「違う」からこその結束
第Ⅰ章 私にとって「他者」とは何か
1 他者と生きるとはどういうことか
私たち誰もが人間であるがゆえに共有しているものがあります。倫理とその帰結の種類について語るときには、この共通性が問題になります。それは人間であることの「形相」です。
ところが私たちはこの形相ーー私たち人間には共通性があることーーを、社会的文脈の中の行為などを通じて解釈します。すると、形相の解釈がさまざまに異なるのです。つまり、個人や個々の集団が体現している人間の形相はどれも、他の人間性の体現とはそれぞれ異なっているわけです。
私たちの人間性は他者性によって発揮されているのです。ですから、他者性こそ私たちが共有しているものなのです。
東京都民は一人ひとりがさまな形で東京人であることを体現しているのです。このように、他者性とは人間性の根源的な形相であって、アイデンティティとは別物です。
他者性とは差異の総称なのです。
有機体は細胞レベルから共生的だといいます。
バクテリアとウィルスはDNAの一部であり、それらがなければ人は生きていられません。
文字通りDNAレベルから共生しているのです。
つまり、他者性こそが私たちが共有するものです。他者性が私たちを唯一無二の存在にするとともに、同じ人間という仲間にしているのです。
従来の哲学における他者認識は、何が問題だったか
しかし、従来の伝統的なドイツ哲学では、通常、他者性はアイデンティティと同義に捉えられてきました。つまり、私はあなたの人間としての在り方と同一〔アイデンティカル〕であるという考え方です。
他者性とは「同一性の反復」のことでした。
私は個人であり、あなたも個人である。よって私たちには共通するものがある、というわけです。
他者性に対立するものとしてのアイデンティティという概念は実に問題のある発明で、人間であることの形相と具体的な実現を混同した考えだからです。
アイデンティティは人間の出発点ではない
人間に特定のアイデンティティがあると想定して、違う者同士の関係に入るわけではありません。本当は違う者同士の関係があるだけです。人間は互いに非常に異なる存在てすから。
人間全体に共通する形相はあります。しかし、その形相とは「違うこと」です。この考え方は伝統的な哲学がこれまで真に理解してこなかったものです。
他者と折り重なって生きる、ということ
つまり、自分が信じているすべてのことを、私は本当だと思っているわけです。私は自分が信じていることを信じ、他の誰もが自分が信じていることを信じている。つまり、自分では自分の考えを正せないのです。自分が信じていることは自分では変えられません。私一人ではできないのです。
もし人間が社会と交流せずたった一人で育つことができるとしたら、その人物は自己と自分を取り巻く環境を区別できないはずです。
したがって私たちが個人となり、自分を周囲の環境と異なるものと認識するためには、私たちを正してくれる誰かが必要なのです。
私たちが子どもに対して行う最初の行為の一つが正すことであるのはそういうわけです。
このように私たちは、たえず互いを訂正しています。さらに互いに訂正するだけでなく、例えば今あなたが私の話を聞いてうなずいているように、私たちは社会的なジェスチャーをやりとりして、他者がそこにいること、私たちが関心を持っていること、耳を傾けていることなどをも示しています。こういう方法で私たちはお互いにたえず、他者の行動を変えているのです。
これはつまり、たえず他者に訂正されなければ、私たちは心を持つことさえできないということです。他者から孤立すると頭がおかしくなるのはそのためです。
ですから私は人間が心のレベルですでに社会的であり、そのような社会を構築しているのだと考えています。まさにミツバチのように私たちは根源的に社会的な存在なのです。私たちが先ず個人として存在し、人間が好きだから人間関係に入るのではありません。人間の気質という最も根源的なレベルで、他者がいなけれざ私たちは存在することさえできないのです。
2 ソーシャルメディアとアイデンティティ
SNSは「アイデンティティ」を押し付けてくる
ソーシャルメディアがやることは基本的にステレオタイプの繰り返しです。
ソーシャルメディアがやっているのは人間であることの領域を縮めて、非常に小さな下位の部分集合にすることです。実はこれは彼らの市場化原理にすぎないのです。
ソーシャルメディアと承認欲求
世界で最も力のあるソーシャルメディアはグーグルです。
人を依存症にせずに機能を果たす新しいソーシャルメディア・ブラットフォームを作る必要があります。
我々はソーシャルメディアといかに付き合うべきか?
ソーシャルメディアはあなたを蝕むドラッグです。ソーシャルメディアを使っているとメンタルヘルスは保てません。使うほどおかしくなります。だから今こそ、新しいソーシャルメディアを創造するのです。
3 他者と分断
分断の克服において大切なこと
私たちは皆、一人残らず、ナショナリズムにたやすく飲み込まれてしまいます。
ナショナリズムとは自分は正しい場所に生まれて幸運だったという考え方です。
資本主義が生み出す「内なる他者」
市場、あるいは総じて資本主義というものは、人に関わることを消費者に見えない構造にしているからです。
資本主義がしているのは私たちの行動を構成して操作することです。
私はお金や富には反対しません。ただし、倫理的に良いことをしなければお金を稼いで富を生み出せないようであるべきです。
4 近代の発展と他者の在り方
非人間化とは「他者を動物として捉えること」
ソーシャルメディアも兵器の一部です。たしかにインターネットは軍事目的で作られたもので、この技術自体に数多くの軍事用途があります。もちろんアメリカの安全保障にも非常に役立っています。アメリカはハードウェアやソフトウェア、インターネット企業を国内に有しています。それがアメリカの軍事的な優位性になっています。軍とテクノロジー独占企業の間にはさまざまな協力関係があるからです。
単なる事実です。
ソーシャルメディアがビデオゲームやドローン攻撃と同様に私たちを非人間化するのは、真の人間ではないステレオタイプなアイデンティティを作り出すからです。真に人間的な自己決定は、ステレオタイプなアイデンティティではなくて、非常に複雑なアイデンティティによって決まる関数です。ソーシャルメディアが私を非人間化するのは、私が私自身について「ステレオタイプなアイデンティティとは異なるもの」として考える自由を奪うからです。ソーシャルメディアは私の他者性を攻撃し、現実には私と共通点のない他の人々に私を似せていくのです。
私は非人間化には二種類あると思っています。人間を動物として考える「動物化」と、人間を機械として考える「機械化」です。例えば脳をコンピュータと考えるのは、非人間化の一つの形です。
哲学には何千年も前から非人間化に抵抗する伝統があり、そこから人間性についての概念が作り上げられました。ですから哲学とは、人間から人間性を守る思想として読むこともできます。
「みずからの人間性を否定したいという願望以上に人間らしいものはない」
人間とは一生懸命、動物にならないようにしている動物なのです。私たちは人間という動物であるまいとしている。常に自分でないものになろうとしている。
哲学は私たちに鏡を見せ、これがお前だ、人間という動物だと言うのです。
哲学は人間という動物を人間自身から守っているのです。
「機械化」は人間に何をもたらすか
行動は必ず脳を経由して行われるので、私の行動は大きなシステムの中ですでにテクノロジーと一体化しているわけです。
私が見ているのはあなた方ではなく、コンピュータ処理されたあなた方のモデルです。これらのモデルが交流しているのです。
私がZoomでしていることの一部は、私たちをつないでいるインターフェイスが、そのための空間を与えてくれているから可能になっています。
画面が一部を切り取っている、それによって私の行動を構造化しているのです。これは私に言わせれば、すでに非人間化の一形態です。
なぜ他者との関係において「尊厳」が必要なのか
今の社会は尊厳が軽視される社会へとなりつつあります。
尊厳とはまさに、他者の内に人間性を認めることです。
「自分自身および他者の内にある人間性を尊重し、手段としてではなく、それ自体を目的として扱うこと、これが倫理である」
カントによれば、あなたは人格(person)を見なければならない。
ラテン語でペルソナとは演劇で使う仮面のことでした。
私たちは皆、仮面、社会的な仮面をつけています。仮面越しに人間性が語るのです。
倫理とは他者の仮面の向こうに人間性を認識できる能力にある、とカントは言っています。ですから私たちがなすべきは認識すること、他者の内に人間性を見るのを学ぶことです。それが尊厳です。
悪は人間の間に信じられないほどはびこっています。悪とは誰かを利用するために相手の尊厳を無視することです。他者の尊厳を軽視するときには、相手を利用する動機があるのです。
尊厳への攻撃が行われるときには必ず、利己的な利害が関わっています。インフラストラクチャーと道徳を一緒に変える必要があるのはそのためです。両方を変えなければなりません。
5 我々は他者とどう向き合うべきかーー実践論
日本的同調圧力をどう見るか
「承認を求める戦い」ヘーゲル『精神現象学』
日本はあまり平和ではありません。アメリカやドイツなど他国のやり方を知るのは大事だと思います。相手を許すべきかもしれない、あるいは別のやり方があるかもしれない、などと考える契機になりますから。
他者を、そして自分を「許す」ーー今、必要なこと
誠実な態度とは自分の勝手な願望を受け入れたうえで、許しでもって他者を承認することです。
自分と異なる視点にきづくたった一つの方法
私たちは自分たちの美徳や市場社会などを、叡智の実践とともに、人間の在り方のモデルてして客観的に優れていると示す必要があります。
「寛容な気持ち」を持つために必要なこと
他者について考えるときは、他者を自分とまったく同じように考えなければなりません。自分があの人だったかもしれない。すると相手との接し方がまったく変わってきます。本気で相手の身になるのです。外見の違いなどどうでもいいことです。
第Ⅱ章 我々はいかに「他者」」とわかりあうべきか
1 お互いがわかりあえる社会をどう作るか
話し合いは万能の解決策である
最近はソーシャルメディアの悪影響で、理性的に話し合うのが難しくなっています。しかし、私は現代社会において、話し合いは万能の解決策になりうると信じています。
私たちの社会で分極化が進んだのは偶然ではありません。相手を見て、においをかいで、触れていないからなのです。
哲学者は民主主義約務に服するべき
哲学者は洞窟の外にいたがる。それは人々と話したがらないのと同じです。だからこそ哲学者は政治に参加すべきなのです、哲学者が政治に関わりたがらないこそです。民主主義社会にとって理想の政治家は政治家になりたがらない人です。腐敗していませんから。
2 対話と民主主義、政治
フェイクニュース、教育、倫理学
人々に基本的事実を伝えなければならないと思います。ところがそうしないことが非常に多い。国民が無知なほうが政治家が得をするからです。これは本当に問題だと私は考えます。あらゆる大衆民主主義国において、国民に情報が与えられていないことは政治家にとって好都合です。
3 科学、テクノロジーの発展と他者性
テクノロジーは人間から何を奪うか
科学とテクノロジーは全人類への脅威です。人類にとって史上最大のリスクです。科学技術プロジェクトだけで人類の進歩がもたらされると考えるのは大変な間違いだと考えます。逆です。それによって私たちは地球を破壊しているのです。
自然主義、唯物主義、科学万能主義、こういう世界は最悪です
二百年ほどしか経っていません。工業化とともに始まったのです。
私たちはかつてない人類の危機の時代を生きているのです。
この時代を作っているのは何か。科学的な世界観です。
Ethics For Future
科学とテクノロジーを「倫理で動かす」社会をどう作るか
最初に迷信があり、次に迷信を体系化した形態てしての宗教ができ、その後、科学が宗教と迷信の上位にある体系になりました。今度は倫理をそこに位置づけなければなりません。
その一つの方法は、科学について真実を語ることです。
気候危機を引き起こしたのは科学なのですから、気候危機の解決には科学さえあればよいというのは間違いです。戦争を止めるためにもっと武器を持たなければと言うのと同じです。
八時間読書する方が八時間ネットフリックスを視聴するより持続可能性が高い行為です。
将来世代は私たちが今やっていることを非難するでしょう。
第三章 家族とは何か、愛とは何か
1 家族と他者、その関係性について
家族とは「親密さ」を基盤とした結びつきである
親族の集まりで揉める理由の一つは、家族は均質的だという私たちの思い込みです。
しかし実際には親子間、家族間でも他者との共存を学ぶ必要があるのです。
例えば子を持ち、親になるとは、子どもが自分のものではないことを徐々に受け入れていくことです。
しかしどんな愛情関係にも言えますが、大事なのは他者との融合などないと理解することです。愛は相手がいなければ生きていられない人同士の関係ではなく、相手がいなくても生きていける人同士の関係だと、シェリングも言っています。
親密さを基盤とした自由な結びつきであると。もちろん社会も自由な結びつきですが、その基盤は親密さではありません。
社会についての考え方、社会の概念は、非均質的な集団というものであるべきですね。
ここで大切なことは、ただ違うと認識すべきだということです。
社会になくてはならない機能は、違うからこそ自分たちは結束しているのだと考えることです。
ヘーゲルはこれに対して有名な処方箋を示しています。同一性と差異性のアイデンティティです。同一性〔アイデンティティ〕と差異性がアイデンティティを形成しているわけです。
日本という空間に同一性と差異性が結束しているのです。
ナショナリズムの対極ですね。
毒親とどう接するべきか
毒親は一種の不死を手に入れるために子どもに執着するのだと思います。子どもを通して自分が存在し続けたいのです。
死ぬことの倫理が必要だと思います。
人は死ぬ運命です。いずれ存在しなくなる。
人生は有限だと自覚することのメリット
未来とは先にある別の「今」のことです。
人生は常に現在の中にしかないのです。
「私なんて、生まれない方がよかった」は真実か?
反出生主義を誤りとするためには人種的平等が必要です。
2 自由、愛、死とは何か
自由と束縛のはざまで
他者との関係は、ある意味での束縛とも言えます。
自由とは正しい束縛を選ぶ自由だということです。
正しい束縛をしてくれるから私たちは彼らは愛するのです。
無目的、非効率にこそ意味がある
何かをすべきでないタイミングがわかっていることは、たいていの人に欠けている大事なスキルです。
第Ⅳ章 自己の感情とどう向き合うか
1 他者が生み出す「幸せ」の形
「今、ここ」にある幸せの感じ方
生きるとは他者に訂正されることてす。あなたの頭の中にはあなたが関わりを持っているあらゆる他者の声が常にあるのです。あなたの頭の中のあらゆる声、せめぎ合うさまざまな事柄は、あなたが人生に受け入れてきた他者です。彼らは常にそこにいるのです。
「今、ここ」にいる幸せのため、幸せでいるためには他者と安定した関係でいなければなりません。なぜならそうでないと、私を不安にするもの、幸せを享受しづらくするものがまさしく他者にほかならないからです。他者からの期待、他者への期待に気をとられていると、「今、ここ」にいるのが難しくなってしまいます。
「今、ここ」にある幸せを享受できる他者との安定的な関係とは、たえまない交渉です。他者との関係の性質について常に考えていなければなりません。安定的な関係とはそれについて心を砕く関係のことです。
人生と同じように、常に次の段階に持っていかなければならないのです。
私という有機体は非常に複雑な形でたえず再生しているから生きていられます。安定的な関係も同様です。安定的な関係は、逆説のようですが、常に流動的でよく変化します。現実には、安定性は変化によってしか実現できないのです。本当に安定的に存在しているのは変化だけです。変化だけが私たちの生きている現実です。
安定とは変化そのものなのです。
変化を恐れるせいで私たちの生活様式は持続不可能なものになっています。私たちが地球を破壊しているのはこれが理由です。私たちは変化を恐れているせいで地球を破壊しています。
テクノロジーの発展は幸せを生み出しているのか
テクノロジーは本来、道具であるべきだと思いますが、手段ではなくそれ自体が目的になってしまいました。
社会的孤立と身体性、パンデミック
社交をまったく禁止するのではなく、管理された形で社交を配分するのです。
孤立と幸せは両立するのか?
誰でも自分で自分を幸せにしなければなりません。しかし他者に幸せの条件を提供することはできます。この二つは別物です。他者を幸せにすることは誰にもできません。これは非常なは重要なことだと思っています。
人は一人では幸せになれません。
2 負の感情から抜け出す処方箋
他者に対する怒りは、自分に対するもの
自分を特定の他者と常に比較していると自覚する必要があります。そしてあなたが自分と比較している他者は空想の産物なのです。
他者に対する私たちの怒りや憤りなどは、実は歪んだ自己との関係であることを私たちは理解する必要があります。他者に対する感情ではなく、必ず自分に対するものなのです。怒り、羨望、嫉妬、憤りは誰しも感じるものですが、そのようなときは自分を省みるべきてす。それは自分に対する感情ですから。自身への警告なのです。
怒り、悲しみとどう付き合うか
同僚とはそもそも怒りの対象なのです。
マネジメントとは常にアンガーマネジメントです。
存在し続けるとは自分の小さな数々の死とともにどう生きるかを学ぶことなのです。
第Ⅴ章 宗教や倫理と他者の関係
1 宗教は「救いと対立」のいずれをもたらすか
宗教と道徳、倫理学の関係性
宗教との一つの付き合い方は、宗教がフェティシズムを克服する手助けをすることだと思います。
私たちが身を置いている状況、すなわち現実は無限なのです。宇宙は有限かもしれません。物理的な宇宙は。しかし現実は無限です。なぜなら客体は物理的な客体よりもたくさんあるからです。数、政府、夢や希望、虚構の対象や愛が存在する。それらは物理的な客体ではありません。
私たちは無限なものへの敬意をもって生きるべきで、物事が見た目通りに単純なのだという幻想を信じ込んではいけません。私たちが見ているのは本当は現実のごくごく小さな断片にすぎないのです。それが現実とともに生きるという私の感覚です。
そしてこれがいうなればフェティシズムではない宗教的態度です。
仏教も宗教ですが、仏教は無限なものへの尊敬と両立すると思います。
道徳に宗教は必要ありません。倫理的な真実は宗教を根拠としていないからです。
道徳は完全に世俗のもの、完全に人間のものです。宗教的な道徳は存在しません。
それは必ず小さな集団内に限定された道徳なのです。
道徳はあらゆる人間に関するものです。
道徳は宗教よりもはるかに普遍的で高次にあるものです。数学と同じです。数学はイスラム教を根拠としていません。代数やアルゴリズムはイスラムの発明でも、数学はイスラム教のものではありません。
私が「現在主義」に注目する理由
禅宗に代表される現実主義(presentism)
実際に存在する唯一の時間の部分は「今」であるという見方ーーは時間に対する優れた見方だと思います。
客観的にはあらゆる時間が同等に存在しています。
私は過去も存在していると考えています。
すべては永久にそこにある。
しかし現在を、展開する時間として私たちは経験します。私たちは時間の中を移動していくと考えています。それは幻想ではありません。
プラトンは時間とは永遠を映す動く似像であると言っています。
多くのアジアの国で重要な役割を果たしている一種の現在主義と同様に、世代間正義に大きく寄与しうると考えているのが、「欲望のレベルを下げる」という禅宗の考えです。
倫理学を次世代に伝えていために必要なこと
新実存主義では人間であることの形相は普遍的であるとしています。そして人間であることの形相が私たちの行為に結果をもたらします。倫理とはそれについての学問です。
道徳が「普遍的価値」を生む契機となる
道徳とは「善」「悪」「中立」の三つの概念から成り立ちます。
両極端な力として善と悪があり、その中間があります。ニュートン力学の引力と斥力のようなものです。倫理的現実は実際に存在するのです。
道徳には善悪の概念が必要で、それがないと私たちを自分が何をしているのかを理解できないのです。
普遍的な道徳的価値観を特定することが持続可能な経済の基盤です。
経済的な成功を定量的にだけではなく定性的に測る方法が見つかれば、つまりたくさんものが買えるとかGDP(国内総生産)やGDPに類するものではない、目先の意味ではなく高度な意味での幸せ、本当の幸福の指標につながる測定法が見つかれば、私たちは豊かになれます。ですから私は倫理的な善の発見は文字通り事業だと言っているのです。
二〇三〇年にはフェイスブックは存在していないでしょう。あれは倫理に反する企業だからです。
普遍的価値は存在するーーその哲学的証明
普遍的価値とは何かについて、私たちは間違ったり、意見が食い違ったりすることはあります。だから対話になるのです。
普遍的価値をめぐる意見の衝突はあります。しかしその衝突が起こるためには普遍的価値がなければならなない。
ですから対話とは、思い出してください、ザッヘ〔事柄〕をめぐるものなのです。
通常は三つの立場があります。普遍主義、相対主義、虚無主義です。
しかし普遍的価値の具体的な内容を探っていくには対話が必要になります。なぜなら私は無自覚に偏狭な立場に立っているかもしれないからです。
AかBか、あるいは第三者が正しいことを認めるのです。それが対話の形てす。
2 利他主義、格率ーーなぜこれらは間違いなのか
なぜ利他主義は道徳と言えないのか
利他主義が重要だと考えるとして、それは私がある他者に対して義務を負っていることを意味します。しかしその人物もまた私に対して義務を負っている。私もまた道徳的考慮の対象なのです。
ですから道徳と利他主義を同一視するのは間違いだと私は考えています。利己主義は不道徳ではありません。私は私自身に義務を負っているからです。
それが将来の私自身、過去の私自身に私が負っている義務なのです。このように私が自分自身と完全に道徳的な関係にあるわけで、他の誰しもそうです。
パンデミック下の間違いの一つはまさしく道徳と利他主義の混同だと思っています。さかんに語られた連帯についての話はまったくのひどい誤りだと考えています。なぜなら他者のためにワクチン接種を受ける義務があるとは私は思わないからです。自分のためにワクチンを接種するのです。
いずれも自分自身への義務であり、他者に対する義務だからです。
他者との関係は、常に私自身との関係でもあるのです。
医師は、効果のあるワクチンだから接種を受けるように、と言うべきなのです。
基本的に、私がすることはすべて私にも影響します。ですから私自身のための倫理もなくてはなりません。ある程度の利己主義は絶対に不可欠です。
常に利他主義的な人々はそのために苦しみますし、どこかの時点で他の人々にも迷惑がかかります。なぜな、例えばノーと言えることは必要だからです。でないと、できる以上のことを抱えすぎて、いずれ破綻します。
カントの犯した過ちとは何だったのか
カントがわかっていなかったのは、定言命法が状況に左右されることです。
つまり絶対にすることではないのです。カントはこれを理解していませんでした。
世の中にはさまざまな義務があります、編集者がいて、私たちを束縛する法律、協力合意、友好がある。この会話の中で多数の道徳的な事柄が進行しています。読者も含めてね。
カントは私たち全員がやらなければならないことがあると考えましたが、それは間違いでした。
定言命法にはカントが「聖なる意志」と呼ぶ理想があるからです。
道徳とは聖人になることではありません。カントは信仰心が篤かったため、カントの道徳も世俗的なものではありません。あれは宗教的な道徳なのです。
3 人間が人間たりえる条件とはーー他者論の文脈から
集団であることの意味
人間は自分たちが脆弱であることを自覚し、集団を形成することによって繁栄したと言えるのではないでしょうか。
しかしアリストテレスがその『ニコマコス倫理学』ですでに的確に指摘しているように、一緒に狩りをすることと友人を持つことには違いがある。その違いとは、自分に害となる社会的状況に身を置く可能性もあることです。つまり、人間の社会性を支配する利害は個人の利害を超克するのです。私たちは自分の利害、生物学的な利益に反することさえする。そういう社会性が人間の心にはあるのです。
なぜ人間は戦争をするのでしょうか。動物は戦争をしないのに。人間はきわめて社会性の高い動物であるにもかかわらず、人間社会には戦争があります。それは、私たちは他者も人間であることを理解していなかいからです。だから戦争はまさしく過ちなのです。
戦争では必ず相手を非人間化します。
戦争に先立って行われるプロパガンダキャンペーンでは、何がしかの非人間化がなされます。
もし非人間化をやめれば、戦争はできなくなるはずです。人間にとって戦争は不可能になるでしょう。ヒューマニズムが反戦主義であるのはそのためです。これに関してサルトルの言葉を繰り返すと、新実存主義はヒューマニズムの一形態です。
戦争に入ってしまえば、戦争の倫理がある。
自衛しなければならない場合はありますが、それは倫理的な正当性ではありません。
倫理的に正当化される軍事介入などないと私は考えます。
タリバンとの話し合い
彼らが自分たちの言い分を信じているということが、私たちにはきわめて理解しがたいのです。自分たちがやっているようなことを神が自分たちに望んでいると彼らは信じている。ですから私たちとは交渉できないのです。
彼らは信仰者なのです。
出国を望む人が文字通り一人残らず脱出できるまで、西側は留まるべきでした。西側が敗北しタリバンが国を支配するとわかってからは、アフガニスタンに留まって何千人、必要なら一〇〇万人単位の人々を脱出させるべきてした。それが倫理的に正しい行為だったはずてす。
ところが米軍は一握りの人々だけ連れていって、他の人々は置き去りにした。非常に非倫理的です。残された人々を犠牲にしている。
こうなった今、アフガニスタンで唯一できるのは、できるだけ多くの人を退避させることです。
「無知の知」を乗り越えるために必要なこと
ほとんどの人は自分が何も知らないことをわかっていません。
私たちにできるのは、さまざまなスキルを使って、それとなく相手が無知であることを示そうとするくらいでしょう。
プラトンの対話篇
注2 禅宗 念仏ではなく、座禅と問答によって語りを開く。
注10 格率(maxime)ある主体が持つ行為の規則、主観的原理。カントは自らが持つ格率の中で、他者の行為について普遍化できるもの(道徳法則)に沿って行動せよ、と唱えた。
エピローグ
「ソーシャルメディアがやっているのは人間であることの領域を縮めて、非常に小さな下位の部分集合にすることです。実はこれは彼らの市場化原理にすぎない」
皮肉なことにソーシャルメディアによって、お互いの違いやわかりあえなさが増していることは紛れもない事実である。
「人に関わることを消費者に見えない構造にしている」とその本質を教えてくれる。情報の非対称性を指摘し、「資本主義の構造の仕組みを知っている者だけが利益を得られる」のである。
『わかりあえない他者と生きる』 大野和基インタビュー 編、月谷真紀 訳