「観念」と「表象」 | 小動物とエクリ

「観念」と「表象」

 

 

崇高さとは「傑出し卓越したロゴス(=言葉)のことであり、偉大な作家と呼ばれる人々は、それにょって「みずからの偉大さに永遠の名声を与える」

われわれは、ある歴史対象のアプリオリな起源に到達することはできない。なぜなら、そこには必ずや何らかのパースペクティブが介入するからであり、その場合に起源とみなされているのは、あくまでも事後的に措定された「準-起源」にほかならないからだ。

崇高なものを伝達する言葉はあくまでも「自然に」見えなければならないが、それが言葉である以上、その自然らしさは「テクネー」(=比喩)を通じて伝達されるほかない。しかし同時に、この比喩が比喩であるという事実は、「ピュシス」に属する精神の偉大さ(=崇高)によって覆い隠さねばならない、というのた。

もっとも効果的な比喩とは、それが比喩であるという事実を隠すような比喩なのだ。

ミメーシスとは、「現前させられる必要があるものを現前させること、つまりそれなくしてはそれじたいとして現前することなく、隠蔽され、「秘蔵され」たままになってしまうものを現前させることを意味している。「テクネー」は「ピュシス」のミメーシスを通じて、その真理を現前化させる。そして反対に、「ピュシス」はその輝きによって「テクネー」を覆いる隠すのである。

テクネーは、それがピュシスに見える時にこそ完璧であり、ピュシスは、それがテクネーを隠しているときにもっとも成功しているのだ。

語り手の「ピュシス」に属するーこの「パトス」に媒介されることによって成立するイメージ論というのは、最終的にいかなる姿のもとに立ち現れてくるのだろうか。

ロンギノスにおける言語的イメージの伝達は、こうした「創造」と「媒介」を同時に可能ならしめるという点に、その最大の特徴があると言えるだろう。

「永遠の名声」とは、作家が残したロゴスそのものによって可能になるのではなく、引用を通じた言及の力によってはじめて可能になる。なぜなら、そもそも引用という行為は「言表されたこと」を反復するのではなく、「言表すること」そのものを反復するからだ。つまり話し手から聞き手へと伝達される崇高なロゴスをー人々の記憶においてー永遠なるものへと変えるのは、語られた内容(「言表されたこと」)そのものではなく、むしろこの語り「言表すること」の反復なのである。

〈崇高〉とは、〈魂〉を熱狂させ、魅了するのに適したある種の言説の力である。それは、偉大な思考および高貴な感情、壮麗な言葉、あるいは表現によって調和、活力、生気を与えられた言い回しのいずれかから生じる。

「観念」と「表象」は、ほぼ同義である。

カント自身の言葉を引いてみよう。

自然における美は対象の形式に関わるが、対象の形式の本質は限定にある。これに対し、崇高は形式をもたない対象においても見いだされる。
美は、生を促進する感情を直接的にともない、したがって感覚的な刺激や構想力の遊動と一致しうる。しかしこれに反して崇高は、間接的にしか生じえないような快なのである。

われわれの感覚の対象になりえるもののなかで、崇高と呼ばれるものは何ひとつ存在しない。

「崇高」とは、われわれがその全体を感覚的に把握することが不可能な対象を契機として、感覚とはおおよそ合致しえない理性理念を否定的に表出するときに生み出されるような、そのような特異な感情にほかならない。

パラドクスと呼ばれるものは、深く自己批判的である。

相互性は贈与の特性である。つまり、言語には贈与の形式が書き込まれているのであり、それこそがまさしく言語なのだ。

「与えあう」ことが、諸々の「比類なきもの」に満ちた「取り引なき交換」であると述べられる。

Given Giving

神へと向かう「垂直的な」超越とはことなる、「放物線状の」超越の寓話を定時する。

テクネーがその目的を果たすのは、テクネーがピュシスのように見えるときであり、ピュシスが成功するのは、ピュシスがテクネーを目の届かないところに隠し、テクネーを包み込んでしまうときである。

芸術において真に崇高なものとは、誰にも気づかれることなく、いかなる注意からも逃れるものにほかならない。

一方に字義的な意味で、他方に比喩的な意味、といったような単純な対立があるのではなく、文法的なシステムによっては両者のどちらが優勢であるかを決定できないとき、そのような言語は「修辞的」と呼ばれる。

言葉がまさに言葉そのものとして考察されている。

ヘーゲルの『美学』において作動している絶え間ない弁証法が示すのは、芸術が本質的に散文的な性質をもっているーそれゆえ、何らかの上部構造によって抑え込まねばならないーということなのだ。


『崇高の修辞学』星野太/著より抜粋、引用。