思考の鏡、限界づけ | 小動物とエクリ

思考の鏡、限界づけ

 

 

補論 懐疑のアート、アートの懐疑
マルクス・ガブリエル

補論 懐疑のアート、アートの懐疑

この世はすべて 夢と誤謬の編みもの
けれどもひとつ 確かた真実がある
思考の鏡をもつということ
それを知るのは、知っていると知らぬときだけ〔…〕
私たちは知っている この世はまやかし 真実ではない
それでも 私たちは考える

フェルナンド・ペソア

神々が六日で世界を作ったとする素朴な創造神話には失礼ながら、神の創造も結局のところさして神秘的な出来事とはいえない。何であれ、確定可能な仕方ですべてが始まったと分かっているなら、どこから物語を始めようと大した違いはないのだから。

神話は、時間や創造の概念を系譜学的にうまく説明することで、絶対的な過去を開示する。ところが、どうやら神話それ自体が、人類史の未知の要因であるようだ。神話はそれ自体、絶対的過去の一部であり、理由づけられた純粋に論理的な空間が形成される以前の、無であるように見える。現代では、神話を参照して物事の理由を説明したり考えたりしようとしても、うまくいかないだろう。

世界はまるで、謎であることをやめたかのようだ。とはいえ、近代科学の理解をもってしてなお、自然界における心の領域が最大の謎として残されていることも確かである。隠し事の好きな自然は、いまだにこの秘密を守り続けている。自然界から神秘が取り除かれ、そのことが圧倒的な力ですべてを覆うようになった現在、私たちは心という奇跡を参照することで、自分の認識論的立場を救おうとするわけだ。
 神話は抑圧され、認識に値する言説外へと追いやられている。

私たちは必然的にひとつの文化に捕らわれる。私たちが世界と向き合うときに用いる基本概念は、文化によって形成されたものであって、何を語るにせよ文化の影響をすっかり透明に消し去ることはできない。

すなわち、懐疑論は、客観的知識の有限性について、ある洞察を与えている。そして私の考えでは、その洞察を具体化するのがアートであり、否定するのが認識論である。認識論とは、世界に対する理論的態度であり、知識一般とは何であるか、知識と世界はどう関係するかを客観的に説明しようとするものだ。
私は懐疑論者と手を組むことで、そうした認識論に対抗し、アートと神話の必要性を擁護したい。アートから生み出される洞察は、しばしば懐疑論と近いところにある。だからといって、アートを切り捨ててしまうわけにはいかない。なぜなら、アートは私たちにとって、自分の世界内存在を概念化する為の手段だからである。この点を明らかにするために、私は本論で「背景的知識」という概念を参照するだろう。ドイツの哲学者ヴォルフラム・ホグレーベが、二〇〇六年にハイデルベルク大学で行われたガダマーに関する講義で初めてもちいた概念である。

私が思うに、懐疑論はいわばコンセプチュアル・アートのようなものだ。懐疑論には、概念を通じて世界像の偶然性を意識させる力がある。というより、ウィトゲンシュタインの言葉を用いるなら、世界像を生む「蝶番」の偶然性を意識させることができるのだ。
ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン全集9 確実性の問題/断片』アートもまた、それと類似の仕方で機能する。アートは私たちに、世界を経験する自分のやり方が偶然であると自覚させる。それゆえ、アートと懐疑論には連続性がある、と私は考えている。


懐疑論と有限性

懐疑論者は、言葉によって語られていないかなる世界にも必然的に限界があるということを示し、それによって何か重要なことを言わんとしているのだ。それゆえ、懐疑論とは結局、私たちの有限性についての洞察である。

デカルトの懐疑に発する近代認識論理の成立過程において、懐疑派は多くの哲学者から一種のパラドクスとして理解されるようになった。

バリー・ストラウド『君はいま夢を見ていないとどうして言えるのかーー哲学の懐疑論の意義』

言葉で語ることに限界がなかったら、世界に関してないかを信じる根拠はまるでなくなるだろう。私たちは、なんらかの外枠、可能性の地平を確立する必要がある。それなくしては、何ごとも吟味の対象となりえないのだ。

つまり、言葉で語ることの限界を超える方法は、何であれ、存在しないという帰結だ。言葉で語られたいかなる限界的世界も、必然的に有限である。

私が問題にするのは、数学的な概念としての「有限」ではない。私はむしろ、カント以後の哲学に見出される「有限性」と「無限性」の区別を参照している。カント以後の哲学によれば、他と異なるものとして規定されたものは有限であり(finite)、ゆえに限定されている(limited)。「断定は否定である」という有名な原則にしたがって言えば、限定されたものは定義づけられている、つまり、規定されている、ということだ。

言説の有限性〔=規定性〕という概念は、数学的な有限な無限の概念と区別される必要がある。

すなわち、いかなる言説も、一連の偶然的パラメーターによって意味が規定される。言説が規則に則ってなされることを保証するのは、偶然的パラメーターであり、そのパラメーター自体が当の言説のなかで精査の対象となることはない。

したがって、何にも拘束されない、文字通りの意味で無限の語りは、不可能である。言葉で語られたことの安定性には、潜在的に不安定な前提条件が含まれるのだ。そうした前提条件に向けて懐疑論が差し挟んでくる疑いを、当の語りの内部から擁護するということはできない。

言葉で語られたことの必然的有限性は、所与の語りが自分の前提条件をその作動自体において経験することができない、という事実によるものである、と。

私たちが何かを経験するとき、まさにその行為のなかで、その経験が可能であるためのすべての条件が満たされていることを経験する、ということはできないのだ。カントの考えによると、私たちがある対象の規定された表象と対面するには、経験一般の可能性の条件(カテゴリー、統制的理念など)が満たされている必要がある。カントはそのことを超越論的に知りうると信じていたが、たとえそれを知ることができたとしても、私たちが現に身に受けている経験に関して、そこから必然的に言えることは何もない。
 別の言い方をすれば、表象の様態で何か確定的なことを経験する可能性の条件が、その事実それ自体によって、ある対象の実際の経験の可能性の条件であるわけではない、ということだ。〔訳注〕何かを何かとして経験するための条件がすべて満たされたとしてもそれが実際に何の経験であるかは決定されない、ということ。

認識論的に最大限責任ある振る舞いをし、自分の認識論的関与を支える証拠をどれだけ集めてみたところで、私たちは物事の実際の状態と、それを概念化する仕方の間に必ずギャップを生み出すことになるのだ。 

とはいえ、何かを表象の様態で経験するということは、その何かをあたかも私たちの経験とは独立に存在するかのように経験する、ということである。心とは独立に存在する表象可能な世界という想定は、大部分、表象の概念に関するこうした単純な文法的観察に基づくものだ。

ウィルフリド・セラーズ『経験論と心の哲学』

何かを経験することと、経験された内容の区別の問題。たいていの場合、経験と経験のされ方の間にズレを想定することができるが、直接経験の場合、そうしたズレが想定しにくい。

たとえ直接経験であろうと、経験された内容は経験することそのものではない。つまり、ガブリエルが指摘するように、「私たちは物事の実際の状態と、それを概念化する仕方の間に必ずギャップを生み出すことになる」。

すなわち、今のところまだ表に現れていないが、目の前の現れと存在論的に両立可能であるような〔現在の信念と異なる〕経験の可能性、ゆえに経験を通じてあとから反証されうる(ア・ポステリオリな)可能性である。

ディヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』に出てくる、劇場「シレンシオ」の不気味で啓発的なシーンのように、すべてはあらかじも録音されているのかもしれない。すべては、現にそう見えているものと異なるかもしれないのだ。

「私の仲間は自分が置かれたイデオロギー的状況について、本当とおぼしい事実を知らないでいる。そして代わりに、単なる見せかけ、つまりイメージに囚われている」とあなたが理解するそのときでさえ、あなたはやはり間違いを犯しかねないのだ。つまり、そこで自分がもうひとつの別の語りを作り出し、それによってあらたに一連の限界を課していることに気がつかないで、「自分は言葉で語られたことの限界を超えている」と信じてしまうかもしれないのである。

言葉で語られたことは、無限の可能性を必然的に狭めることになる。何か定められた対象について、人には理解可能な定められた場面の一部として参照するには、そうしないわけにはいかない。これは(政治や文化の)批評で自分の立場を正当化する際に起こる問題である。文化批評は、それが批評する当の文化の一部をなすのだから、その批評自身の立場をどう正当化するか、という自己言及的な問題が生じる。

だが私の考えでは、この問題は、言葉で語られたことに有限性の構造があるために生じるのだ。定められた内容をもついかなる言説も、有限性の構造を免れえなのである。

ウィトゲンシュタインは『確実性の問題』のなかで、あらゆる(認識論的)言語ゲームは、言語ゲーム内では手に入らない確実性に依拠する、と主張する。

ウィトゲンシュタインによれば、私たちが世界と交わす認識論的なやりとりは、ある正確な意味において、神話的である。

ここでいう神話とは、体系的に編まれた信念のことである。

世界に関する背景的知識は、神話である。つまり、命題の形をしておらず、科学的ではない、ということだ。背景的知識は、前科学的だが、取り去られないほど根本的なものである。なぜなら、態度決定の可能性は、背景的知識があってはじめて開かれるからだ。

私たちは神話を通して世界の内に存在する。それはつまり、何であれ経験を組織立ったものにするには、言葉に限界を課す必要がある、ということだ。「限界を課す」といっても、そのこと自体は、私たちに責任を負える理性的な行為ではない。私たちはどこかの段階で、何かを正当化する自分の行いを、それ以上正当化できない地点に至る。まさにそのことを、懐疑論者は私たちに教えてくれるのだ。
 世界の内にある私たちの在り方が、主としてイメージ言語によって分節されているのは、このためである。それらの原型的なイメージは、プラトンのイデアのように機能する。原型的なイメージにより、出来事の流れが予測され、一定のルールが定められる。私たちはそのルールによって、自分が得た根拠を特定の仕方で組み立てるのだ。

大なり小なり限定された解釈を与えるまで、あなたは自分が確信していることについて、その真偽を見きわめるために何かをしたわけではなかった。その事実に気づくやいなや、懐疑の問題は生じるのである。

たとえば、習俗をあまり知らない外国へ行ったときなどには、そうした経験がよく起こる。だが実のところ、この種の経験は日常生活のあらゆるところで生じている。なぜなら、私たちが経験する情況は、決して原型によって保証された通りのものでも、自分が漠然と予測する通りのものでもないからだ。したがって、私たちの日常生活は、ある意味ずっと期待外れの連続だだったのである。それを最初に指摘したのは、あるいはプラトンかもしれない。なぜなら、日々起きることは、まさしくイデアの領域にない達していないからだ。原型をなすイメージと、その有限な現実化の間には、存在論的差異がある。それこそが、私たちの実存的自由のプレイグランドであり、実存的投企の可能性だ。私たちは、与えられた自明なことがらをどう解釈するか決めなければならない。そのためのルールは、ある程度まで仲間によって承認されている。そうでなければ、自分の振る舞いのせいで、仲間たちから制裁を受けることになるだろう。

世界像(ワールド・ピクチャー)という私たちの神話は、背景的日常性のなかで生じる意味論的可能性を限界づけている。あらゆる神話体系において、原型的な場面を演じる劇中人物は、多かれ少なかれ限定された集合で構成される。

このように、神話的な語りと登場人物が織りなすネットワークは、世界が現れる際の枠組、ないし地平を、一定の仕方で限定しているのである。

芸術と、科学という枠組の偶然性との関係について、ジェイ・バーンスタインは同様の見解を述べている。彼はハイデガーに倣い、「科学という枠組が、科学的「世界」の地平を制定するのと同じく、偉大な芸術も、ひとつの世界の地平を制定することができる」と主張している。

重要なのは、アイスキュロスが神話を使用することで、虚無点(focus imaginarius)が生み出されるということだ。それにより、民主主義という出来事が、限定された表現様式のもとで読み解けるようになるのである。プラトン主義も、マルクス主義や精神分析も、アイスキュロスの神話と同じ(必要不可欠な)要求に応えている。つまり、そのいずれも概念のネットワークを作り上げ、それをもってすべての出来事の究極的な参照点にしようとしているのだ。

つまり、現在進行中の出来事について、絶対的真理にアクセスする方法は、ひとつであるとは限らないのだ。なぜなら、どのような解釈をしようと、何らかの神話、つまり、無限の可能性を限界づける何らかの「虚無点」を用いることになるからである。
 神話は、そう思われるほど単純ではない。

なぜなら、これまでの分かりやすい例からも分かるとおり、原型的なイメージが全体として作り出すネットワークは、〔原型的なイメージ自体より〕はるかに複雑で偶然的だからである。

言葉で語られた世界の限界を超える方法は、明らかに存在しないのだ。

だが、哲学は変則的な語りから生まれてくる。つまり、超越の可能性から生まれてくる。
 スタンリー・カヴェルは『理性の要求』の中で、懐疑論には「自分自身の人としての属性を否定したいという願望」があると説明している。

カヴェルが主張しているのは、有限性の必然的限界を超えようとすると必ず懐疑論が生じる、ということだ。ここで言う「有限性の必然的限界」とは、私たちの言葉のうたでなされた、当て込みのことである。状況や自明なことを言葉で描写するとき、私たちは可能性を限界づける。

言葉は新しく生まれた認識論的環境に当て込まなければならない。

ライトによれば、「認知の局所的参照性」とは、「いかなる状況であれ、私たちの意識に直接利用できるのは、自分が概念化できるような状態に関する、適切な部分集合のみである」という事情のことだ。

懐疑論的態度は、判断や経験の有限性、より広く言えば言葉の使用の有限性を伝えるために、〔それを伝える自分自身の有限性について〕判断を保留する。そのことによって、自分の人てしての属性を否定したいという願望をさらけ出すのだ。

懐疑論者は、自分自身の言葉の使用を絶えず超越し、自分の言葉の適用条件から自分を除外する。

だが、懐疑の技法は、私たちの限界を指摘するなかで、哲学という営みを消し去ってしまう力でもある。つまり、そうやって私たちの限界を指摘することの裏側に、哲学の営みがあるということだ。

カヴェルが『明後日の哲学』で述べているように、懐疑論は形而上学的な超越の「知的双生児」なのである。

「懐疑論が明らかにするのは、人知の無能ではない。そうではなく、私がこの世界で自分や自分の感覚を越えているとみなすものに関しては、私がその存在を十分に受け合うことはできない、ということを明らかにしているのだ」(同書)。したがって、認知の局所参照性について語ることは、まさしく懐疑を表明することなのだ。なぜなら、私の現在の自明性を越えたところに世界が存在すると認めることは、認知の局所参照性によって否定されるからである。

それゆえ、懐疑論者はまったく何にも言及せず、しかも本当のことを指摘している。つまり、言葉で語られる私たちの世界は必然的に有限なのだということを。

つまり、懐疑論は、古典的なロゴス中心主義の形式を前提しているのだ。

ところが、人間の知識は物のように客体として存在しているわけではないし、それ自体としての世界や、人間の知識が世界と結ぶ関係も、客体として存在しているのではない。

規定されているということは、何かではないということであり、何かではなないということは、有限だということだ。規定性は否定を前提し、否定は有限性を伴うのである。

懐疑論者は、言葉の有限性について正しいことを述べているし、それゆえ知識の有限性についても正しく論じている。それにもかかわらず、懐疑論者は自分自身の言葉の使用については判断を留保するのでな限り、自分の主張を言い表すことができない。

アートの懐疑論

現代アート美術館は、懐疑の例に満ちている。私たちに理解できることの限界、知識の境界が、アート作品によって示されているのだ。

〔訳注〕ジョージ・エドワード・ムーア(一八七三 - 一九五八)は、分析哲学者、倫理学者。認識の限界を問題にする懐疑論とは対照的に、一見無限に思える言説に対しても、直観によって判断できる立場をとった。

ヒラリー・パトハム『理性・真理・歴史 内在的実在論の展開』

ところで、アートは次のことを明らかにしてくれる。すなわち、私たちが世界を概念化する仕方は、さまざまな可能性の偶然の連なりによって構造化される、ということだ。日々の暮らしのなか、私たちはそうした可能性が偶然であることを無視し、あたかも知識や現実の必然的基盤であるかのように解釈しがちである。ところがアートは、異なる前提の上に成り立った別世界をしばしば創造することで、私たちに一見必須であるかに見えた世界観が、実は偶然的なものであることを教えてくれる。アートはそのようにして、私たちの世界像にデフォルトとして組み込まれた存在論に対し、異議を唱えるのだ。
 アートはまた、私たちの言葉の実践が暗黙のうちに何を前提しているかを明らかにし、それによって、違った形で何かを語ることを可能にしてくれる。

意外に思われるかもしれないが、私の全体的な思考回路は、ルドルフ・カルナップが有名な論文「経験主義、意味論、存在論」で提示した、悪名高い「内的問題」と「外的問題」の区別にかなり共感している。

ルドルフ・カルナップ「経験主義、意味論、存在論」、『意味と必然性 意味論と様相論理学の研究〈復刻版〉』所収

カルナップによれば、内的疑問は「言語的枠組」(linguistic framework)を前提し、内的な陳述はその言語化枠組との関係で評価される。内的疑問の例は手近にたくさんある。「そこにいるのは誰?」、「オレンジジュースはどこ?」などだ。外的疑問は、「外界は存在するか」や「他の心は存在するか」といった疑問である。こうした問いが「外的」と言われるのは、カルナップが多かれ少なかれ自然的とみなす言語の枠組、すなわち、物質や他人の心が存在すると考える日常的存在論の言葉遣いの外にあるからである。内的疑問は経験に基づいて確かめられるが、それに対して、カルナップは外的疑問を、感情表現や、さらには詩と並べている。詩は、経験に基づいて確かめられない、言語の別の枠組であって、カルナップ曰く、古典的な形而上学の様式も詩に属するという。

ルドルフ・カルナップ「言語の論理的分析による形而上学の克服」『カルナップ哲学論集』所収

カルナップはディルタイ版の「生の哲学」から影響を受けている。

私は、基本的にカルナップの議論は正しいと考える。ただし、カルナップは内的/外的の区別が結果的に意味することを過小評価している、とも思っている。確かに、現代アート、懐疑論、形而上学は、いずれも非命題的、非表象的な身分をもつという点で、相互に連関していると言っていい。

バーンスタインは、真、善、美のカテゴリーを区別することが、美的共同体の喪失を示す近代の決定的特徴であると論じている。近代は美的疎外の観点から説明できる。バーンスタインによれば、「アートの真理からの疎外」は「アートが審美的になることで引き起こされたのであり、この変化は、近代的社会においてはじめて完全に達成されたのである」。

しかし、カルナップ自身が採用する言語の枠組、すなわち素朴な物質存在論の枠組も、外からの視点、たとえば美的観点から眺めれば、認知的枠組ではなくなる。カルナップの考えによれば、特定の言語の枠組を受け入れること自体は、経験に基づいて確かめられた認知的な行為ではない。カルナップはこうした考えを取り入れることで、言語的枠組の偶然性を指摘する。つまり、どんな言語的枠組も、ある言語を他の言語より優先する乱暴な決定に基づいているということだ。このようにしてカルナップは、私たちが別のやり方で自分たちを概念化し、別のやり方で日常の背景的知識を組み立てる可能性があると、しぶしぶ認めているのである。

カルナップの言語決定論的を、彼自身が好む枠組に適用して見よう。すると、その枠組が選ばれたこと自体を、偶然の観点から問題にすることができる。したがって、実体という素朴な枠組に代替案はなく、ゆえにそれを疑う余地はない、とカルナップが主張していようと、彼の主張は譲歩する必要はないのである。

カルナップは、懐疑論の攻撃から自分の枠組を守るために、もっともな問いの届かないところに枠組を設置している。まさしくそれにより、彼の枠組は経験に基づく知識によるものではないことが明らかにされているのだ。なぜなら、その正当性に対する疑問をはじめから除外した上で彼の枠組が受け入れられているとすれば、彼の枠組を認知的な達成としてカウントすることはできないからである。

言い換えれば、ミクロ領域とマクロ領域の中間にある、互いに純粋な因果関係で結ばれた物体からなる外界という概念は、ホメロスの時代の神々と同じくらい、神話的な概念なのだ。

クワインにとって言語決定論は存在論の相対性を意味するものだった。

W・O・クワイン「経験主義のふたつのドグマ」、『論理と哲学をめぐる九章』所収

すなわち、存在論的相対性や言語決定論を主張することは、そこで言われている基準に照らせば、それ自体、その他の可能性から選ばれたひとつの偶然的な理論構成の受け入れである。内的疑問と外的疑問の区別は、それ自体がひとつの外的疑問への、つまり、異なる枠組がいかにして可能かという問いへの、答えなのだ。

つまり、「なぜほかの枠組ではなくこの枠組を選んだのか」と自分に問うことができるのだ。そこでもし否定されることが考えられない必然的な枠組に到達できうるとしたら、枠組という概念自体がなくなるはずである。なぜなら、そもそも枠組の概念が導入されたのは、代替可能な枠組が存在するという単純な理由だったからだ。もし素朴な実体存在論というデフォルトの枠組みしかなかったら、私たちはこの枠組として捉えることすらできず、単なる所与として扱うよりほかないだろう。

枠組を枠組として捉えるためには、自分の枠組を超越する必要があるのだ。だからといって、考えうる究極的な枠組、知識に関する無限の知、絶対知といったものは存在しない。私たちは枠組という有限性の外部に出ることはできない。せいぜい、それを内側から変化させることができるだけだ。

すなわち、枠組や文脈を哲学的に理論化すること、あるいは別の言い方をすれば、懐疑論への応答として枠組や文脈を理論化することは、芸術的な創造行為なのである。それは、事物や思考に備わった所与の論理秩序を表現することではない。◉哲学的思考は、私たちが事物や思考を概念化し、それに枠組を与える活動の外に、存在論的に先立って存在するわけではないのだ。

ジェーン・バーンスタインは実証主義についても同様の見解を唱えている。「科学的枠組という概念が、その枠組自体の働きに関して発動させるのは、〔あらかじめ存在する〕真実の『再生産的』概念作用や『表象的な』概念作用である。科学的枠組は、自然に対して測られるのではなく、自然の尺度を提供するのだ。ある枠組において知識が発展することができるのは、その枠組自体のおかげである。それに対して、ある枠組から別の枠組へ移ることは、過去の知の偏狭さを明らかにすると同時に、自然とは何か、科学とは何かを理解するための新たな可能性を明らかにする。
つまり、科学することの新たな可能性を明らかにするのである」

それゆえ、概念化するとは、可能性を限界づけることである。私たちが可能性を限界づけ、すべての可能世界のうち、この現実世界に自分を位置づけるときはいつでも、さまざまな可能性の地平として、世界を無かから創造している。なぜなら、私たちの枠組は、その創造の外には存在しないからである。  

次の点に注意することはきわめて重要である。すなわち、私たちが可能性の地平を創造し、そしてその意味で世界を創造するからといって、創造された地平に現れる客体を私たちが創造しているわけではない。私は、客観性と客体の混同に立脚する魔術的観念論を擁護するつもりはない。ジェーン・バーンスタイン

限界は、外部から課されるのではない。哲学的原説の当の舞台を設定するために利用可能な外部というものは、存在しないのだ。
 したがって、世界がそれ自体何であるかと問うたところで、明確な答えは存在しない。なぜなら、それ自体としての世界は、決定可能な内容を欠いているからである。

あるがままに存在する世界について最大限言えるのは、それが言葉にとっては「未知のX」であり、客観性の中身のない前提だというだけである。思うに、この考えのある部分は、カントの「超越論的対象」という逆説的概念に重なっている。とはいえ、客観性の条件を本当に捉えようとするときには、カントのように対象について語ってはならない。カントは超越論的対象について語ったため、モノ自体という概念をめぐって多くの批判を引き起こしてしまった。
 ◉懐疑論は、哲学が芸術的な創造行為であるとする洞察につながっている。ウィトゲンシュタインの考えによれば、私たちの創造性は、自分が所属する共同体の諸条件、すなわち、私たちが訓練を受けた規則に拘束される。だが、そうしたウィトゲンシュタインの信念そのものが、まさに私たちを拘束することを意図した、ひとつの世界像の帰結なのだ。

自然について彼が述べたことは、あるがままの事実に関する語りである以上に、自然という概念の創造なのである。

結論

すなわち、世界はつねにすでに、とにかくそこにある。世界は私たちの概念活動とは独立に、また言説や神話による有限か叙述からも独立に存在している、と。

つねにすでに、とにかくそこにあると前提さやるた何かという問題は、あらゆる理論構築の過程で生じる。限りなく現実的な理論であれ、あるいは観念的、相対主義的な理論であれ、その点にかわりはない。問題は、私たちが何かを、あたかもそれが措定されていないかのように措定してしまう、という点にある。

クワインでさえこう述べている。「われわれが存在すると容認するものはすべて、理論ーー構築の過程を記述するという点から見ると措定物であり、構築されてしまった理論に立って見ると実在のものである。

(W・V・O・クワイン)『ことばと対象』

つねにすでに、とにかくそこにある真理という考え、あるいは、意味論的な能力をもつ生き物であればいつでも発見可能な世界秩序という考えは、それ自体、自分が措定されていないかのように何かを措定している、ひとつの神話にすぎないのである。どんな絶対的現実も、私たちがそれを把握することで歪められているかもしれない。この逆説的な状況から逃れることはできない。だからこそ、神話はどこまでも客観的である。神話に捕われないよう舵を切ることがそもそもできない以上、客観性という考え方は明らかに神話によって与えられた状態の一部であり、私たちの世界像の一部でなければならないのだ。私たちは神話のおかげで、客観性をめぐる特定の考え方にコミットしている。

第二の問題は、私自身の言葉の問題だ。

私はどうすれば有限性の罠を回避し、中立的な立場に立つことができるだろうか。
 大事なことは、私にそんなことはできないし、そうするつもりもない、ということだ。私は哲学という営みを、概念を使った芸術的実験と捉えている。

私の考えでは、コンセプチュアル・アートが哲学に似ているのではなく、むしろ哲学がコンセプチュアル・アートに似ているのだ。あるいは、哲学は概念詩〔コンセプチュアル・ポエトリー)だと言っていいかもしれない。とはいえ、それは懐疑から始まりアートに行き着く弁証法的講義の筋道を辿った結果として起きることだ。私自身の語りが自己言及的になるとき、哲学は、科学でなくアートと繋がっていることが明らかになるのである。もちろん、科学もまた概念を使ったアートの実験であると考えるなら、話は別だが。


訳者解説

大地惣太郎

ガブリエルは、「美的経験は突然生じるか、生じないかなのだ」と述べている。

作品が何であるかは、その作品自身によって、その都度決められるのだという。

ガブリエルは、アートの力が絶対的だと言うけれども、むしろアートの力は、さまざまな要因に作用される、弱い、相対的な力だと言うべきではないのか。

カントによれば、作品を捉えるための感性的な見方は、美的経験のなかで、その都度作り出されるのだ。

アート作品に触れることは、明け方の空を見ることや、誰かの振る舞いにその人らしさを感じることと、どう違うのだろう。アートの本質が何によっても決められていないとしたら、序文でジェニエスが述べているように、アートは存在しない、アートに固有の存在領域はない、と言うべきではないか。

むしろアート作品は、さまざまなものと関係することができる。

重要なのは、それらすべての関係を巻き込んだ上で、アート作品はあらためて独自に、総体として自分が何であるかを決める、という点なのだ。

カントは、何かが純粋に美的に良いと感じられるとすれば、それは外的な基準によってではなく、その経験的自体を通じて打ち立てられた基準による、と考えた。

ガブリエルは、対象が与えられる際の与えられ方を「意味」と呼ぶ。カントの「形式」がそれ以上後ろに回り込めないものであるのに対して、ガブリエルの「意味」は、その意味がそのような意味として現れるための背景を必ずひとつ持っている。「意味の場」「Fields of Sense」と呼ばれるものがそれだ。
 たとえば、ある景色が美しく立ち現れているということは、その景色が美的な「意味の場」において意味をもつ、ということだ。

カント哲学において実在しているのは、それ自体としては姿を現さない主体と客体であり、景色は実在の現れにすぎない。「景色が美しい」ことは、主観においてその景色の現れを美的に判定する感性の形式が作られる、ということであり、あらたに実在が作り出されるわけではない。

「意味」と「意味の場」の区別がつかなくなればなるほど、その知覚経験はアートの経験に似てくる、というわけだ。

それは、既存の「意味の場」から離れ、アート作品自身が設定した法を理解し、それに従うということなのだ。

自律した「意味の場」に巻き込まれ、自分がラディカルに自律した他者と出会っていると、知らなければならないのだ。

とりわけ素晴らしいアート作品は、この世界にラディカルに自律した存在がいること、それと出会うことがどういうことであるかを、その都度、比類ない形で、照らし出す。マルクス・ガブリエルの哲学は、それを考える上で、私たちに素晴らしい足掛かりを提供している。

 

『アートの力』マルクス・ガブリエル /著、大池惣太郎 ・柿並良佑 /訳