生成消滅、離在 | 小動物とエクリ

生成消滅、離在

 

 

序章 プラトンとの対話

学園アカデメイアのプラトン

プラトンは、ソクラテスの精神を受け継ぎ、対話を哲学の基本としていたのです。それを整備した問答法こそが、真の実在を探求する哲学の方法だと考えます。

一人の人間が真理より尊重されてはならない。
『ポリティア(国家)』

相手が師匠であっても、自分自身であっても、厳しく批判して真理を探求する姿勢、それが哲学です。

 

 

不在の著者との対話

著者プラトンはその場にいません。それらは、対話篇という場に不在の著者から、やはり不在の師に向けて書かれた言葉なのです。裁判に臨席し、死に様に接したプラトンは、亡きソクラテスと対話をつづけ、それを対話篇につづることで、生涯をかけて「哲学者の生」を考え、生きていったのです。

そこで展開されるのは、問いと答え、それもほとんどの場合、答えが出ないままに終わる探求の過程です。

不在の著者は、私たちがそう反応する様を想定しながら、ソクラテスと対話相手の間の言葉を紡ぐことで、読者の魂に何かをひき起こそうとしているのではないでしょうか。読むなかでわたしたちは自問し、思案します。そこでプラトンとの対話、つまり哲学が始まるのです。

そこでソクラテスが発した多くの問いは、答えられない「行き詰まり」のまま、魂のうちに生き生きと記されています。

プラトンはそうして時間を超え、亡きソクラテスと対話し、共に考え、そうして私たちと対話しようとしているのです。

 

 

対話の現場

対話篇に書かれた言葉を鵜呑みにしてはいけません。

批判的に対話する者だけが、共に哲学に与ることができるのです。

 

 

第1章 生の逆転
ー『ゴルギアス』ー

『ゴルギアス』あらすじ

カリクレスの仲介で、ゴルギアスと対話することになったソクラテスは、「弁論術とはなにか」を問い進めます。
 ゴルギアスは、弁論術とは正と不正についての知識を持たずに説得を行う技術である、と答えます。ですが、彼は発言の矛盾を突かれ、論駁されて対話から退きます。

ソクラテスは、弁論術が「技術」ではなく「迎合」に過ぎないと論じます。

「哲学書」というと、普通は、抽象的な概念や難解な論理を展開し、真理を考察していく論述であり、人物が正面に出てくることは稀です。哲学説は著者や個人と切り離して論じられる、一般にそう信じられています。

「あなたは、ソクラテスとカリクレス、どちらに共感しますか?」

二人の対決は、生の選択をめぐるものでした。ちょうど、ニーチェが「生」を掲げて、ソクラテスとあなたを批判したように。

 

 

弁論術の虜

何気なく耳にする言葉や、目に飛び込む文字や画像が、意識されることなくその人を支配する……。そんな魔法が弁論術なのです。
 情報が氾濫する一方で、価値基準が崩れて自己を確保できない時代、弁論術の問題は深刻です。

迎合には、本当に人を幸福にする力はない。

ソクラテスとカリクレスの対決は、弁論術を身につけて政治や社会で評価されるる生き方を選ぶか、哲学者の生き方を選ぶか、その生の選択だったのです。

 

 

欲望のままに生きる

ゴルギアスは、人々を説得する弁論術こそ支配をもたらす力であると説きます。

ですが、ソクラテスは、それは本当の力ではないと喝破します。

つまり「善いと思うこと」を実現できるとして、それがその人にとって「本当に善いものである」保証はありません。それを見極めるのが知だとすると、弁論術はその知を欠いているからです。

ソクラテスとカリクレスが対立するのは、幸福をめぐる魂の問題でした。つまり、どのような生き方が魂を美しくあらしめるのか、それが問われています。

私たちは一方で、「そんなどん欲で放埒な生き方は、醜悪で恥ずかしい、虚しい」と言います。しかしその一方で、どこかにそんな生き方を羨ましく思う心があり、批判する自分にどこか建前のみの空々しさを感じます。「好きに生きてみたい。やりたいことをやってみたい。力さえあれば」。

 

 

強者の正義

「不正を破るのと、不正を行うのは、どちらがより醜いか」

法律や規則は支配者が自分の利益のために押し付けたもの過ぎない、あるいは、弱者が自分たちを守るために合意したのが社会の法律だ、そんな過激な議論が現れます。

ソフィストが導入したノモス(法律)とフュシス(素質)の区別は社会契約説の基盤となり、近現代哲学をつうじて現代の私たちの常識となっています。

ソクラテスは『ボリティア』という対話篇で、そういった「ノモスとフュシス」の対比に基づく「正義」批判に真っ向から対決します。ソクラテスは二枚舌を使ってはいません。ノモスの正義こそが、まさにフュシスの正義、すなわちイデア的なものを示すからです。カリクレスの批判は、そんなソクラテスには的外れなものです。

 

 

生の逆説

ソクラテスのように真面目に逆転されたら、世界と人生がひっくり返ってしまいます。反発するのは当然です。

ゴルギアスというソフィストは、このような弁論術をギリシア各地で教えながら名声を博し、かなりの財産を得て百歳以上まで生きました。人々はそんな人生を「幸福」と見なしたでしょう。他方でソクラテスは、カリクレスが暗示したようにーーそれは無論、あなたの文学的手法ですがーー馬鹿げた裁判で弁論に失敗し、むざむざと死刑を被ってしまうのです。


善き人が、悪しき人によって害されることは、神の掟にかなわない。『ソクラテスの弁明』

 

 

哲学の創出

言論を信じて、理性が命じるように生きるか、それとも、言論を遊びだとしつつ、それに聞き従って欲望のままに生きるのか、そう言い換えてもよいかもしれません。

「君は、どちらの生を生きるのか。」

生き方を言論で吟味すること。

そこでは、答えを手に入れることではなく、怒ること、ひっくり返すこと、そして人生を賭けること、そこに意味があります。少なくとも、答えはまだどこにもありません。

自身やソクラテスの言葉でさえ吟味の俎上に載せ、批判の言葉を歓迎しながら共に真剣に吟味する。それがあなたと対話すること、つまり、「プラトンとの哲学」なのだと、私は思います。

 

 

第2章 魂の配慮
ー『ソクラテスの弁明』ー

『ソクラテスの弁明』あらすじ

それは、デルフォイで授かった神託を吟味する探求で、「善い、美しい」など大切な事柄について人々が無知であることを明らかにしてしまったからです。

 

 

陳腐な道徳

哲学とは、対等な人間同士の自由で相手を尊重するやりとりだったはずです。

何よりも陳腐なのは「金銭や名誉を配慮するな」という言葉です。

その実、そうやって説教することでお金を稼いだり、人々の尊敬を集めて自己満足にひたっているのではないでしょうか。

「魂の配慮」とは、そういった虚栄のための、体のいい決め台詞に違いない。現代人の多くは、きっとこんなカリクレス風の批判を口にして、きれいごとのお説教だと無視して通り過ぎていくことでしょう。

「自分を配慮している」と思い込んでいる人も、やはりソクラテスの言葉を軽く受け流していたのです。

分かったつもりの者、自分では立派に生きていると自負し、他の人々に不満を抱く人々、そんな者の方が「無知」という深い暗愚の内にいるのかもしれません。

 

 

挑発の言葉

「人間たちよ、ソクラテスのように、知恵という点では真実にはなにも値しないと認識している者が、お前たちのうちでもっとも知恵ある者なのだ」『ソクラテスの弁明》

 

 

魂への集中

ソクラテスはこの魂を肉体と対比させ、それを「自分自身」と言い直します。

私自身としての「魂」は、最初からそこに見知っている対象ではありません。普段はそれが自分だと意識されることなく、むしろ「私」の名で呼ばれるさまざまな事物、つまり財産や地位や評判や肉体やそういったモノに襲われて見えなくなってしまいます。私たちは日常、それらすべてを一緒くたにささたまま、漠然と「私がある」と思い込んでいるのです。思い込みが「私」という幻想を作っています。私自身などに考えを向けることなく、取り巻く事物や肉体に左右され、動揺しながら生きている場が、私たちの日常なのです。
 「私とは何か」、それを真面目に考えて私が自身に集中する時に、はじめて「魂」という位相が肉体から切り離されて見えてきます。外側にあって私の見かけを作るものを一つひとつはぎ取っていくと、そこに現れる[ 「魂」が、隠れた私自身なのではないでしょうか。

 

 

配慮の勧告

「配慮」とは、その配慮を行う者が自身の価値を決める生き方の向きなのです。

つまり、量がその人のあり方の基準です。

量への配慮によっては見失われるものがあるはずです。
 逆に、魂に向かう生き方は、「できるだけ善くなるように」という、価値への関わりです。

「言葉を聞く」とは「聞き従う」ことであり、それを真理として受け入れ、そのとおりに生きる異なのですから。

ソクラテスによる配慮の勧告は、「魂を配慮するか、それとも、肉体を配慮するか」という妥協のない二者択一です。

ソクラテスにとって、死を覚悟しながら「知を愛し求めること」、つまり哲学を断行することは、すなわち「魂の配慮」を勧告し自らを実践することでした。

 

 

魂の覚醒

「恥ずかしくないのですか。」

本来あるべき立派さとの落差を感じることで、私たちの良心は「恥ずかしい」と思うのです。

ソクラテスはそれを承知で、真実を突きつけて私たちを覚醒させようとします。

自分が何者かも知らずに暗闇と影像のなかで生きてきた私が、その本当のあり方と可能性に気づき、自身を純粋な理性のあり方へと変えていく。それが真の自己への変容となるのです。そこで関わるのが「イデア」と呼ばれる真実の存在であり、それと関わる魂のあり方が「叡智」です。

これは、私たちが初めて世界に出会うということです。ヘラクレイトスが言ったように、これまで何度も聞いてきたと思っていた言葉を私たちは理解していなかった、それが分かるのです。

「魂の配慮」の勧告を哲学そのものにするには、言葉における探求が必要です。

 

 

神の使命

つまり、『ソクラテスの弁明』という著作は、「真実」を明かすための創作だと、私は考えています。

ソクラテスが語ったように、哲学を使命とし「魂を配慮する」こと、その言葉に驚き
振り返ることが、私が根拠と出会う可能性なのでしょう。

 

 

第3章 言葉の中での探求
ー『パイドン』ー

『パイドン』あらすじ

処刑が執行される日の朝、ソクラテスは牢獄に集まった仲間たちと、哲学者の生き方、そして魂の不死について対話します。哲学とは「死の訓練」であり、哲学者は進んで死を迎える者である。死ぬこと、すなわち、魂が肉体から離れることこそ、哲学者が目指して生きてきた浄化なのだと。

 

 

ソクラテス

物事を目で見ようとしたり、各々の感覚でそれらに触れようと試みたりすると、魂か完全に盲目になってしまうのではないか、と恐れたのだ。

あるものを言葉において考察する者は、事実において考察する者より、より一層像において考察していることになるのは、私は同意しないのだから。『パイドン』

 

 

最期の対話

ソクラテスは死後の存在について希望は語っても、なにも断言はしていないことがわかります。

死を恐れるということは、皆さん、知恵がないのにあると思い込むことに他ならないからです。それは、知らないことについて知っていると思うことなのですから。

実際、これが、あの恥ずべき無知、つまり、知らないものを知っていると思っている
状態でなくて、何でしよう。『ソクラテスの弁明』

ソクラテスは反対に、死や冥府(ハデス)のことはなにも知らないので、そのとおりに知らないと思っている」と、不知の自覚を表明きます。死も、善や正義や美と同様に、人間には知ることが叶わない事柄なのです。

しかしソクラテスは、生死いづれの窮地に於いても、かつて絶望しなかったのである。

プラトンは、それを理想としてのイデアと解いたのである。
『イデア』

社会や権力を批判してより良い世界を作ろうと叫んだ数々の運動が、結局なにもたらさずに消えていったのを見た人々は、白けた気分で「現実主義」を唱えます。

「どうせなにも確実なもの、頼るべき基盤などない。すべてが相対的で流動的なのだから、なにも信じることなく、理想など持たずに生きるのがよいのだ」と。
 現実にポッカリと穴があいて深淵を覗かせる。

 

 

言論嫌い

私たちのなかには、人間嫌いに陥る者がいる。それは、人とどう付き合うかの技術を持たずに他人を強烈に信頼することから生じる。

言論についても同様だ。そうソクラテスは語ります。 

同じように、言論の性質を弁え、「真偽」を見分ける技法を身に付けていないのに過度に言論を信じることが、反動によって過度の不信を生むのです。
 責任はどこにあるのでしょう。そんな人は、本当は、自分の至らなさを言論や現実に責任転嫁しているだけではないでしょうか。

つまり、言論には何一つ健全なものがないという思いが魂に入らないようにし、私たちがまだ健全な状態ではないと考えなければならない。いや、男らしく勇気を持って、健全になることを強く望まなければならないのだ。
『パイドン』

これから確認していくように、私たちは「現実」を直視してそのまま捉えることはできません。現実にはかならず言葉をつうじて関わっていくのです。そのために、言論をどう語り、どうそれに接していくのか。私たちは、自身の健全なあり方を培わなけばなりません。

何事にもあれこれと反論をぶつけながら、「正しい」や「正しくない」など結局、各自の考えだ、相対的なものだ、とうそぶきます。

言論嫌いは、まさに現代の病でもあるのです。

 

 

言葉での出会い

言葉が現実とはまったく関わらないという思いこみから脱するために、両者の関係をあらためて考えてみたいと思います。

「ある」と「ない」という現れについて、さらに考えてみましょう。

ソクラテスは、「言葉へと退避して、あるものの真理をその中で考察する」と誘います。

ですが、「言葉の中で」とは、私の心の内だけの問題だとか、主観に過ぎないという意味ではありません。「美しい」はそこに確かに確かに現在しています。そうして言葉において存在が現れており、それを語らせる「ある」の根拠に私たちはなんらか出会っているのです。

イデアの経験

目の前の事態は「ある」とも「ない」とも見えます。それらはつねに揺れ動き、なりゆくのであって、同時に、また時の経過で反対の事態か生じています。

現実は確固としてあるはずだ。それがあるとすると、私たちは整合的に言葉を使って物事を把握できるのであり、言葉が存在を捉えていると信じられるのではないか。言葉を信じるこの道を進むことが、ソクラテスの勧める哲学の態度です。

「美それ自体以外になにか美しいものがあるとしたら、それはほかの美を分有するから以外に、他の原因で美しいのではない」という基礎定立を置きます。

複数のものが単一の対象に与るという意味の「分有」は、哲学の基本概念となっています。イデアを認めると、さまざまな事態を、それら相互の関係から見極めることができます。私たちは、言葉を信じてそこで事態を把握することで、世界の健全なあり方に接することができるのです。

私たちが立てる言論から現実を捉え直しましょう。

そうして言葉の中で現実と関わり、また言葉を鍛え直していくこと、それが言論の技術としての問答法です。

私たちが目の前の一見混乱した生成消滅の事態から自分自身を引き離し、そこで思考を集中して言葉において存在を捉えようとすること、それがイデア論という哲学の遂行なのです。

魂の離在

「言葉の中で探求」、それは、私たちが馴染んでいる目の前の状況から一旦身を離して、別の場所で考えること、そこで現実を見ていくことです。この「離れる」というイデア経験は、「離在」と呼ばれます。

それぞれは一つで、それ自体としてあるのです。このイデア認識が、私たちの言葉の営みです。

哲学者の関心は、できるだけ肉体から距離を置くこと、魂がそれ自体となることに向けられます。

そして、魂が分離、離在で目指す境位が「叡智」と呼ばれるあり方です。

ここでは、魂の先在とイデアの存在とが「同じ必然性」にあることが同意され、それらが「類似の仕方である」と認められます。この相即性は、イデア論の基本になるものです。

つまり、美しくあり、かつ美しくないといった両義的で変転する目の前の状況から抜け出し、美それ自体に出会うことが美の浄化なのです。
 *イデア論とは、したがって、認識対象の超越であると同時に、私たち主体が超越する経験です。そこで叡智とは、私自身が立ち帰る魂の根源、存在の根拠であり、その道行きが「想起(アナムネーシス)」と呼ばれます。

 

 

イデアは必要か?

「ある」が問題となるのは、むしろ私たちが目にしているこの現状の方です。もし真に存在する世界を「現実」と呼ぶのであれば、現状を支える根拠としてのイデアがその地平ではないか。それが、イデアを基礎定立し、それを根拠に生きる、あなたのイデア論の提案です。

間奏曲
行動する哲学者
ー『第七書簡』ー

蝿に見守られて

余暇にこそ哲学があります。

 

 

哲学の実践

つまり政治に関わる「善き、正しさ、美しさ」といった価値について、人間には「知」が叶わないことを自覚して生きるしかないのです。

人間の合理的な計算を超えた現実に謙虚に向き合うこと、つまり「不知」を自覚して生きること、そして、それにもかかわらず現実への関わりを諦めずに、精一杯理性的に判断し反省して行動すること、それが哲学者の生き方です。

そのために、私たちは真に「現実」を見る目を養う必要があります。

 

 

第4章
愛の力
ー『饗宴』ー

愛と美の真実へ

エロースの欲求が「美」だとすると、エロース自身はその美を欠いているはずです。私たちは持っていないものを、持っていない限り
で求めるのですから。
 欠如する者は神でない、したがって、エロースは神ではない。

 

 

魂の出産

エロースは美をめぐる愛です。

陣痛という、出産前に訪れる最大の苦痛は、子を生む快楽と一対のものです。言うまでもなく、セックスとその快楽がこの原イメージにあり、エロースは生をもたらすと共に死に接近します。

美はその苦痛から解放します。

では、一体なぜ生むことを求めるのでしょう。それは、生むこととは永遠の産出であり、死すべきものにとって不死なるものだからです。『饗宴』

動物の場合も、「死すべき本性は、できるかぎり永遠で不死であることを求めている」と見なされます。

子どもから青年、そして大人になり、老年にいたるまで、同じその人だと呼ばれていますが、その肉体も魂も、同じものがずっとそのまま留まっているのではなく、つねになにかを失いつつ、新しくなっています。身体の構成要素が新陳代謝することは無論、精神的にも、考え方や性格や望みなど、若い時分から年をとるにつれて、おおいに変わっていきます。しかし、その人を指して「同じ人」と呼べるのは、つねに新たなものを生み出すことと同じあり方を保っているからなのです。

つまり、つねにまったく同一であるということではなくーー神の種族はそうなのてすがーー古くなって去っていくものが、以前にあったそれと似た新たなものを後に残していくことによってなのです。『饗宴』

不死に与ること、それは私たち死すべきものの究極の望みです。私たちが恋をし、愛し求めて生きるのは、そのためだったのです。

しかし、それ以上に、不死の名声を打ち立てる恋情に取りつかれます。それが名誉心です。あらゆる労苦や出費や危険を冒しても得ようとするのは、優れているという評判や記録を人々の間に永続的に残すことなのです。
 人々の記録に残る名声や栄養は、なによりも「言葉」です。

つねに新たなものを生み出していくことで同一の自分でありつづけ、さらに、死んだ後にも自己の子どもたちを残す。しかし、これは本当の永遠や同一ではありません。人間が「不朽の名声」を手に入れたとしても、いつかは滅びます。時間における継続に過ぎないからです。

 

 

愛の奥義

美を追い求める者は、若い時に、まず一つの肉体の美に進み、その肉体をとことん愛し、美しい言論を生み出します。

若者はその人に向けて、恋文を綴り、会えないもどかしさに歌をうたい、失恋の痛手に詩をよみます。そうして美を経験するのです。

ある人が、たとえ見た目では美しくなくても心映えで優れた人であったり、振る舞いや態度が立派であると気づくと、その人々を愛し、その若者たちをより善くするような言論を生み出します。今度語りだす言論は、見た目の美を謳いあげる美辞麗句ではなく、精神の美しさを称揚し、それを促進する言論です。
 精神的な美は、個人の心や行動に留まりません。それは人々が集まって作り出す共同体の営みや法律にも見られます。

人間や社会の目に見えない美をことごとく観て取ることができたなら、次に知識の美へと導かれます。

美への歩みは、人間やこの世界を超えて、私たちを普遍的で絶対的な存在に関わらせます。

 

 

美そのもの

最初に、それは、つねにあるのてす。生成し、消滅めせず、増大せず、減少もしません。
『饗宴』

「ない、ない、ない」。この世界の相対的で限定的なあり方を否定することで、初めて見えてくる視界、それがイデアの「ある」です。
そうしてイデアが言葉にされます。

それ自体、それ自体と共に、単一の相として、つねに、ある。『饗宴』

愛とはその美そのものへの上昇であり、突如訪れる稀なる出会いです。

私はそこで本当に生きる、いや、そこに私などもはやないのかもしれません。

 

 

本物の愛

相手に抱く期待が高ければ高いほど、隔たりや失望も大きくなります。

愛に責任はありません。それを間違えて捉える私たちがいけないのです。

自分はなにかを求めている、その同伴者がソクラテスではないか。

現代の私たちに愛が再び灯るとしたら、そういった魂の出会い、かけがえのない共同の生の実現において、突然訪れるものなのかもしれません。

 

 

第5章
理想への変容
ー『ボリティア』ー

『ボリティア』あらすじ

「正義とは、強者が自分の利益として設定し、弱者に押し付けたものに過ぎない」。

 

 

ギュゲスの指輪

比喩や類比や神話といった自由な想像力を駆使して「私とは何か」の問いに突きつけて考えさせる、それがあなたの主著『ボリティア(国家)』という対話篇です。

正義は同意された約束事にすぎない。トラシュマコスによれば、支配者が自分の利益となるように人民に押し付けた法律であり、グラウコンによれば、弱い民衆が強者から身を守るために結んだ社会契約なのです。

このように、人間が他人に見られたり、強制されたりしなければ欲望に従う本性なのであり、正義や法律を守るのは罰を受けるのが嫌だから、つまり、やむなく従っているだけなのだ。

「思考実験」と「想像力による浄化」が鍵になります。

グラウコンらがぶつける議論は、そうした特徴を持っています。通常の状況でははっきりしない物事を、あえて特定の要素を強調して他の要素を取り除いて考えてみる。その想像力が、物事を目に見えるようにするのです。

グラウコンの議論は、純粋な形で私たち自身の本性を見せてくれる、想像力をつうじた検証なのです。

 

 

想像力による浄化

正義とは実質ではなく評判(ドクサ)、つまり正しく思われることだけが必要だという結論になります。

ソクラテスは、想像力と言論を駆使し、人間の本性が理性にあること、正しいあり方こそが幸福をもたらすことを示します。

美しいと感じて、そうなりたいと感じるか、醜く汚いと感じて、それから身を引くか……。想像は素直です。感情、いや、反応が自身のあり方、その変化を示してくれます。

重要なことは、欲望の向きを変えること、いや欲望を含む魂の全体を変容させることです。

この浄化は、「正義とは何か」を追求する言論がもたらしたものです。それは、創作をつうじて想像力を最大限に発揮して、私たちの現状を超える試みです。想像力は囚われている現状から私たちを解放し、真実において自身のあり方を捉え直すことを可能にします。変わるのは状況ではなく、世界と自分を見る自身のあり方です。そうして自己が変容するのです。
 そこで最終的に見出されるのは、肉体と結びつくことで歪められた魂の姿ではなく、「すっかり歪められた魂」、つまり不死なる本性を持つ理性としての私自身です。

目を向けるべきは哲学、つまり魂に本来備わる知への希求です。

つまり理性を目覚めさせることで魂を回復することが、哲学の営みなのです。

 

 

正義としての自己

娯楽や贅沢が認められると、国家は欲望で拡張し、領土や財貨をめぐって戦争ーー国家による最大の害悪ーーが発生します。そうなると、外敵から共同体を守る防衛の専門家、つまり戦士が必要となります。彼らには、素質を見極めて教育を施す必要があります。『ボリティア』では、こうして言語による国家建設が進みます。
 さまざまな職業や役割を担う市民からなる共同体は、どのようにして寄せ集めの集団から「国家」という存在になるのでしょう。それには、国家を一つのものとして、その全体を配慮する者が必要です。

正義とは、複合的なあり方をする存在を成り立たせる「一」の根拠なのです。
 すると分かります。人間の本性は欲望にあるのではなく、その解放は人間性の実現ではない。人間が存在する、つまり生きるといえるためには、理性に従った正しいあり方、「一である」あり方を実現する必要があるのだと。他人に見られていようがいまいが、正義を行うのは私たちが自分であるためであり、一つの生を実現することです。

それは、目に見えない魂のあり方を国家の構成という大きな文字に映し出して比べることで理解する、言論の想像力による思考実験と変容です。

 

 

ユートピアの原点

「ユートピア」とは、「ない・場所(ウー トポス)」と「善い・場所(エウ トポス)」を掛けたトマス・モアの造語です。

「私」にこだわり、私のものを他人のものと分けて考えることは、欲望の温床になります。

一見突拍子もない改革の諸提案は、想像力をつうじて人間の理性を最大限に刺激し、常識や思い込みを転覆させて正義を実現する政治哲学の真骨頂です。それがユートピアを考えることです。

 

 

理想をめぐって

「観念」という訳語は、現在でも「アイデア」(idea)という近代哲学の用語に当てられています。

理想は私たちの生き方を変えます。それは、私たちが理想を「美しい」と思い、美そのものに恋いこがれるように理想に憧れ、それを求めて生きるからです。

「理想」を描くには、たんに合理的な判断だけではなく、現状や目の前の事態を離れ超えていく想像力、文学や芸術のエネルギーが必要です。「理を想い」ながらイデアへ向けて人生を形づくること、それが哲学であるはずです。

 

 

魂、国家、宇宙

一人ひとりが自由人として理性を働かせて、ともに議論しながら最善を目指して共に生きること、それが善き生の実現です。その一人ひとりが「市民」と呼ばれる個人です。そういった「国のあり方」と「市民権、市民であること」の二つの意味を合わせ持つ語が、ギリシャ語の「ボリティア」です。

これまでそれは、天体の秩序、つまり「宇宙」という自然のあり方全体を示しているのでしょう。それが現実に存在する以上、大いなる時間の射程において、人間の社会、そして一人ひとりの魂が同じ正しいあり方をすることは、つねに可能なのです。

個人と社会が無関係に存立し、しかも自然や宇宙からすっかり切り離されているという誤った見方こそ、今日私たち人間にさまざまな危機をもたらしている原因かもしれません。

 

 

第6章
宇宙の想像力
ー『ティマイオス』ー

ティマイオス

宇宙を秩序づけ、同時に、一つのうちに留まる永遠を写して、数に即して進行しながら永遠的である似像を作ります。この似像が、私たちが「時間」と名づけてきたものです。
『ティマイオス』

 

 

宇宙への問い

素朴には、異なった場所や時や状況で異なっ現象が起る、そんな風に考えても不思議はありません。しかし、時間や空間をつうじて万物が従う法則や理論があり、その斉一性の根拠が数、つまり、算術や幾何学というイデア的秩序にあるとする見方は、すぐれてピュタゴラス派的、プラトン的でした。自然法則の数学性、つまり、あらゆる自然現象が理性、計算で説明されるというこの考え方は、現代では当たり前になっています。理論が真理であり、現象や実験はその理論との関係で説明される、そういう科学の見方は、ギリシア人の自然観の子孫なのです。その原点が『ティマイオス』です。

 

 

宇宙の始まり

「始まり(アルケー)」を正しく設定すること、つまり、正しく始めることが肝心です。

それは問いを正しく問うことです。宇宙から人間の身体までを総合的に扱う『ティマイオス』は、まず始まりへの問いを据えます。天文学に精通したティマイオスは、論の始めに「つねにあるもの」と「生成し消滅するもの」の区別を導入します。宇宙はそのどちらでしょう?

「それは生成した」。
 ギリシア語の「生成した(ゲゴネン)」は動詞「なる」の現在完了形で、「生じて現にある(ギグネスタイ)」の意味です。

宇宙は無根拠ではなく「原因」を持ちます。したがって、それは言語によって理性的に把握可能なはずです。また、宇宙はばらばらな物質ではなく一つの全体です。宇宙はそうして一つの形、つまり秩序を持っています。

つまり、宇宙はイデアを模して制作された一つの似像なのです。これは、宇宙が自立し完結した存在者ではなく、存在の根拠はその外にある、ということを示します。

私たちの宇宙が斉一的にずっとありつづけるのは、それに似せて作られたからです。

 

 

時と永遠

時間は生成した。この説は、現代の宇宙物理学から見ても、あながち間違ってはいません。

アインシュタインが構築した相対性理論では、それまでの伝統的な物理学(ニュートン力学)で分けられていた時間と空間を合わせた「時空」が導入されます。時間と空間は独立ではなく、相互に関係する。宇宙が空間的な無から生じたのだとしたら、時間もそれ以前にはなかったわけです。

神は、永遠を写す、なにか動く似像を作ろうと考えつきました。『ティマイオス』

時間は「一のうちに留まる永遠を写す」ことで、宇宙を秩序づけます。時間は数に即した運動であり、永遠の像である、それがティマイオスの語る宇宙です。

「あった」と「あるだろう」とは、時間の中を進行する生成について語られるのが相応しいのです。『ティマイオス』

生成する事物についてだけ、過去と未来が語られるのです。私たちが言葉でこの世界を据えてそれに関わる時、言語が持つ時制はきわめて大きなヒントとなります。

それはかつてあったのでも、いつかあるだろう、でもない。なぜなら「ある」は、今、一挙に、全体が、一つの、融合凝結体としてあるのだから。

同じもののうちに同じものとして、それ自体で留まる。

そしてそれはどんな始まりももたず、どんな終わりも持たないで、むしろ無限である。…なぜなら、全体でないものがつねにあることは不可能だからである。

人間にとって「永遠にある」は、時間上の「つねに」、つまり永遠性を否定して超えることでしか、迫れないものだったのです。
 こうして宇宙と時間の一体性が強調されます。時間が「永遠」なるモデルに似せて生じた以上、宇宙は、「全ての時間にわたり終始、あったし、あるし、あるだろうものなのです」『ティマイオス』

時間から永遠への遡行、それが宇宙と人間を考える哲学の可能性です。

むしろ、この世界は不完全である、つまり「像である」と捉える想像力において、イデアの地平へと超越し、そこから再びこの世界を捉え直す試みが必要なのです。それが『ティマイオス』の宇宙論です。

 

 

基底へ、天空へ

基底となる「場」において、思考を超える対象を想像しながら、そこに最初に成り立つ物質的な始まりに思いを致し、そこから宇宙の全体という恐るべき大きな秩序へ向かって上昇する。そこで見出されるのは、その中間に存在して生きる私たち人間の姿です。

有限な中間者である人間は、思考によって宇宙の始まりを捉え、宇宙の中に自分の存在を見据えます。そこで初めて、私がある様が見えてくるはずです。

自我や個人の魂といった次元をはるかに越えて永遠を志向し、そこに身を置くこと。

 

 

永遠の相の下で

「永遠回帰」『ツァラトゥスはこう言った』

私たちは、宇宙の始まりを探求する現代科学のもとに、人類の、生物の、そして地球温の終わりを考えます。

しかし、環境の変動や宇宙の出来事などで、私たちの生命と文明さ確実に滅び、地球も太陽系もやがて寿命を迎えます。

人間はこの宇宙であまりに小さい存在者です。

こんなことは、おそらく誰も想像したくはないでしょう。しかし、理性は目を背けずに、私たちに真実を突きつけます。

少なくとも、私の人生やこの世界がいつか滅びると自覚するのは私たち人間だけです。この現実を認識させるのは、私たちが宇宙的な存在に与って働かせる理性です。絶対的な根拠が、いわばそれ自身を認識しているのです。

「永遠の相の下で」、この認識が、私たちの世界の見方、私たち自身の生き方を変えるのではないでしょうか。

 

 

第7章
哲学者とその影
ー『ソフィスト』ー

困惑と覚醒

「あるとは何か」をめぐって、一元論や多元論、物質論やイデア論といったさまざまな立場が包括的に検討され、そこから存在の論理学が形づくられます。

私たちは、以前には知っていると思っていたのに、今はすっかり困難に陥ってしまっている。『ソフィスト』

ハイデッガーが『ソフィスト』の一節を引用したのは、現代に忘れられた問題を突き付けるためです。「アポリアー」、つまり困難に困惑すること。その感覚を取り戻し、衝撃を受けなければならない。

「ある」の困難は「ない」の困難と一緒に探求されないかぎり、明らかとはならないはずだからです。「ない」はどうなったのでしょう。

ソフィストという問題

まず、ソフィストは「虚偽を語る」営みを本質としている。そして、人々に「知がある」という現れを与えるが、それは知者の虚偽であり、いわば影のような存在である。「虚偽、現れ、虚偽」、それらはすべて「ない」を本質に含んでいます。

ソフィストは、たしかに哲学の領域に「ない」をめぐる問いを持ちこみました。

信じてきた事柄に根拠がない。正義も幸福もなにもない。この目の前の現実も、私自身すらない。そんな考えにふと襲われた恐れを、私たちは必死に打ち消して日常へ戻ろうとします。ソフィストはそんな私たちの不安につけ入ります。「そう、ないこそが主題だ、なにもないのだ」、そう論じるのです。
 だが、その同じ舌で、彼はこうも言います。「ないはないのだから、語ることも、考えることもできない。だから心配することはない。」、と。

隠蔽し忘却するのとは正反対の方向に進まなければなりません。私たちは「ない」に向き合い、それを言葉で語る構造を解明しなければならないのです。

 

 

言葉の可能性

言葉(ロゴス)において「虚偽」は存在するのか、これがあなたの直面したソフィストの問題です。だれもが、「嘘をつく」とか、「偽りの発言だ」と語ります。

しかし、本当に「虚偽を語る」ことは可能なのか。それは「言葉」の存在と本質に関わる根本問題です。
 「言葉」とは何でしょう。音声の連なり、書かれた文字列、あるいは、心の中に刻まれた記号。それらがなにかの意味を持ち、互いに伝達されるとしたら、なんらかの仕方で現実を表しているからに違いありません。◉一つの言葉がなにか一つの事実に対応しているから、私たちは意味を認めるのです。

現実とはかけ離れているがゆえに言葉はすべて「虚偽」であり、いわば無なのだ。言葉は真理や現実とは関わりのない、ただの遊びに過ぎない。ただし、実際に人々の心を動かして力を揮う限りで、それは実在なのだ。

私たちは「類(ゲノス)というものを立てて、それらの間に一定の結合関係を認めなければならない。類として、さしあたり「ある、動、静、同じ、異なる」の五つを考えよう。「ない」は「あると異なるもので、ある」という形で、類の関わりのうちにある。

言葉の最小単位である「言表」は、けっして無秩序なものではありません。

つまり主語と述語を適切に組み合わせないと、言葉は意味を持たないのです。言表には、このニ要素の組み合わせが必要です。

「言表」の意味は、「真/偽」の対にあります。私たちが語り、そこで何かを表示する言葉は、「真である」か「偽である」かのどちらかである。

 

 

影と像

『仮面の解釈学』という論文集では、「かげ、おもて、うつす」といった言葉を考察して、従来西洋哲学で固定的に捉えられてきた見方を揺り動かします。

何かを「像に過ぎない、影だ」と見なした瞬間に、そのあわい存在に逆に私自身が脅かされます。この世界はなにもかもが影、非存在に過ぎない。

ソフィストは哲学者の影だったのです。

 

 

現れをめぐって

「なにかが現れる」、そうして私たちは世界に出会います。

私の目に、耳に、感覚に、そして心に現れたたものは、そのまま事実であり、現実だと受け止めます。それは、私という主体がなにかと関わる場で、その間で成立します。

私たちが心に抱いたり口に出して語ったりする命題が真か偽だとしたら、「現れ」も真と偽というニ値を持つことになるからです。

私は他人にとっての「現れ」を批判して、「それは虚偽だ」と思うことがしばしばあります。その人に「そう思われる」ことは
私に「そう思われる」こととは、構造的に異なります。

今私はこうであると信じる、だが、それが偽だという可能性を認めて、さらに探求を進めて真偽を見極めていく。この自己吟味、自己批判こそ、私たち人間に残された道ではないでしょうか。
 自分が間違っているかもしれないという可能性を心において、それを認める態度、それが、ソクラテスが「不知の自覚」のもとに遂行した哲学だと私は信じます。「現れ」に虚偽の可能性を認めることは、現れを通じて哲学することを可能にします。それは、絶対的な真理であると感じられる「現れ」を揺るがし、変化させます。これは、世界がそう現れる主体である「私」の変化です…伝達。

ハイデッガーはこの対話篇を現象学の先駆と見なしたのです。

 

 

無への挑戦

パルメニデスもソフィストたちも、「ないは考えられない、語れない」と考え、実際に語っています。「ない」を消去しようとするこの論理が、まさに矛盾を引き起こしているのです。自己矛盾しているのは、彼らの方です。

「ある」と「ない」とは等しく困難に与っているので、今、期待できることは、そのどちらか一方が今後、曖昧にであれ、姿を現すならば、他方もまた、そのような姿を現すだろうということだ。『ソフィスト』

「ある」はそれ自体単独で語られることも、捉えられることもありません。それは、「ない」がやはり独立に語られたり考えられたりしないのと並行的(パラレル)です。

「ない」は「ある」と同時に、対として言葉で捉えるしかありません。裏を返せば、それ以外の方法では「ある」も「ない」も共に私たちから超絶したままです。こうして存在論を成立させたあなたの探求は、「ない」という恐ろしい問題をはるか奥底で意識させながらも、私たちに、存在を賭けた果てのない問いかけを向けています。

 

 

ソフィストとの対決

「プラトンさん、あなたは、ソフィストではありませんか?」

しかし、本当は、あなたもソクラテスという「謎」に直面し、戸惑っていたのではないでしょうか。魅力と魔力、エロースそのものであるソクラテスという存在に……。

「内なるソフィスト」の問いに向き合いながら、自身が哲学者であると弁証していく果てしない言論の作業。これが、私があなたとの対話で発見した「哲学」です。

 

 

終章
プラトンは何を語りかけるか

語るべきこと、語れること

人間の歴史において、彼の思考は、時に危険な影響を与えたと見なされています。その恐ろしさは、巨大な可能性の裏面です。

自分が知らない事柄について、知っているものとして語るのが正しいと、君には思われるかね。『ポリティア』

知っていないものについて、どう語るべきか、どう語ることができるのか。それは、「死」をはじめとする問題をめぐって、哲学する者に突きつけられた課題です。知っていないことを、そのとおり知らないと思う。この不知の自覚において、むしろ知らないからこそ勇気を持って探求をつづける。それが哲学の使命ではないでしょうか。

 

 

対話の可能性

対話は共同作業です。どちらか一方が自分の考えを押し出すのではなく、言葉と言葉がぶつかったり出会った時に、その間で火花のように生じる二人の「子ども」なのです。それは、私だけのものではない、でも、私が生み育てる子どもです。

逆に言うと、語る相手、聞く相手がいないと、言葉は生まれてきません。

時間を超え、不在において対話すること、反芻すること、解釈すること、それはプラトンがソクラテスの対話篇を書くことで引き受けた、哲学の言葉の宿命です。

 

 

プラトンの応答

彼は二つの面を合わせ持っています。普遍主義と個別主義、現実主義と理想主義、あるいは悲観主義と楽観主義、そういった通常は対立すると思われている両面です。

私たちが「現実」と思っているものに埋没していると本当の現実を見ることはできず、かえって哲学から距離をおいて見ることが真に現実に向かわせる、この逆説が彼の哲学の基本です。

人間の悲惨を見据える悲観主義と、可能性を限りなく信じる楽観主義、その間で私たちは生きていくのです。

忘れてならないのは、問いへの向き合い方、言葉を語っていく態度、そして憧れ探求して生きること、つまり哲学者であるということだ。

 現代に特殊な問題があるわけではありません。プラトンの「現在」にも同じ問題がありました。人間とは何か、善く生きるとは何か。これらには、まだ答えがなく、本当に十分な追求もなされていません。私たちは、永遠の相のもとで考えなければなりません。

ソクラテスがいつも言っていた。「魂を配慮せよ」と。

私たちはこの地上に、今孤立して生きているわけではありません。古代から積み上げられてきた文明や哲学の上で、この生を享受しています。

代名詞的〈ある〉、述語的〈ある〉、命題的〈ある〉という三つのポテンツをすべて合わせることでいまや「すべての可能性」が汲みつくされる。

この構造は事実でありうるすべてのもののプレースホルダーであり、事態が存立するための〈余地〉である。

〈可能な事態の〈余地〉がある〉という出来事が生じたのである。このような出来事が生じたということは事実である(これも取るに足りない)。しかしこれも出来事ではない。事実は形而上学的に中立だが、出来事はそうではない。

すなわち〈そもそも或るものがある〉ということは物理学的な出来事ではない!すでにこの時点で私たちは認識論的な拠り所を失ってしまった。しかしまさにこの喪失こそは〈独特ノ〉経験であり、シェリングによると〈そもそも何か或るものが存在する〉という純粋な積極性が与えられる様式なのである。

エウリュディケが先を行くオルペウスの後ろをついていくように、純粋な積極性は、あらゆる間接的なる関連づけ(名詞的同定)の後ろをついていく。それにもかかわらず、純粋な積極性へ明確に関連づけられると、この積極性は消えてしまうのである。言いかえると、純粋な積極性において検証主義的立場は挫折するのである。検証はここでは解消を意味している。

たとえどのような経験を私たちがなしうるとしても、私たちが経験的存在者として存在している以上、〈私たちが経験する〉ということは〈そもそも或るものがある〉という(未規定な存在の前提〉を含意している。このもの、〈何か或るもの〉は〈あれやこれやのもの〉として存在しているのではなく、(マサニソウデアルカラコソ〉純粋な外化として、第一の出来事として存在しているのである。


『プラトンとの哲学 ー 対話篇をよむ』納富信留/著