現実の内部 | 小動物とエクリ

現実の内部

 

 

 

 

美は恐るべきもの、われらがどうにか耐えうるものの、ほんの始まりにすぎないからであり、また美をかくも見事と思うのは、美がわれわれを破壊することなど何とも思わぬからなのだ。天使はみな恐ろしい。

 

リルケ『ドゥイノ悲歌』より「第一の悲歌」

序文  

ベルナール・ジェニエス

「チーズ」意味するフランス語のfromageがラテン語のformaticaに由来することを思い出してほしい。

「ある形に作られたもの」という意味だ。

つまり、観念や作品に「形(相)を与える」という、よく知られた問題である。
 このことは、われわれの現代人の生活のあらゆる場面に、なぜこれほどアートがはびこっているかを部分的に説明するものだろう。

彼が思い出させるのは、アートが今や、デザインという形のもとで巷に溢れかえっていることだ。デザインは、言ってみればアートによる「付け鼻」である。それによって、品物は人が欲しがるものに姿を変え、過大な価値を与えられる。

人が紙幣に見とめる価値は、金銭や商品の交換を成り立たせる人々の間で了解された、ひとつの慣習の結果である。

お金は、流通のなかでこれだけの価値があると言われた分だけ価値を持つのだ。

アートの価値もまた、市場を成り立たせる人々の間で交わされた商談の結果にすぎなくなったのだろうか。

ここで忘れもしないのは、その種のアートファンに対してイタリアの芸術家ピエロ・マンゾーニが行った挑発行為だ。

モネの描く絵は、「知覚対象」に姿を変えた「知覚的見せかけ」である、とガブリエルは述べている。要するに、描かれたもの(物質としての絵画)と、その絵画を通してわれわれが知覚するものとの間には、ひとつのやり取りがあり、私たちはそのやり取りに属する何かを目にしている、ということだ。

アートが今述べたような規則にしたがって心的に生成され、知覚されるとして、そのときアートが属する領域はどこにあるのか、その固有の力はどのようなものかを、ガブリエルは問うのだ。

「アート作品はラディカルに自律している」とガブリエルは言う。アート作品はその点で「普遍的なものと対立する」と。

作品はそれぞれみな特異だが、その特異性は、他の作品といかなる共通点も持たないという事実によって生まれるのだ。アート作品はどれも単一にして全体であり、ガブリエルが解釈に開かれた「意味の場」と呼ぶべきものによって構成されている。

ただ一つであると同時に、作品をめぐる知覚は複数でありえるのだ。

作品の形、構成、素材をよく見ることが必要だ。それにより、理論的分析の手段が与えられ、そこから作品のもつ還元不可能な性格、特異性が解明できるようになる。

哲学者はアーティストのように巧みに概念を駆使する。概念を整備したり、配置したり、対置したり、補完したりすることも、何らかの形の創作に参加することだ(絵画であれ、観念であれ、何か形あるものを作ることにかわりはない)。哲学者が語ることは、アートをめぐる探求の語りとなって、アートの本質それ自体につきまとうことになる。とはいえ、いまだにカントが一八世紀に述べたまま、「芸術の美は、物の美しい表象である」などと書いていてよいものか。

「作品は自分で自分に固有の法則を与える」

アート作品はいかなる制度に対してであろうと、自己弁明する必要などないのである。ガブリエルはこう述べさえしている。「アートは無道徳的であり、無法的であり、無政治的である」。アートの有する力はその意味で(他の権力からの支配を免れる限りにおいて)、まさしく「絶対的」ということになるだろう。

ガブリエルは、現実と呼ばれるものの一部が概念で構築されているとみなす構築主義者の理論を拒絶し、むしろ、われわれには事物の実在が実際に認識できる、と主張する。

作品を存在させるには、それを解釈しなければならないーーそして解釈とは、理論的分析とは区別されるべき手続きである、と。

アート作品はときに人を眩惑するが、それは鑑賞者が勝手に抱くものではないのだ。

アート作品とは何よりも、固有の意味を自ら生み出す、ユニークで異なる表現である。作品に没入したり、作品を拒絶したりするわれわれの反応は、そこから引き起こされるのた。
 マレーヴィチの《黒の正方形》(といっても実は完全な正方形ではない)は、誰からも美しい絵だと思われなかったし、そう紹介されたこともなかった。それでもマレーヴィチなモスクワではじめて展示を行った際、《黒の正方形》を高く掲げて、ちょうど「聖なる隅」に置かれるよう気を配った。「聖なる隅」というのは、ロシアの伝統的家庭で聖画像(イコン)が置かれる一画のことだ。とはいえ、この作品か何か象徴的な役割を担うとすれば、それは作品にひとつの態度表明がはっきりと示されているからだ。つまり、当時の芸術規範や社会慣習に向けられた挑発である。そう、このアートはひとつの力をまざまざと示している。制作された時代の文脈を超えてなお、作品の解明しがたい力強さを呼び起こしてくる力だ。

 

 

アートの力

私たちは美的な時代を生きている。アート作品はいたるところにある。なかでも今日次第に難しくなっているのは、アートとデザインを区別することだ。アート作品とデザイン商品は今やひとつに溶け合い、形と見た目を変え、思いがけないところに姿を現すようになった。

建築もまた、アートの一形態だ。大都市の高級雑貨店をまわれば、流行りの奇抜な商品が陳列されている。そうした商品がほかより目立つのは、アートがもつ力、つまり対象を際立たせる力によって、細工が施されているからである。

私たちの前にあるのは、消費者の群れを作り出すために、神話や物語をたっぶり詰め込まれた料理なのだ。

アートには多様な使い途があって、ただひとつ自体的な価値が備わっているというわけではない。デザインにあふれたこの世界で、アートはいわばピエロのつけ鼻、フィクションなのだ。それによって、消費という習慣の忌まわしい外観を覆い隠しているのである。
 結局このデジタル時代、私たちの前にはたえずデザインの形をしたアート作品がある。ときには製品としてーーAppleはこの分野で模範となるケースだーーあるいはインターネットのホームページやネット広告におけるグラフィックとして、アート作品はどこにでもある、というより、アート作品の雰囲気がいたるところに漂っていて、煙幕のような機能を果たしている。そうして、身の回りの環境で生じる質量=エネルギー構造の破壊的な消費が、美しいものや崇高なものの経験へと変換されるのである。
 一言で言って、現代アートの存在論的自律性から、解放をもたらす力を吸い上げてきたと言える。

観客がブローニュの森に引き寄せられたのは、バスキアによる「声なき者のための声」の表現を見るためだけではなかったのだ。

アートのこうした偏在とともに、ひとつの懸念が拡がっている。つまり、アートがアートを超える目的のために使用されたり濫用されたりしているのではないか、という懸念だ。

アートがこれほど力をもつのは、その背後により強力な存在がいるからではないか、アートの装いの下で何かがひそかに進行しているのではないか、と。さらにはこんな仮説もある。アートワールドを現在ひそかに支配するその力とは、搾取の構造により生まれた富の蓄積という、マルクス主義的意味における資本(主義)にほかならない、という仮説だ。搾取構造は人の目から隠されることではじめてうまく機能する。アートは物質的な富を美しく見せかけることによって、まさしく生産条件を覆い隠す役割を果たしているのではないか、というわけだ。

ヘーゲルが言った「理念の感覚的なあらわれ」(das sinnliches Scheinen der Idee)は、いつの間にか物質的なものの知覚を通じた輝きへと変化したかのようだ。

アートは現実的にコントロール不可能なのだ。誰にもアートの歴史を統御する位置に立つことはできない。たとえアーティスト自身であろうともである。さらに言うなら、実はアートの方こそ、私たちに特別な関心を示すことなく、私たちを支配している。アートはいわば、多くのデジタル技術産業の批評家が恐れている、あの超絶知能である。

『ポスト・ヒューマン誕生ーーコンピューターが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル

コンピューターのうちで作動するソフトウェアのように、アートは私たちの存在それ自体のうちで作動している。それどころではない。私たちが人間存在になれたのは、アートが発生したおかげなのだ。私たちはアートのおかげで、「人間的な存在」というイメージに沿って生きる存在になり、また動物相や植物相や星々といった仲間たちのなかで、自分たちがどの立場にあるかというイメージに沿って生きる存在になれたのである。

人間が科学の力で理解するようになる前、近代の人々は、自分たちが地上の物の秩序のなかで特別な位置を占めると考えていた。人間の特殊な身分は、まずはさまざまな神の概念によって支えられ、それから唯一神の概念によって支えられた。

つまり、「神」がもはや(少なくとも一定数の人にとって)人間存在の概念に関して中心的役目を果たさなくなったというポストモダン的意味における「神の死」以降も、神話時代の痕跡がひとつ残っている。つまり、私たち人間を独自の存在にしている何かがある、という考えである。たとえば今の場合、自分
ちを例外的なものとして思考するこの能力がまさにそれだ。私たちの知る限り、他のどんな動物も世界を理論的に理解しようとはしない。

人間精神の歴史を開始させる出来事が、確かに起きたからだ。ただし、私たちを作ったのは神々ではない。

すなわち、人類の起源はアートだということ。私たちが自分を独自の動物として思い描いたのはそのはじまりに、アートがある、ということだ。

われわれ人間は実のところ大昔から人工知能だったのだが、その事実は今日まであまりに注目されずにきたのである。実際に人間の思考は先祖が製作した物で形づくられている(道具、絵画、宝石、タトゥー、衣服)。

実際、重要なのは人間の想像力を超えたところに究極的に神が存在するかどうかではない。無神論者が主張するとおり、人間の想像の外に神が存在しなかったとしても、神の観念はあいかわらず人の精神に浸透している。
観念というものは、時空間にある物的現実において何も表象しなくとも、極めて強い力をもつことがあるのだ。たとえば数や記憶のことを考えてほしい。宇宙のどこにも数字の姿は見えない。

ところが、数字や記憶がなければ人間社会は存在しないだろう。社会は人間の想像力と本質的に結びついているのだ。

想像することは、誤った思い込みをすることではない。

想像力の働きは、サルトルがそう信じたような、無を物質化することではないのだ。
 想像力はいかなる意味でも現実を超越しない(というか、何ものも現実を超越しない)。想像による現実の変容は、まさに現実の内部で起きている。私たちか想像することは、想像される限りにおいてまさに現実なのだ。そうでないとしたら、私たちは夢を見るとき現実を離れてどこか別の場所へいっている、ということになってしまう。アート作品から湧き出す空想や夢、美的経験は、私たちを紛れもなく現実の何かと結びつけている。なぜなら、アート作品や、夢のなかで再編された記憶は、現実をむしろ増すからである。そうしたものは、現実から何も取り去りはしないのだ。
 想像力はそれ自体、現実の一部である。

往々にして「神」は存在する最も強力な観念の名だからだ。「神」というのは、想像しての堅い核、その中心に付けられた名である。

どんな一神教も、人間は神の似姿として作られたと教えている。つまり、人間は模造の知性として作られたのである。

したがって、人間という観念は一種の人工知能の観念であり、ゆえにアートの観念なのである。

 

 

アートの価値

私たちは明らかに、車や住居やスマートフォンをその使用価値で購入していない。デザインとアートと美の間に戦略的な同盟が結ばれたことで、私たちは贅沢品の消費品になるように誘われている。並行して、一九六〇年代から急激に加速した現象がある。最も純粋な形態のアートも含めて、アート自体が商品に変わったことだ。

近代の古典芸術のあり方は、実際に権力の顕揚や、公的領域における象徴秩序の構造化に寄与していた。

アートにはひとつの本質がある。そしてその本質は、他の影響力と絶え間なく対立する関係にある。

たとえばアートの美的内容は、アート作品を自己表現の手段にする、イデオロギーの形をした蛮力に左右されるものなのか。
 私はこの問題について、アートこそが権力を支配している、といういくぶん意表をつく考えを主張したい。

アートと権力の関係をめぐる私たちの考えには、根本的に誤った暗黙の前提がある。それを捨て去ることが必要なのだ。
 その前提とは、アートの価値が観察者の目に宿るという考えである。

これを「美的構築主義」という。美的構築主義とは、アート作品が、それ自体としてはまったく美的でも芸術的でもないような影響力から生まれる、と信じる立場のことだ。

ダントーが論文で強調したのは、アート作品が本質的にアートワールドの構成要素であるということだった。

つまり、アート作品の見た目をしたオブジェであろうと、適切な文脈に置かれない限りはアート作品になれない、ということだ。

便器のような拾い物がアート作品になるのは、アートワールドの文脈においてでしかない、という考えだ。

美術館のトイレにある小用便器と、デュシャンが展示した便器は、素材として違いがない。

美的構築主義の考えでは、そうした便器のうち一方がたとえばマイヨール美術館に展示されており、もう一方が店舗で使用されているという事実こそ、まさに前者のアート作品としての身分を決定づけている。

アートは「アート」という文脈に置かれない限りそれ自体として価値をもたない、ということになるだろう。
 これは明らかに、経済価値理論の曲用である。

五ユーロ札そのものに五ユーロの価値はない。

お腹が減ったら、五ユーロで買った食べ物を使えばいい。だが五ユーロ札を食べたところで満腹にはならない、というわけだ。
 交換価値は需要と供給の法則にしたがって変動する。ところが、お金は「経済」という文脈のなかでしか交換価値をもたない。

私たちはやはり何がしかの価値があると信じている。信じている理由はただ一つ、権力をもつ十分な数の人々と制度により、お金に価値があると納得させられて、いるからだ。
 私はここで、美的構築主義の暗黙の諸前提に代えて、ラディカルに異なる代案を提示したい。

それは要するに、以下のような主張に対して異議を唱える議論だと言える。すなわち、現実とは人間の心によって構築されたものであり、言葉や権力構造や信念その他でできた、構築物とみなすべきだ、という主張である。だが、現実を構築物と考えるべき理由がそもそもないとしたら、アート作品を構築されたものとみなす考えにしがみ付く必要などあるのだろうか。
 一般的な傾向として、アートは構築主義の言葉で語られている。

プラトンとアリストテレス以来、芸術哲学は伝統的に、現実の美しさを現実それ自体のなかに見出そうと努めてきた。だとすれば、なぜアート作品を構築物と考えねばならないのか。
 美的構築主義を陰で支える問題の元凶は、現代的ニヒリズムという、人間をいまだ牢獄に閉じ込める例の世界観である。現代的ニヒリズムはこう主張すら。それ自体としての現実は、自然科学の対象でしかありえない。

現実に存在するもの、現実的なものが、私たちの感性に直接現れることはない、と。

確かに、アート作品は本質的に私たちの感性を頼みにしているので、制作のもととなる物質に還元できないことは事実だ。

◉ある作品を鑑賞するとき私が抱く美的経験を、アーティストの側で勝手に予測したり、産み出したりすることはできない。ある作品を前に鑑賞者一人ひとりが感じることを正確に予測する力など、誰ももってはいないのだ。

モネが美を生み出したというのはナンセンスである。せいぜい言えるのは、彼が何か美しいものを作ったということでしかない。

美は心理学的な構築物ではないので、人間が一匹の動物として良い、悪いと感じたことのみに還元できない。

美は単に美学的な成功を示す規範の名であり、醜悪はその反対である美学的失敗の名にすぎない。アート作品を生産し受容する文脈の外で何が美しく、何が醜いと言われるかは、単純に言って、アートの価値に関する議論から存在論的に独立したことなのである。
 別の言い方をすれば、私たちは美しいものの経験を、快楽から区別すべきなのだ(両者はたいてい結びつくことが多いとはいえ)。イマヌエル・カントは『判断力批判』において、美的なものと心地よいものは区別されると述べた。


ただし、カントの議論にはひとつの問題があった。美は見る者の目に宿る、と考えたことである。

 

 

美学と知覚

知られるように、近代哲学、とりわけカントと一八世紀における彼の先駆者たち(とくにデイヴィッド・ヒューム)が、芸術哲学を美学=感性論に変えた。美学とは知覚を扱う専門分野である。

芸術作品(に限らず、あらよる素晴らしいものや崇高なもの)は、私たちが事物をどのように知覚するかな関して何かを教えている、したがって、アート作品を知覚するとは、知覚に関する何かを知覚することである、と。

そうした投影のメカニズムを決定する諸原則について説明することで、単純か主観主義に陥ることがないよう、カントは構造という概念を用いている。

私たちが外の現象世界と知覚的関係をもつときには、あらゆる主観に普遍的に備わる構造が働く。美的判断は主観の普遍的構造と関係しているのだから、客観的である、というわけだ。

アート作品はあるがままの現実について私たちに何も伝えておらず(われわれは現実そのものにアクセスできないとカントが考えていたことは有名だ)、むしろ私たちが上記の現実をどう眺めているかを教えている。

したがって、ある作品が「成功している」とか「アートとして優れている」と言うとき、つまり、ある作品を美しいと判断するとき、それが意味するのは、自分がフクロウのようなものを眺めるときのそのやり方について何か学んだ、ということになる。『ツイン・ピークス』の有名なセリフを引用すれば、アートにおいて「フクロウは見かけとはちがうというわけだ。

ルネ・マグリットが有名な《イメージの裏切り》で示したように、パイプはパイプではないのだ。

伝統的なカント哲学は、アート作品が実際には決して現実を扱っておらず(現実のフクロウやゲルニカの爆撃やパリの大通りを扱っておらず)、つねに私たちが現実を知覚するやり方だけを扱う、と主張する。カントはアートを、アートが鑑賞者に与える効果に還元したのである。

カント哲学の枠組みでは、アート作品は他の対象と同じように、私たちの知覚から引き離されている。

人間の知覚は、どこか別の場所から現実を観察しているわけではない。カントの試みの出発点はまさに、客体を(現象としての)現実に位置付け、主体(思考を思考する者)を客観的現実の外に置くことにあった。しかし、この考えには根本的な不備がある。というのも、それでは私たちが自分の知覚の対象と同じ領域に存在することが説明できないからだ。

私たちが対象を知覚できるのは、その対象と同じ領域に存在しているからにほからない。私の哲学用語で言うなら、同じ意味の場に存在しているということだ。意味の場とは、簡単に言えば、特定の仕方で現れたさまざまな対象の総体のことである。

今並べた対象は、さまざまなやり方で繋がっている。たとえば、規制は食品生産を管理する。天気予報は観光客を動かす。建築物は私たちの動きを編成する、などなど。

意味の場は無限にある。対象を見る無限のやり方があるのだ。

現実はそれ自体無限に複雑である。このことは、数学に無限が存在することから推論される確かな事実だ。対象を組み合わせ、それを編成し、また再編成するやり方は、無限にある。

デイヴィッド・ドイッチュ『無限の始まり』

私が意味の場と呼ぶのは、典型的に言って、今われわれの前に広がるさまざまな対象の編成のことである。どのような形であれ、私たちはまさに意味の場のただなかにいる。ここで心に留めるべき重要な点は、その意味の場を作ったのが、私たちではないという点だ。

今ここに存在するすべては、誰かが作った製品や作品ではない。端的に、無数の対象と意味の場があるのだ。

それゆえ、一方に精神を切り分け、他方に世界を切り分けることはできない。

精神はひとつの意味の場であり、現実に関わる一部としてまさしく実在するのだということを、理解しようとつとめるべきなのだ。それが理解できてようやく、「心の外にある(エクストラメンタル)」現実という幻想を厄介払いすることができる。精神の外部にある現実こそが、存在するということや実在するということの意味を決めている、という幻想をふり払わねばならない。なぜなら、まさしくこの誤った偏見によって、私たちはアートの力に対して盲目になるからだ。

私はすべてが心的であるとか、何らかの形で心のなかにあるとは言っていない。もちろん、現実のいくらかは心の外にあり、その意味で、外的な現実を形作っている。しかし、その外的現実こそが現実で、他には何もない、ということにはならない。外的現実は現実のひとつの範囲であり、無数の意味の場のひとつにすぎない。

 カント美学の核心をなす前提には、近代哲学と同じ基礎的誤りがある。精神と世界を対立させるという誤りだ。

カントは次のように想定した。すなわち、アート作品や他の美しい対象が知覚可能な現実の外にいる存在について、いろいろと教えてもらえるのだ、と。

私は自分が物理世界に存在する単なる感覚的物体ではないと認めるのにやぶさかではないし、われわれ人間存在が本質的に感性の領域を超越するものであると認めてもいい。だからといって、アート作品は実際に知覚可能な諸現実とは無関係である、などと誤解する理由にはならない。
 以上のことは、「知覚」の意味について考えさせる。

現象学モデルによれば、私たちは対象を知覚するとき、物自体の影ないし射映(Abschattungen)を参照している。

〔訳注〕『現象学辞典』によれば「事物が直感される際の特有の与えられ方」。同じ対象も見る角度や時間帯でさまざまに違って見える。私たちは、同一のものを異なる像の現出において認識する。これを現象学においては、事物が「射映する」と表現する。

テーブルを視覚的に眺めるというそのことだけで、テーブル全体は私たちの知覚から隠されてしまうからだ。テーブルに関して見えているのは、せいぜいひとつの観点からの眺めにすぎない、というわけである。
 以上のモデルの根本的に厄介な点は、懐疑論を増長させることだ。

現在「思弁的実在論」の旗印のもとに集まる哲学的考察のほとんどが、まさにこうした懐疑論的視点を現象学から借用していることに注意しよう。

私たちが対象を補足しようとしても、対象はそこから逃れていく、というわけだ。

アートは、事物をあるがままに知覚できない私たちの無能力が露呈される一場面にすぎない、というわけだ。

現象学モデルは次の明白な理由によって根本的に間違っている。つまり、私たちは現に対象を知覚しており、また実際に知覚のおかげで対象について多くを教わっているのである。

アート作品は、科学的対象であれその他の対象であれ、普段目にする対象とは明らかに異なる。というのも、アート作品は知覚関係のなかに入り込むことで、自分自身を知覚させるからだ。

アート作品には、人に自分を思考させる能力があるのだ。そしてその能力は、私たちがアート作品について考えるときに発現する。

 

 

ロダンの彫刻《考える人》

あなたが「この奇妙な作品は何を意味するだろう」と自問するやいなや、彫像はあなたを考えさせる。作品はあなたのうちに様々な思考を呼び起こし、そのようにして作品それ自体のことを考えさせはじめる。アートはこのように、私たちの神経システムと精神を使って自分を現実化するのだ。

新実在論モデルは、射映〔Abschattung)の概念を、波動(Abstrahlung)という場の概念に置き換える。

太陽がわれわれの感覚センサー(私たちの肌、神経終末、その他)を触発できるのは、太陽の電磁場が私たちのところで拡がっているからにほかならない。私たちはそれを陽の光として感じるのだ。

私たちの知覚は、太陽=場の性質を、その太陽=場のなかで自分の置かれた位置から測定する。要するに、私たちは太陽のなかにいるのだ!地球は太陽から遠くにあるのではない。

今われわれが暮らす地点は、太陽のなかの居住可能な一部分なのだ。

知覚とは、二つの孤立した物体(太陽と私)の間に生じる外的な関係ではない。それは、さまざまな意味の場が固有の仕方で重なり合ったものであり、それが「知覚」と呼ばれる現象を引き起こすのだ。

この点に関して、フランスの哲学者ジョスラン・ブノワは適切な指摘をしている。それによれば、私たちを欺くのは知覚的見せかけではない、現象に対する私たちの解釈なのだ。ブノワによれば、解釈による欺きは、たとえば有名なミュラー・リヤー錯視のような場面で生じる。

仕組みを知っていたとしても、錯覚を修正することはできない。錯覚は、脳が長さを認識するとき用いる知覚システムに、あらかじめセットされているからだ。

そうした知覚的見せかけが知覚対象と一緒に現れるおかげで、私は実際に知覚する対象について、より多くのことを知りうる立場にある。
 表面に現れない自然の力や物理力は、知覚を構成するプロセスと同じく、どこか隠された別の世界に存在しているわけではないし、私たちの手の届かないところにあるわけでもない。逆にそうした力は、私たちがそれ自体としての事物、つまり太陽やテーブルなどの知覚対象に、直接触れるための手段なのである。

注意すべきことは、知覚が三項関係だということだ。つまり、①知覚対象は、②知覚する者に、③知覚的見せかけの形をとって現れる。私たちはこれを知覚対象それ自体の属性として理解してかまわない。知覚対象がもつ属性には、知覚されるという関係のなかで見出されることが含まれるのだ。知覚されることは現実に起きる出来事であり、非物質的な精神に現れた想像上の出来事などでは決してない。知覚は事物の核心において、現実に生じている。

私たちがモネの絵の上に知覚するのは、私たちの太陽の知覚である。つまり、そこで私たちはひとつの関係を知覚しているのであり、ありふれた対象を知覚しているのではないのだ。
 美的経験、すなわち、アート作品の知覚は、一般に間接的段階の知覚関係である。知覚関係についての知覚関係なのだ。

 

 

パフォーマンスとしての解釈

解釈や想像は、そこでどんな役割を果たしているのか、と。

つまり、私たちは決してアートを知覚のみで受容していない、という事実だ。

交響曲を理解すること、つまり、そこに単なる雑音ではなく音楽を聴くということは、その構成を聴き取るということだ。つまり、連続する音響現象を分節している、その規則を聴くことなのだ。

《4分33票》は沈黙の楽曲ではない。それは、聞こえてくる雑音のなかで、人に自らを聴き取らせる構成=作品なのだ。

アート作品はひとつの観念によって編成されており、それによってさまざまな感覚的要素を統合している。

「自由な通行の障害物」

アート作品をひとつの対象(オブジェ)とみなすことには、自由な交通の障害物と思考や知覚の対象を混同させるという問題がある。

ロダンの《考える人》

青銅と、形と、表現された観念である。アート作品はこの三つの要素のどれにも還元できない。作品とはまさしく、青銅と、形と、表現された観念を一緒に貼り合わせたもの、その組み合わせ自体なのである。

アートは、作品それぞれ諸要素のユニークな組み合わせ(意味の場)を成すという点で、ラディカルに自律している。だからこそ、それ自体としてのアートは、公共空間やその社会政治的な構造を超越する。人間は社会政治的な関係のなかで自分の振る舞いを取り締られているが、アートはそうした人間の社会政治的秩序に属するいかなる規則にも従っていない。アートそれ自体は、制度ではないのである。

オーストリアの彫刻家アーウィン・ワームは、有名な《一分彫刻》シリーズを通して、まさにそうした考えを表現している。

彫刻は、伝統的な動かない塊状の見た目をしていようといまいと、アーティストが造形した対象(オブジェ)なのではない、ということだ。《一分彫刻》の場合、アーティストだけでは作品を完成させることさえできない。

つねに別の解釈の余地がある。楽譜とその実演を「演奏」と呼ぶ意味での解釈である。解釈は文字通り作品の一部をなしている。アートの自律性を理解するためには、そうした意味における解釈=実演(インタープリテーション)の契機が不可欠なのだ。◉解釈というのは、理論的な構築物でもなければ、しかじかの作品をめぐる学識豊かな注釈でもない。解釈とは、その都度行われるパフォーマンスのさまざまな実例なのだ。

アーウィン・ワームの《一分彫刻》は、アート作品のそうした性格を明らかにしてくれる。

《考える人》によって表現された「考える人」という行為は、実のところ、そのブロンズ製のオブジェと鑑賞者の間に生じている関係そのものである。《考える人》という作品は何を意味するのか、と私たちが問うとき、知覚されているものと、私たちがその対象と向き合うやり方の間に、思考を通じた関係が打ち立てられる。彫刻を解釈するやいなや、私たちが《考える人》になるのだ。

私たち人間も、多くの他の動物たちも、関係の形式のなかで対象を知覚する。その形式には、たとえば、色や音、匂いや硬さ、サイズ、動きなどが含まれる。この形式を超えてしまうと、私たちはヘーゲルが皮肉を込めて「不定形な塊」と呼んだものとしか関係を結べない。



客観性や安定性はもっぱらカテゴリーに由来するものだが、物の領域それ自体にカテゴリーはない。それでもやはり、物の領域は自己に対して、反省に対して存在している。

自然を認識しようにも、自己意識が自然に注入する血管がなければ、ただの感覚しか残らないのである。
 そうなったら、今度は経験におけるカテゴリーの客観性や、そうした関係の必然性の方も、何か偶然的なもの、主観的なものとなることだろう。G・W・ヘーゲル『信仰と知』

知覚主体と客体の間に結ばれる関係は、それ自体が実在の一部を成している。関係はそれ自体完全に現実なのである。知覚は私たちの頭のなかにあるわけではない。

私は自分の心や脳のなかで何かを生み出しているのではない。知覚は現実に、そこにあるのだ。ただし、あなたに私の知覚を見ることはできない。なぜなら、それは定められた
鑑賞者と対象の間にある関係だからである。関係それ自体は、誰からでも知覚できる対象ではないのだ。
 驚くべきことに、このことを最初に理解した哲学者のひとりはアリストテレスだった。

彼は『魂について』のなかではっきりこう尋ねている。われわれは対象をさまざまに異なった感覚形式で扱うのに(彼が言っているのは、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のことだ)、どうしてひとつの対象として知覚できのだろうか、と。そこからアリストテレスは「共通感覚」という仮説を検討した。感覚器を通じて得られる経験は、共通感覚によって対象をめぐるひとつの知覚的経験に統一される、と考えたのだ。

アリストテレス『魂について』『心とは何か』

だが私が考えるに、アリストテレスは共通感覚の可能性を放棄している。代わりに彼は、対象と知覚主体の間に、彼が「ロゴス」と呼ぶ関係が打ち立てられる、と考える方を好んだ。その関係、つまり知覚は、さまざまな感覚様式に付け加えられた、別の感覚様式のようなものではない。しそうではなく、ロゴスは知覚関係がとる形式なのだ。

私はただ、自分に備わる脳の力を借りて、ひとつの選別を行っているにすぎない。アメリカの哲学者マーク・ジョンストンが考えるように、私たちは目の前にあるものを選別して受け取るだけで、私たちがそれを生み出すわけではないのだ。
 その意味で、私たちはテレビ受信機に似ている。

受信機は番組を受信しているのだ。

テレビはメタレベルのメディアであり、そこにはすでに、ある関係に対する別の関係が含まれている。

《考える人》に話を戻そう。

問うべきはむしろ、「《考える人》を前にしたとき、私たちは何をしているのか」という問題である。この問いに対する私の答えはこうだ。そのとき、私たちは《考える人》と呼ばれるアート作品を現実化している。

ヴェスヴィオ山が私たちに自分を知覚させるように、青銅像は私たちに自分を思考させる。《考える人》を前にしたとき、私たちは考えずにはいられない。このように、私たちはアート作品それ自体の構成に組み込まれているのだ。
 アート作品は解釈抜きには存在しない。ただし解釈といっても、決して明示的、理論的なレベルでアート作品を意味付けなければならない、ということではない。アートを解釈することと、理論的に分析することは、はっきり区別されねばならない。アート作品を解釈するとは、作品を知覚したり、それについて考えたりすることである。アート作品を知覚し、それについて考えることは、外側に現れる活動ではない。

すなわち、アート作品がそれを通して知覚され、思考されるような、ひとつの意味が存在する、ということだ。◎アートは客体化された主観性である。ただしそれは、自己反省を引き起こすような対象化を介して、現実のうちで自らを思考する思考なのだ。

たとえば、ジョセフ・コスースの《Four Colors, Four Words》を考えてみよう。

答えがどうであれ、この作品は鑑賞者が理論的分析をするように誘いかける。これがたとえばピカソの彫刻なら、そうしたことは起きない。

ピカソの彫刻作品がアートとして存在するためには、やはり解釈される必要がある。だからといって、ピカソの彫刻をアート作品に変えるために、概念的、理論的なレベルで分析をする必要があるわけではないのだ。

自律性、ラディカルな自律性、オリジナリティ

構成する(com-pose)とは文字通り、物事を一緒に配置することだ。

作品はさまざまな層で構成されており、その層のどれかひとつに作品を還元することはできない。これは決定的に重要な点だ。

対象指向存在論とは、現実、つまり実際に存在するものは個々の客体である、と主張する理論のことで、とくにアメリカの哲学者グレアム・ハーマンに代表される考え方だ。

曰く、現実は、われわれには捉え難い本質をもつさまざまな客体でできているという。ハーマンによれば、個々の客体は、私たちに明かさない側面をもつ。この世界は謎めいた客体たちからなる世界であり、アート作品がしばしば神秘の後光に包まれるのは、そうした事物のありようがアートにこだまするからだ、とハーマンは主張するのだ。

なるほど、アート作品を理論的分析に還元すると、客体やそれが有する内的構造が目に入らなくなる(これぞポストモダンの文学理論が促進してきた傾向であり、ハーマンはそれを正当化さに批判している)。◉客体や、その内的構造がなかったら、理論的分析を始める理由などそもそもないだろう。解釈がなければ、アート作品は単なるオブジェか、たまたまそこにあった人工物でしかない。私たちは解釈によって作品に触れるのだ。対象〔オブジェクト)指向存在論はそうした解釈的次元を無視している。だが解釈的次元なしには、客体の神秘的なオーラもまた存在しないのである。

自律性とはもちろん、物や人がそれ自身の法則によって支配されていること、自身を構成する法則以外の何ものにも従属しないということだ。

イマヌエル・カントの実践哲学によれば、人間もまた自律した行為主体である。というのも、人間は心に抱いた自己像に従って行動するからだ。私たちは、自分自身や他の行為主体、あるいは自分を取り巻く対象について、その大部分を想像のなかで理解している。
私たちは、自分が何ものであり、またどうありたいかという考えにしたがって、自分の生を生きているのだ。これこそ、サルトルが私たち人間の投企(プロジェ)と呼んだものである。カントが「格律」として語ったことについて、サルトルは類似の洞察を抱いた。つまり、人間存在は、先へと投影された自分の姿を目掛けるのだ、と。
 われ、おのれの投企を抱く、ゆえにわれあり。人間同士の投企は互いに重なり合うが、つねに個人的に解釈される。そこから、人生それ自体をひとつの芸術作品とみなす考えが生まれてくる。

確かに、カントは人間の投企に自律性を認めている(カントはそれを個人の行動原則と呼ぶ)。だが、それは私たちが何らかの普遍的構造、つまり、人間的存在としての構造を、互いに共有する限りのことでしかない(ドイツ語ではその普遍的構造を人間性と言う。サルトルは「人間的現実」と呼んだ)。私たちは個人として自律するのではない。むしろ反対に、自分の行動をどの人間にも妥当する普遍的なものとすることで、自律するのだ。
 カント哲学に適う意味で自律すると言うなら、人間の行為をつかさどる内在的規範は、絶対に各人固有のものであってはならない。

だからこそ、人間存在を構成する自律性と、より個別的でラディカルなアートの自律性とを混同しないよう注意する必要があるのだ。

人間的な自律性は、人間存在の普遍的構造に備わる特徴である。この構造によって、私たちは無生物や動物といった他の自然的要素から厳密に区別される。またそうであるからこそ、私たちは脳ではないし、自分の生体組織のどんな下位システムでもないのだ。私たち、あなたや私を同じ人間にしているのは、まさにあなたと私を区別することのない何かだ。人間性とは、他の人間と本質的に共有された何かなのだ。人間同士に深い違いはない。なぜなら、私たちには同じ形式が共通に備わっているからだ。つまり、それが人間的な自律性なのである。
 人間的な自律性とは逆に、アートの自律性は、作品同士の深くラディカルな差異を際立たせる。

アート作品をアート作品たらしめるのは、別のアート作品とは構成的に異なる、という事実なのだ。

さしあたって重要なのは、人間がアート作品ではない、ということなのだ。

アートを人生と合致させようとする試みが、直接てあれ間接であれ、必ず悪の肯定に至るのは、そうした理由による。

ボードレールの『悪の華』は、明らかにそれをテーマにしていた。人間が自分をアート作品にしようとすると、不道徳になる。なぜなら、アート作品は普遍的なものに逆らうからだ。アート作品は普遍的な法則の支配のもとでは存在しえない。


その作品が成功しているか失敗しているか(美しいか醜いか)を私たちに判定させる法則は、当の個別のアート作品そのものに内在するのだ。美の普遍的な基準はない。アート作品それぞれが、自分に課す基準があるだけだ。
 ここにいたって、私たちはようやく自律性とラディカルな自律性を区別できる。

アートのラディカルな自律性は、次のことを意味する。つまり、ある作品を個別化する原理(その構成)は、他の作品を個別化する原理と何ら共通する本質をもたない、ということだ。

アート作品とは、さまざまな意味の場の組み合わせなのだ。ある作品においてさまざまな意味の場がつなぎ合わされるそのやり方(つまり、その作品の意味)は、ひとつに構成されており、その作品の内部からしか理解できない。作品は自分で自分に固有の法則を与えるのだ。

アート作品には、追加のパラメーターがある。つまり、作品が存在するために解釈されねばならない、というパラメーターがある。アート作品は本質的に解釈に依存する。

アートのラディカルな自律性は、厳密な意味でのジャンルの可能性を否定している。

芸術宣言やジャンル、その他の一般的カテゴリー(美術館の説明書きにあるようなもの)は。しばしばアートのラディカルな自律性を覆い隠す傾向にある。

アーティストの選択は、何らかの全体的な傾向(スタイル、流派、素材など)によって決められており、だからこそ作品が印象主義とか表現主義、モダニズム、バロック、抽象などと呼ばれるのだ、と。だが、そうした分類は、アートのリアルな力について何も教えてくれない。なぜなら、アートの力はその純粋な特異性に宿るからだ。
 実のところ、アートの自律性は人に恐怖を抱かせる。もっともなことだ!

アートに抵抗することもまた必要なのだ。私たちは、拡大するロマン主義的唯美主義に逆戻りしないように気をつけなければならない。ロマン主義的唯美主義は、人生、政治、倫理といつものが、あたかもアートの存在論によって根本的に支配されているかのように考える。

ジョセフ・コスースも述べるように、アートを定義するのはアートである。これは無益な同語反復(トートロジー)ではないし、アートの本質を問うことから逃げているのでもない。

つまり、アート作品はラディカルに自律した個体である、ということだ。

個体とは、同じ場にある別のものから区別されるもののことだ。私はあなたではない。

重要なのは、ある要素が個体であるのは、他の要素が自分にない特性をもつ場合であり、かつその場合に限る、ということだ。

アート作品は個体である。アート作品はすべて互いに異なっている。ただし、アート作品が個体化する上で最も重要な原理は、作品がもつ物理的属性や時空間における属性ではない。だからこそ、拾い物というアイディアには意味があるのだ。

デュシャンは便器をアート作品に変えたわけではない。作品をなすのは、便器を展示するというアイディアである。

作品を個体化するのは、その構成だ。

どのアート作品の構成にも、意味の場のひとつとして、その作品をめぐる解釈が含まれている。作品の解釈者の一人ひとり、またその全員が歴史的に展開する解釈も、作品の構成に含まれる意味の場だ。その意味で、アート作品の構成が、それ自体完成されることはありえない。アート作品が完成されるのは、私たちがその作品の解釈をやめたときだけだ。あるアート作品に誰かが美的に関わり続ける限り、その作品はいまだ十分に理解されていない。アートの理解が、アートの終わりなのである。

どんなカタログを見ようと、どれほど普及した説明体系を使おうと、ある展示品よりアートとしと優れていることを演繹的に証明することはできないのだ。

ラディカルに自律した個体であることは、アートの質の基準にならない。それは単に、アートの基準であるにすぎない。ある作品やアーティストがほかより優れているかどうかは、その場その場でしか判断できないのだ。
 まさにそれこそが、私たちの評価する、アートのオリジナルなのだ。たとえ全知の神であろうと、アートの歴史が次にどう展開し、次にどんな作品が名作と呼ばれ、どんな反響が起きるかを予測することはできない。

アートはつねに出来事の連続として存在してきたからだ。だからこそ、出来事に関する多くの理論家たち(一番有名どころはハイデガー、一番明快な論者がジル・ドゥルーズ)は、出来事を語るにあたってアート作品に依拠した。

アート作品は、純粋に概念的(形而上学的)な説明によっても、経験的な説明によっても、その存在理由を先取られることなく、到来するのだ、と。

その思潮は、テオドール・アドルノの『美の理論』にたいへん明瞭に表れている。アドルノの考えによれば、優れたアートは(キッチュなものや文化産業製品とは反対に)非同一的な物」を露わにするという。
アドルノの言う「非同一的なもの」とは、概念ではないもののことだ。基本となっている考えは単純である。私たちは分類整理することで現実を理解する。分類整理とは、ある種の述語づけだ。私たちは特定の対象を、何らかのカテゴリーに帰属するものとして認識する。

ところが、対象なら何でも概念になるわけではない。

つまり、一回的な出来事や対象に対しては、直接カテゴライズすることなく関係しなければならないのだ。アドルノが理論的主著の『否定弁証法』で扱った問題は、これだった。さらにアドルノは、『美の理論』のなかで次のように述べることで、概念的なものと概念ではないものの関係をめぐり、議論への決定的な貢献を行なった。曰く、アートの力は作品の存在論に宿る。偉大なアートは、絶対に特異であり、あらゆる概念的カテゴリー化を拒む、ということだ。
 要するにアドルノはこう考えたのだ。アート作品は、私たちが現実との関係(人間的な認識と知覚)において、それ自体少しも概念的ではない何かとして接触していることを証明する、と。だとすれば翻って、現実には出来事の形式があることになり、そしてアートは鑑賞者に対して、というよりアドルノのような芸術理論家に対して、出来事を反省的にアクセス可能なものにする力がある、ということにもなるわけだ。

ところで、意味の場を結び合わせることは、まさしく概念が一般的に行うことなのだ。概念とは、意味の場の組み合わせだからである。それゆえ、アート作品をラディカルに特異な概念とみなすことができる。つまり、その概念下には、その概念によって具体化されたアート作品というただひとつの対象しか該当しない、そのような概念として、アート作品はどれも、他のアート作品を排除するのだ。

そうした概念の次元は、「言語論的転回」(Linguistic Turn)と呼ばれるものの後遺症によって、今日では分かりにくくなっている。

つまり、概念は人間が言語として使用するものに限られる、と考えているのだ。だがこの議論はさまざまな水準で間違っている。
 第一に、他の動物が概念をもつ可能性を除外している。それは誤りだ。他の動物が自分の環境をカテゴリーによって分類学しないことなどどうしてあるだろうか。

概念を表明する言葉をもたなくても、概念をもつことは可能なのだ。
 第二に、言語論的アプローチは、人間の思考を、言葉による表現とあまりにも同一視しすぎる。

ここでは、次のことを踏まえておくだけでいい。つまり、一般的に、概念は言語としてエンコードされているわけではない、ということだ。そうでないとしたら、私たちはあらかじめ言葉が当てはまること以外は何も細かく思考できない、ということになってしまう。

ドゥルーズはこう考えた。現実が私たた抜きで概念を作り出すことはないのだから、概念を創造するのは私たちである。それゆえ、哲学とアートなつながる部分がある、と。ところが、アート作品がさまざまな意味の場をまとめるとき、そうした意味の場のすべてがドゥルーズ的な意味で完全に概念的であるわけではない。

つまり、概念のなかには、それ自体は概念でできていないような、現実に結びつく概念がある、と。

概念は対象をひとつにまとめる。だが概念によってひとつにまとめられたものが、それ自体ひとつの概念であるとはかぎらないのだ。

アート作品は、さまざまな意味の場を結びつける概念なのだ。その意味の場には、感覚器官を通じて知覚される場も、その都度含まれるにちがいない。だからといって、感覚器官を通じて知覚されるアート作品の様相を、作品それ自体と決して混同すべきではない。要するに、どんな作品であれ、単に視覚的であることもなければ、単に聴覚的であることもないということだ。私たちがアートに接するとき目にするもの、耳にするものは、アート作品ではなく、ある作品を成り立たせている意味の場や対象の一部なのである。
 感覚能力なしにアートは存在しない。アート作品は、私たちが知覚するよりほかない諸現実に基づく。アート作品はさまざまな対象を結集させる。だが、アート作品はそうした対象によって構成されているわけではない。反対に、アート作品こそが対象を構成しているのだ。
 ところが、ラディカルに自律するアート作品の性質は、〔感覚能力が捉える〕対象をより広い意味での対象に変化させる。

私が〈新しい実在論」に貢献したのは、まさにこの点で、それは現実が物理的な対象や自然科学に帰属する対象だけで作られているわけではないことを示すものだった。すべての対象が、自然科学で研究される因果性の原理に支配されているわけでさない。思考や記憶、未来、フランス、道徳的価値、ジェド・マルタン(ミシェル・ウェルベックの小説『
地図と領土』に登場する画家)、数学などのように、対象のなかにどこであれ「そこに」あると言えないものがある。

アート作品は何にも還元できない現実だ。

物理世界にある諸対象は実在のパターンを表しているが、そのパターンは私たちが作り出したものではない。ひょっとすると、物理的対象とは実在のパターン、複製可能な構造なのだ、と言うべきなのかもしれない。だが、この議論は私たちを再び科学哲学、自然哲学の方へ連れ戻してしまう。
 ここで重要なのは、物理世界の対象についてなら、私たちはそれを解釈することなしに研究できる、という点だ。私たちが自然という書物をどう解釈しようが、それによってボース粒子を構成することはない。

自然は人工物ではない。誰かが生み出したものではないのだ。

明らかに、宇宙の大多数の出来事や構造、対象は、私たちの能力が生み出したものではない(われわれ人間存在が、地球とその環境にある程度物理的インパクトを有するとしてもだ)。

仮に神ないし神々がいるとしても、神が現実を創造したということと、宇宙の因果性とを混同してはならない。

アート作品は自然なものではない。

その構造は、感覚器官を通じて知覚したり、自然科学のプリズムを通して研究したりできるものではない。アート作品は解釈されねばならない、つまり、上演(パフォーム)されなければならないのだ。
大学では、さまざまな観点や専門性に立って、アート作品を理論的に分析する。それは、私たちの脳や精神において作品がどう上演されかを、メタレベルで調査することだ。

そうした分析によって、自然法則が発見されたり、宇宙の構造が見つかったりすることはない。代わりに私たちは、そこで何にも還元できない諸観念の実在に触れるのだ。

二つの異なる作品に共通する構成は存在しない。

まさにそこで、私たちは作品の還元不可能で、絶対に特異な構成と出会うのだ。

アートと(権)力

アートのラディカルな自律性は、人間の生を袋小路に引き込む。その袋小路は、アートの力を表明している。

私たちの経験は、作品の構成について考えるという経験も含めて、アート作品が自分で自分を構成することに加担しているのだ。われわれの経験が作品の自己構成に参加するそうしたやり方のことを、一般に美的経験と呼ぶ。美的経験の問題は、私たちをそっくり作品に吸い込んでしまうことだ。

私たちが作品に引き込まれるかどうかは、私たちではなく、作品自体に帰属する権力である。

どれほどアートの歴史を学ぼうと、特定の作品に対する準備にならない。

理論的分析ができれば、美的経験について考証することもできるだろう。

というより、美的経験は突然生じるか、生じないかなのだ。生きるとしても、それは作品のうちで生じる運動である。言い方を変えれば、そこに鑑賞者はいないのだ。

私が作品の自己構成に参加する限り、作品は私の精神を舞台に上映される。私の精神は、アートの自己顕示に変わるのだ。

構成のレベルで見るとき、『エイリアン』はむしろ次の事実を語っている。すなわち、映画それ自体が、自己創出のための宿主として、私たち人間存在を使っているということだ。

映画は私たちの精神をスクリーンにして投影される。

映画館のスクリーンに投影されるのは、情報を運ぶ光にすぎない。その情報を映画であると解釈するのは、観客である。

すなわち、映画館のスクリーンが私たちの現実に入りこみ、占領してしまう、という事実だ。

物語のプロットという幻想を追いかけているうちに、アート作品に捕らえられてしまうのだ。

このことから、美的経験のパラドクスという問題が生じてくる、すなわち、私がアートを体験するとき、私は存在することをやめる、というパラドクスだ。

人間の尊厳は、私たちが根本的に同等であるという事実に由来する。私たちの自律性は普遍的構造との関連において与えられており、その点で、私たちはみな等しくし尊厳をもつのだ。ところが、美的経験のなかでは、私たちは身動きが取れなくなる。私たちはそこで、ラディカルチャーな自律性を備えたさまざまなプロセスと力に服しており、そのプロセスと力の成り立ちについては何の口出しもできない。解釈とは、私たち自らが行う自由な行為でもなければ、自律した行為でもないのだ!アート作品は、至高に自由であり、強力である。その力は、異質な力であって、いかなる意味でも人間主体の統制下にはない。
 そこから分かるのは、私たちは自分で美的経験をもつかどうかを決められない、ということだ。

リドリー・スコットの映画『プロメテウス』や『エイリアン:コヴェナント」では、人間が異星人の意図によって作られた存在だということになっている。

これらの映画はプロメテウスのレベルだけではなく、構成のレベルでも、人間存在がアート作品の生んだ創造物であると告げている。私たちの自律性は、アートから借り受けたものなのだ。
 このように、人間の自律性に関しては二つの説が拮抗している。

第一の説によれば、人間存在は道徳法則に従うことで、歴史のある時点で成立したのだという。フィヒテによれば、人間は道徳法則に従うまでは人間ではなかったのである。私たちの人間性は、道徳への服従を経験するときにはじまる。だからこそ一神教は啓示があったと教えるのであるり、預言者が道徳的要請の形で神の意志を伝えたと主張するのだ。

第二のモデルはロマン主義的理想と呼ぼう。

私たちが意識的、能動的な思考者として存在しはじめるのは、象徴的な次元で人間的な活動と人間的でない活動とを区別しだしたときだからだ。

アート作品は、ただそのように存在するという以外に何の理由もなく存在する。存在するやいなや、アート作品は解釈される。

私たちは、アート作品の果てしないネットワークに埋もれている。

ブルーノ・ラトゥールは彼の存在論において、ネットワークそれ自体の存在様式を特権的なものとして扱う。

人間は誰しも、複数の意味の場に包まれて存在する。たとえば、私たちに備わる人体は、多様な下位システムを同時に維持している(そこには、私たちの身体に住むバクテリアなどの生命形態も含まれる)。私たちはいくつかの聴覚域を備えた、意識をもつ動物だ。私たちは自分のことを意識しており、自分を意識的な存在として思い描くことができる。私たちはまたフロイト的な自我でもある、などなど。多様な意味の場に現れた複数の自分の姿を統一できるという点で、私たちは皆等しく自律的な行為主体である。この統一は道徳的評価に服している。
 だがアートは、それ自体として自分を越えるいかなる評価にも服していない。そのことは、私たちの自律性が、アートにさらされることで促進されることがあるということを意味している。私たちが、アートの自律性を反映するのだ。

アートは無道徳的であり、無法的であり、無政治的である。したがってアートの力は絶対的権力なのだ。
 同じ理由によって、アートは無宗教的でもある。だから、一神教において、神がアートの出現に対して絶対的な闘争関係にあると言われるのは偶然ではない。

かつて哲学者たちは、絶対者はただひとりしかありえないと信じていた。それについて、スピノザは主著『エチカ』で見事に次のように論証した。曰く、絶対者とは、その存在が何にも由来しないもののことである。絶対者には、自分を創設する何かとの外的な関係がない。

こうした議論の全体の大枠に対して、ライプニッツは正当にも反論した。

すなわち、それぞれがラディカルに自律し、互いに完全に孤立した複数の(モナドと呼ばれる)絶対者が存在することは十分に可能だ、と。

アート作品は自余のすべてから孤立している。アート作品はわれわれ人間存在を自分のうちに引き込む。

非常に大きな質量をもって自律しているため、それに接近すると自分が消えてしまうのだ。

美的経験がもたらす変容は、誰かの作為によるものではない。

つねにではないが、たいていはアーティスト自身の解釈ということになる。

アート作品は自分を現実化するために、芸術家の精神を虜にする。この働きがなければ、作品が存在しはじめることはないだろう。何か作品の外にあるものが、作品の生命を指導させるということはない。

われわれが心に描く表象に限界があるのは、まさしくわれわれが非独立的なものを見ているからでなくてなんであろうか。神には物自体が直観できる。自体的に存在するのは、ただ永遠なるもの、すなわち、それ自身に基づくもの、意志、自由のみだ。派生的に生まれた絶対者ないし神性という概念に大した矛盾はない。それはむしろ、哲学全体の中心をなす概念であるほどだ。まさに神的性格が、自然には与えられている。神に内在することと、自由であることはまったく矛盾しない。

したがって不自由なものは、それが自由を欠く以上、必然的に神の外にしか存在できないのだ。
シェリング『人間的自由の本質』

シェリングにとって、存在するものはみな究極的にアート作品である。残念ながら、この魅力的な意見は、アート固有の真実を誇張して一般化したものだ。とはいえ、シェリングが神の思考とわれわれの思考の関係について述べたことは注目に値する。それはまさしく、アートの力の構造を表現している。

何か新しいことを考えることは、私たちの意識的な生に絶え間なく生じることだ。そうしたとき、思考は私たちの意識を乗っ取っている。

思考の方が私たちのところにやってくる。私たちの方から思考に先回りして、思考を生み出すことはできない。そんなことができるとすれば、私たちは何かを考えるとき、自分が作り出したいと望む思考に関する別の思考を明瞭に意識していなければならないが、そちらの思考はやはり私が作ったものではないだろう。別様に言えば、私たちが自分の思考を支配するのは、自分が現に考えている思考を介してでしかない、ということだ。私たちは思考されるべき思考を選り分けることで、自分の精神生活をコントロールしている。つまり、すでにある思考についてその通りだとか、間違っていると受け取ることで、精神生活を維持しているのだ。ところが、思考を選り分けるという活動それ自体すら、完全に自分のコントロール下にあるわけではない。人間の思考は別の絶対者だ。つまり、それ自身の法則(論理や知性の法則)にしか従わない何かなのだ。
 とはいえ、思考とアート作品はやはり異なる。アート作品は論理の法則に従っていないからだ。アート作品には多くの矛盾があってもかまわない。矛盾があるからといって、作品としてその存在が傷つけられることはない。

根源悪でさえ、善の観念を使って善を覆すのだ。
 アートな無論理的である。アートの構成は、ある議論の論証内容が無矛盾律や同一律といった論理学の普遍原理によって構造化されるようなやり方では構造化されていない。論理的に思考しようとするなら、私は自分の言葉が安定した参照先をもつことを確認しなければならない。

通常のコミュニケーションや理解は、意味論的な論理や規則に従う。だがそうした意味論の原則は、アート作品に必要ないのである。
 アート作品の無論理性は、作品のラディカルな自律性がもたらす特徴のひとつである。アート作品は個体であって、その存在はどんな普遍的構造とも結びつくところがない。

私たちの美的経験は、私たちの論理と、私たちの道徳的義務に反する逆説である。

その作用因子(ファクター)こそ、アートそれ自体なのだ。アートそれ自体は、鑑賞者の視線のうちに存在するのではない。私たちがアート作品を生み出すのではない。アート作品こそが、自分を存在させるために、私たちを参加者として創造するのだ。

アート作品は最高度に強力な存在物である。作品に近づくために大切なことは、アートの正しい存在論を準備しておくこと、アートそれ自体が何であるかを知っておくことだ。つまり、いかなる実体的な要因にも従わず、ラディカルに自律する、そのような個体によって住み着かれた意味の場が存在すると知ることなのだ。

すべてのアートが優れたアートであるわけではないし、またすべてのアートが私たちとの出会いにおいてアートとして認識されうるわけでもない。アートは身を隠す場合もあるし、私たちの意識のレーダーにその権力を行使する場合もある。

いずれにせよ、アートの本性それ自体には、われわれを向上させることも、破壊することも予定されていない。アートにとって、それはどうでもいいことである。

次の注意を繰り返して、本稿を終えよう。アートを存在一般と混同してはならない。存在するものは、ほとんどの場合アート作品ではない。

私たちはニーチェに抗って、世界を美的原初として説明することはできないという事実をはっきりさせる必要がある。なぜなら、世界は美的現象ではないからだ。ロマン主義は間違っている。

価値、美、真理は、現実それ自体に、実在的に存在する。

アートが美しいとは、特定のアート作品が自分の構成で定めた基準において高い水準にある、ということだ。その基準を、外から評価することはできない。作品はそれぞれ、自ずと判断される。作品とは、作品自らの美的判断なのだ。

私たちの方がアート作品に巻き込まれるか、巻き込まれないかのどちらかだ。それがアートの力なのだ。


『アートの力』マルクス・ガブリエル /著、大池惣太郎 ・柿並良佑 /訳