あらざるもの | 直観知の対象 | 小動物とエクリ

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第1章 序

すでに始まってしまったのに違いないなら、皮肉な態度で始めるのは賢明さの証拠である。「過去という泉は深い。その底はほとんど計り知れぬと言ってよかろう」。

過ぎ去ったもののなかには、しかし何かほかのものがないだろうか。

「こういう一定の集団内部の人々の」追憶は、そのような程度の発端で満足して、「自分たちの過去に関するかぎりは、あえてそれ以上の探索を試みようとしはしないものらしい」。作家は自分の発端が相対的な意味合いのものにすぎないということについては承知しており、「むろんそんなことで過去の深さが本当に測りつくされたとは言えない」と教示をたれるかもしれない。

思想には始まりも終わりもない。物語にはいつも始まりと終わりがある。しかし思想はそうではない。それゆえ、私たちは物語のなかでは安楽なのだが、思想のなかでは苦痛を感じる。それにもかかわらず私たちな思索にふける。

私たちにとって思想の底知れなさは、作家にとって過去という深い泉が果たしているのと同じ役割を果たしている。

思想の底知れなさの一番近くにいるのは、おそらく次のような人々であろう。つまり、沈黙して語らない人々、決して追憶しない人々、何も予感しない人々である。

その哲学者の一人がシェリングであった。

シェリングが分析によって解体するのは、結局のところ観念論そのものであり、彼が分解生成物として手にするのは観念論とは似ては非なるものである。それは観念的なもの、概念的なもの、合理的なもののさまざまな前提なのであるが、このようなものをわがものとするには一種の内省的な感受性が必要とされるのである。

私の見解では、『諸世界時代』というシェリングの形而上学的企図は、その内的な方法論にしたがって見るならば、なによりもまず述語づけの解釈学とでも名づけうるようなものにほかならない。〈述語づけの解釈学〉は〈述語づけの図式を世界の図式として説明するもの〉とも言いかえられる。

すなわち、シェリングの形而上学は、方法論という観点から見るならば、述語づけの理論に裏づけられた自然学だ、ということである。

〈無意味である〉ということの源泉はまさに〈存在する〉ということにほかならないからである。つまり、私たちが最終的に〈ある〉ということで理解しているのは、あらゆる意味に先立つ何ものかなのである。

すなわち〈ある〉ら無意味である、という秘密があきらかになる。

というのも、この選択肢〔形而上学〕はつぎのような〈ある〉の意味の返還を求めているからである。つまり、言語によって証明しうる詭弁というかかわりの内側に私たちがとどまるかぎり、ただ自己矛盾としてしかシュミレーションできないような〈ある〉の意味である。だからこそ〈ある〉の意味が消滅するか、あるいは崩壊する瞬間に、初めて私たちは〈ある〉の意味を会得するのである。しかしそうだとすると、このような〈意味の批判という境界領域〉を、その上さらに言葉によってありありと思い浮かべられるようにするのは、原理的にいって不合理である。

それゆえ重要なのは形而上学を復興することではなく、形而上学の危険がどれほどのものてあるのかを査定するのを学ぶことなのである。というのも、形而上学の危険というのは、人類の合理性の危険なのだから。

 

 

第2章シェリングとダンテーーシェリングの思惟へのひとつの導入

第1節 ダンテ読書会

シェリングの最初の自然哲学的な諸著作ーー特に一七九八年に出版された『世界霊』ーーゲーテに与えた強烈な印象であった。さて実際シェリングはこの自然詩の実現につとめた。彼によると、この自然詩は同時に新時代の叙事詩になるはずであった。

すなわち、この自然詩は、ソクラテスによってプラトンが哲学へと導かれ、詩との決別を果たして以来、哲学に対して大規模に試みられた詩の誘惑そのものであった、と。この誘惑はゲーテの狡猾な企みによっていっそう拍車がかけられたのである。シェリングが詩の魅惑に最終的に打ち克つまでには長い時間がかかった。このような抵抗運動の総決算がある意味ではシェリングの後期哲学なのである。

 

 

第2節 新しい神話の理念

《神話的哲学》とは理性の原初的形態であるが、しかしこの形態は感性的なもので、想像力、記憶、口承伝統によって特徴づけられる。
《神話的哲学》は、それが《超越論的神話》となるとき、最初の完成に達する。

この著作は全体としていささか無頓着に、いまだ文字によって記録されていない知、言いかえると、文字によって殺されていない知がもっている原初的な生命力や感覚性を賛美している。

私が念頭に置いているのは、いわゆる『ドイツ観念論最古の体系計画』(一七九六年頃)が定式化しているような〈新しい神話〉への要求である。このテキストの作者が誰であるのかはいまだ未確定(ヘーゲルかシェリングか、あるいはそれ以外の第三の人物か)であるけれども、このテキストにおいて述られている構想が一七九三年のシェリングの初期論文『神話について』と一八〇〇年の『超越論的観念論の体系』をつなぐ一種の〈ミッシング・リンク〉の役割を果たしているのはまちがいない。

ふつう哲学のための計画というものは恣意的なものの混入を嫌がる。それゆえ、このような展開の各段階をたんに事実として認識するというだけでは不十分である。むしろこのような展開がもつエネルギーを可視化しうるのでなければならない。しかもこの可視化は、批判的な討議の俎上に載せることが可能なひとつの論証にもとづいて行わなければならないのである。私はこの論証を『最古の体系計画』の一節にもとづいて再構成する。しかもこの論証は〈新しい神話〉という計画を抱懐している美的観念論のための論証でもあるのである。絶対にこうでなければならないというわけではないけれども、この論証は一〇の段階をもつものとして再現できる。

(一)元来、あらゆる知は共有財産である。
(ニ)知が共有財産でありうる唯一の形式は美的〔感性的〕形式である。
(三)知の美的〔感性的〕形式は神話である。

さて論証の第二グループはカントの道徳哲学を形作る諸要素に照らして〈知の現状〉を反省するものであり、全体として〈啓蒙のテーゼ〉と名づけることができる。

(四)近代の知は理性についてのたんなる哲学的な知である
(五)理性についてね知は実践によって実現されなければならない。
(六)理性を実践によって実現するというのは自由を実現することである
(七)自由の実現のためには、今はたんに哲学的でしかない知が普遍的にならなければならない。

それらを総合してみると、それは〈美的観念論〉となる。


(八)近代の哲学的知は美的〔感性的〕形式をとらなければならない
(九)近代の知の美的〔感性的〕形式は〈新しい神話〉である
(一〇)〈新しい神話〉は理性の神話である

つまり〈新しい神話〉は通俗化されたカントの実践理性なのである。

実際、はっきりと述べられているように、何が理性的であるか、ということは決定ずみであり、理性がどのような形式をもつべきか、ということだけが問われているのである。

そもそもヘーゲルはシェリング(やヘルダーリン)と同様に前提(ニ)を支持していた。

今のところさしあたって記憶にとどめておいてほしいのは、知の神話的な起源はいまやはっきりと哲学にとって目標という機能も持つようになる。

 

 

第3節 自然についての壮大な詩

シェリングは、自分は〈新しい神話〉に詩という形式を与えて完成できる、と冗談半分に公言していた。

この知の全体はーーとシェリングは主張するのだがーー必然的に宇宙についての知でなければならなかったのである。

〈自我の認識活動はそれが行われる超越論的な活動領域ともどもひとつの事実、つまり非我〔自我ではないもの〕という性格をもつ事実である〉ということをシェリングは看破した。別様に表現するならば、カントやフィヒテの場合にそうであるように、〈私たちが世界を認識できるのは、私たちが世界を認識できるかぎりにおいてのみである〉ということは、なるほどその通りである。

シェリングによると、この事実は世界の性質である。世界の認識はいずれにせよ世界の出来事でもある。認識する存在者を生み出すのは自然である。〈自然の産出活動〉はさまざまな主観の認識の機構や認識の作用を貫いてはたらいており、私たち自身の認識は自己自身を認識する自然にとってその記録文書にすぎない。いずれにしても、私たちは認識という事実とともに突如として自然から噴出するわけにはいかないのである。

私たちによる〈世界の認識〉はある意味で〈世界の成立〉の反復である。私たちにとって世界があるのは、そもそも世界があるからである。ところで人類の認識作用はもとをただせば空想や想像のはたらきである。したがって認識作用の起源は詩である。
〈宇宙のビッグバン〉は〈認識のビッグバン[原初的詩]〉にとって〈存在=詩〉的な前提であり、それを〈認識のビッグバン[原初的詩]〉は〈意味の出来事〉てして再演しているだけなのである。

もし宇宙についてその実際の始まりが問題であるとすると、このような宇宙の始まりに関する脚本はーー経験的な宇宙物理学の背後に回ることによってーーただ思弁によってのみ把握しうるのである。

すなわち、そもそも世界を[世界として]あらしめる諸力[エネルギー]は、同時に世界を時間的なものにする諸力[エネルギー]でもあるわけである。これと同じことが、主観という水準に移されることによって、意識のあらゆる作用のなかでくりかえされる。すなわち、意識の作用も意識ならざる資源からそのエネルギーを得ているのであり、この意識ならざる資源によって精神の自己組織化のはたらきは維持されているのである。シェリングによると、まさにこのこと〔無意識なエネルギーによる意識的なはたらきの自己組織化〕が芸術において純粋な姿で見出される。

芸術は〈世界を生み出す〈存在=詩〉的なエネルギー〉の客観的な反復なのである。これに対して哲学はそれを意識のなかで再構成するために〔無意識的なものをそのものとして保持しえないために〕、つねに主観的な反復にとどまる。

『超越論的観念論の体系』のシェリングにとって「芸術は哲学の唯一にして永遠の道具(オルガノン)であり、同時に記録文書である」。ここから自然な帰結としてさらに導きだされるのは、〈哲学は、自己自身が客観的であろうとするだけで、詩を用いて自己を記録しなければならない〉ということである。
 したがって、シェリングが彼自身の自然哲学に自然詩という形式を与えることによって、それを客観化しようとしたのであれば、そのことは彼の美的観念論から導きだされるごく自然な帰結であった。

それゆえ宇宙の完全な像が描かれるとすれば、それは学問においてでなければならないのである。……もし学問が宇宙とのこのような同一性にまで至ったとするならば、学問の素材だけではなく、その形式も宇宙の形式と合致しないわけにはいかない。

 

 

第4節 ダンテに対するシェリングの関心

シェリングにとって最大の魅力であったのは、この詩がもつ美的な諸性質ではなかった。その呆れ返るしかないほどの普遍性だったのである。

ホメロスは芸術の始まりであったし、もちろん終わりでもあるだろう。しかし近代の知に最終的に与えられるのがホメロス的な姿形であるにしても、その模範となるべきはダンテの『神曲』なのである。

シェリングが求めたのはほかでもなく、「叙事詩の根本性質である普遍性を無視しない」ということ、言いかえると「時間のなかに分裂しているが、しかしやはり断固として現存しているすべてのものを同じひとつの統一へともたらすことを度外視しない」ということだったからである。

「つまり、近代の詩人は完全に自由な意志にもとづいて〈寓意的なもの〉と〈歴史的なもの〉をひとつに結合しなければならないのである」。ただこのような自由意志のみが、詩と作者が融合すること、作者がその詩とともに普遍的なものになること、個人とその世界が同一であることを保証するのである。

 

 

第5節 シェリングは〈新しい神話〉を詩の形式で表現することを断念する

「芸術と学問はそれ固有の軸のまわりを回ることしかできない」

したがってここでは哲学は私たちが待ち望みうる芸術のたんなる兆候としてしかあらわれず、それゆえ芸術もいまや文化としての最終の形態という役割のみを継承するのである。

シェリングが〈新しい神話〉という理念までをも放棄した、ということを意味しているわけではない。むしろ詩を基盤とした計画が断念され、いまやそれにかわって散文を基盤とする計画が出現する。これこそが『諸世界時代』という真に巨大な計画なのである。

しかしこのように散文という形態を与えて〈新しい神話〉を実現するという試みも挫折してしまう。

私たちな私たちの時代を見誤ってはならない。私たちは来たるべき時代の先触れである。だから時代の果実が熟す前にそれを積み摘みとらないようにしよう。

つまり〈新しい神話〉は、今はまだ到来していないものとして、したがって十分に熟していない果実の姿をとって、その到来と成熟を将来に託しつつ提示されているのである。

 

 

第6節 ダンテは『諸世界時代』にとって理想の意味をもつ

「ダンテの例の三分法は時代の全体が語り手であるような高次の預言詩のための一般的形式であると考えられる」、と。

『諸世界時代』ははっきりと〈ポップ哲学〉として構想されたのである。

「最初から」というのは目下の文脈では〈最初の存在者〔本質〕のさらに背後にまわって〉という意味である。したがってこの最終の存在者〔本質〕は時間に先立つ次元から、つまり永遠から自己自身へと到来する。しかしこの過程が開始しうるために必要なものは、あらゆる過程が開始しうるために必要なものと同じである。つまり、エネルギー差がなければならないのである。現時点ではまだ物理エネルギーを考慮に入れることはできないから、問題になりうるのは論理上のエネルギー差、つまり矛盾だけである。この矛盾をシェリングは永遠の肯定と否定〔のあいだの矛盾〕ととらえる。もっとも永遠の肯定と否定は今のところ自己主張する力をもたないのでおたがいに無関心な状態にある。

そうすると当然のことながら「〈肯定としての神〉と〈否定としての神〉が同一の時間にあることはできない」。かくして永遠の同一性は置き換えられてふたつの時間にわかれる。神の原初の矛盾が時間を生むのである。「それゆえ限界にまで高まった矛盾が永遠に破破し、ただひとつの永遠を〈一連の永遠(アイオーン)ないし時間〉と置き換えるのである。ところでまさにこのような〈一連の永遠〉こそが、通常私たちが時間と呼んでいるものである」。
 こうして〈神の過去〉は一種の敵対関係であり、この敵対関係が最終的に時間と〈ある〉とを生み出すのである。

この万物の基底である狂気を、シェリングは主に〈回転する車輪〉のイメージを用いて例示した。周知のように、この着想をシェリングはJ・ベーメから得ている。

というのも、ベーメと同様にシェリングもこのイメージを用いる際にまず念頭に置いていたのは「惑星の車輪」であったからである。しかも〈永遠の否定〉の猛り狂う車輪は〈永遠の肯定〉によって初めてブレーキがかけらられ、こうして〈ある〉と時間とが同時に生み出される。この〈永遠の肯定〉は〈神の愛〉、〈永遠の否定〉は〈神の怒り〉と解された上で、存在を生むために〈神の愛〉によって〈神の怒り〉が鎮められる、と言われている。「神の利己心が神の愛によってしだいに弱められ、優しく砕かれることによって生まれるものが自然にほかならない」。

世界創造のエネルギーはいったん分散して三つの時間という形態をとる。

「近代世界の〈継起〉が〈同時〉に変わる」とき、初めて〈新しい叙事詩〉が可能になるのである。『芸術哲学』

「直視そのものの内にはほんのわずかの知性もない」からである。言いかえると、論証が再構成されないかぎり、『諸世界時代』は現状のままにとどまるしかない。要するに、それは〈一個の堂々たる精神史の記録文書〉であるかもしれないが、たんにそれだけでしかないのである。

 

 

第7節『諸世界時代』の検証を再構成するという課題

第一の示唆は、今は単刀直入にいうと、シェリングの円熟した形而上学への通路はただ〈述語づけの理論〉を出発点とする場合にのみ見出されうる、ということである。

第二の示唆は、この〈述語づけの理論〉において再構成されうるのがカントの「超越論的理想」(『純粋理性批判』B版、五九九頁以下)の教説である、ということである。

「それゆえカントが明記しているように、事物の規定として理解可能なもの[=あらゆる同定ないし述語づけ」には、〈可能性の全体〉あるいは〈あらゆる述語の総体〉という理念が属している」。

カントの批判という構築物のなかに明確な一点を、つまりのちの発展の起点を指摘することができずにいる。このような起点に結びつけられることによって初めて、のちの発展はその必然的帰結であることがわかる。ところで私見によると、この出発点は〈理性の理想〉についてのカントの教説の内に見出される。

 

 

第3章『諸世界時代』の再構成への移行ーー述語づけの理論と形而上学

私たちの再構成の狙いは、『諸世界時代』とういう企てのいくつかの側面がーーその構想の基礎にある直観にもとづいて解されるならばーー議論する価値のある計画であることを読者に納得させる、ということにあるだろう。

 

 

第8節 形而上学と述語づけの成功条件

形而上学とは、単称判断(Fa)の構造を世界の構造と見なして、それを一文字ずつ判読することである。

私たちは形而上学を回避することによって形而上学から自由になろうとはしない。

単称判断が特権的地位をもつのは、〈このものはかくかくしかじかのものである〉(Fa)という型の判断がなくてはならない情報の入口、いわば〈感性と悟性との交差点〉だからである。単称判断のこのような特権的地位は、どのようにして私たちがさまざまな観察を言語によって《消化する》のか、ということを象徴的にあらわすものとなっている。それゆえまたこの判断の特権的地位は、世界と精神のあいだで行なわれる認識論的な同化についての基本的な証言ともなっている。いずれにしても単称判断がこのような特権的地位をもっていなければ、世界についての認識のようなものはないであろう。

それが真であるための条件を分析するにあたって必要なーー一般的理解を手に入れるわけである。

単称名辞(たとえば《そこにあるこのもの》、《右からふたつめのもの》など)によって私たちは知覚されうる対象を指示している。このような指示によって私たちは、この対象が〈かくかくしかじかのもの〉であるということを対話の相手にそれとなく知らせようとしている。

すなわち、単称名辞によって私たちは述語づけの対象を指示し、この対象に述語を帰属させることによって対象を分類するのである。

ところでこれらの名辞の使用条件と、これらの名辞の規則正しい使用の成功条件とは区別しなければならない。
 これらの成功条件には、話者に関する前提と世界に関する前提がある。

このような〈区別の能力〉は本質的にいってーーひとつの基本的ではあるけれども同様に言語以前のものであるーー〈想起の能力〉を必要としている。

世界の構造に関する《仮説》は私たちがそれ自体として《主張》したり《否定》したりするようなものではない。私たちが言語によって区別をうまくとらえたり、類似しているものを想起したりするならば、そのことを通して私たちはこの《仮説》を裏書きするのである。すなわち、区別や想起が成功するためにはその前提として、世界は一方である程度の一様性をもちながらも他方で区別ないし差異をもっている、というのでなければならない。区別や想起が行なわれる際にはいつもこれらの《仮説》がいわば暗黙の内に支持されている。しかしこのことが意味しているのはなによりも、区別と想起という現に存在する能力はいわば〈世界の使用許諾製品〉であるということであって、したがってこれらの能力は世界の構造そのものと協調していなければならない、ということなのである。このように私たちは、私たちの認識能力と世界との協調関係が世界の気紛れな運行のあいだ一貫して保証されている、と主張する。

私たちが言いたいのは、私たちの区別や想起が世界によって修正されうる、ということでしかない。どのようにして世界と認識とのあいだに認識上の同化が生じるのかを、これ以上詳しく説明する必要はまったくない。あるいは、比喩を用いていえば、ここでは反映のようなものが生じているということまで求める必要はないのである。私たちが想定しなければならないのはたんに、世界について私たちがもつ《像》がどのような性質のものであろうとも、少なくともその《像》は世界によって訂正が可能であるという性質をもっている、ということだけなのである。このような修正のための接触が確保されているならば、最低限の妥当[成功]条件が満たされていることになる。〈最低限〉という意味は、学習の過程を可能にする、あるいはそれを説明するために少なくとも十分である、という意味である。

それゆえ、単称名辞の規則正しい使用のために、すでに言語以前の〈区別の能力〉がなければならないし、同様に述語の規則正しい使用のためには、言語以前の〈類似を想起する能力〉がなければならない。これらは〈述語づけの過去〉に関する、あるいは「述語づけに先行する経験の構造」に関する断片的考察でしかない。

すなわち、述語づけの成功条件を求めると言語以前の能力にたどりつくが、そのような能力のほうは〈ソノ手口カラミテ〉世界の構造についての仮説を含意している、ということである。
 このようにして〈想起〉と〈区別〉というふたつの基礎能力に、さらに(世界の多様性と一様性という)仮説が付け加えられたわけである。

《世界の構造が多様性と一様性をもつのは事実である》という命題をーーすてに言語以前のものであるというので、〈サラニ大きな理由ニモトヅイテ〉言語的でもあるーーふたつの能力〔区別と想起〕が成功するための条件であると解釈しよう。

これらふたつの論証は、それぞれ別の仕方で問題を立て、その問題に別々に答えているにすぎないのだから、たがいに相容れないわけではないと解しうる。

私たちが立てた問題にあてはめるならば、どうしたら言語規則の機構にだけもとづいてFA判断を説明しうるのか調べればよい、ということになる。

要するに、ここで私たちの自由になるのは、漠然とした属性の領域だけなのである。

たとえば述語論理という道具は同一性のために、このような世界像を要求するとともに供給する。このような世界像をG・ハイゼンイェーガーはきわめてわかりやすく不連続存在論と呼んでいた。

不連続存在論の領土内では、数とは異なる事物、対象、客観、存在者の概念は不要である。

しかし前言語的水準においては、私たちは命題論理と述語論理という道具をまだはっきりとは《使いこなせ》なかった。だからここでは私たちは不連続存在論の長所も利用できない。言いかえると、ここでは私たちは同一性に関するガラスのように透明な規準を断念しなければならないのである。これにともない私たちはひとつの世界像を手に入れる。しかしこの世界像は印象と表現に富みながら、せいぜい質的に分節されているにすぎない。したがってこの世界像の根底にあるのは、本質的に曖昧模糊とした連続存在論である。

世界はそれ自体が、区別、類似、ある程度の同形性を示している。これらの性質は、たとえ私たちがそれをどのように表象しようと、いずれにせよ〔正確さを求めて〕修正されるために私たちの表象の努力と接触しているのである。

 

 

第9節 形而上学と述語づけの妥当条件

認識の次元が人間学的に中立されるということは禁じられている。それにもかかわらず、認識の次元が認識の安全という地平においてのみ論じられるならば、そのような中立化が生じるのである。

それゆえ、言語分析の哲学においてもっぱら不連続存在論への定位がなされたために、特定の問題を扱う場合に時に狭苦しさを感じることがあれば、その原因はいま述べたような人間学の欠落にあるように思われる。もちろんこの定位は方法論的には不可欠である。しかしだからこそ主題的には不可欠どころではない。かえってここでは〈人間ノ条件〉の特異性を矮小化するという対価が支払われざるをえないのである。

この側面は〈問いかける・蓋然的試走〉をつねに後ろ盾とし、それを機縁として生じる。したがって基礎的述語づけもつねになによりもまず答えと解しうる。しかもより詳しくいえば、(aによって)同定し(Fによって)分断するというFa判断の二重の機能のゆえに、《それは何か》という問いの答えか、あるいは(それは何を意味〔指示〕するか〉という問いの答えと解しうるのである。
《それは何か》という問いは与えられる対象の述語にかかわる。言いかえると《それにはどのような述語が帰属するのか》ということである。また《それは何を意味〔指示〕するか》という問いは与えられる述語の対象にかかわる。この対象において述語は例示されうる。それゆえ、このように問いの方向が逆向きであることによって、探求の過程は自由になる。

〔しかし〕たとえ発見されたものがたんに意味論的にしか特徴づけられえない場合でも、探求は対象性〔そのもの〕を生み出すのである。

認識を求める過程において得られる見込みのある対象性の一例は、古色蒼然とした存在者(Wesen)、すなわち本質(Essenz)である。まさにその不快感をもよおさせるる出自のゆえに、言語分析の界隈では本質はあまり評判がよくない。

「本質というアリストテレスの概念はまぎれもなく内包ないし意味(meaning)という現代的概念の先駆けである」

定義の提案が妥当でないと思われるときも、私たちな似たような態度をとる。ことがらの本質は、私たちが努めて妥当性を得ようとするとき、私たちの指針となるものである。ことがらの本質は、私たちが妥当な説明を求めているとき、手引きとなる直観知の対象である。しかしその一方で本質は、私たちが最終的に実際に実然的に供出するものではないし、正当と認められた定義ないし説明を用意するものでもない。実然的ないし命題的には本質はとらえられないのである。本質の定義はない。

それゆえ名詞的な形而上学もありえない。たしかに本質は私たちの名詞的努力の指揮をとる。しかし名詞的な収益の正味は本質の表象ではない。

したがって、命題によって本質は把握できないという、この点を指摘することも、ことがらの面からは重要である。なぜならば、妥当な述語づけを探し求める際にくだ
うる少なくともその程度にのみ、宇宙も自己自身を認識するのである。
 〈認識を獲得する宇宙〉の理論は、唯物論/観念論的という選言を横断するということを付言しなければならない。この理論は観念論的である。というのは、物質の過程も自然の認識過程と解されるからである。しかし同様にそれは唯物論的でもある。というのは、私たちの認識は、世界が自己認識する際の証書(ドキュメント)であり器官(オルガン)にすぎないからである。
 それにもかかわらず、この理論は命題的過程と物質的過程の対立を単純に消去しようとはしない。

この究極の経験を認識的一元論は除去しえないが、私たちを宇宙以前へ、世界以前の地帯へと駆り立てるのもこの経験なのである。
 このような世界外二元論をシェリングは断固として主張しているが、この二元論は世界内一元論を抹消しないとも主張している。

この普遍的な内的全体論(ホーリズム)は、それがもつ世界以前の前提によって、世界外二元論と両立可能であるように配慮されている。

 

 

第11節 述語づけの開始条件ーー超越論的理想に関するカントの理論

最後に〈述語づけの存在条件〉という側面の彼方にはーーもちろん何の前提もないわけではないがーー〈自己認識する宇宙〉という奇妙な観念がある。

カントは、彼自身の命名になる〈規定可能性の原則〉を導入する。より詳細にいえば、この原則は〈述語のさらなる既定の原理〉と解しうる。

カントによれば、これと区別されるべきなのが〈汎通的規定の原則〉である。この原則は述語にではなく、述語づけのあらゆる対象にかかわる。

私がaにとって真である述語Fだけを探し求めても、そのとき私はすでにこの〈普遍索引〉に関与している。言いかえると、あらゆる述語づけにおいてこの索引の存在は事実上承認されており、この索引は述語づけが開始される際につねに前提されているのである。

「〈存在するあらゆるものは汎通的に規定されている〉という命題は〈たがいに対立するあらゆる所与の述語だけでなく、あらゆる可能な述語に関して、つねにその一方がこのものに属する〉ということを意味している」。

「この命題がいわんとしているのは〈事物を完全に認識するには、あらゆる可能なものを認識し、このことを介して事物を、肯定的であろうと否定的であろうと、規定しなければならない〉ということである。したがって汎通的規定は、私たちが〈具体的ニ〉その総体を提示しえない概念であり、それゆえ理念にもとづいている。悟性にその完全な使用の規則を指定する理性にのみ、この理念はその座を占めている」。

手始めにカントは、述語づけの〈普遍索引〉の整理と純化とを提案する。カントによれば、整理の原理は〈あらゆる可能性の総体〉という理念である。

いったいいかなる述語が最終的に、〈可能的なものの最大の上昇度〉という私たちの整理のアプリオリな原理と両立しうるのであろうか、と。

〈普遍索引〉は縮小して唯一の概念になる。《あらゆる可能性の総体》は、それが内包的に解されるならば〈可能的なものの最大の上昇度〉である。

この対象をカントは純粋理性の理想と名づけ、これについて、それは「人間理性がもちうる唯一の本来的な理想[である]と述べている。

あらゆる述語づけにおいて超越論的理想は共に語りかけられはするが、しかし語り出されることはない。そろはあらゆる述語を包括すること対象であり、そのようなものとして「事物それ自体の概念」である。したがってそれは「あらゆる事物の原像(prototypon)であるが、他方で事物は総じて不完全か模像(ectypa)であり、そのようなものとしてみずからの可能性の素材をこの原像から受けとる。多かれ少なかれ原像に接近するにもかかわらず、事物は原像に達することはできず、両者のあいだにはつねに無限のへだたりがある」。

とはいうものの、ここで問題となっているのは〈述語づけの対象の前提〉として対象化された理念でしかないので、私たちは「このようにいちじるしい特権をもつ存在者の有無については完全に無知に」とどまるのである。

しかしそうであればあるほど〈超越論的理想をめぐる全考究は(計算における変数ではなく)志向的変数ないし志向的代名詞(《何か或るもの》)の機能を記述することに還元されうる〉と私がいえば、なおさら驚きであろう。この志向的代名詞があらわしているのは、私たちのあらゆる認識的努力の探求ベクトルが向かう先である。

実際ここで私たちは必ずしも外延的理解によってのみ導かれる必要はない。というのも、《何か或るものでありうるようなあらゆるもの》という表現には集合的側面だけではなく内包的側面もあるからである。

つまり〈事物でありうるあらゆるもの〉と、〈どのような仕方で事物がそのようなものでありうるか〉という〈あらゆる種類〉とをあらわしているのである。

意味論上の〈とりとめのなさ〉は《ここで念頭に置かれているもの》の形式的統一とは原理的に関係がない。

〈不定なものもなんらかの仕方で一なるものを未規定のものとしてあらわしている〉アリストテレス

これが事実でないとすると、私たちは不明な事物について決して語りえないだろう。それゆえ私たちが自然な変数によって関係するものは、私たちの〈一にして全〉である。それは包括的意味において〈あらゆるものの源泉〉である。それは、それ自体はいかなる輪郭ももたないが、あらゆるものを身に纏うことができる。

私たちが総じて関係するものは、〈何か或るものであるような何か或るもの〉である。

それゆえ、あらゆる存在するものは〈ありうるがないもの〉へと関係づけられている。それにもかかわらず、これが関係づけられているのは〈総じて(まだない)何かがありうる〉ということなのだから、この〈ありうるがないもの〉は〈すでにあった(存在していた)もの〉である。

この視圏(パースペクティブ)から見ると、カントの超越論的理想は最古の存在者〔本質〕という性格を獲得する。

 

 

第12節 シェリングと超越論的理想に関するカントの理論との関連

 はじめにシェリングによれば、理性の理想をなによりもまず個別的対象としてとらえたという点に、カントの功績はある。「このようなものとして理性の理想は同時にあらゆる可能的・現実的〈ある〉の素材にして質料であろう」。

シェリングは原典にあくまで忠実にカントの批判的洞察を堅持している。この洞察によれば、純粋理性にもとづくかぎり、私たちはこの対象の存在について何も決定できないのである。

一般に〈或るものが存在するかどうか〉を吟味するとき、私たちは〈或るものが実際に見出されうるかどうか〉を調べる。つまり、ある集合への帰属条件、ある述語の例示条件を満たすもののことである。

「たんなる《あらゆる可能性の総体》は相変わらず広すぎる概念なので、それによって何ごとかを始めて、なんらかの規定されたものに至ることはできない」のである。

ここでシェリングは可能性概念を空間・時間的存在者の〈余地〉へと制限している。

それによれば、空間・時間的存在者のいま名前をあげたあらゆる〔実現された〕可能性には、〈それらが根源的でないこと、前提となる可能性から汲みあげられたにすぎないこと〉がまちがいなくあてはまるのである。

シェリングは、この問題設定をもっぱら〈有機体の発生〉に関する問いとしてのみとらえるのではなく、問いの次元を下方へと《延伸し》て、〈全宇宙の発生〉を議論の俎上にのせている。

たとえば経験的宇宙論という手段に訴える場合、たとえこの問いの次元において一定の限界を超えられないだろうと私たちが想定しうるとしても、そう言えるのである。実際、歴史的に与えられる限界については、それが新しい調査結果と理論とによって《下方へと》ずらされえない、という事実は知られていない。

すなわち、このような方法論的手続きは現にある。〈述語づけの理論を《下方へ》拡張し、あらゆる述語づけの形式的宇宙論という観点からを仕上げる〉というのが、その手続きである。

シェリングの全思弁は、実際のところ述語づけの理論の方法論的な構築としてのみ説明されうるのである。

別言すれば、宇宙の発生は〈述語ヅケ相ノ下デハ〉ひとつの過程なのである。この過程によって構造が生じ、単称名辞あるいは述語が《つかめ》るようになる。すなわち〈性質をもち関係の内にある個体〉が生まれるのである。私たちが手にしているこの存在者の概念は、私たちの名辞の使用制限に関するものでしかないが、この規則は個体の概念と両立可能な宇宙を前提している。とはいえ、そのような宇宙は天から降ってきたのではない。〈存在ノ相ノ下デハ〉宇宙は可能性の実現である。

事実、基本的述語づけが私たちの認識能力の核であるなら、この思考実験は本質的に核分裂に、つまり述語的原子の分裂に、つまり述語的原子の分裂にもとづいている。

 

 

第13節 述語的素粒子の理論について

〈何か或るものが空間・時間的に存在する以前にすでにあったもの〉は、そのこと以外には私たちがそれについて何も知らないものであり、いかなる述語でもない。シェリングはこのxを「〈あるもの〉にとって第一の可能なもの」だというわけである。というのも、
たとえ述語によってどのようにより詳しく規定しようかと考えたところで、述語はすでに形式的に〈何か或るもの〉を、つまり述語が帰属しうる代名詞〈ある〉を前提しているからである。

シェリングの表現を借りれば、〈何か或るもの〉が《言明しうるという意味で》存在すると主張することはできない。というも、〈何か或るもの〉は実際のところ、述語がなくても把握されるからである。

つまり、〈何か或るもの〉は《原立的に》存在するのに対し、それが述語的に規定されるならば、《対象的に》存在する、と。最後に、〈何か或るもの〉はいわば《裸のままで》存在し、たんに《自己である》のに対し、述語的〈ある〉は、純粋にそれだけで見れば《自己の外にあるもの》である。

〈何か或るものは述語的に存在しない〉というのは〈それがそもそも存在しない〉という意味ではない、と。

「〈ある〉のたんなる剥奪は〈ありうること〉を排除しない」のである。

(何か或るもの〉はたんに〈それが述語的に規定された何かでありうる〉ように存在しているのである。

(ⅰ)私たちは原子文を分裂させる。
(ⅱ)私たちはふたつの素粒子、代名詞的な〈何か或るもの〉と述語的な〈何〉を特定する。
(ⅲ)私たちは両者の融合のための条件を確立する。この融合によって述語的構造φxが樹立される。最後に、
(ⅳ)私たちは〈この構造がある〉ということを証明しなければならなかった。ここで私たちは、〈実際に何か或るものがある〉という非命題的経験に頼らなけば、何ごとも達成できなかった。

《あらゆる特殊な可能性のたんなる素材》が存在するならば、「この素材がそれについて語られる」或るものがさらに存在しなければならない。

φxによってあらわされる可能性の〈余地〉は自分自身のための存在を獲得するのだが、実のところこの存在は可能性としてではなく、現実性としてこの〈余地〉にすでに〈先んじているもの〉〈現実的であるもの〉は、シェリングかなよれば「理念そのものが要求する」「或るものあるいは一なるもの」である。

このφx構造にはたんに外化するだけの何かが対応していなければならない。そのようなものこそがまさにφx構造化に先んじていたもの、この構造の〈ある〉の《原因》にほかならない。代名詞的〈ある〉のこの定立にまで立ち戻らなければ、述語的素粒子の理論ーー言いかえると述語づけの理論にもとづく宇宙論と形而上学の全体ーーは結局のところ宙ぶらりんのままである。

私たちが〈命題的〈ある〉において外化するもの〉と解する、このものについてシェリングが述べているように、彼はそれをここで初めて「たんに呈示し」ようとしたのである。「同様に記念すべき自然物も、それをまだ知らなかった人に対しては最初に呈示されなければならず、そのあとでようやくその人はそれを理解……しうる」のである。

ことがらの上からみて、これが盲目の比喩のたんなる戯れでなくてなんだろうか。たしかに〈君が述語づけの理論から出発して何を展開しようと、いつか君は外化を避けれなくなる〉とも言えよう。

シェリングは超越論的理想に関するカントの理論を詳述してきたが、あの外化をこのように呈示することによって、いまやその総括にとりかかる。

あらゆる始まりは欠乏にあり、あらゆるものが縫いつけられているこの最深のポテンツは〈あらざるもの〉であり、〈あらざるもの〉は〈ある〉の渇望である、と」。


『述語づけと発生 シェリング『諸世界時代』の形而上学』ヴォルフラム・ホグレーベ /著、浅沼 光樹/訳、 加藤 紫苑/訳より抜粋し引用。