何かを説明することと何かを測定すること | 小動物とエクリ

何かを説明することと何かを測定すること

 

 

 

人のつくったすべての事物を芸術として扱うことで出現する単線的でも連続的でもなく、持続する様々な時のかたち。
 

 

序文ー象徴、形、持続

話し言葉は書き言葉に先立つものであり、書き言葉は話し言葉の特殊な発展形にすぎないからである。

形として美術をとらえるというこのもうひとつの定義は、もはや流行遅れとされている。しかし誰でも少し考えさえすれば、いかなる意味も形を持たなければ伝わらないということに思い至るだろう。

本書の目的は、シリーズやシークエンスのなかで持続する形態学的問題に注意を向けることにある。これらの問題は意味やイメージとは独立して生じる。

 

 

第一章 事物の歴史

「事物の歴史」という言い方をここで選んだのは、少しばかり遠回しな表現を使って物質文化という不適切な言葉の代わりとしただけではない。物質文化という用語は、人類学者たちによって、観念、つまり「精神文化」と人工物を区別するために用いられる。しかし「事物の歴史」という語が意図するのは、目に見える形という表題のもとに、観念と物質とをもう一度結び合わせることである。この用語には、雑多な人工物と芸術作品、複製物とたったひとつしかないもの、道具と表現に富んだもの、これら両極のすべてが含まれている。端的に言うとこの語は、時間的推移のシークエンスのなかで展開する一連の観念に導かれた、人類によってつくり出されたあらゆるものを含んでいる。これらすべての事物において、時のかたちが姿を現す。部族、階級、共同体など何であれ、ある集団がその同一性を目に見えるように映すもの、いわば自らの肖像が現れるのである。事物に映し出されたこの自己の肖像は、未来の集団にとっての指針となり、参照基準となる。そしていつか、それは後世の人たちにも伝えられる肖像となるのである。
美術史も科学史も、一八世紀ヨーロッパの啓蒙主義時代の学術という共通の、しかも比較的最近の起源を持っている。しかし芸術を科学から切り離す私たちの習慣は、それよりもはるか昔にさかのぼる。そこでは、古代から自由学芸と応用技術(Liberal and Mechanical Arts)とを区別する習慣が受け継がれている。この分離はきわめて残念な結果を招いてきた。芸術と科学に共通している発展過程を同一の歴史的視点で見渡すことに私たちが抱く不信感は、根強く残るその最たるものだ。

工芸教育が反復的好意のみを要求するのに対し、芸術的創造は慣例のすべてから距離を置くことに依拠している。

 

 

現在性の本質

過去は現在を知ることだけに役立つ。しかし、その現在は私をすり抜けていく。

現在性とは、灯台からの閃光と閃光の合間にできる暗闇であり、時計の針がカチッカチッとときを刻むその瞬間であり、永遠に時の間をすり抜ける空虚な間隔であり、過去と未来の裂け目であり、回転する磁界の両極にできるすきまである。つまり、ごく微小ではあるが究極の実在である。それは何も起こることのない時と時の休止であり、出来事と出来事の間の空隙である。

どのような出来事においても、現在という瞬間は、すべての存在のシグナルが投影された一枚の平面なのである。そして時間の流れのなかで、その平面上の私たちが余すところなく移行しうる次の瞬間はない。

過去から私たちのもとへ送られてくるシグナルは非常に弱く、しかもその意味を復元する私たちの技術はさらに不十分である。そのなかでも最も弱く不明瞭なものは、出来事につながっているシークエンスの始まりと終わりからやってくるシグナルである。というのも、私たちは、自らが時間を首尾一貫した分割単位として思い描くことに確信が持てないからである。そして、出来事の終わりには別の出来事がもたらした壊滅的な決定打を感知できるのに比べ、出来事の始まりは、さらにいっそうかすんでいる。歴史を分割する方法は、いまだに恣意的で慣習的であり、歴史的実体やその持続期間といった客観的な概念を適用できるわけではない。今も、そして過去においても、大多数の人は、そのほとんどの時間を借り物の考えや慣習的な単なる蓄積として過ごしている。にも関わらず、すべての瞬間はそれぞれに織物のように解きほぐされ、古いものに代わって新しいものが織られていく。

私たちが導く手がかりは本当にわずかである。あるとすれば、それは建築家や画家が精神的高揚のなかで形を思い描いて書き留めたメモやスケッチ、あるいは、消したり書き直したりした跡が入り混じった詩人や音楽家の下書きの類である。それらは「今」という暗黒大陸のかすんだ海岸線である。そこは未来の印象を過去が受信している場所なのである。

人間よりもいっそう本能に頼って生きている動物たちにとって、現在という瞬間の感覚ははるかに簡潔なものに違いない。本能の規則は自律的なものであり、その回路の開閉に選択の余地はなく、知性によるものに比べてその選択肢はごく少ない。この持続のなかでは何かを選ぶという機会そのものがほとんどないので、過去から未来への軌道は一直線を描く。それは際限なく分岐する人間の経験の
システムとは異なるのである。反芻動物や昆虫は、個体の一生と同じ長さだけ続く延長された現在としての時を生きなければならない。一方で、私たち一人ひとりの一生には無数の現在の瞬間が含まれている。それぞれの瞬間には、意志においても行為においても開かれた選択肢が限りなく存在しているのである。

人はどのような出来事であれ、それが起こってしまったあとでないとそれを十分に感知することができない。出来事が歴史になるまで、あるいは、宇宙の嵐で塵と灰になるまで感知できないのである。その嵐を私たちは現在と呼ぶ。その嵐は創造の間中ずっとやむことはない。

現在性が空虚であるということは、ほぼすべての瞬間は実現にまで到達できないかもしれないということからも推測できる。言い換えれば、実現へと至る可能性がわずかに残ったときにのみ、現在性は充実したものに見えてくる。

 

 

芸術と天体について

いかなる芸術作品も、その状態がどれだけ断片的であっても、過去に捕捉された出来事の一部分であることに変わりはない。それは過ぎ去った時からの流出物なのである。芸術作品は、今では静止してしまった何らかの活動を示す図表である。

この考えを進めると、芸術作品群は流派という集まりがつくる重力圏のように見えてくる。さらに、芸術作品を諸表現が連結されたシリーズとして並べることができれば、その芸術作品たちが連なるシークエンスはまるで、希少性や規則性、必然性といった「運動」の影響がもたらす天体の軌道のように見えるだろう。

先に述べたような類似は、私たちに歴史的なの事実の本質を見極めることを促すという点で有益である。その類似ゆえに、私たちは多様な分類方法を検討する際の根拠を確かなものとみなすことができるのである。

 

 

形のシークエンス

重要な芸術作品は歴史的な出来事であると同時に、何らかの課題に対して苦労のすえに勝ち取った解決であるとみなすことができる。

解決が積み重なるにつれて、問題も更新されていく。とはいえ、つまりこれら解決の連鎖こそが、問題の所在を明らかにするのである。

 

 

素形物と模倣物

一方で道具が、また他方で流行物が、私たちが暫定的に設定した境界である。今私たちは、その領域の内側にさらなる区分を設けることを必要としている。そこには素形物(prime objects)と模倣物(replications)という区分が存在する。これは、時代のなかで、芸術作品に対して、芸術家と鑑賞者それぞれの見解があるのと同じことである。
素形物とは重要な第一の発明群のことであり、模倣物とは、重要な芸術作品が通過したあとに漂っている複製、再生品、写し、縮約版、変形物、派生物といった模倣の系統全体のことである。大量に生産される模倣品は、流行語が持つ性質に似たところがある。

素形物は数学における素数(prime numbers)と似ている。ともに、その出現を予測するための確かな法則が解明されていない。

素数はそれ自身と1以外に約数を持たないが、素形物は原型(original)であるという性質上、分解を、拒絶する。素数と同様に、発端(prime)であることが素形物の性質なので、先行するものによってそれを説明することができず、いつ歴史のなかに現れるかも説明できない。

英雄たちの年代記と同じように、芸術の歴史は数多く生み出された偉大な瞬間の、ほんの一握りしか記録していない。それについて思いをめぐらす私たちは、すでに死んだ星たちに出会いを求めているようなものなのである。その光でさえ、もう私たちには届いていない。

 

 

診断の難しさ

さらに厳密に考慮するならば、形の集合とは観念としてのみ存在するのである。

芸術作品に作者が刻んだ署名や日付を確認できたからといって、その作品が素形物であることを保証するものではない。さらに、芸術のほとんどは匿名のものであり、必然的に大きなまとまりのなかに紛れてしまう。たいていの場合、素形物は模倣物の集まりのなかに消え、その発端はひじょうに難しく解決しがたいものである。それは生物学上の種の識別可能な最初の個体を発見する困難さにも匹敵するだろう。実際、シークエンスに関する私たちの知識のほとんどは、模倣物の上に成り立っているのである。

収集と鑑識に関する長い歴史的伝統は、中国、日本、ヨーロッパの人々にしかなかった。他の地域では、事物の継続的な蓄積が収集家や批評家の努力によって体系的に行われることがなかったために、素形物は事実上すべて視界から消えてしまったのである。

形の集合のすべては開かれたシークエンスとなる。私たちがある形の集合を歴史的に閉じたシリーズと呼ぶのは、単なる人為的な慣例によってなのである。

 

 

連続する価値判断

芸術家と収集家、そして歴史家には共通する満足感がある。それは、昔の興味深い芸術作品は唯一無二のものではないと気がつくとき、つまりその類型が時代の新旧を問わず、あるいは質のよし悪しに関わらず、先行型(antetype)と派生物(derivatives)、オリジナルとコピー、変形と異型などの多様な事例のなかに存在しているのを知ったときに感じられるものである。このようや状況のもとで私たちが感じる満足の多くは、ある形のシークエンスについて注意深く観察したり、時のなかに立ち現われる形の拡張や完成を直感的に感じ取ったりすることに由来する。

シリーズの一部として作品を評価することは、近代文芸批評の主潮流に逆らうものだった。この傾向は、「意図の誤謬」、つまり、そのものに内在する価値ではなく外的な状況によって作品を判断することに異を唱えて、一九二〇年ごろ始まった。当時、ニュークリティシズムの批評家たちは、詩人の意図が何であろうともそれは彼の試作の質を高める言い分にはならないし、詩の歴史的的条件がどのようなものであろうと、それとは関係なしに批評はすべて作品それ自体においてなされなければならないと考えたのである。

文学作品は言葉の意味だけで成り立っている。したがって、今述べたような批評の原則を視覚芸術に当てはめることはできない。視覚芸術において言語的な記号は副次的なものであり、そこではもっと基本的な問題が生じる。

「原典を確定すること」

「時期遅れ」や「進歩」といった用語は説明上のものである。これらの用語は、質の判断を意図するものではなく、そのときどきの位置で前後のどちらを向いているかを記述することによって、変化の瞬間の対照的な状態だけを示している。

 

 

言語の変化

歴史において、いかなるパターンであろうとも忠実な反復を不可能にするこの干渉という要素は、たいていは人間には制御できない。

雑音とは不規則で予測不可能な変化のひとつなのだが、言語が有効であるためには、この不規則性や予測不可能性を最小限に抑えなければならない。

道具としての言語それ自体が気まぐれに変化するのならば伝達は成立しない。したがって言語における変化の割合には規則性が存在しなければならない。言うなれば歴史の雑音は、言語においては、一様で控えめで目立たないうなり音(ハム)に姿を変えたのだ。

事物の歴史なかに芸術の歴史があることを、私たちは知っている。道具と比べ、芸術作品はよりいっそう象徴的な伝達システムに近い。この象徴的な伝達システムにおいて、伝達は複写に依存しているのであるが、ある程度の再現性が確保されるためには、そのような複写が発する雑音から自由でなければならない。

実用的発明は人間の環境を変えることによって間接的にのみ人間を変える。それに対して芸術的発明は新しい客観的解釈ではなく、むしろ世界を経験するための新しい方法として直接に人間の意識を拡大するのである。

私たちが世界を把握するには、集合や類型、カテゴリーといった同一性の概念を用いて世界を簡素化する作業、つまり本来的に同一ではない出来事が無限に継続する状態を、類似による有限の体系へと配列し直すほかにはない。いかなる出来事も繰り返すことは
ないというのは存在の本質である。しかしそれに対して私たちの思考の本質から言えば、私たちは諸出来事をそのなかに見出された同一性によってしか理解できないのである。

変化なくして歴史は存在せず、秩序なくして時間は存在しない。

象徴は、反復があるからこそ存在している。その同一性は、与えられた影に同じ意味を当てはめる能力が象徴の使用者間で共有されることに依拠している。

何かを説明することと何かを測定することは互いによく似た作業で、それらはどちらも翻訳なのである。説明されたのであれば、それは言葉に置き換えられたのであり、測定されたのであればそれは数字に置き換えられたのである。

わたしたちが日々を送っている現在とは、異なった系統年代を背景にした諸観念を表した事物たちがぶつかり合って、未来の位置を獲得するために争っている場なのである。

伝統と反抗という語では、周期的なシークエンスが示唆されてしまい、反抗は循環運動の形で伝統とつなげられてしまう。つまり、反抗は伝統になり、その伝統がはじけて反抗する分派を生みだすといった循環が繰り返される。

それゆえに、自己決定的な運動は必然的に短命となり、そして導かれる運動の方が、通常は歴史の実体を形成する。

発展はすべて連続的である。

 

 

結論

人間の知覚は習慣的行動をゆっくりと修正してゆくことに最も適しているので、斬新な発明はいつも知覚の入口のところで足止めされてしまう。メッセージの重要性や受け手側の必要性に比べて、人間の知覚ははるかに流量の限られた狭き門なのである。

 

 

複数形の現在

すべての事物は時とともに変化し、場所によっても変化する。私たちには、様式概念が想定するような不変の特質にもとづいて、どこかに事物をとどめておくことはできない。たとえ事物をその時空的位置づけから切り離したとしても、事物を固定することはできない。しかし事物における持続とその位置づけを視野に入れると、私たちは、生きた歴史のなかに、移行する関係、過ぎゆく瞬間、変わりゆく場所を見出すことができる。そのとき様式のような仮説的な次元の連続性は、どんなものであれ、私たちがそれを見出そうとしても視界から消えてしうのだ。
様式とは虹のようなものである。それは、特定の物理的条件の偶然の重なり合いに支配される知覚の現象なのだ。

事物の歴史的研究が提起した問題全体に対峙できるのは、伝記でもなく様式概念でもなく、繰り返すが意味の分析でもない。私たちなの最も重要な目的は、主だった出来事を膣立てて並べるための、これまでとは別のほえを示唆することであった。あまりに多くの関係性を包含してしまう様式という考えに代えて、本書では発端となる作(primeworks)にその摸倣物(replication)がつながってゆく連続のあらましを述べた。発端となる事物やその派生物のすべては、同じ種類の活動の、初期だとわかる形態や後期だとわかる形態として、時のなかに送り出されてきたのである。

視覚的なものと形式的なものとは同一であり、この相似を明らかにすることこそ、芸術の真髄なのだ。


『時のかたち』ジョージ・クブラー/著、中谷 礼仁・加藤 哲弘/訳