのだから、私たちが手にしているのは、不整合から整合へと至るまで道の途上にある宇宙でしかない。

不整合なエネルギーがなければ、そしてこのエネルギーが純粋な整合性へと方向づけられていなければ、この精神の自己組織化はたちまち崩壊するだろう。


『述語づけと発生 シェリング『諸世界時代』の形而上学』ヴォルフラム・ホグレーベ /著、浅沼 光樹/訳、 加藤 紫苑/訳より抜粋し引用。