尺度なき空、表面なきもの | 小動物とエクリ

尺度なき空、表面なきもの

 

 

Ⅰ 記号と徴候

1章 円蓋

3 格子

触覚的(客観的)、視覚的(主観的)という二つの極の対置が、リーグルにとって理論的重要性を持っており、歴史の軸、もしくは説明の原理と理解された連続性の軸とは異る軸に基づいて芸術生産を整理することを可能にすると見なし得たのは、この対置が、形式分析の手引きを導入するのに役立つように思われたからではないか。あるものをその物質的な統一性、不貫入性において把握することを目指す芸術は、図をそれが浮かび上がるところの地から切り離す輪郭線に依存し、肉付け、短縮法、重なりや隔たりの効果など、絵画表面の客観的連続性を断ちかねない、あるいは平面上における形象の配列を乱すおそれがある、一切の表現に関する特性を抹消せんとするであろう。

 

 

2章 指標

1 過程ーー組成 

図像の「取り扱い方」は、むしろ第二の意味、表象再現の「様式」に関して共示された記号表現であり、模倣再現に基づいて、規則の地位を手にするには至っていない記号表現と記号内容の間の類似に基づいて、明示されたメッセージに重ねられているということなのだろうか。

 

 

様式/体系

絵画というプロセスの概念に関して、問題となるのはまさにその点に他ならない。すなわち、「模倣再現」と「様式化」、あるいはまた提示、形象による「明示」そのものとそれにともなう表現上の共示的意味とを区別できるのだろうか、そしてまたそうすべきなのだろうか。美術史における様式という概念の不確かな定義、きわめて締まりのない拡張は、この問いがそこでは文字通りに理解されえないという事態を招いた(ヴェルフリンが作品の提示される線的な方法と絵画的方法を無造作に様式と呼んだり、言語と呼んだりしているのは周知のところだ。)

 

 

2 コレッジョの/雲/

雲は、コレッジョの造形語彙において鍵となる語の一つであり、おそらくはーー先で見るようにーーその主題群の中でも画家か特に好むところであったに違いない。とはいえ、このモティーフは、その導き入れる組成ゆえに、輪郭線の概念、さらには輪郭を描くということそのものと相容れないし、その相対的な脆さゆえに、古典主義的な意味での形態を定義するところの堅固さ、永続性、同一性とも矛盾する(そうした絵画の中では、雲がしっかりデッサンされていないとか、堅く物質的な外観を呈していないとかいう訳ではない)。

/雲/は単にある様式を得るための手段にとどまらず、構築のための素材に他ならない。

 

 

記号と形象

3章 装置と夢

1 主題群

運動

「コレッジョにおいては、すべてが動いている。」これが隠喩的な定式であることは明らかだ。

問われるべきは、像が知覚以外の様々な領域ーー想像力、そしておそらくは夢の領域ーーで機能している(メングスがすでに認めているように)時に、分析がただ形式のみを対象とできるか否かなのだ。
 この点に関してもまた、雲はある種の導き手、あるいはーーガストン・パシュラールの言葉を借りるならばーー誘導記号として現れ、論理や分析が展開するきっかけを与える。いわゆるテーマ批評の原則となっている命題が言うように、ある像が重要となるのが、その外形よりも、その運動性、その内なる力、そしてその像が招き寄せる様々か想像を通してであるとするなら、雲は夢想に(そして夢想に基づいて調節される分析に)この上ない材料を提供していると言って良いてあろう。想像力に関する心理学が静的な形象のみを対象とする訳にはいかず、またそうすべきではなく、変形の途上にある像について調べる必要があるとしたら、この雲という不定型の物体は夢想にとって特権的ない主題となるに違いない。それは運動する形態の世界へと道を開き、そして変形の運動が様々な構築物へと導く。その構築物の絶え間ない変化は、夢想の形式的な力へと存分に働きかける。

 

 

2 幻想

諸機能

ここにおいて、寓意的解釈とテーマによる解釈は限界に行き当たる。

いずれの場合も解釈は絵画以外の論理から生じている。それは寓意的な解釈と関わる人文主義的修辞学の論理であったり、心理学的な解釈ーーその精神分析的な見かけに欺かれてはいけないーーと関わり、欲望の様々な形象を秩序づける論理であったりする。しかし絵画の秩序は、仮にそれが幻想の力や弁論の威光に負うところがあったとしても、その必然性、有効性、固有の正当性を持っているのではないだろうか。

あらゆる意味作用の過程には、様々は非連続、ある接合点が含まれている。一つの水準、事例から別の水準、事例への移行が連続的な行程に従って作用するように思われるのは、あくまで意味されるものの領域、主観的な「理解」の運動の中でに過ぎない。

記号や形象は、その感知される外観に至るまで、それが様々な水準で果たす役割と、それが結び付く、あるいは対立すると見なされる、同じ事例に属する様々な単位との関係を通して決定されるのだ。そして、そうした機能や関係のすべてを考慮することが、美術理論の第一歩となるのではなかったか。

 

 

4章 逸脱と規範

1 過ちの国

輪郭線の解体は、その帰結として、形態の輪郭線をあまりにも厳密に描くことを排し、絵画性の昂揚をもたらすように思えるからだ。

「絵は詩のごとく」

「絵画がわれわれのうちに引き起こす感情は、少しも色彩に由来するものではない……。陰影に富んだ美しい色彩は、視覚を楽しませてくれるが、この快楽は純粋に感覚に属するものである。この色彩に生命体と魂を与えるのはデッサンであり模倣である。
色彩の現す対象がわれわれを感動させる。絵から輪郭を取り除くなら、色彩はもはや何ものでもないであろう。」

たしかにアルベルティも言うように、理解力のみに依存して、あらゆる事物から切り離して物の形体を測る数学者のように絵画を扱うのは不可能であろう。事物を示そうとする者は、もっと人間臭いミネルヴァ[すなわちもっと感覚的な叡智]を用いなくてはならない。とはいえ、線描の体系自体において、輪郭線は不可視とは言わないまでも、可能な限り目立たないことが望ましい。

線描のために用いられる手段をあまりに強調することは(ゴーギャンの例をみればわかるように)、絵画的、線描的、色彩的な手段を厳密に絵画の図像における類似図像的(イコニック)な機能に従うものと見なす表象再現構造に対する侵犯行為となってしまうのだ。

絵画という現象に対すら記号学的なアプローチが、その原則において従属しているように思われる、記号をめぐる諸問題が、どの程度まである特定の文化体系ーーその歴史的、地理的な境界はその影響力の範囲と合致しているーーと結びついているのかを知ることは課題の一つであろう。非具象の作品、すなわち、表象再現の概念そのもの、それとともに図像的な記号の概念そのものが疑問に付されるような生産に記号の概念を当てはめるならば、どうなるだろうか。

 

 

2 正常と病理

芸術の領域におけるあらゆる改革は、規範の形ら価値を持つに至った過去に対してのみならず、現在正当とされている実践、役割、機能に対してまた一つの逸脱行為として現れる。とはいえ、逸脱にも様々な形があり得る。規範が容認、もしくは対応できる逸脱、何らかの形で「体系」の内部にその可能性が組み込まれている逸脱もあれば、体系の安定を揺るがし、機能を混乱させる逸脱、何らかの形で「体系」の内部にその可能性が組み込まれている逸脱もあれば、体系の安定を揺るがし、機能を混乱させる逸脱、社会がひたすらその制度を通して押さえ込もう、抑圧せんとする、そうした逸脱もある。しかしながら、こうした逸脱が充分に際立ったものとなり、その効力を的確に発揮せんとするためには、その文脈、すなわち、規範がそれを産み出す逸脱、規範を規範たらしめる逸脱と不可分であるような実践の文脈に今一度置き直さなくてはなるまい。

文学とは、言語を身体器官として肉体的な形で読者に送り返す文字言語の実践なのだ。その身体が様々な苦痛や快楽の下で話し言葉を自らの代理とすることもあり、その時この同じ「主体」は身体に囚われていることを認めなくてはならないーー「その」誕生から「その」死まで言語に囚われているのと同様に。絵画について言えば、セザンヌ以降の絵画の発展は、視覚像がーーメルロ=ポンティの指摘するようにーー身体(言語と同様の社会的な)に限定されてしかあり得ず、身体を通して別の身体、そして自然そのものへと導かれるということを充分に語っている。

 

 

染み

コレッジョの生産において「雲」という要素にあてがわれた機能は、感覚的要素が海外表現において果たす決定的な約割と同時に、画布上に配された層の薄さとその効果の広がりとの不釣り合いから生じる幻想的な意味の膨らみを明らかにしている。概念の領域で、「雲」は不安定な形成物であり、輪郭もある定まった色彩も持たず、レオナルドにとっての壁の上の染みと同様、画家がその欲望の表徴を刻印するところの、形も中身もない実体なのだ。

 

 

5章 雲、絵画

画家と呼ぶに値するのは、模倣再現をなし得る者に限られる。絵画は逆に芸術以外の何物にも依存しない。

 

 

Ⅱ 記号と表象再現

「表象の対象は、最初の表象を解釈項とする表意に他ならない。」チャールズ・サンダース・パース『哲学の原理』

 

 

1章 イコノミュスティカ

2 図像

神秘の群雲

雲は、それが支える者たちに重力の法則を免れさせるだけではなく、真実を与える別の世界へと世俗世界を開く役割を担う。精神の飛翔、法悦、幻視。ジョット『聖フランチェスコ』、あるいはスルバランから、ベルリーニの『聖女テレサ』を経てポヴァリー夫人に至るまで、雲は恍惚や様々な形に上昇、移動の要因とは言わないまでも、欠かすことのでかきない付随物であった。より一般的には、雲は他なるもの、聖なるものな不意の出現に常に伴っていたと言ってよい。

雲は僅かに開き、すべての人々の意識からその光景を遮蔽する幕の裂け目を通してのみ聖なる現実が現れる。またある場合、雲は聖なるものの直接的な顕現となり、かつてイスラエルの民たちのエジプト脱出を導いた群雲の柱のように、人間と流刑の運命を共にする。

 

 

3 聖体示現のコード

記号/象徴

聖と俗の区別は、事物と存在との常に更新され得る分割を前提としている。他の記号同様、聖なるものと関わる記号にも同じことが言える。それは記号間の横の関係の方が、象徴を定義する意味するものと意味されるものとの直接的な縦の関係よりも優先される。歴史的に構成された集合、体系に属しているのだ。

 

 

シークエンス

/雲/は、それ独自にあてがわれえる意味作用を有していない。すなわちそれは体系の中で他の要素と結ぶ、連続、対立、置換の関係によって得られる価値以外に価値を持たないということだ。

 

 

4 表象再現の諸機能

経験とその形象

画家が絵画の外部に属する表現の領域から様々な素材を借用していると思われる時、図像、絵画による表象再現の位置づけはいかなるものとなるのだろう。画家の役割はつまるところ、自らの技術を用いて、教義のために、神秘主義の著者たちが数多く記述した経験の記憶を確かなものにしようと務める挿話の制作に還元されてしまうのだろうか。しかしながら、神秘体験とその文字による翻案、あるいは造形によるそれとの関係はきわめて曖昧だ。

しかしながら、仮に経験がその形式を何らかの図像に借りているとしても、画家の仕事は決して自らがその練り上げになんの役割も担わないような幻視を記録することに還元されない。画家は自らな水準で、そして自らの方法で、人と神との結び付きを確立し、そのコミュニケーションの方法と形式を定義しているのだ。

芸術作品の観想が信仰を助け、支えることもある。

「絵画ほどに楽しく、また物事を心の中に甘美に入り込ませ、それを記憶に深く刻み込み、効率よく意志に働きかけ、意志に生き生きとはずみ、感動を与えよう促すものはない」

神秘主義の流れと世俗世界の流れが、なにがしかの形象ーーもしくは図像?ーーの媒介で最大多数の心を動かさんとする政治の互いに補い合い二つの顔であるかのようだ。大衆の教化に役立つべく、神秘経験は、読み取り可能で効率的な表象再現の対象をなすような形式を纏わねばならない。

 

 

2章 表象再現の二様態

1 エクリチュールと表象再現

提示(プレザンタシオン)/ 表象再現(リプレザンタシオン)

スルバランの絵画にあって問題となっているのは、ある像の提示というより、ある幻視の表象再現であった。

 

 

2 記号と表象再現

イコノロジーとイコノロジー的なもの

『イコノロギア』

「眼に与えられているものとは異なるものを意味すべく制作された図像であり」、画家すなわち色彩その他の媒体を用いてる類同代理物ではなく、意味されるものと似たものを表象再現する方法を知っている者たちに属している図像についてリーパは言及している。

 

 

図像と定義ーー美の図鑑

美は述語ではなく、釣り合いの問題なのだから。しかしながら、だからといって、美しくより釣り合いの取れた図像が美を適切に表現しているということにはならない。それはたとえば太陽を蝋燭によって明確に再現しようとすることがごとき、見知らぬものは同様に見知らぬもので表象再現しようという試みもしくは同語反復に過ぎない。そうした形象は意味されるものと偶然のつながり以上は持たない。類似(したがってそこには差異が含まれる)が欠けている。類似こそが図像の基本に他ならない。
 自らの技術を用い、自らが示したものと異るものを意味しようと画家が踏むべき手続きは、するとどのようなものとなるか。画家は、諸部分が意味されたもののそれと一体一に結び付くような形象を制作しようとするだろう。

 

 

表象再現の要素

「記号は、一方において表象再現する物の観念、他方において表象再現される物の観念という、二つの観念を含んでいる。記号の本性は、前者によって後者を喚起する点にある。(……)ある対象を、他の対象を表象再現するものとしてのみ見る場合、人がそれについていだく観念は記号の観念であり、その対象は記号と呼ばれる。」これが古典主義時代が同意していた記号の理論だ。

古典主義時代以降、「記号とは表象再現可能なものとしての表象再現の持つ表象再現性に他ならない」。

群雲の向こうに開けるのは、名指しされないがゆえに表象再現の対象にならないもの、無限ないしは定義不能な空間の領域であり、その沈黙はそれを問いかけ、分析し、語らせることを可能にする言語を見出すまで古典主義の精神を不安にさせた。

 

 

記号と類似 

あるものの認識とは、まずそれを名指しすることに他ならないーーなぜなら、その名前の知識なくして、意味されているものについての知識に接近することはできないとリーパは言う。ある名前を、その可視的な存在とまでは行かずとも所有することで、図像の読解とその解釈、すなわちーー古典主義時代の言い方に倣って言えばーー意味されているものについて知ることが同時に可能となる。

定義が定義されるものの基準となるのと同様に、図像は意味されるものの基準とならねばならない。しかしながら、この言語を濫用してはいけない。

 

 

表象再現の雲

類似による鏡の戯れに専心しているかに思わるれる時代にあって、芸術は空間を模倣再現するーーフーコーに倣って言えばーーどころか、すでにして知の様々な形式に抵抗し、視覚と論証という二つの領域における意味での表象再現の客観的な条件を定義すべく努めていたのではなかったか。芸術は、絵画という手段を用い、古典悲劇が模倣再現の主因という役割を演じられるような劇場を構築し、反復という手段を用いて置換のための場を開き、その舞台を作り出していたのではないか。

雲(そしてここでわれわれはヴェルフリンがバロックの想像力におけるヴェールのモティーフに認めていた意義を思い起こしておくべきだろう)は覆い隠す時にのみ明かす。あらゆる点で、それは表象再現にとって特権的な記号であり、表象再現の境界とそれが基盤としているある種の無限後退を明示するのだ。

 

 

3章 絵画の劇場

1 表象再現の対象  

芸術とスペクタクル

表象再現するものと表象再現されるものの相互性に基づく置換の機能に帰着するとするならば、一七世紀をはるかに遡って芸術が演劇と取り結んできた曖昧な関係は、これら表象再現の二様態の密かな類縁関係を暗に示しているのではないか。絵画が表象再現として、そして絵画がその手法を一部借用している演劇の等価物ないしは置換になりすまし、その一方で演劇もまた、生を模倣再現し、情念を描き出す自ら主張するときに、絵画とは一体どのようなものになるのか。

詩もしくは絵画のスペクタクルの像や特権性に敏感で細心の注意を払う時代にあって、先行するものから主題や制作法を借用したり、交換したりすること、言い換えれば、表象再現を一つの系列から別の系列へ移動、転換することが規則を構成しており、ある与えられた像について人はその発想源となったものを探し出すよう努めれば足りるということなのだろうか。

 

 

表象再現の二重化

表象再現のパラドクスとは、それがそれとしでもっとも確かとなるのが、何らかの表象再現に対して開かれている時、すなわち表象再現の表象再現である時だという点にある。

 

 

2 置換

表象再現価値と展示価値

絵画作品の表象再現としての価値は、その作品が本来の文脈から切り離され、作品に新しい機能を分け与えるような条件下で提示されることでしばしば失われてしまう。芸術作品は必ずしも観賞の対象ではなかった。

マルローよりもずっと以前に、ベンヤミンは美術館の出現による変容を鋭く、批判的に鋭く、批判的に理解していた。美術館で芸術作品が芸術作品である以上何も機能を持たないということは決してない。その展示価値の圧倒的な優位ーーそれは異質ないし隔たった文化に属する生産物を同じ場所に集め、一つの秩序の下に還元することに他ならないーーが作品にこれまでにない機能を与えているのだ。そうした機能の中で、厳密に芸術的な機能はつまるところ付随的なものに過ぎない。交換価値とまではいかないまでも、収集の格下げされた作品は、もっぱらその名前と学問的な知識のみを提供し、真に理論的、批判的な射程なしに、所有と投資の至上命題に導かれる。

 

 

可能な表象再現

雲は、今やそれが隠している演劇を暴くこととなっているのだが、ここでは明らかに表象再現と最も親和力のある、表象再現の本質を分有するものと見なすことができる。
 雲の表象再現機能、演劇と造形芸術との間のいわば共犯関係は、これまで言及してきた多くの絵画における群雲の矛盾を孕んだ扱い方を理解させてくれる。

ここで象徴主義と現実的錯視は別の水準で機能しているのだ。すなわち、表象再現の水準、可能な演出の水準において。

 

 

4章 表象再現した/反復/置換

「意味するものは最初から自己自身の反復、像、類似の可能性である。」
ジャック・デリダ『根源の彼方へ』

 

 

2 ラ・ヌーヴェラ

装置

したがって、形象的な作品が意味をなすのは、その記号を何らかの水準で制度化された現実、様々な種類の予め定まった意味作用に負っているのと相関的にであると言うだけでは充分ではない(この指摘は、レヴィ=ストロースに倣って言えば、芸術生産の「器用仕事(プリコラージュ)」的な側面を明らかにする限りにおいて重要となろう)。借用はまさに借用そのものとしてある意味作用の機能を持つ。借用は記号をその代行としての価値において、図像を表象再現の表象再現として定める。

現実錯視はここで現実的なものと想像的なものとの結節点にあって、現実の自然もしくは知性の領域に属する概念よりもむしろ演劇の表象再現を参照することで機能している。

 

 

3 記号の表象再現機能

反復、置換

表象再現の論理空間は意味するものと意味されるものが厳密に交換可能であることによって構成される。

絵画記号が演劇に由来する記号を複製(表象再現)する(描かれた雲が演劇の雲を表象再現する)。それはちょうど、より始原的な場面の再=提示、反復に他ならない演劇の場面を図像が複製するのと同じことだ。しかしながら、表象再現は同様に置換としても機能する。

絵画と演劇の間の関係、交換は語彙の問題だけに限定されるべきではない。表象再現の統治法を練り上げることは、画家そしておそらくは演劇人にとって重要な課題であった。

 

 

Ⅲ 統治論的空間

「始めに話のなかになかったものか、言語の中にあることはない」
エミール・バンヴェニスト
『一般言語学の諸問題』

1章 読解の問題

理論は結局のところ、空間をいかに表象再現するかということよりも表象再現空間の問題、そもそもは演劇の形式の下に構想されたある表現再現との関係において把握される絵画空間の問題を理解する必要があるのだ。

 

 

2章 表象再現の文字言語

1 注記

話す主体によって適用される言語規則が、実際に表現、理解される無数の文を意味論的に解釈する方法を決定するとしても、「創造性」の問題を絵画に関して言葉で定義することはできないだろう(チョムスキーはこの表現を反射的行為とはーー少なくとも相対的にーー独立したものであるという考えを前面にひ出しているのだが)。

言語活動に私有財産はない。そしてそれゆえにこそ、ソシュールの言い方に倣えば、言語活動は革命を経験することがなかった。しかしながら、多くに共有されているとは言い難い芸術、ましてや常に「改革」の対象となる文字言語では事情はまったく異なっている。

 

 

2 形象化と表象再現

アッシジの物語

人が芸術と夢との間に認めようとする類似は、意味や機能の水準よりむしろ(芸術生産は、隠された欲望の主観的な満足に解消されはしない)、作家の水準、すなわち語られたものと知覚されたもののつなぎ目でなされ、それによって産み出されたものが、ある強制力を持った条件に対応する作業の水準に基づいているのだ。

 

 

3章 絵画表面と記号

1文字の空間

絵画の文字言語は、夢のそれとは違って歴史を有している。したがって、理論にとって問題となるのは、人文主義の専制にいかに譲歩しないかということだ。その専制は、芸術の生産物、芸術の時代について、その特異性、その個別性しか認めず、造形と関わる事象をその一般性、基本構造において理解するための出発点となる歴史的な/歴史を超えたら不変元や定数を探し求めることを非合法であり、容認し難いとするのだが、まさにそうした不変元、定数を理論的に生産することが、科学的とは言わないまでも、厳密な美術史の条件となるように思われる。

 

 

透視図法

透視図法を「幾つかの対象を、これらの占めている空間の部分ともどもに呈示する能力のことだが、その際、画像の物質的な担い手という見方は透過的平面という見方によって完全に押しやられてしまい、この平面を透過してわれわれは一箇の想像的空間を、つまり、ただ切断されているだけで決して画像の枠によっては画定されずして、対象全体は重層的に立ち並ぶと見えるように包摂しているという想像空間、これを覗き見ていると信じていい具合に呈示する能力」と認められるなら、それは「精神的的意義内容が具体的な感覚的記号と結び付けられて、この記号の内的なものとなるという、あの象徴形式の一つと呼ばれてよいのであり、そしてこの意味では、透視図法を持つか否かばかりか、いかなる透視図法を持つかということも、個々の芸術時期や芸術領域にとっての本質的重要事」となる。

透視図法を象徴形式として定義することは、透視図法を知らない芸術上の時代や地域とそれを何らかの形で実践している時代を区別するよう誘う。

 

 

2 統治法

古代より過程

雲が形象の織物に介入してくるにあたっては、空と大地の関係のみならず、現世と彼岸、固有の法則に従う世界と、科学が知り得ない神的な世界の関係が問題となるのだ。

雲によって調整される対置は、明示されているのとは異なることを意味する。それは透視図法という「規範」の立場とこの基盤による排除、そしてその規範をーーおそらくはーー動かしている矛盾をめぐる一連の問いをもたらす。

 

 

3 歴史と幾何学

画家の任務

透視図法という制度は、人間的なものの範疇に属する通常の尺度を断裂させるような現象を表象再現するのに適しているのだろうか。

アルベルティの『絵画論』、その著書が記しているように、芸術の第一分野たる絵画の、歴史ではなく、技術もしくは理論を対象とするこの書物は、画家が見えるものを描くことに携わっているべきであり、見えないものはその管轄外であることを明言する(「画家は目に見えないものは関係ないことを何人も否定しないだろう。画家はひたすら目に見えるものを描くことに携わっていればよいのてある。」)

ロベール・クラインが的確に関連づけている、アリストテレス的な真実味と同様に、透視図法は現実錯視の原則としてではなく、統一性、明証性(可読性)の規則として語られる。歴史画の明確さは単に人物と人物の間隔にではなく、間隔をその配置を通して決定する人物の数に依存している。

画家は形象に、彼が模倣再現しようとしている現実の見かけを与えなくてはならない。

 

 

4 寄木細工 Ⅱ

「透視図法には、平らなものを奥行きを持つように、奥行きのあるものを平らであるように見せるという性質がある。」

レオナルド・ダ・ヴィンチ

 

 

文字言語という範列

幾何学に精通していない者は、絵画の様々な要素や規則について何一つ理解できない。画家は見えるもの、すなわち、一定の場を占めるものしか認めようとはしない。

視覚の機構、眼の役割や性質などはアルベルティにとってほとんど重要でなかった。「画家として語ること」を文字通りに理解しなくてはならない。数学者と同等の理解力を有していない画家にとって、視野の領野は、平面に組み込まれる(投影される)もの、すなわち、様々な角度から把握された面ーーその各々は輪郭線によって定められ、デッサンされ、人物と舞台を文字が語や文章を形成されるために配列されるのと同じような仕方で構成するために採用された視点に応じてつなぎ合わされるーーの規則正しい構築へと要約されるものと等価なのだ。絵画の作業は書き込みの作業であり、絵画終業は文字言語の修得と無関係でない。「私は、いま新たに絵画を始めようとする若い人々が、ものの書き方を教えられたと同じようにすることを望んでいる。書くことを学ぶ人々は、最初に一つ一つの文字のあらゆる形ーー人々が基本と称していたーーを分けることを教えられ、次いで音節を教えられ、次にいかにすべての語句を擦り合わすかを教えられるのである。われわれの生徒も絵画においてこの規則に従うべきである。まず第一に、いかに面の輪郭を正しく描くかを学ぶべきである。個々で彼らは絵画の基本の稽古をするのである。」

 

 

点/記号/表面

西欧の伝統が一般に音声、聴覚、話し言葉と結び付けてきた言語、文字言語はそれに対して副次的なーー代行的ゆえに副次的なーー機能しか担い得ない。事実上知覚の範型についても、音声の範型についても事態に変わりはない。ジャック・デリダが的確に指摘しているように、構造というより範型と言うべきだ。なぜなら、「完璧に機能する構築された体系ではなく、実際は何もかも音声的であったことなど一度もなく」、ましてや何もかも「知覚的」であったためしがない「機能を明示的に導く理想と関わっているからである」。

リーパの定式によれば、眼に見えるものとは異なるものを意味しようとする際、絵画が作用する場である補足関連づけの水準にをそれは含意しているに過ぎない。

諸部分が意味される事物と一対一対応し、表象再現の様々な要素の秩序と調和するように配置されるような形象を作り出すのが画家の役割に他ならない。

平面上の面の地取り、構成は、ある視点から一定の距離を隔てて見た現実の物体がそこにあるかのような錯覚を与える(この定義がパースによる記号、ないしは表意体の定義、すなわち「記号、あるいは表意体とは、ある人にとって、ある観点もしくはある能力において何かの代わりをするものである」という定義と結び合うことは注目に値する)。複数の面が集まると立体となる。しかなしながら、この立体の構成はまた、立体と立体の間に間隙、空虚が配されることを前提とする。」

間隙が問題となるのは、輪郭が充満と空虚の境界であり、地にも図にも属していないからに他ならない。アルベルティは些か性急に、輪郭はそれが囲む面の縁、一番外側の境界線である、その面に属していると明言する。面を挟み込む線は、それがデッサンする面の性質を決定する。面は色彩や構図と同様、線にその名前を依存することとなる。

画家が絵画を部分から部分へと構築していかなければならないーー文字言語の範型がそうするよう誘うーーとすると、画家は果てしない苦労を強いられることとなろう。

 

 

奥行きなき空間

記号は表面上で線を通して作用する。それはまず排除によって機能する。記号の価値は、それが結び付き得る、あるいは結び付かない他の記号、それが協調する、あるいは対立するほかの記号との関係によって決定される。画家はある場を占めるものしか知り得ない。絵画の言葉で(記号をめぐる思考に従属する絵画術の言葉において)、画家はある地(平面)の上に浮かび上がる形象(諸々の面)を認識するに過ぎない。

アルベルティが運動(そして表現としての身体運動、精神の動きの視覚的な翻訳である表情)について語る一切のこと、色彩について、形象に立体感を与える明暗についてアルベルティの語ること、それらは、意味作用をなす表象再現、記号とその操作から生じる表象再現の原理である、還元、平面化、そして線描を補足するための修辞に他ならない。

ナルキッソスの神話

平面と画法幾何学以外の手段に頼ることなく、眼差しを虜にし、奥行きの幻へと誘う。透視図法のパラドクスはそこにある。

絵画の表面が鏡の表面かという区別はほとんど重要でない。この二つの表面は体系を形成し、同じ送り返しの構造内に捕われているからだ。

 

 

5 雲を映す鏡

透視図法は、自らの秩序に導き入れることのできる、ある場合を占め、輪郭が線によって定められるようなものしか認識できない。ところが、空は場を占めることがない。空には尺度がないからだ。そして雲について、その輪郭を固定することができず、その形態を面という言葉で分析することはない。雲は、形態も、明確な末端も持たず、境界が入り組んだ、レオナルド・ダ・ヴィンチ定義するところの表面なきものの管轄に属しているのだ。

鏡を通して透視図法は、排除の構造ーーその一貫性が一連の拒絶に基づいているにも拘わらず、自らの範疇から閉め出したものに、自らの背景とし場を与えざるを得ないーーとして立ち現れる。

 

 

Ⅳ 連続体の様々な力

「連続体が種であるならば、無限は属にあたる。」ジュール・ヴィユマン『算術の哲学』

 

 

1章 「様式」と理論

1 排除の構造

ある体系の中で思考されざるもの

透視図法の「規範」とされるものは、空間を幾何学的に構築物するための様々な要素およびそれを組み合わせる方則を提供する。

透視図法という制度は、雲を図形的な解釈に不向きであるように思われるという理由で排除した。

2 線的なものから絵画的なものへ

レオナルド Ⅰ

表面は限界をなす。それは様々な物体の一部ではなく、それらに共通の境界、それらの末端の接点に他ならない。

表面とは物体を空気から、あるいはむしろ空気を物体から切り離す境界であり、別の言い方をすれば、物体とそれを取り巻く空気の間に含まれるものである。

表面は存在するが場を持たない。したがってそれは無に等しく、この世のあらゆる無は、もし仮にそれが表面を持つとすれば、表面の最小部分に等しい。そうしたことからわれわれは面、線、点が等価である、それぞれが他の二つの組み合わせと等価であると結論できる。

絵画が名ばかりでない存在である(無とは異なる)ことを主張するためには、遠ざかることによって色彩が失われていくという色彩透視図法、空気の濃度、眼と物体の間に、多かれ少なかれ厚みを持った霞や霧が介在することに関わる空気透視図法(離れたところから見た形態が不正確になり、輪郭線も失われることを考慮に入れる)など、線透視図法以外の手法に頼らなけばならない。

 

 

2章 天と地と

1 美学

黙示録

/雲/はより微妙な仕方で表象再現の中に矛盾を導き入れる。何らかの形で、/雲/は体系の終焉を暗示している。

『オルガス伯の埋葬』は、前景に配された若者、観者の方を見ながら、奇跡の場面を示しているこの若者の像に関して、アルベルティによって明示された原則の一つ、表象再現は物語の周縁、目撃者の位置に人物を配するのが望ましいとする原則に従っている。

デューラーとともに、『黙示録』の像は、図像を持たない国民の非現実的幻想や思索として現れた、とマックス・ドヴォルシャックは言う。

 

 

2 記号論と社会学  

生産性/創造性

われわれの社会において「芸術」もしくは「絵画」と呼ばれる意味作用の実践と、それ以外の実践、さらにはそうした実践か介入することとなる全般的な歴史的文脈との関係が、厳密かつ体系的に論じられる可能性があるとすれば、それはこの場の内部においてであり、その周縁においてではない。

 

 

絵画の系列と演劇の系列

表象再現の問題は空間の幾何学的な構築だけにとどまりはしない。その形象的な原則において、表象再現が結び付いている鏡像的倍化は、その記号表現上の補填として、記号の体系が生じるところの送り返しの機能を必要としている。倍加、送り返しの機能。これらの言葉は文字通りに理解されなければならない。

絵画が演劇に「借りた」要素は、そのものとして重要となる訳ではない。

 

 

3 科学/絵画

レオナルドⅡ

表面なき身体であり、それゆえ輪郭線を持つことのない雲は、理論的に言えば、光を通さない物体を平面上の線的な投影に還元することに基づく表象再現の中には含まれない。絵画は描き得ないものを描こうとする時、その企てそのものとは言わないまでも、その様々な手段において変化することを余儀なくされるのではないか。

雲はそれが形成される時、あるいはその結果として宇宙の連続性をよく示しているのではないか。すなわち、そこでは自然の様々な部分が連鎖し、諸々の要素が混ざり合ったり、相互に浸透し合っており、混沌状態を解消するはずである要素の分離が、ここでは根元的に分割不可能なものへの回帰を意味し、それぞれの要素は不安定な集積物を生じさせるべく変化してしまう。そうした集積物の形成、発展、変化、そして解消によって、世界の秩序、その目に見える形態を乱す、様々な擾乱や降水ーー雨、雷、雪、雹、風ーーが導かれる。雲はこの世界の境界、そこを超え出るならば力学も、重さに関する科学も役に立たなくなるような境界をしるしづける訳ではない。雲は一つの物体であり、他のすべての物体同様、あらゆる自然の作用をなすところの運動や重力の法則に従う。
 表面なき物体であったとしても、雲が可視的であることに変わりはない。繰り返しておかねばなるまい。レオナルドは、絵画の機能が眼のそれを、絵画の作用が自然のそれを代行すると考えているのた。

絵画が透視図法を産み出し、透視図法が逆に絵画を科学とする。絵画の科学はデッサンとともに始まる。自然の様々な働きと同様に、絵画は、その目的を遂げるにあたって、言葉の助けを必要としない。そして画家たちは時に、絵画を記述すること、幾つかの原則に還元することを良しとしない。

「線は点の軌跡であり、その両端は点である……。面は一本の線の運動であり……、線が横断する運動[他の場所でレオナルドは、線が自らの方向から逸れていく運動であると記している]によって作り出される広がりなのだ。その境界は線に他ならない。」

「時間は連続的な量の一つに加えることができるが……、眼に見えるものや物質的なものと同じように時間を無限の多様性を持った形態や物体に分割することとなる幾何学の力が及ぶ範囲へと一纏めにしてしまう訳にはいかない。とはいえ、時間は最初の原則、すなわち点や線との関係性において眼に見えるものや物質的なものと等しい。点は、時間に関する言葉を用いるなら、瞬間に、線は長い時間の幅になぜらえ得る。そして点が線の始まりと終わりをなすのと同様に、瞬間がある与えられた時間の始まりであり終わりである。そして線が無限に分割できるとするなら、ある長さの時間においてもそれは不可能ではないはずだろう。」

 

 

4 無限という禁忌

ある矛盾の構造

あらゆる量が無限に分割(および拡大)できるというのは、無限が与えられ得るということではないのか。「このまったく与えられることのないもの、あるいは与えられたてしても存在することをやめてしまうものは一体何なのか。それは無限である。しかし無限が与えられるなら、それは限定され、限りがあるはずだ。与えられ得ないものとは、限りのないものだからである。」アルベルティによれば、画家は無限を認めるにはおよばないのだ。なぜなら画家は無限が眼に見える、すなわち、線によって囲み、平面上で面の作用に還元され得るかのように「振る舞って」はならないからだ。無限には両端が(「表面」も)ない。限界がない。それは概念としてしか与えられない。

自然学と形而上学

視覚的な世界は有限な世界だ(「見えるものはみなその末端によって見える……。無限であることと限られていることは両立しない……。だから、見えるものは何一つわれわれから無限の距離にはない」)。ケブラーの天文学は感覚世界と切り離すことができない。

空間それ自体は何ものでもなく、空間は無に等しいからだ。空間は物体によってのみ存在する。物体がなければ、空間もない。

 

 

「絵画と建築の透視図法」

無限は感覚の対象ではない。とはいえ、感覚は「理性を刺激する」のに役立つ。閉じた宇宙の破壊は、空をヴォールトに見せていた感覚的秩序と訣別することを意味する。しかしながら、絵画は仮に無限をみせることができないとしても、それを仄めかし、予感させ、それに対する欲望を生じさせることができる。

無限が数学の中に書き込まれる時、それはまた無限が信仰の中で語られる時でもあったのだ。

この天体の描く大きな軌道にくらべるならば、極めてかすかな一点に過ぎないことに驚くがよい。自然学与えるのに疲れるよりも、想像力が考えるのに疲れるであろう。この見える世界のすべては、自然の広大な懐の中の、目にもとまらぬ一線に過ぎない。どんな観念もそれに近づくことはできない。われわれが想像してる限りの空間の彼方に、われわれの思考を拡大しても無益である。

人間は無限の中にあって一体何ものであるか。

(パスカルは伝統と断固訣別しつつ、微小の無限は認めにくいが、偉大の無限は感知されやすいと記している。しかしそれならば絵画が虚栄に過ぎないことをどうして認められようか。絵画が人にその虚無、隷属、空虚を知らしめることができるとすれば)。

 

 

Ⅴ 我が船の素白なる悩み

1章 雲への奉仕

感知可能となる点は距離とともに変わるのだから。

雲がデッサンに水をさすとしたら、それは形態上の外観ゆえにではなく、その変化、移ろいやすさゆえのことに他ならない。

ターナーが空を描くことに比類なき力量を示せたのは、まさに並外れた記憶力の賜物であった。

 

 

気象学

断固として反唯物論なその主張において、ラスキンは「雲への奉仕」の矛盾した性格を浮き彫りにした。透視図法の範型に従って規則を与えられた形象の文脈で、絵画の感覚的構成要素、絵画の物質性、ひいては線描に対するところの色彩にまで連なるように思われる/雲/が、象徴主義の時代にはその幻想的な代用として現れることとなる意味作用の過程の現実を覆い隠す遮蔽幕として機能しているのだ。

 

 

2章 息の神聖文字

用筆

(「規則があるとき、そこに変化がなければならない……。規則を知った瞬間から、変形することに専心せねばならない」)。

 

 

肉と骨

筆はその表現性を差異に負っており、その差異の機能によって、様々な皺(多くのなかの一本の線を示す「画」、「筆の行き来」によって得られ、建物や松の木に用いられる輪郭)が定まる。しかしながら、そのようにすることで筆は輪郭を描くことの秩序から解き放たれる。

皺は中国絵画において、西欧にあっては線、色彩、影、透視図法などに属する様々な機能を兼ねる。と言うのも、それは一時に事物の形態、質感、質量を描出するからだ。

墨と筆は肉と骨のようなものだ。

墨は形態を満たし、形態に輪郭を与える。

 

 

陰/陽

描き始めるに先立って、有限性の中で予め表象再現空間を定めるのではなく、天地の場所を「残して」おき、空虚のままの場所で風景を定めていくのだが、それはあたかも風景が天/地の矛盾を解決し、乗り越えるかのようではないだろうか。

有限ではなく、無限の拍子であり、絵画の作業は「無限に大きなものを含む」べく発展し、「無限に小さなものを拾い上げる」ほどに小さくなることが求められる。

 

 

引用

「距離を描く傾向を考慮しながら[絵画を]扱うならば、絵画は[現実の]風景と等しいものとはならない。逆に筆と墨のよい働きを課題とするなら、風景は決して絵画と等しいものにはならないだろう。」

構図が非常に込み入った場所で雲はそれを分節化し、簡素にする(忙裏に間を偸む)。他方、空虚が支配的な場所では、雲は運動を導入する。引用の概念が適切に導入されるのはここであろう。

 

 

3章 布と衣服

画家にとって光は存在しないこと、および、理論的観点から、視覚器官の中で形成され、相対的な輝度に従って諸々の面を分類させる眼の感覚と、彩る感覚ーー「彩られた」感覚ではない

「画布を絵具で覆うことを許さず、物の接触点が細かく見定め難い時には物の境界線を辿ることもできません。私の絵が完成されない原因はここにあるのです。」もちろん、セザンヌが晩年に描いた絵画および水彩の驚くほど革新的な側面は、視力の低下などということで説明できまい。

唯物論的であるが、量よりも質に関わり、加算的というより弁証法的なものとして提示されるべき歴史。それは、絵画制作という労働をそれが産み出す価値という観点から商品として扱うのではなく、特殊な実践としてこの労働を様々な物質的決定の中で考えることを可能にするであろう。そしてその実践の生産性は、それが象徴の領域で権利を主張する様々な効果の広がりをもって測られるはずだ。

 

 

訳者あとがき

/雲/が、地上界と天上界を隔てると同時に関連付けたり、無限遠の存在を覆い隠したりしながら、あるいはまた劇場の舞台装置を再現することから、言語学で言う「記述」すなわち、文や文を構成する諸要素の結合規則の表示に至るまで、様々に役割を変えながら絵画の中で非構造的な対象として振る舞う仕方に他ならない。

今日では、コミュニケーションの理論て実践は、つねに効果をねらいながらその要素についての計算と統制がなされているような非個性的な社会関係の世界を作り上げたり、そうした特徴を際立たせたりするのに力を貸している。コミュニケーション理論で用いられる研究方法は、伝達を行う芸術としての文学、音楽、絵画にも広げられてきている。だが、今日、絵画と彫刻をこれだけ興味あるものにしているねはその多大な非伝達的要素であることは言っておかないといけない。普通の手段では絵からメッセージをひき出すことはできない。

絵画は抽象画となり、再現描写を捨てることによって、コミュニケーションが故意に阻止されているようにみえる状態を作り上げてきた。また自然の形態をまだ残している作品でも多くの人場合、その物体や表現のしかたは安易な解説に逆らっており、それらの作品の効果は予見不可能である。

芸術作品の享受は芸術作品そのものの創造と同様現に解されているような意味でのコミュニケーションとは究極的に対立する過程である。最初の出会いでは雑音と見られていたものが最後にはメッセージーー完全に再生可能な意味でのメッセージでは決してないもののーーあるいは必須の要素となるのである。

 

 

原註

現代芸術はその最も根底的な点において、自らを隔たり、逸脱、異常と認めないこと、そして、J.クリステヴァの言葉を借りて言えば、分析区域(zone analytique)の中に自らを構成することによって定義される。

「私は、賑やかにしようとして、少しの空白も残さぬ画家を非難する。それは構図ではなくて、彼らがいたずらにまき散らした混乱にすぎない。その場合、歴史画は値打ちのあるものにはならず、むしろごちゃごちゃの騒ぎに巻き込まれてでもいるかのように見えるものである」

「私は事物を描くのではなく、事物の間の空間を描くのだ」というブラックの言葉が思い起こされる。

「点とは記号であって、それ以上分割することが出来ないものであることを知らなければならない。(……)これらな点は、もし互いに繋がって整列すれば、一つの線となる。われわれにとって、線は一つの記号で、その長さは分割され得るが、その幅は非常に細くて、分割することは出来ない。」アルベルティ

「記号の体系を基礎づけているのは、意味するものと意味されるものの関係ではなく(この関係は象徴の基盤にはなるが、必ずしも記号のそれにはならない)。意味するもの相互の関係なのだ、記号の奥行きはその決定に何も付け加えない。重要なのは、記号の広がり、それが他の記号との関係で演じる役割、他の記号と類似したり、異なったりする仕方である。すべての記号は、その存在を周囲に依存しており、その起源に依存しているのではない。」

「まず、物を眺めよう。これらが一つの場所を占めているものであるといえよう。ここで画家はこの空間を描写するために、その外角を線で描くことを輪郭を取るというだろう。」アルベルティ

「形而上学におけるわれわれの誤りのほとんどは、われわれが欠如という概念に与えられている現実性に由来する。われわれは有限を意識する。われわれはそこに様々の現実的な特性を見る。われわれはその特性を有限から取り除く。そうした除去作業の後では、われわれはもう有限を意識することはできない。その時、単にわれわれがかつて知っていたものを破壊したに過ぎないにも拘わらず、われわれは、新しい存在を作り出したと信じるのである。」

「したがって、微小であれ偉大であれ、無限はもっぱらある欠如、有限の概念に対する除去と見なされるべきだ。それは一つの仮定として役に立ち、場合によっては諸々の概念を単純化するのに有効である。そしてそうした仮定の結果を科学の実践に利用すべきだ。そうした訳で、あらゆる技術は考察している主題にこの過程を応用しつつ、活用するにとどまる。あらゆる利はこの仮定の応用、使用から得られるのである。」

「いにしえの人間たちが言うように、詩は形のない絵画であり、絵画は[目に見える]形をとった詩なのだ。」


『雲の理論 絵画への試論』ユベール・ダミッシュ/著、松岡新一郎/訳