折り込まれた現在 | 小動物とエクリ

折り込まれた現在

 
 

 

 

眼がスクリーンになるとき、イメージがそれ以上でもそれ以下でもなく見たままで現れる。これが『シネマ』のゼロ地点であり、ゼロから読むという試みには、この地点がどのようなものであるのか見定めたうえで『シネマ』全体を見渡すという意味も込めらている。

ドゥルーズは、リュミエール兄弟による映画の発明(一八九五年)と、ベルクソンの『物質と記憶』の刊行(一八九六年)がほぼ同時期であることに、イメージに運動が吹き込まれたのと思考に運動が吹き込まれたのは同時だったと驚く。

 

 

「イメージと記憶の分類」

われわれはイメージを見るかわりに、「消費」を、「コミュニケーション」を、「インタラクション」をひっきりなしに要求されている。本書は「たんに見る」ことの難しさと創造性をめぐって書かれる。

よく知られているように、ドゥルーズは哲学を、概念を創造する営みとして定義している。

「表象より多い」というのはわれわれの精神の外側の実在性を認めるということであり、「物より少ない」というのは知覚される性質とは別種の実在性を物質に認めることを退けるということだ。実在論者の言う「物」と観念論者の言う「表象」の中間に存在するものとしてのイメージ。

自分には選択の余地がなく、私の視覚そのものもまた、AからBへの運動を分割不可能な全体としてとらえていること、視覚によって何かが分割されるとすれば、それは通過されたものと想定される線分であって、その線分を通過する運動ではない。

『物質と記憶』で導入した新しい概念である「イメージ」は、表象と実在の分割、観念論と実在論の対立を乗り越えて、それとはべつの二元論ないシステムを構築するために導入されたものであった。それはひとことで言ってしまえば死んでいるものと生きているものの二元論だ。

生きたイメージにおいて作用と反作用は不釣り合いであり、したがって選択がおこなわれ、予測不可能な厚みのある現在が構築される。そして後者の時間のあり方を持続、運動と呼び、ドゥルーズはこれを運動イメージという概念によって引き継いだ。

瞬間の連続として時間をとらえる考え方は、実のところ、時間を直接考えているのではなく時間を空間化したうえで考えているだけだということになる。運動を分割できると考えるのは錯覚なのだ。

進化主義哲学は、原物質[=死んだイメージ]に関して成功した説明の手法を、生命をめぐる諸事象[=生きたイメージ]に躊躇なく拡張してしまう。[…]そして大胆にも、概念的思考の力だけで、すべての事象の、生命さえもそこに含まれるのだが、その観念的再構築に取りかかる。

それはつまり、認識の理論と生命の理論はわれわれに不可分なものと映るということだ。

ベルクソンは、認識批判をともなう生命の理論と生命の進化のなかに位置づけられる認識の理論の両立と、それらの循環が必要なのだと主張している。ここでとりわけ注目したいのは、認識批判をともなわない生命の理論、つまり知性的認識だけによって生命をとらえようとする思考は「あらかじめ存在する枠組みのなかに諸事実を閉じ込める」ので、「対象の直接的ヴィジョンを獲得することはない」と述べられていることだ。

「直観は生命の方向そのものへと進み、知性はその逆を行く。このようにして知性はまったく自然に物質の運動にしたがう」。

そしてこの「対象の直接的ヴィジョン」の把握をベルクソンは「直観」と呼ぶ。直観は哲学に固有の行為であり、知性的認識をこととする科学とは対極に位置している。

 

 

第二章

「全体=すべて」は与えられない

全体というものを定義しなければならないとするならば、われわれは全体を〈関係〉として定義できるだろう。なせなら、関係は対象に帰属するものではなく、関係の諸項に対して外在的であるからだ。また関係は、開かれたものから切り離しえず、精神的あるいは心的なある存在を提示している。関係は、諸対象の閉じた総体と混同されない限りにおいて、対象ではなく全体に属している。[……]持続そのものについて、あるいは時間について、われわれは、それは諸関係の全体であると言うことができる。

関係はそれぞれの対象にも総体にも帰属せず、それらに対して外在的である。

もちろんイメージは、知覚されずに存在することができる。イメージは表象されることなく現前することができる。このふたつの語、つまり現前と表象のあいだの距離によって、ほかでもない、物質そのものと、物質についてわれわれが有する意識的な知覚とのあいだの距離が測られているように思われる。

 

 

ベルクソン

「生命はその始まりにおいては無機物を模倣せざるをえなかった」

ーー零次性
われわれはすでに情動イメージに「一次性」、行動イメージに「二次性」、関係イメージに「三次性」という規定が割り振られていることを見ている。

「運動の間隔(intervallede mouvemente)」とは、感覚ー運動系の拠点としての「不確定性の中心」であり、作用と反作用を中継するジョイントである。

したがって知覚イメージは、運動イメージに応じておこなわれる演繹におけるゼロ度のようなものだ。パースの言う一次性の前に「零次性」があると言えるだろう。

「知覚は運動に一致するか間隔に一致するかに応じて、ふたつの極をもつ」

ドゥルーズが知覚イメージのふたつの極として設定する物の知覚と感覚ー運動的な知覚は、「極」という言葉から想像されるような並列的なものではなく、まず条件として物の知覚があって、それに条件づけられた感覚ー運動的な知覚があると考えたほうが正確だろう。

ーーベルクソンの純粋知覚論

外的対象は私によって、それがある場所において、私においてではなくそれ自身において知覚される。

諸々の対象のうちに拡散してあるような知覚と、それを知覚している「ここ」としての身体の関係はどのようなものだろうか。知覚のあとに情動が成立するというように、ドゥルーズが知覚(零次性)を情動(一次性)よりも基底的なものとした根拠もここにかかわっている。ベルクソンによれば「本当のところ情動は、知覚がそこからつくられるところの第一の材料などではない。情動とはむしろ、知覚に混入される不純物である」。

この情動なしの知覚、「ここ」なしの「そこ」の拡散を、ベルクソンは「純粋知覚」
と名づけている。

不純物としての情動のない純粋知覚を、ベルクソンは「權利上」存在するものであり、事実においてそのような知覚を見出すことはできないとしている。なぜなら事実においてわれわれの知覚はつねに、第一に情動と、第二に記憶と混ざりあっているからだ。

純粋知覚が物質に対して「直接的」であるのは、知覚のその対象への拡散が極限まで押し進められ純化されるならば、物質自体が知覚として現出しはじめるような局面にいたるからだ。

純粋知覚の物質に対する直接性とはつまるところ物質と知覚の一致である。

純粋知覚が瞬間的なヴィジョンであることを、この物質と知覚の一致と切り離せない関係にある。というのもベルクソンにとって物質とは、すくなくとも『物質と記憶』において、持続をもたないものであるからだ。中心としての身体のない物質世界にあってはすべての原因と結果が「つり合っている」、つまり隅から隅まで「自然法則」によって確定されている。

つまりベルクソンにとって、物のなかに知覚が置かれることは必然的に知覚の瞬間化を要請するということだ。

すなわち、物は、おのれ以外の物から、おのれのすべての面において、おのれのすべての部分のなかで作用をこうむり反作用を返す限りにおいて、おのれ以外のすべてを知覚するのである。

 

 

3-3
眼がスクリーンになるときーー運動と時間

「間隔を物質に還す」

「ある種の動物は、光による散々し拡散した刺激を、おのれの身体のある特権的な表面において再生するようしむけることによって、眼を形成する。眼は光を拘束するのであり、眼それ自体が拘束された光なのだ」ドゥルーズ『差異と反復』

つまり、眼がカメラであり、われわれが眼差しの主体てあることができるのは、行動と相関する感覚ー運動的な知覚の現存を条件としていると言うことができる。

眼は眼であり、カメラはカメラである。眼がカメラであるとすればそれは比喩的な意味においてでしかないらだろう。つまりそれはある種の「もののたとえ」、フィギュールなのだ。カメラは何も「見る」ことはない。眼との同一化による能動性の付与によってはじめてカメラは見る主体に生成する。しかしそれは眼が能動的なものであるかぎりでのことだ。カメラは擬人化され、眼は機械化される。この二種のフィギュールが眼ーカメラを構築し、感覚ー運動的なイメージを保証している。

眼ははじめから文字どおりの意味でスクリーンであるからだ。眼は物のなかにあるのであり、そこに主体/対象を隔てる距離は存在しない。知覚は拡散し、情動は宙づりにされる。スクリーンがただただ光を受け止めるものてあるのとまったくおなじく、眼はただただ光を受け止めるものである。眼ースクリーンは与えられる「見え(vision)」を受け取るだけだ。「眼それ自体が拘束された光なのだ」。

あらゆるイメージは見たままであり、見たままでとらえられなければなりません。あるイメージが平らであるならば、もちろん、精神においてでさえ、それを歪曲する深みを与えるべきではありません。難しいことです。

「イメージの文字どおり性=リテラリティ」は、時間イメージを運動イメージから際立たせるひとつの指標である。

有機的体制において人間と自然は調和する、というよりむしろ自然はすでにあるていど飼い馴らされ人間化されており、作品は自然のモチーフを使いつつも調和的な曲線によって構成される。無機的体制において自然は人間にとって手のつけようのない脅威であり、作品は粗暴な自然をはねのける冷たい直線によって構築される。

感覚ー運動系の断絶は、運動を脱中心化し、人物たちを不動の見者にする。しかし、このことは、「間隔」の消失までをも意味するのてはない。「それ[=純粋に光学的で音声的な状況に囚われた人]は純粋な見者であり、運動の間隔のなかに存在する」。運動の間隔は、もはや作用と反作用の中継点としてはたらくのではなく、かといって消失するのでもなく、むしろそれ自体で価値をもつようになる。「間隔は解放される」のだ。間隔の存続は、時間イメージにおける情動の存続をも意味している。

脳とはもはやひとつの隔たり、空虚に過ぎず、刺激と反応のあいだにある空虚以外の何ものでもない。しかし、この発見がいかに重要であっても、この隔たりは、それを乗り越える(水平的な)連合作用に従属するように、そこに具体化される[垂直的で〕統合的な全体に従属する」。これは、脳がはじめからへの批判として読むことができる。すでに見た純粋知覚論をめぐる読みかえもこのことにかかわる。

だからこそ感覚ー運動系の失調は「行動イメージの危機」であり、時間イメージは「繰り延べ」において捨て去られた知覚と情動の再編成の体制である。

脱中心化された運動は、規範的な運動に対して「異常な(anormal)」あるいは「逸脱した」運動と呼ばれ、これは「時間の直接的な現前化」を可能にする。つまり時間イメージとは、運動の否定ではなく、ましてや停止などではないということだ。そして逸脱した運動は、映画を、空間の整合的な把握を不可能にする「つなぎ間違い(fax racord)」で満たす。

感覚ー運動図式は、内から引き裂かれる。つまり知覚と行動はもはやたがいに連鎖せず、空間は整合的でなくなり満たされることもなくなる。

時間はなすべき行動を引き出すためになされるものであり、時間の単線性は保持される。

 

 

4-1 結晶イメージの優位ーー知覚と記憶の同時性

現在の記憶というアイデアは、記憶がそもそも過去についてのもの、つまり現在が過ぎ去った「あと」にできるものだとする常識的な考え方からすると受け入れがたいようにも思える。これに対してベルクソンは、あるきわめて日常的な経験がこのアイデアを例証するはずだと書いている。それは「デジャヴュ」という、しばしばわれわれを当惑させる現象だ。「既視感」とも訳されるこの現象は、いま私が取り囲まれているのと隅から隅までまったくおなじ状況を、私は絶対に過去に経験したことがあるという不思議な、しかし堅固な確信をともなうものである。

このとき知覚と記憶、現働的なものと潜在的なものが識別不可能になる。私は見ているのか、思い出しているのか。思い出しているものを見ているのか、見ているものを思い出しているのか。

知覚と記憶の同時性、これが『シネマ』においては「時間の結晶」と呼ばれる。

つまり知覚と記憶の同時性、その現働的なイメージと「それ自身の」潜在的なイメージとの対応は、われわれの「正常な」時間認識からのたんなる逸脱てはなく、むしろわれわれの日常的な認識はこうした時間の本質を覆い隠すものであるのだ。

現在の記憶は、時間の基礎としてつねに知覚に張りついているが「生への注意」によって、つまり生きていくために必要なことをおこないことへの専心によって、その記憶は無意識に押し込められてしまう。たったいま知覚しているものをわざわざ思い出す必要などなたあからだ。そしてわれわれが思いだす記憶はつねに程度の賛同はあれ過去のものとなり、デジャヴュが起こると過去を生きなおしているように錯覚をするのだ。知覚されたものが記憶になると主張するあらゆる理論、つまり過ぎ去ってゆく現在を時間の基礎とする理論は、したがって知覚する時点とそれを思い出す時点の隔たりという経験的な事実を形而上学的な主張へと敷こうするという誤りをおかしていることになる。

「物質と記憶」においては、「自然発生的な記憶」と呼ばれるこの記憶は、定義上反復されえない。なぜならそれは任意の瞬間におこなわれる知覚のすべての内容を保存するのであり、それが露わになるとすればおそらくただいちどきり、前節で見た現在の記憶という形態のもとに経験されうるだけであり、しかもそのような全面的な記憶も、知覚する時点が隔たってしまえばもう二度と引き出されることはないだろう。

説明されるべきは、記憶のこの即時性と自動性あるいは自然発生性だ。『物質と記憶』の根底をなしているのは、〈イメージ〉という概念であった。そしてこの概念を通じて、不確定性の中心部によって整序された宇宙(=意識のシステム)と自然法則に従う中心をもたない宇宙(=科学のシステム)との関係を、分断するのではなく連続的なものとして考えることが本書の主要な目的のひとつであった。ここには、「ふくむものとふくまれるもの」との関係についての洞察がある。

脳もひとつのイメージであり、それは物質的宇宙の「一部」であるという意味において宇宙の内部にあると言うことはできても、イメージである脳が物質的宇宙から隔絶され、つまり特権的な内部を構成し、べつのイメージをつくり出したり、それをおのれのうちにふくませたりすることはてきない。

知覚される表象は脳の内部にあるのてはなく、物質それ自体のうちに知覚が潜在的に認められているのてあり、それが主観化=中心化されるのは、脳を走り抜ける振動がべつのものに翻訳される、あるいは蜃気楼のような表象を発生させたからではなく、たんに対象の与える所用から一定のものが「引き算」されるからだ。

つまり、知覚を脳の内部に置く実在論者の議論は、事実あるいは経験における知覚の内部性を、権利へと無自覚に敷こうすることによってなされるものである。

ベルクソンは知覚と脳の関係を、知覚が脳のなかにあるのではなく、脳のほうが知覚=イメージのなかにあるのだと端的にまとめている。

つまり記憶が脳なかにあるのではなく、脳が記憶のなかにあるのだと。

つまり、物質的なものである脳が記憶のなかにあること、そして潜在的なものである純粋記憶がそのままでイメージになることは、ドゥルーズの読みかえによるものであるようにしか見えない。ドゥルーズの「越権」は、このようにふた通りにのかたちで明白にあらわれている。

ベルクソンが記憶の現働化(記憶イメージの構成)を「無力(impuissnt)」なものであり、それ自体としてはいかなる活動性も備えておらず、したがってそれを想起するためには活動的な現在、つまり感覚ー運動系からの「呼びかけ(appel)」が必要とされるが、これこそが記憶に「生を与える」ものである。
しかしこの説明は、感覚ー運動系の構成自体に記憶が必要とされる以上、循環的なものでしかない。現在の側から説明される想起は、つねにこのような循環に陥らざるをえないだろう。しかしこの説明は他方で、記憶に対する脳の役割を明確にするのに役立つ。「脳のは有用な記憶[souvenir]を説明することに寄与するが、しかしそれ以上にそれ以外の記憶をさしあたり遠ざけておくことに寄与する」
のであり、つまり何らかの記憶が現在とかかわりをもつことと、それ以外の記憶が遠ざかることはコインの裏表なのだ。

自身を過去のなかへと一挙に身を置くのでなければわれわれが過去に到達するということは決してないだろう。過去は本質的に潜在的なものであるので、それが現実へと開花してゆき、暗闇から明るみへとあらわれる運動につきしたがい身を沿わせるのでなければ、それをとらえることはできないだろう。

つまり想起には、潜在的な過去のなかに身を置くことがまず第一に求められるのであり、それが現在のものと関係をもつのはあくまでそのあとのことである。

われわれが物をそれがあるところにおいて知覚するのとおなじように、また知覚するためには物のなかに身を置かなければならないとおなじように、われわれは記憶[souvenir]をそれがある場所に探し求め、ひと飛びに、過去一般のなか、時間の流れとともに絶えずみずからを保存する純粋に潜在的なイメージのなかへ身を置かなければならない。

「唯一のおなじ出来事の内部に身を置く」という言葉から想像されるのはどのような状況だろうか。われわれがはじめに想像するのは、ある瞬間において同時に生起するさまざまな出来事を俯瞰するような位置に身を置くことではないだろうか。

ドゥルーズは、現在を脱現働化し唯一のおなじ出来事に身を置くならば「出来事はもはやその場所となる空間とも移行する現働的な現在とも混同され」ず、「区別される諸々の現在の明示的な移行にしたがう、継起的な未来、現在、過去はもはや存在しない」と述べる。ひとつの瞬間にひとそろいの同時的な出来事が、そしてつぎに瞬間にはべつのひとそろいの同時的な出来事が継起し、それぞれの現在がおのれの前後に過去と未来を割り振るような「明示的な移行(passage explicite)」は、もはや存在しない。これをドゥルーズは特権的な現在を中心に過去と未来が「折り広げられる」のではなく、ひとつの出来事のなかに過去・現在・未来が「折り込まれる」と言い換えている。そしてこのときひとつの出来事のなかに折り込まれるのは「未来の現在、現在の現在、過去の現在」であり、これら三つの折り込まれた現在は同時であり、「現在の諸先端の同時性」はこのことを指している。

「映画をつくるのはわれわれではなく、世界のほうが出来の悪い映画のようにわれわれの前に立ち現れてくる」。

信を与えなおすこと、「この世界を信じる理由」~与えなおすことこそが、時間イメージ的な映画の使命だ。

なくなってしまった世界との紐帯を、状況に反応を返す力を、イメージをつなぎ合わせる思考を「還す(restituer)」こと、「立てなおす(restaurer)こと。

そして石化した思考は、信によってのみその「無力」を役立てることができる。「思考されないものを思考に固有の力能にするのは、この信だ」とドゥルーズは述べる。「われわれはまだ思考したことがないという事実」,「思考の不可能性」という事実が、たんなる不可能性に終わらずに「思考に固有の力能」となるのは、われわれがこの世界との紐帯を信じることによってだ。このときはじめて時間イメージ的な思考は積極的な意味をもつ。

われわれが「全体、それは外である」と言うとき、事態はまったく異なっている。というのもまず、問われるべきイメージの連合でも引力でもなくなったからだ。重要なのは反対に諸々のイメージのあいだの間隙であり、それぞれのイメージが空虚から引き離され、またそこに落ちていくような間隔化=空間化[espacement]なのだ。

全体は開かれたものであるのをやめて、「外(dehors)」になる。外とは「外的世界(mondeexterieur)の彼方」にあるものでありーー「外(dehors)」」と「外部(exterieur)」の区別はきわめて重要であるにも関わらず、『シネマ2』翻訳版では多くの箇所でいずれもが「外部」と訳されているーー全体はもはやイメージの連鎖を賦活するものでなくなり、思考は外との直接できない関係のもとに、「外の思考」になる。

個々のイメージが連続的な空間の内部にあることを保証するものであった外部世界は消失する。一つひとつのイメージが、連続できない外的世界のなかでおのれの位置を見出すことをやめ、端的な外に晒され断片化するのだ。「全体、それは外である」というのは、全体と諸々のイメージを間接的な表現という関係のもとに置いてい二重の引力が消失することであり、イメージの連鎖による全体の外部化も、全体による一連のイメージの内部化ももはやはたらかなくなり、イメージはほかのイメージと連鎖するとっかかりを失ったまま、全体との直接的な関係にさらされることを意味する。外が「時間の直接的な現前化」とあると言われるのは、外が感覚ー運動的な継起の形式を破壊し、過去の諸層や現在の諸先端といった時間の「基礎」を露わにするからだ。

つまり『シネマ』全体が連鎖(運動イメージ)→脱連鎖(感覚ー運動的な紐帯の断絶)→再連鎖(直接的な時間イメージ)という大きな枠組みのもとにあるのであり、第二の位相から第三の位相へのジャンプは、思考の不可能性を思考に固有の力能にする信の可能性に賭けられている。

イメージを「読まれる」ものにすること、それが断片化した視覚的イメージを再連鎖させる方途だ。「読むとは、連鎖させる代わりに再連鎖させることだ」が、これはイメージを言語的な構造にしたがわせたり、ましてやフィギュールを用いたりするのではなく、全面的に視覚的である読解、つまりリテラルな、見たままの、「隠喩なしの十全なイメージ」が、そのまま読解の対象になるということだ。このとき視覚的イメージは、地質学的な層の配置とその変形として現れてくる。

視覚的イメージと音声的イメージはそれぞれ「大地(terre)」と「天空(ciel)」として、出来事をめぐる抵抗を繰り広げる。発話が出来事を創造し、立ち上げるということ、そして沈黙した出来事は大地によって覆われるということを同時につかまえなければならない。出来事とは、つねに抵抗であり、発話行為がもぎとるものと大地が埋却するものとのあいだにあるのだ。それは天空と大地の循環であり、外部の光と地下の炎の循環であり、外部の光と地下の炎の循環であり、さらには音声的なものと視覚的なものの循環である。この循環は、決して全体を再構成するものではなく、そのつど両者の離接を構成し、連関の不在ではなく、新たなタイプの連関、きわめて厳密に非共約的な連関を構成する。

 

 

補填 ドゥルーズの「減算と縮約」

間隔が作用と反作用のジョイントとしての機能を失うとともに、そこを「占める」あるいは「満たす」のは、記憶と情動の複合体としての感情てあり、それは「外」とじかに接触する「内」を構成する。「内、それは心理であり、過去であり、巻き込み「involution」であり、脳を蝕むしんそうからさなる心理の全体である」内と外。「絶対的なもののふたつの面のあいだで、ふたつの死のあいだで」思考は織り上げられなければならない。


第5章 第三の時間イメージーーひとつのおなじ結論の三つの異なるイメージ

身体は執拗に、頑固に、思考することを強い、思考を逃れるものである生を思考することを強いる。

信じるべきものをもたない者は選択するすべを知らないが、信心家において選択はいつもあらかじめなされており、したがって彼は何ひとつ選択するべきものをもたない。

身体が非選択になることによってのみ、選択は十全に「精神的的な選択」になることができるのであり、これは身体が「思考しないもの」になることによってのみ、「志向の無力を役立てる」こと、つまり〈思考の不可能性を思考に固有の力能にする〉ことができることと軌を一にしている。思考、生、選択のこれらどれもが、身体によって、身体が与える信の〈理由〉によって一致する。

対象化と同一化を往復する眼ーカメラの眼差しにかえて、眼ースクリーンは仮構された記憶をリテラルな伝説にする。

芸術家とは、真理の創造者であり、それは真理が到達されるべきものでも、発見されるべきものでも、再生産されるべきものでもないからだ。真理は創造されなければならない。〈新しいもの〉の創造のほかに真理などない。

時間イメージにおいてそれは見ることから自律した「純粋な発話行為」に到達する。出来事を埋却する大地としての視覚的イメージと出来事を創造する大気的な発話行為は、おのおのの「限界」へ向かいながら出来事をめぐる抵抗を繰り広げる。


『眼がスクリーンになるとき』福尾匠/著