流れにかたちを与えること | 小動物とエクリ

流れにかたちを与えること

 

 

第二部

ラディカントの美学

現代の美学的重大事はおそらく、時間と空間それぞれの特性の交差するところに存する。

*それは、一九六〇年代の「サイト・スペシフィック」芸術に対して「タイム・スペシフィック」とでも呼びうる実践を通じて、また、空間的な移動から借用された形象(彷徨、行程、探検)を作品制作に導入することによってなされる。こうして今日の芸術は、翻訳の幾何学に、つまり位相幾何学に訴えることによって、新たなかたちの空間を創造するための交渉を行っているように思われる。

つまり諸形態のダイナミズムへと差し向けられると同時に、現実を、潜在的に移動可能な、はかない表面やモノの集合体として指し示す。この意味において位相幾何学は、翻訳や不安定性とかたく結ばれているのである。

1 美学的不安定性と放浪する形態

二一世紀初頭の社会学的現象のなかでも、使い捨ての普及はおそらく、もっとも気づかれていない現象である。それは、一九六〇年代に産声をあげたエコロジーの警告から受け継がれた、使い古しのクリシェのようでさえある。にもかかわらず、実際にはモノの寿命はしだいに短くなり、商業的な回転がたえず加速させられ、老朽化が入念に計画済みになってきていることがわかる。

そもそも「不安定な」という語は、いつでも取り消し可能な使用権を形容するものである。いまや誰もが直観的に、存在のことを、エフェメラルな実体からなるまとまりととらえていることを認めざるをえない。それは、わたしたちの祖先が、みずからの生活環境からよきにつけあしきにつけ生みだした永続性という漠然とした印象からは遠く離れている。

*常に現在化されなおし、フォーマット化されなおす直接的環境においては、一時的なものが長期的なものに対して、またアクセス権が所有権に対して優位に立つが、そこでは事物や記号や状態の安定性は例外となる。

経済という理解不可能な仕組みが支配する、カスタマイズされた運命の世界は、科学のように、生きられた現実からは完全に自律したかたちで発展する。

*あなたは現在生きているところの瞬間を永久に生きなおすつもりがあるだろうか。芸術の世界に移しかえた場合、この問いは価値に対するコミットメントを、将来につながる賭けや対立をあちこちに抱えた空間を含意することになる。

*西洋思想のいくつかの公理を想い起こしてみよう。それによれば、文化的なものは持続の観点から、あるいは端的に消費世界との二律背反によって定義される。ハンナ・アーレントの著作は、堅固さの度合いによる事物のヒエラルキー化の好例となっている。

「現在、過去を問わず、生産されたすべての現世的なモノが、ただある必要を満たすだけ存在するかのように、社会の生の過程のたんなる機能として取り扱われるとき、文化は脅威にさらされる」

「モノは持続することができるかぎり文化的である。その持続性は機能性と正反対のものである」。

消費市場は、文化的基準の新たな供給者として、「急速な循環を促す。使用から廃棄にいたるまでの道のりはさらに短くなり、もはや収益性のない商品は即座に切りかえられる」。バウフマンによれば、それは「文化的創造」を根本的に妨げる操作である。

不安定性は、それ自体悪だろうか。不安定な世界に刃を見いだすことはできるだろうか。

*逆説的なことに、不安定性は、この不安定性を証明すると同時にその改善を目指す多様な装置を通じて文化の一貫をなしている。わたしたちはcommand+Sの世界、つまり自動バックアップの社会に生きている。そこでは、文化的な事柄の記録とアーカイヴ化が広範かつ徹底的なものとなっていることがわかる。

こうして、雑誌、美術館、ウェブサイト、図録といったものからなる微細なネットワークは、芸術の世界を一種のハードディスクにする。このハードディスクは、もっとも不安定な生産物を蓄積し、再処理し、使用する。そこでもまた、不安定の文化は、全記録にわたって、(事物の物理的所有に帰着する)
持続可能なものに対して(アクセス権に依存する)再演可能なものを優遇する。今日では美術館の課題は、物理的空間におけるモノのストックよりも情報の取り扱いに属している。

*芸術的出来事の「いまここ」へのこだわりと記録の拒否は、(その制度的性質がいまやアーカイブ化と混同されている)芸術の世界への挑戦であると同時に、ポジティヴな不安定性の肯定であり、さらには断捨離やハードディスク消去の美学の肯定である。

二一世紀初頭の事態とはそのようなものだからである。それは、思考や創造のあらゆる領域において、過渡的なもの、速度、脆弱性がもっとも重要とされ、それらが美学の不安定な体勢と呼ばれるものを創設する時代である。近代の契機が決したのは一九世紀末である。絵画の筆触は可視的になり、イメージやモノの工業化への反動からタブローの自律性を顕示し、手を称揚した。二一世紀初頭のわたしたちにとっての近代性は、この長期持続の破綻から出発して展開するのかもしれない。それは消費至上主義の渦と文化的な不安定性のまっただなかにあって、グローバル化した経済の仕組みの影響からくる人間の領土の脆弱化に対抗しにやってくるのである。いかなる固定的な形態もなく(ホームレスの素材)


都市の彷徨

今日のほぼすべてのアーティストは、「移ろいゆくものから永遠的はものを引きだすこと」というボードレールのスローガンによって定義することができるだろう。

*芸術作品のアウラを「ある遠さの一回的なあらわれ」と定義したヴォルター・ベンヤミンは、その漸新的な消滅を空間的な用語によって記述している。人間の空間は変容し、事物と生物の距離は縮まってきている。

*いまや真の境界は内部にあり、それは都市そのものの内側で社会的階層や民族間の微細な分断をもたらすのである。

*「歩行はわたしたちの最後の私秘的空間のひとつです」と彼は言う。フランシス・アリス

つまり、「哲学者はこれまで世界を解釈することしかしてこなかった。いまや重要なのは世界を変えることである」という定式である。ともあれ、わたしたちはここでまさに、近代性のもうひとつの中心的な形象を前にしているのである。

《エレクトリック・アース》(一九九九年)というヴィデオ・インスタレーションにおいてダグ・エイケンは、八つの大きなスクリーンに、夜の都市風景における孤独な散歩者のそぞろ歩きを描きだす。それはほとんどどこだかわからず、人間の存在が完全に消し去られたように思われる風景である。

彼らは、環境が送り返してくる形而上学的な無関心によって不安定化した現代のゾンビである。

ダグ・エイケンの光の処理はスーラとは正反対である。スーラは、光から虹色の輝きや光量を取り除き、適切な大気条件下での対象の鮮やかな色彩だけを保つことに尽力した。ところが、現代の街は光も含めて動いている状態で表象されているのだ。

フランシス・アリスの世界もまた管理装置や都市の画一化を提示するが、それはアウトサイダー、ホームレス、野良犬といった不安定性のイメージを集めることによってなされる。

ケリー・ウォーカーはおそらく、機械に直面したアーティストをめぐるウォーホールの論証を論理的な帰結にいたるまで推し進めるアーティストである。ウォーホルが主張したように機械と一体化するかわりにウォーカーは、最小の主体性としてあらわれる。それは、みずからが消費する製品によってカスタマイズされ、また純粋に機械的な環境のなかで行動する、動いている主体性である。永続的な整理統合のなかでつかまえられる資格的対象の連鎖をつくりあげることによって彼は、根こぎされた現実を描く。それは展開中の言表の「静止画」にすぎない作品を通じて実現されている。

 

 

コーダーー取り消し可能な美学

誰が語るのか。誰に向けて語るのか。誰がこの物語の主人公でありうるのかーーもはやいかなる大衆もプロレタリアアートもその資格を騙ることはできないし、もはや普遍的な主体は存在しない以上。

位置づけや価値判断は、変わりやすい、不安定な、取り消し可能な文脈のなかでなされる。

不安定性とは大量生産の機能であり、そのアンチテーゼ、つまり堅固さの印象は、品物を構成する素材よりも品物の孤立に依拠する。

不安定、「それは取り消し可能な承認によってのみ存在する」……。

今日の芸術作品があらわれるところの一般化した混雑状況は、芸術作品の生産様式やわたしたちの受け取り方を規定しているが、この状況のためにわたしたちは、芸術作品を違った仕方で評価するようになるだろうか。

作品を積み重ね、並置し、関連づけや切断を行うことによって、アームレーダーは自作の位置の互換性を演出し、ある基本原理を強調する。

アームレーダーがみずからの仕事に対して施した再解釈からわたしたちは、どんな芸術作品にとってももっとも確かな評価基準のひとつとは、このようにさまざまな物語に入りこみ、その特性を翻訳する能力である、と考えるようになる。言いかえればそれは、多用な文脈と実り多い対話を継続することを可能にする移動の潜在能力である。さらに言いかえれば、ラディカントさということである。

 

 

2 形態=行程*

「構造にだまされまいとあらゆる人々を支えることだけができる想像力がある。自分の生とは旅にほかならない、という想像力である。生すなわち旅人の生、というわけだ。彼らが言うように、それはこの非俗な世界にあって、あたかも外国にいるかのような人々である。」ジャック・ラカン

形態=行程(一)ーー探検とパレード

わたしたちは、地球の表面からあらゆる未開拓地が消滅するときに旅への強迫観念が起こることのパラドックスを強調しよう。

ピエール・ユイグは、「フィクションは現実をとらえるための方法である」ということを強調する。フィクションは、ユイグが現代世界についてな新たな知を生みだすことを可能にする交通手段であり、一般的な形態やメタファーを旅のそれから借用しているような作品をつくりだすための主要な道具である。

ここでユイグは、想像力やフィクションによって、彼が横切る現実の地理のなかに自由な空間を開くことができるのである。

この未開拓地のただなかで芸術は、認識のシナリオ(形態となるようなそれ)やプロトコルを展開しうるのである。

グループ・ジェラティンは、移動の形式を生産様式として取り入れた。

この探査機は、テーマの選択にあたって文化の物質的な次元をーーまた、認識の主張な道具としての人間の身体を(それが快を感じたり経験に身をさらしたりするかぎりにおいて)ーー特権化するだろう。

ジェラティンは展示のプロセスそのものを動きのなかに置く。

島袋道浩の《キュウリの旅》(ニ〇〇〇年)は、この日本人アーティストの代表作である。

ロンドンで買ったばかりだった野菜やキュウリは、バーミンガムに着いたときにはすでにピクルスになっていた。

ピエール・ユイグが思い起こしているように、パレードというジャンルは「移住の理念を再演する」ものである。

こうして集団行進は、記念碑のはかない等価物となる。それは再演であり、より正確には再現である。

フィリップ・パレーノが子どもたちにプラカードをもって「ノート・モア・リアリティ」というスローガンを叫んでもらったとき、彼は共有された現実を構成するプロトコルに、フィクションやその特別な効果が闖入してくることをもとめていた(《ノー・モア・リアリティ2》一九九一年)。

集団の要求を表現するために考えだされたデモはここで、個人の欲望の投影に、さまざまな要求や物語の細分化のしるしになる。

重要なのは原理を作動させることであり、美学の活性化である。一行は動きだし、群衆から抜けだすことによってイメージとなり、また群衆自体によって観察される。

現代美術におけるノマド的あるいは探検的なプロジェクトの増加に関して目につくのは移動の強調である。知の硬直的な表象に直面して、アーティストたちは隔たりを生みだすような認知メカニズムを構築することによって知を作動させる。隔たりを生みだすとは、制度化された学科に対して距離をとり、認識を作動させることである。グローバリゼーションは世界についての複雑なイメージを与える。自主独立主義と政治的境界によって断片化されると同時に単一の経済圏を形成する世界というイメージである。今日のアーティストたちはこの広がりを駆けまわり、みずからが生みだす形態をさまざまなネットワークやラインに挿入する。今日、知の効果を生みだす作品において、現代の空間は、時間が空間の座標のひとつであるような四次元の広がりとしてあらわれる。こうした性質は、みずからが滞在した場の複製をつくったり、それを簡易的に再建したりするリクリット・ティラワニ作品を見て(《アパートメント21ー明日はだまって立ち去ってしまうことがある》
ニ〇〇二年)や、あるいはまた、自宅を終わりのない作業場に変えることによって、それを過去や未来に合わせて拡大するグレゴール・シュナイダーの作品に認められる。そこでもまた、空間は時間とかたく結びついているとみなされる。こうした錯綜や、それが生みだすさまざまな形象は、探検の美学の基礎となっている。

 

 

形態=行程(ニ)ーー位相幾何学

したがって旅とは、単なる流行のテーマではなく、より深い進化のしるしである。このしるしは、わたしが生きている世界の表象や、わたしたちが世界に住まう仕方に具体的にせよ象徴的にせよ影響を与える。

※さまざまなしるしやフォーマットを通じたその移行には、流動性、移動、通過といった現代的な経験を思わせるところがある。

*わたしたちの日常生活は、直接的であれ間接的であれ、より広大な平面上で展開しており、また、いまや超国家的な実体に依存している。静的でない空間を形象化するには、わたしたちの想像世界において支配的な形象(探検、彷徨、移動)をとらえることができる新たなコードの構築が必要となる。

ニ一世紀初頭のアーティストたちが想像したり経験したりする認知の軌道は、ハイパーテキスト的な形式によって再現されうる。

※ピエール・ユイグ、リアム・ギリック、マイク・ケリー、フランシス・アリス、タシタ・ディーンといった人々のほとんどの作品において、作品の形態は固定的な時間よりも道筋や行程を表現している。ここで形態化は、平面や量感の練りあげよりもむしろ、逃走線の、さらには翻訳プログラムの構成を経る。わたしたちはここでユークリッド幾何学の領域を離れ位相幾何学の領域に接岸するのである。

*ある形象に関して、たとえばそのかたちを変えることによって質的に不変の要素が明らかにされる。一枚の紙を折るときや、次元が変わっても一定不変のものが残るか確かめるために、ある次元のものを別の次元に置いてみるときなどがそれである。表面の縁が検討されるのである。実際に表面を構造化しているのはどのようなものであるのか。

ラカンは位相幾何学によって、無意識の地図作成法を練りあげようとしたのである。

鑑賞者が直面するのは記号の混沌とした流れであり、それは彼が自分のいる空間を統御する能力を超えている。

形態=行程は、まずもって情報の過剰によって定義される。この過剰によって鑑賞者は、ある力学へと加わり、個人的な道筋を構築せざるをえなくなる。
 ジェイソン・ローズやトーマス・ヒルシュホルンの仕事にこのような直接的な反応があったとしたら、それは彼らの制作原理が、現代が依存していることを直感的に知っている飽和を利用しているからでもある。

現代の形態=行程は、非ヒエラルキー的・非スペシフィックな空間(グローバル化した資本主義)のなかで、廃墟の形態(モダニズムの物語以後の文化)と蚤の市の形態(eBay 経済)とを組み合わせるものである。
 形態=行程は、道筋の一貫性を包含し、歩みを説明したりその複製をつくったりする。

「モビリス・イン・モビリ」、つまり動いているもののあいだで動くことはジュール・ヴェルヌのモネ船長のモットーであった……。

もし時間が空間の属性でないとしたら(アンリ・ベルクソンはこうした考え方を強調したが)、かわりにそれは空間を無限に増殖させることを可能にする。氾濫は現代の時空間のひとつの次元となっている。記号の森のなかで、さまざまなものを片づけ、くりぬき、取り除き、みずからの道をつくりだすことが必要となるのである。

*自宅を迷宮的かつ強迫的な工事現場に変えることを中心とするグレゴール・シュナイダーの仕事は、他の場所に置かれた作品に関する資料を展覧会で提示するものである。

*作品の場所はどこになるだろう。それは多様であり、さまざまなあらわれ方が組み合わさった総体から形成される。

現代絵画は、時空間のネットワークの交差を通じて現代の個人の生きる空間体験を、組織網の形象を、そして重なりあった平面をあらわそうとする意志に影響を受けているように思われる。

「領土と道は同じことばで表します」

歩行はそれ自体がテクストとなり、芸術作品はそれを位相幾何学の言語に翻訳するのである。

現今の芸術がわたしたちに示すのは、体験した素材を、新たな主体性ーーそれは、みずからに合う表象の仕方を要求するーーの出現に対応した表象・生産装置を通じていかに構成できるか、ということである。

形態=行程は、たとえそれが道筋を表現していようとも、時間を空間に、また空間を時間に注入することによって線状性を危機に陥らせる。

 

 

形態=行程(三)ーー時間の分岐

ニ一世紀初頭の個人が世界に関してつくりあげる想像上の表象にあって、空間と時間は混ざり合い、それぞれの特性を交換するにいたるかもしれない。周知の通り、時間は無意識に継起と同一視され、空間は同時性と同一視されている。

*わたしたちが生きる時代とは、なにも消滅することがなく、あらゆるものが熱狂的なアーカイブ化の影響のもとに蓄積される、そのような時代である。

現代の観光客がまずもとめるのは、地理的な距離を通じた時間的違和感ではないだろうか。

レヴィ=ストロースによれば、「旅は、空間にも時間にも社会的秩序にもが関わるものである」

「彼らにとっての世界は、空間における物体の集合ではない。独立した行為の異質的な連鎖なのである。連続的で、時間的だが、空間的ではない」。「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」ボルヘス

わたしたちは、現在においてだけでなく過去においても発見をしないだろうか。

現代のアーティストが美術史と保つ関係は今日、移動の影響を受けつつ、ノマド的な形態を用いることによって、あるいは「他所」に由来する語彙を取り入れることによって実現されている。そこに出向くことを受け入れさえすれば、過去は常に現在である。

*またピエール・ユイグにおいて、はかない素材を用いて空間を生みだすと同時に、モノに進行中の出来事という側面をもたらすのは、時間と空間の組み合わせーーそれは連鎖によって関連づけられる展示構成の周到な準備によるーーである。

かくしてモダニズムのラディカルさのあとにはラディカルな主体性がやってくるが、それは世界の表象の新たな様態として規定することができるだろう。つまりヴァーチャルと現実が渾然一体となり、時間が空間の補足的な次元となっている、そうした断片的な空間としての世界表象である。

このグローバルな文化的平板化プロジェクトに与さないために、アーティストに与えられる唯一の解決策とはいかなるものだろうか。それは時間によって空間を、そして空間によって時間を活性化することであり、液状化した商品空間が成立するところに、断層線、区間、囲い、通り道といったものを象徴的につくりなおすことである。要するに、現代世界のオルタナティヴな地図作成法や濾過プロセスに専念することである。

*過去はちっぽけで未来は天文学的に大きいと考えるかわりに、私たちはかぎられた変化の可能性のなかで、過去が未来への手がかりとしてすでにつくりだした類型によって未来を思い描くようになる。探検家としてのアーティストは、この〈歴史〉との空間化された関係のパイオニアである。

ゼーバルトの著作においてもギリックの展示においても、思いだすことはけっして語る行為にとどまらない。過去は、視覚的・言語的細分を忍耐強く集めることを通じて再構成されるのだ。

《ハッピー・ニュー・イヤーーーメモリアル・プロジェクト・ベトナム2》(二〇〇三年)では、過去をどこかしら夢幻的で呼吸のできない環境、潜る必要のある環境になぞらえることによって、海中という舞台設定が作品の寓意的な次元に寄与している。しかし、この舞台設定がとりわけあらわらしているのは、その奥底に人類がみずからの道具、記号、シンボルをもちこまなければならない不毛の地であり、つまりある空虚である。W・G・ゼーバルトは、わたしたちの現在をかつての農村社会ーーそこでは、ほんのささいなモノの保存が過去をまもり記憶を伝えるうえで非常に重要であったーーと比較しつつ、次のように書いている。*「青春であれ幼年期であれ出自であれ先祖父祖であれ、記憶の重荷は一切合切、たえず捨てつづけるのが肝要となっている」
 ジャン・グエン=ハッシバの水面下の夢幻境には、こうした理論の自然な適用が見られるかもしれない。過去の喚起が含意するのは、過去からそれを取り巻く状況を極限まではぎとることであり、極限まで形式化された設計図を用いて、中性的な環境で展開するいきいきとしたエフェメラルなバレエを用いて、過去を復元することである。

旅する人とは、ある種の批評家たちがそこに現代美術を限定しようとしたがメディウムの一毛作から遠く離れて、さまざまなフォーマットや回路を横断的に動きまわる者のことである。

Bas Jan Ader

 

 

3 移転

グローバリゼーションに向かいつつあるわたしたちの世界においては、どのような記号であれ現実に存在するためにはーー少なくとも英語という新たな共通語にーー翻訳されなければ、あるいは翻訳可能でなければならない。しかし、こうした実用的な必要性を超えたところで、翻訳は倫理的かつ美学的な争点の中心に見いだされる。そこで問題となるのは、コードの不確定性のためにたたかうことであり、作品やテクストに唯一の「起源」を与える根源としてのコードをすっかり拒絶することである。翻訳とは言説の意味を共有化するものであり、思考対象をある連鎖に挿入することによってそれを「始動させ」、そうしてその起源を多様性へと溶かしこむものである。それは一般化したフォーマット化に対する抵抗の方法に、また形態的ゲリラ戦のようなものになる。

文化領域におけるゲリラ戦は、さまざまな記号や異種混交的な領域を横断的に通過することによって、また芸術実践が特定の、識別可能な、決定的な領域に割り当てられることを拒否することによって定義される。

フロイトは、いかに創造的エネルギーがさまざまな段階の昇華プロセスを通してリピドー的エネルギーの変圧器として機能するかを示したが、ここからジャン=フランソワ・リオタールは絵画を「色彩に接続されたリビドー」と定義するようになる。

翻訳は、精神分析が記述するエネルギー変革の規則とは異なり、みずからの法則や規範を有する。また、いっそう明らかなことだが、翻訳は、それぞれがはっきり異なる、自律的な諸現実を対峙させ、その移動を組織化する。

翻訳は今日、他者の「差異」の単なる記録をはるかに超えて、他者の承認の倫理における定言命法としてもあらわれている。

おそらく二一世紀のアーティストの野望は、彼/彼女がネットワークになろうとしている、と言えば定式化できよう。二〇世紀の近代性は人間と工業機械のカップリングに基づいていたが、現代のそれは情報科学と網状の線に直面しているのだ。 

転移、コード変換、翻訳

わたしたちは今日、コンピュータ上で音楽をきき、映画を見、テクストを読み、作品の複製を眺める。それは家電労働の区分の終焉である。

いずれにせよデジタル・ツールは、わたしたちが思考したり表象したりする、情報を処理したり伝えたりする方法の構成要素になっているからである。

現代の作品において、あるコードから別のコードへの移行は、起源やオリジナリティといった概念を破壊するような独創的な時空間観を打ち立てる。デジタル化は根源の存在感を弱めるが、それはイメージの各世代がはじまりも終わりもない連鎖における一瞬を表象するのみだからである。わたしたちにできるのは、かつてコード化されたものを再コード化することだけであり、あらゆるコード化は、コピーという方式そのもののなかに対象の真正性を溶かし去る。

*アーティストはなんらかのモノを生みだすよりもむしろ、意味作用のリボンを展開することに、波長を広めることに、公衆がアーティストの提案を解読する際の基礎となる概念の周波数を変調することに努める。こうしてひとつの「アイデア」は、かたいものからやわらかいものへと、物質からコンセプトへと、物質的な作品から外延や語尾変化の多様性へと移行しうる。移転の芸術である。わたしたちはデータや記号をある地点から別の地点へと移すが、この身振りはなによりも現代を表現している。翻訳、転移、コード変換、規範化された移動といったものは、現代の移転主義の諸形象である。

「翻訳のプロセスと関係がある。翻訳するとき、オリジナルに含まれていたものが失われる。反対に、位相幾何学的な状況においてはなにも失われない。それは同じものなかたちらを変えることである」。また、さらに言うには、「[位相幾何学とは]状況の壁である。それはある経験を表象することなく翻訳する方法である。経験は等価であるが、常に異なったものとなるだろう」。ピエール・ユイグ

そこで重要になるのは、大量の情報をとらえることであり、それら情報の処理方法を考案することである。言いかえれば、ある流れに接続することであり、流れを正しい方向へと向けなおすことであり、つまり流れにかたちを与えることである。

「ポストメディウム的条件」

分野の安定性に対して不安定的なものを
重視すること、さまざまなメディウムが提示する区分に対して境界=線を覆う流れの選択を重視すること、唯一のフォーマットの歴史的・実践的な自律性に任せる決心よりもむしろさまざまなフォーマットのあいだを移行する決心を重視すること、これらのことは現代の批評がやすらう美的規範を転倒させる。

つまり、いかなる特定分野の実践にも基づかず、反対に生産様式やフォーマットを社会的現実から借用するような作品である。

見たところ、この「インターメディア的条件」(「そこでは、言語とイメージだけでなくハイとロー、それから考えうるいかなる対照的なペアであれ、自由に混ざり合う」は、クラウスにとって妥協をーーまた、メディウムの脱備給や退行のしるしをーー意味しているようである。彼女は、ブロータースの作品自体においても、あらゆる物質的支持体が均質化原理によって、物象化(「商品化」)の作用によって平らにならされてしまっている、と指摘する。

芸術はなんらかのメディウム(絵画、彫刻)に深く根をおろしていなければならないと考えることは、芸術の「進歩」に関するグリーンバーグ流理論の延長である。ここで言う進歩とは、芸術を本質化することであり、メディウムを抵抗の実践に還元するところまで純化することである。なにに対する抵抗か?さまざまな伝統的なメディウムの解体を前にした恐怖は最終的に、文化についての悲観的な見方に属するようになるが、グリーンバーグにあってはこの見方の存在感がたいへん強かった。彼にとって美学とは、重大な危険に対する、つまり芸術の「キッチュ」への転落に対する闘争の場となっていた。

*今日たたかうべきなのは、グリーンバーグがしたような、方法の特性に自足的に焦点を合わせた前衛保護のためではなく、芸術のソースコードの不確定性のためであり、その分散のためであり、それが位置を突き止めることができないものだと明確にするためである。

 

 

翻訳された形態

ヴォルター・ベンヤミンによれば、翻訳とはなによりもオリジナルの生き延びをーーその死を前提としつつもーー可能にするものである。翻訳から出発するいかなる道もオリジナルのテクストへと通じることはない。

*「わたしは、意味があると同時に意味のないあらゆる隔たりを間近に感じます」。アンリ・サラ
翻訳の身振りが生みだすものとは、なによりもこの残余であり、間隔である。ここでは、歴史的事件によって隔てられた二つの世代間に開かれる空虚な空間がそれである。

*地理もまた翻訳される。みずからの視覚文化の記号を輸入し、それにちょっとしたリフトアップ手術を受けさせ、そうしてそれを物象化したり、また自己搾取の身振りによって自分自身を物象化したりするだけのアーティストほどあわれなものはない。

ローカルな視覚的・哲学的文化に属する諸要素が、それが厳密にコード化され硬直化していた伝統的な世界から、これら諸要素が動かされた批判的読解の光のもとに置かれる世界へと転移させられるのである。

 

 

第三部 航海論

1 文化的な雨のなか(ルイ・アルチュセール、マルセル・デュシャン、芸術的形態の使用)

つまり降雨、平行線の雨である。

※趣味判断を超えたところで、この文化的なものの雨はさまざまなくぼみをつくり、人間社会の起伏や自然な流れを修正する。集合体とその原子(つまりあれこれの作品)は別物である。

※使用論者の見地にしたがうなら、価値はモノの(常に暫定的な)用途に存するが、それはいかなる場合にも絶対的なものではない。美的判断は状況に応じてなされるのだ。芸術作品とは、作品を作品として生みだす関係のシステムを混乱させにくる文化的な雨という活動によって修正されたり歪曲されたりしうる場所であり、此性であり、風景である。

盗用と新自由主義

ルイ・アルチュセールはイデオロギーを「〈人間〉がみずからの存在の現実的条件からつくりあげる想像的表象」と定義する。また、そこから意味を広げてそれは、他者の活動からわたしたちがつくりあげる表象ともなる。

※「想像的表象」はアーティストの策略に先立って存在するが、アーティストは多かれ少なかれそこから逃れ、また多かれ少なかれ見事にそれを問いかける。

レディメイドの発明は美術史の転換点であり、その流れを汲む作品は某大な数にのぼる。日常的な消費物を芸術作品として提示するという極限的な身振りから出発して、造形芸術の語彙の領域全体に新たな可能性が「付加」される。それは、記号ではなく現実そのものを用いて意味することである。

「普通のタブローをつくるとき、そこには常に選択があります。色を選び、カンバスを選び、主題を選び、すべてを選ぶのです。そこに芸術はありません。それは本質的に選択なのです。そこでも[レディメイドに関しても]同じことです。それはモノの選択なのです」

レディメイドには、あるモノに「新たな観念を与える」という含意が、つまり正確には、あるモノをみずからの領土や出自から逃れさせるという含意があることを踏まえるならば、ここで盗用の概念はいかなる意味ももたない。さらに、レディメイドは本質的に非物質的であり、いかなる物質的重要性ももたない。壊された場合は、取り替え可能であったりなかったりする。なんぴともその所有者ではないのだ。
 二つめの理論的ポイントはひとつめのものに依拠している。無関心の概念である。

「無関心の美」は、絵画や彫刻のきわめて網膜的な美を逆さまにとらえる。「気に入るものや気に入らないものを選ぶのではなく、アーティストにとって視覚的になんの関心もないものを選ぶのです。言いかえれば、モノに対する無関心の状態にいたることです」

三つめのポイントーーこれが重要なのだがーーは移動である。レディメイドは展示されてはじめて本領を発揮する。つまり、カメラ=美術館に録画=登録されてはじめて、ということである。登録の部屋としての美術館システムはそのとき、みずからの本質そのものである「絶対的矛盾」ーーデュシャンの言葉によればーーを認めることになる。

移動は世界使用の一形態であり、既成の地理のひそかな侵食である。

レディメイドはそれゆえ、いかなる特定の領域にも属さない。それは二つの地帯の「あいだ」に存在し、そのいずれにも投錨しない。

小経営者デュシャン? イヴ・クラインが青空を作品として指し示すとき、彼はまさにそれを盗用することになる。

この性質は、署名をめぐる所有者と被横領者を、言いかえればモノの生産手段(その展示)をはっきりさせる。◉生産するとは「自らの前に進めること」を意味する。展示は、一連の形態を公然と生産することを署名(固有名)が正当化するときに発生する。

転用の現代的使用に関して言えば、それはとても徴候的な仕方で、ロゴという支配的なコードへと移動した。

所有という狂気。相互的レディメイドに照らすならば、あらゆる盗用行為は、世界の誤用を、経済の本質そのものとなった誤解を示すものとなる。

能力というイデオロギーはわたしたちが、誤解していると思われないものを読むことを、使用法を知らずに機械を使用することを、未知と感じる世界を使用することを、無意識に避けるようになる。これはおそらく大きな誤りである。反対にブライアン・イーノは、彼のアイデアの半分は、スタジオで使い方のほとんどわからない機械をいじっているときに生まれると語っている。

 

 

あいだの形態

アルチュセールの偶然の唯物論は出会いの思想である。その基本的な形象であるデモクリトスのクリナメンは、ある「無限小の偏り」からなる。

したがってアルチュセールによれば、偏りはあらゆる実在についての原理の様相を呈する。
 このように偏り(進路変更、方向転換)の優位を肯定することはもちろん、〈世界〉や〈歴史〉の起源と終焉を前提とする観念論に挑戦することである。
 しかしそれはまた、美学の観点からすれば、怪物性という概念の存在を否定することである。怪物、つまり存在の規則的な連鎖における例外が存在するのは、「自然」との対比においてのみである。

ところで、規則や〈法〉の概念が機能するのは、空虚から、いくつかの要素が偶然「固まること〔prise〕」によって生じる世界の境界内においてのみである。

世界とは、それぞれがひとつの例外である時空間的な領域(社会、文化、共同体)の総体にほかならない。

共同体のシステムへの、「趣味」ーーそれは慣習の反復であるーーへの不法侵入を遂行するからにほかならない。ともかく、あらゆるものが移植され接ぎ木されるのである。

文化の生産的な使用は、モノの出生地からの引き抜きにかかわる。つまり偏りにかかわる基本的な実践を伴う。

そういうわけで、レディメイドを「生みだす」のは工業製品と美術館システムのカップリングということになる。

氷とは冷たさに共感するようになった水であり、共存の仕方を、つまり二つの要素のそれぞれが「自分を取り戻す」状態を見つけた水である……。

芸術作品は関係をつくりだし、この関係はモノに対して外在的である。関係は美的な自律性を有するのである。「諸々の関係は中間にあり、そのようなものとして存在するのである」

あらゆる状況において、凡庸さは安定性をもとめ、この人工的な明快さを〈歴史〉そのものにまで拡張したがるだろう。芸術においてもまた、モダニズムのオルタナティヴは存在するが、それは一九七〇年代末から極端な唯物論の美学はもちろん、美術史は方向と起源をもつと主張してきたモダニズムの目的論とは対立する。だがこの概念は、超越性の思想家たちーー彼らは、「近代性の失敗」と彼らが呼ぶものに代えて伝統的な道徳をもってくるーーにおいてそうであるように、いわゆる自然秩序へのいかなる回帰をも隠すことはない。

かつてよりよかったと信じることは、明日は当然よりよくなるだろうという幻想と根底において違いがないのだ……。

今日、道具箱としての文化という直観から出発しようと努めているアーティストは、芸術には起源も形而上学的な目的地もないことを、またみずからが展示する作品がけっして創造ではなくポストプロダクションであることを知っている。

 

 

2 芸術的集産主義と道筋の生産

アーティストとはみずからの身分証明書をつくる人々である

いまやわたしたちは、情報ーーすぐに手が届くいかなる審級によっても、そのヒエラルキーが示されることがもはやない情報ーーにのみこまれ、データーー急速なベースで蓄積され、複数のソースをもつデーターーを雨のように浴びている。

知の海を航海する力は知識人やアーティストの主要な能力になりつつある、ということである。さまざまな記号同士を結びつけ、社会文化的な空間や美術史にさまざまな道程を生みだす二一世紀のアーティストとは記号航海士である。

これは人類史における未曾有の経験であり、文化的産物の総量は個人の消化能力も通常の寿命も上回るものとなっている。

「さまざまなふるまいや潜在的な再使用を生み出すようになった芸術は、商品と消費者を対置するような「受動的な」文化に異議申し立てをするようになる。

かつてマルセル・デュシャンは「タブローをつくるのは鑑賞者である」と言った。これは、使用の文化の天才的な直観と関連づけなければ理解できないフレーズである。使用の文化において、意味はアーティストと鑑賞者の協働や交渉から生じる。なぜ作品の意味は、アーティストがそれに与える意味と同じくらい、人々による作品の使用から生じないのだろうか。これが、形態的共産主義とでも呼びうるものの意味である」

「盗用芸術」と呼びうるものは、むしろ形態の所有権の廃止行為ではないだろうか。

 

 

グローバル・アートあるいは資本主義アート

「文化は規則で、芸術は例外だ」と、ジャン=リュック・ゴダールは万一の場合にそなえて念を押していた。これと同じ方向性で、文化の形成と変形にまつわる活動を芸術的と呼ぶことができるかもしれない。*形成と変形。

「中心」と「周縁」のあいだにいまだ存在する隔たりは、伝統的な文化をモダニズムによって変革された文化から切り離すのではなく、グローバル資本主義への進展の多様な段階にある経済システムから切り離すのである。

「情報主義」とはつまり、「デジタル言語で生成され、保存され、検索され、処理され、送信される」情報が至上の価値となるような経済であり、「変化するのは人間が関与する活動ではなく、われわれの種の特異性をなすものーーつまり象徴を操作する高次の素質ーーを直接的な生産力として使用するテクノロジー能力である」ような社会である。

グローバリゼーションは経済的なものである。
芸術はその輪郭をなぞるだけだが、それは芸術というものが、生産過程のーーまたしたがって、このあと見るように所有の象徴的形態のーー多かれ少なかれ遠く隔たった反響だからである。

つまり芸術とは、時代がそのなかにみずからの姿を認めるような単なる鏡ではない、ということである。それどころか芸術は、現代の手法や方式の模倣から生じるのではなく、あるときにみずからを具体的に現実に近づけ、あるときには抽象的だったり古風だったりする形態のほうへ遠ざけるような、共鳴と抵抗の複雑な作用に応じて生じる。

*機械、広告の語彙、二進言語といったものを使用するだけでは現代的であるのに十分でないとすれば、今日の描画行為が、芸術の領域が労働の世界と時計の歯車のようにかみ合っていた時代とは同じ意味をもっていない、ということも認めておこう。このことは絵画が存在しつづけることをいっこうに防げず、逆にこの転換を否定することは絵画を無価値なものにおとしめる。*芸術は、全体的な生産過程の進化、さまざまな実践のあいだの矛盾、ある時代がその時代に対して抱くイメージと時代が実際に反映するイメージのあいだの緊張といったものを説明する。また、人々と彼らの日常生活のあいだに、あるいは人間同士のあいだに表象が介入する時代にあっては、芸術がときに表象から身を引き離し、現実そのものの一部になるのはしごく当然である。

「グローバルな」芸術や多文化主義は、ベルリンの壁崩壊以降にわたしたちがいたった、しかしそれに対する適切かつ妥当な応答をいまだ見いだせずにいる、そのような歴史的過程の新たな段階を反映している。
 *というも、今日の芸術の世界は、多文化主義という漠然としたイデオロギーのようなものに支配されているからである。このイデオロギーは、モダニズムの終焉という問題をいわば量的な観点から解決しようとする。

あるアーティストの仕事の質は世界との関係の豊かさに依存し、この関係は、多かれ少かれ強力にそれをフォーマット化する経済的構造に規定されている。

盗用芸術あるいは形態的共産主義

*引用を行うことは権威に訴えることである。そこでアーティストは、巨匠の向こうを張ることによって歴史的系譜に自身を位置づける。

*引用は、記号の借用、窃盗、あるいはその「作者」への変換を引き起こすという点において、形態の私的所有のイデオロギーを移入するのである。それは単純に、引用というものが、形態と署名ーー個人もしくは集団の署名ーーの権威とのあいだに堅固な紐帯を築きあげるからである。

現代の諸実践から隔絶した美術史家にとって理解するのがもっともむずかしいように思われるのは、この形態使用の文化が、かつては借用とそのソースを、「オリジナル」と「コピー」を結びつけていた想像上の関係を解消してしまう、ということである。反対にこの文化は、カオス的であると同時に集産主義的であるような想像の領域をあらわしており、そこでは記号とその使用のプロトコルのあいだの道筋が記号そのものよりも重要になる。

デュシャンの思想において、芸術がはじまるのは、この「極薄 アンフラマンス」の領域ーーそれによって記号が、それを意味すると想定されるものから剥離する領域ーーにおいてであり、アーティストの名前とそれを表示するモノとのあいだに設けられる「戯れ」においてである。反対に、所有関係性は残念ながら一義的なものであることがはっきりしている。所有されたり盗用されたりするモノは、その所有者の純然たる表現となり、法的・経済的秩序における所有者の分身となる。

人間の産業をまるごと「生産手段」として用いることによってデュシャンは、他者の蓄積した仕事をもとにして仕事をする。

ニ一世紀初頭の芸術は、こうした激変のしるしを帯びている。というのも、アーティストは集団的生産物の消費者になり、その仕事の素材は今後外からーーつまり、彼の個人的な精神世界ではなく、たとえば彼とは異なる文化に属するモノからーーやってくるかもしれないからである。

「レプリカ」の美学ーー芸術の脱物神化

製造すること、着想すること、消費すること。これらはいずれも同一の活動の諸側面であり、展覧会はその一時的な集積所である。

*デジタル時代にあって、曲、作品、フイルム、本は動く線上の点であり、記号の連鎖の一要素であり、その意味作用は、それらのものがそこで占める位置に依存する。こうして現代の芸術的作品は、もはや創造過程の終端としてではなく、さまざまな活動の境界面や発生器として定義されるようになる。アーティストは一般的な製品をもとにしてブリコラージュを行い、記号のネットワーク上を動きまわり、自分自身の形態を既存の連鎖に挿入する。

作品の「波長」は、あるメディウムへと、あるフォーマットから別のフォーマットへと移されうる。これがデジタル時代における造形思考である。

引用はもはや争点ではないし、モダニズムが懐かしむ人々が大切にする「新しさ」もまた同様である。

アーティストはみずからの仕事をますます、もはや厳密には空間的ではない、時間的な観点から企図するようになっている。

*美学の観点から言えば、死滅するのは取得という様式であり、これは経験にアクセスするという一般化した実践に取って代わられるが、そこでは経験の対象はもはや手段にすぎない。これこそが資本主義システムの必然的な進化である。かつては他所(空間)に基づいていた権力が、徐々に純粋資本(そのなかでお金が「はたらく」ところの時間)へと移動していったのである。

※空間よりも時間を重んじる文化において、コピー、繰り返し、リメイクとはいかなるものであるか。時間における反復は繰り返しやレプリカと呼ばれる。レプリカという言葉は、最初の地震のあとに起こる余震を指すのに使われる。多かれ少なかれ弱められ、時間的に隔てられ、また最初のものと同一性を有するこれらの振動は、最初のものに属してはいるが、しかしそれを繰り返すわけでも、そこから分離した実体を構成するわけでもない。

そこで芸術作品は、他の芸術作品や既存のモノのレプリカを構成する出来事になっている。

当該の作品は、それと結びついた「オリジナル」から時間的に隔てられているが、しかし同じ出来事の連鎖に属している。

ベルトラン・ラヴィエ、ブリュノ・ペナド、サム・デュラントのするように過去の作品を用いることは、エネルギーを再活性化することであり、再処理される素材の活力を明示することである。それはまた、芸術作品と脱物神化に寄与することである。芸術作品のあえて移ろいやすい性質は、その形態のなかで明示されることはない。

芸術の「脱物神化」は、いかなる点においてもそのモノとしての身分にかかわるものではない。

*現代の作品において、このはかなき不安定な性質は、それらの作品が文化的連鎖のなかで自任する身分によってあらわされている。つまり出来事という身分であり、あるいは過去の出来事のレプリカという身分である。

 

 

ポスト・ポスト、あるいはオルターモダンの時代

革命とは爆発の政治的翻訳ではなかろうか。

モダニズムのプログラムは、形態や事実のなかで目に見えるものを爆発させ、破裂させ、分解することである。

シュルレアリスムのオートマティスムは、堀削のインスタレーションのごとく、わたしたちの心の下層に埋もれた無意識の力を、きたるべき革命にそなえて気持ちを整える力を解放することを目的とする。

ラディカルなアナーキズムは、モダニズムの前衛をめぐる分析において一種の思考されざるものにとどまっている。これを芸術のエネルギー論の枠組みのなかで再検討する必要があるだろう。

経済は具体的な地理からできるだけ距離をとり、原料の開発をいわゆる「新興の」国々にゆだねるようになり、それ以降、これらの国々は露天鉱や安価な労働力の宝庫とみなされるようになってゆく。

いまや歴史の時計は同期的である。すなわち、それはもはや進歩というグリニッジ子午線にのみ基づくのはなく、さまざまな文化的時間帯を含む、ということである。

批判的方法論となった多文化主義は意味の分配システムに属する。

問いなおさなければならないのは文化的多様性に関する多文化主義的解釈である。それは原則的な「普遍主義」や新なモダニズム的なエスペラントのためではなく、一般化した翻訳、彷徨の形態、不安定性の倫理、異時的な〈歴史〉観といったものに基づく新たな近代の時とい枠組みにおいてである。

空間が縮んだのである。

ミシェル・セールはインターチェンジを今日の空間の基本単位とみなし、世界の居住性について問う。「いまやインターチェンジが空間の基本的な単位となり、わたしたちはそこを通りすぎるだけだとしたら、いかにしてそこに住まうのか。わたしたちはもはや居住しない、というのが答えである。彷徨の庭というものを思考し、素描することはできるだろうか」
 *今日の芸術は、行程が支持体と表面に取って代わった新たな「伝導」の時空間を探査するなかで、この挑戦を見いだす。アーティストはハイパーテキストとしての世界の測量士になる。この世界内はもはや古典的な平面空間ではなく、時間的にも空間的にも無限のネットワークである。またアーティストは、形態の生産者というよりもその旅人化のーーつまり形態の地理的・歴史的移動の調整のーー仲介者となる。今日の芸術における翻訳の問題化は、移動の美学や亡命の倫理を伴う。この思考の枠組みにおいては、空間的な翻訳の問題化は、移動の美学や亡命の倫理を伴う。この思考の枠組みにおいては、空間的な翻訳の幾何学である位相幾何学それ自体が特権的な形態化の様態ーーある空間から別の空間へと追放された形態ーーとなっている。言うまでもなく、彷徨の様態ーーこれら移動の視覚的モデルや監視力ーーは俗悪なグローバリゼーションに対する抵抗の倫理を規定している。消費によって構造化された世界にあってこの彷徨の様態が前提とするのは、人が出会うのは、まずもって彼が探しもとめていないもの、つまり一般化したマーケティングや消費者プロファイリングの時代にあってますます稀になってきている出来事だ、ということである。ここで偶然的なものは不安定性と通じ合い、ひとつの非帰属の原理とみなされる。たえず移動するもの、起源をかすませ毀損するもの、みずからを旅人化し、また継起する翻訳によって生じるものが属するのは大陸的な世界ではなく、新たなオルターモダンな群島であり「彷徨の庭」である。

 近代を支配してきた普遍主義的かつ進歩主義的な夢は粉々になり、今日、この砕け散った夢から新たな思想的布置が生まれている。それはもはや全体化へと向かう大いなる理論的総体によってではなく、群島的な構成によって生じるものである。

つまりそれは、世界のオフィシャルな表象に対するローカルな蜂起の群島なのである。

それが指し示すのは、もはや歴史的瞬間の事後性ではなく時間の円環作用の無限の展開であり、この無限の展開は、自分自身のもとに立ち返りつつ進むような渦巻状の〈歴史〉観に奉仕する。オルターモダニティの本質は近代的な事柄に対する立ち位置の変化にあり、近代的な事柄を、その事後性について語ることが問題となるような出来事とはみなさない。そうではなく、数ある事柄のうたのひとつ、ついに脱ヒエラルキー化された空間において深め検討すべき事柄、新たなジンテーゼが常に念頭にあるグローバル化した文化の事柄とみなすのである。マルセル・デュシャンは当時から、芸術における「進歩」の危険性を予感していた。たとえば彼は、モダニズム絵画によって遠近法が骨董品売り場に追いやられていたまさにそのとき、遠近法に夢中になっていた。彼はいっそうはっきりと、芸術とは現在に対する直接的かつ一義的な関係というよりも「あらゆる時代のあらゆる〈人間〉のあいだのゲーム」である、と明言していた。デュシャンがラディカルであったことはついになかった。

時代に控えめに反撥しつつ、また未知の美学的道筋を探査しつつ、こうして彼は非線状的な近代性を体現するのである。それは、ポストモダンが克服したと主張する近代性にはいかなる点においても一致せず、むしろいま生じつつある近代性に反響を見いだすかもしれない、そのような近代性である。

結局のところ、近代とは集団移住、共同体の構造の変動的な再構築、新たな空間への移動行為といったものにほかならない。そこには形態の離散の歴史がある。

集団的なレベルでは、結局のところ問題となるのは共通世界を創出することであり、世界規模の交流空間を理論的かつ実践的に実現することである。

*こうしてわたしたちは、さまざまな世界表象のあいだを動きまわり、翻訳を行い、新たな共通理解可能性がどこから生じるのかについての議論を組み立てるよう促される。これらのことは今日、経済的グローバリゼーションが強いる絶え間ない動乱のただなかにあって、物象化がかつてないほど多く多様な支配力をふるっているだけに、いっそう重要になってきていることは明らかである。それゆえ、文化や芸術に対する物象化の挑戦を前にして重要なことは、新たな集団移住にとりかかることによって事物をふたたび動かすこと、つまりひとつの対抗運動である。

 

 

訳者解説

言うまでもなく、モダニズムもまた、「根への回帰」に執着するという点でラディカルさを本質とする。すなわち、「新しさ」を美学的基準とするモダニズムは、つねに出発点に立ち戻って一からすべてをやりなおそうとする、「純化」の情熱とでもいったものに突き動かされている、というわけである。かくして、いずれも根に執着する(=ラディカルである)という点でメダルの表裏とみなされるモダンとポストモダンに、真のオルタナティヴとして対置されるのがオルターモダンである。

動的であると同時に対話的なその意味作用によってラディカントという形容詞は、環境との結びつきの必要性と根こぎの力とのあいだで、グローバリゼーションと特異性のあいだで、アイデンティティと〈他者〉を見習うこととのあいだでさいなまれる現代の主体を形容するものとなる。それは主体性をさまざまな交渉の客体として定義するのだ。

より具体的に言うならば、彼は「移民、亡命者、観光客、都市の放浪者」といった「現代文化の主要な人物像」にこのような意味でのラディカントなあり方を見ている。

ラディカントは、なによりも移動の痕跡を強調し、また主体とそれが横断する表面との対話的であったり相互主体的であったりする交渉/ 翻訳を強調する。その際主体は、ある状況や場に一時的な仕方で身を置き、この仮住まいの結果をアイデンティティとする。それは一種の仮説的なアイデンティティである。既存の構造に一時的にとどまるなかで主体は、これまでの移動の痕跡を現地の言葉に翻訳することと、自我を環境に翻訳することという二つの意味で翻訳行為を行う。ラディカントな主体は、この仮説的なアイデンティティ間の果てしない交渉/ 翻訳の過程としてあらわれるわけである。

こうした文化的な交雑化について考えるための「思考モデル」をブリオーは、カリブ海地域に由来する「クレオール化」の概念にもとめる。

クレオール化は複数の文化、あるいは、少なくとも複数の異なった文化の要素を世界のある場所で接触させ、合力の結果として、単なるそれらの要素の総和ないしは総合からはまったく予測できなかったりような、新しい与件を産出することである。

というのも、*クレオール化こそは、「必然的な標準化に抗して文化的言説を無限に分岐させ、少数派の坩堝のなかでそれをかきまぜ、いまや起源から切り離された遺物の姿で、ときに見間違えるようなかたちでこの文化的言説を復元する」ものだからである。

植民地主義は西欧の発展のために非西欧地域を犠牲にすることになった一方で、これ移行加速してゆくグローバルな人とモノの移動は、まったく新しい民族、コミュニティ、 文化を生みだしもした。この時代のグローバリゼーションは、社会、文化的表現、人種的アイデンティティといったものの複雑な混合をもたらすことになったのである。

 

『ラディカント グローバリゼーションの美学に向けて』ニコラ・ブリオー/著、武田宙也 訳