非決定性 | 小動物とエクリ

非決定性

 

 

時間についての講話

緒言 人間的なものについて

人間主義(ヒューマニズム)は「われわれ」(?)にさまざまな教訓を授けてくれる。それも無数の仕方で、そしてしばしば互いに相容れない教訓を。

しかしつねに、まるで、少なくとも人間は確固たる価値であり、問いただす必要がないものであるかのようである。またそれはその権威によって、質問や疑惑といった、あらゆるものを侵食する思想を中断し、禁ずるかのようである。

「価値」たるもの、「確実」なるもの、「人間」なるものが何なのか?そういった問いは、危険と見なされ、すばやく封じ込められてしまう。いわく、それらの質問はつまるところ「何でも許されている」「何でも可能だ」「何も価値がない」という事態を招くのだ、と。

さらに言えば、カントにおいても、この点に関して不安の材料となるもの、人間的でなくまさしく超越論的なもの、そして、批判の緊張の中で一個の主体(人間的な)という前提されたまとまりを破壊するに至るもの、私には崇高の分析論や歴史・政治的論文がちょうどその典型だと思われるのだが、それすらも排除される。それは、カントに帰るとの口実のもとに、人間主義的偏見をカントの権威に庇護下に置いているだけである。

きちんと基準を持った公衆への受容というものの名のもとに、ヤウスはアドルノのテクストを排斥する。

すなわち、『美学理論』〔邦題『美の理論』〕の書き方は、錯綜し、不確かで、ほとんど取り乱していて、読解不能と判定されるわけである。

『前衛』は昔のゲームだ、もろもろの人間的なことを人間的に語れ、人間たちを相手にせよ、彼らがあなたが受け入れて嬉しいのなら、彼らはあなたがたを受け入れるだろう。
 それは人間主義が全く単にマーケティング取引だということではない。「われわれ」(?)を叱責する者たちは、皆が皆、文化産業の関係者ばかりではない。哲学者を名乗る者たちもいる。

一九一三年、アポリネールははっきりこう書いている。「何よりも、芸術家たちは非人間的になろうとする人間である。」そして一九六九年に、アドルノもまた、ただしもっと慎重に、こう書いている。「芸術が人間たちに忠実であるのは、ただ彼らに対してそれが非人間的である限りにおいてである。」

一方では、人間主義の意味での人間たちは、今まさに、否応なしに、非人間的になろうとしているのではないか?また他方では、人間の「それ固有のもの」とは、人間が非人間的なものを宿しているということではないか?

システムは自分から逃れるものをどちらかというと忘れさせる結果をまねく。しかし、不安ー自らを駆り立てる、馴染みでありながら未知の客にとりつかれた精神の状態ーーは、精神を撹乱するが、同時に考えさせもする。

発展は時間の節約を要求する。すぐに
行くこと、つまりはすぐに忘れることは、結果として役に立つ情報のみをとどめておく
。ちょうど「速読法」のように。しかし書くことと読むことはゆっくりしたものであり、「内密の」未知なるものへと向かって、後ずさりしながら進んでゆくものである。

想起は加速や短縮にとって対蹠点ーーいや、そうですらない、共通の軸がないのだからーー「他のもの」である。

文化を構成するもろもろの制度は、この生まれながらの欠如を補っている。
 人間において、何を人間的なものと呼べるだろうか?幼児期の最初の惨めさ、あるいは「第二の」本性を獲得する能力をそう呼ぶのだろうか?

問題は、この弁証法をどのような言葉で飾ろうとも、それが何らかの遺留物をも残さないのかどうかを知ることである。

私は単に特異な症候群や逸脱のことのみを言っているのではない。少なくともわれわれの文明においては制度的なものとして通っているものであっても、そこに関係しているのである。すなわち文学、諸芸術、哲学がそうである。それらにおいても、成人期に至るまで存続している未決定性の、幼児期のさまざまな痕跡が見られるのである。

言葉を奪われ、直立できず、関心を持ったものごとをどうしていいのかわからず、利害の計算ができず、共通の理性にわずらわされることのない幼児はぬきんでて人間的なものである。

結局のところ、われわれの同時代人たちは次のことを思い出せばいいのだ。すなわち、人間に固有なものとは、固有なものの不在であり、自らの無であり、あるいは自らの超越性だ、ということを。

もしも人間的という呼び名が、生来的な未決定性と、制度化された、ないしは自らを制度化する理性とのあいだでやりとりされるものだとしても、それは非人間的という呼び名についても同様だ、ということである。あらゆる教育は非人間的である。なぜなら、それは強制と恐怖なしにはすまないからである。

しかし、こうしたさまざまな非人間性のあいだの齟齬を強調するのも、今日、特にシステムの性質が(おそらくは深く)変容したことに起因する。
 この変容を、激することなく、しかも無視することなく、理解するよう努める必要がある。

しかるにシステムの権威は、人間の諸権利を成り立ちからして付随的な問題としてしか考えられないのである。
 私はこの発展の仮説を採らない。なぜなら、それは、もはや思想には禁じられたものである形而上学が、思想の上に自分の権利を再び築こうとする一つの方便、唯一の方便なのだから。

「発展」は今日のイデオロギーであり、それは形而上学の本質的なものを実現している。形而上学は、主体についての思想であったよりも、ずっと、もろもろの力についての思想だったのである。

すなわち、生まれながらの未決定性が、たとえそれが寛容性の外見のもとにであれ、やむを得ないもの、「強制された」ものではあるようなシステムは、人間なものの理性、たとえば啓蒙主義者たちのいうような理性から発生したものではない。それは発展の過程といいうものから帰結するものであり、そこでは人間が問題なのではなく、差別化が問題なのである。

発展は、ただ自分の内的な力学にしたがって、加速しつつ、拡大しつつ、自らを再生産する。それはもろもろの偶然を同化し、それらの情報としての値を記録し、そしてその値を、自分の機能にとって必要な新たな媒介として用いるのである。発展それ自身が必要とするのは、ただ宇宙的な偶然というものでしかない。

したがって発展に終わりはないが、一つの制限はある。すなわち、太陽の寿命である。

いわゆる先進諸国において取り組まれているすべての研究が、その応用分野は何であれ、すでに準備しているのは、まさしくこの挑戦を取り除くことなのである。そこでは、人間の利害は、複雑性を延命させるという利害に従属させられている。

そして、抵抗するためには、その中であらゆる人間が生まれ、また生まれ続けているところの、惨めで、しかもすばらしい未決定性によって、つまりはもう一つの非人間的なものによって、人間が引き受ける負債のほかに何が残っているのだろうか?

しかし、抵抗するためには、そして、おそらく、不正をしないためには、それを忘れないでいるだけでいい。書くこと、思想、文学、諸芸術の仕事は、まさにその証言を伝えようと冒険することなのである。

 

 

1 身体なしで思考することは可能か



物質は私たちを無視するのです。物質は、偶然によって、そしてその諸法則に従って、物体を作るのと同じように私たちを作ったのです。
 あるいは、あなたたちはエネルギーの変換法則の手段という、災厄と同じ次元の手段でもって、災厄を先取りしてそれを回避しよと努めます。

ご承知のように、技術は人間の発明品ではありません。むしろ逆です。

どんな物質的システムであれ、生存に有益な情報を選別し、記憶して処理するかぎりは、また、少なくとも存続を保証する操作を、つまり自らの環境への介入を制御機関から導き出すかぎりは、技術的なのです。人間は本質的にはそのような物体と何らかわりません。人間がデータを補足する装備は、他の生物のそれと比較して例外的ではありません。それはただ、その制御システム(処理コード規則)がより分化していて、その貯蔵能力がより高度であるために、情報に関して雑食性であるだけです。とりわけ、人間はその意味路と統治論の両方において恣意的な象徴体系が与えられており、そのことによって直接的な環境に依存することがより少なく、また回帰的(ホフスタッター)であり、そのおかげで情報自身に加えて、自らがそれを処理する方法、つまり自分自身を参照することができるのです。

人体の死後にも存続する、身体なき思考を可能にすること。そのような代価を払って、太陽の爆発は思考可能のままにとどまり、太陽の死は、私たちの認識するたぐいの死となるでしょう。

思考と身体を分離不可能にしているものは、もはや単に身体が思考の不可欠なハードウェア、つまりその物質的な存在条件であるということではなく、身体と思考のおのおのが、それぞれの(感覚的、象徴的)環境との関係において、互いに類比的であり、この関係そのものがどちらの場合においてもアナログ型であるということです。

 

 

彼女

*知覚野にはいくつかの限界がありますが、その限界はつねに手の届かないところにあります。視覚対象は、眼に対して一つの面を供するとしても、つねに別の面を隠しています。焦点の合った正面の視覚はつねに湾曲した広がりに囲まれ、そこでは見えるものは不在なわけではありませんが、身を隠しています。それはすぐ後に見られるものを先どりしています。これらの総合から対象の同定が生じるのですが、その同定は決して完結することはなく、その後の視線がつねにその同定に影響を及ぼし解体することがありえます。

しかしながら、観察者は対象を完全に認知していると決して言うことができません。というのも、現前の領野はそのつど絶対的に特異なものであるからであり、また、実際に見ている視線は、見られた対象が「同定される」やいなや、つねに見られるべき残余があることを忘れることができないからです。知覚的な「認知」は完璧な記述という論理的要請を決して満たすことはありません。

書くこと(エクリチュール)もまた同様に文の領域に潜り込んでいて、草稿を繰り返しながら手探りで「言わんとする」ものへと進み、そして進みを止めるときには、(全人生でもありうる)一瞬その探索を宙吊りしているに過ぎないことと、中断した文書のほかに、無限の言葉・文・意味が潜在して、おそらくは未処理のまま残っており、最初と同じだけの「語るべき」ものが残っていることを、決して知らないわけではありません。真の「類比」が必要としていることは、眼が視野の中にあり、書くこと(エクリチュール)が(広義の)言語の中にある「ように」、思考あるいは表象する機械はそれ自身、その「データ」のただ中にあることです。

重要なのは、その機械がなしうる人工的思考を(フランス語にはこの気の効いた正確な表現があるのですが)「具体化する」〔don-ner du corps 体を与える〕ことです。

思考することと苦しむことは密接に絡み合っています。

紙片あるいはカンヴァスへ書き込まれると、ひとが「言わんとした」のとは別のことを「言う」のです。

もろもろのデータの選別やその分節化という形で思考を記述していると信じるとき、ひとは真実を語っているのではありません。データは与えられるのではなく、与えられうるものであり、選別は自由な選択ではありません。書くことあるいは描くことと同様に、思考することとはほとんど、与えられうるものがやってくるにまかせることでしかありません。

私たちが思考することと呼ぶものにおいては、精神を「導く」のではなく、精神を宙吊りにするのです。精神に規則を与えるのではなく、受け入れることを教えるのです。

思考することの苦しみは、他のところから来てその真の場所の代わりに精神に刻み込まれるような症候ではありません。その苦しみは、思考が未解決なままであることを覚悟し、忍耐強くあろうと決意し、欲しないように欲し、意味され〈ねばならない〉ものの代わりにまさしく言おうと欲しないことを欲する限りにおいて、思考そのものなのです。

この苦痛、それがこのようにして真の思考を記しづけているのは、ひとがすでに思考されたもの、書き込まれたものの最中で思考しているからであり、そしてまた、いまだ思考されていないものが到来し、思考されるべきものが書き込まれるために、思考されたものを引き離しておくこと、あるいはそれを別様に捉え直すことが困難だからです。

すでになされたこの書き込みの世界という環境について私たちは思考しているのであり、もしお望みならば、その世界を文化と言ってもいいでしょう。

そして私たちが思考するのは、その充溢のなかには、それでも欠如しているものがあるからであり、空白化によってこの欠如しているものに場所を与えなくてはならないからです。そうすることで、まだ思考されなければならない別の何ががやって来ることが可能となります。しかしこの別の何かが「到来し」うるのは、それはそれで書き込まれたものとしてでしかないのです。いまだ思考されていいないものが苦しみを与えるのは、ひとがまさしく、すでに思考されたもののうちにいるからです。この苦しみを受け入れることでもある思考することは、同時に、簡潔に言うと、その苦しみにけりをつけようと努めることでもあります。

最後に、人間の身体には性別があります。

女性の中に男性的なものがあり、男性の中に女性的なものがあるのは確かです。さもなくば、どうして一つの性において、別の性についての観念や、他の性が欠如しているということから生じる感情が存在するでしょうか。

性の差異なくしては、知覚と思考の時空間の中性的な経験、つまりは不幸にして不完全さの感情がなく、単なる純粋認識の美学を生み出すだけの経験になってしまうものに対して、その差異は放棄の苦難を付け加えます。なぜなら性の差異は、視覚あるいは思考のいかなる領野もそれ自身のうちに含まないもの、つまり要求をそのようなものにもたらすからです。

差異は一なるもののみを絶滅させます。


2 モデルニテを書き直す

つまりその時代区分は、「今」の位置を、すなわちそこから出発して年代上の継起にたいして正当な視野を獲得することができると想定される現在の位置を、不問にしているからです。

「今」は、私たちが意識の流れとか、生や事物や出来事など何であれその経過と名づけるものによって運び去られ、絶えず消え去るからです。したがって、何かを「今」として同定可能なやり方で捕まえるには、永遠に早すぎると同時に遅すぎるのです。「遅すぎる」が意味するのは「過ぎ去る」こと、消え去ることにおける過剰であり、「早すぎる」は到来することにおける過剰です。何に対する過剰なのでしょうか。「ここに、今」あるところの、つまり物自体であるところの「存在者」を同定しようとする意図、その「存在者」を捉えて認知しようとする企だてに対する過剰です。

モデルニテ、すなわち近代の時間性は本来、それ自身とは別の状態へと自らを越えるための推力を含み持っているという理由で、ポストモデルニテはすてにモデルニテに含まれているのです。

書き直すということは、私が述べたばかりである身振り、時計をゼロから再び始めさせ、タブラ・ラサをつくるあの身振りにあるのであり、その身振りは一気に新しい時代の始まりと新しい時代区分を創始するのです。

なぜならもろもろの「予」断とは、以前に「再」考することなしに真であると見なした諸判断の蓄積と伝統からのみ結果すると考えられているからです。このように「以前」と(この場合は回帰の意味で捉えられる)「再び re-」との間で演じられるゲームは、これらの古い判断の少なくともいくつかに含まれている「以前」を取り除くことを賭けています。

反復は神経症あるいは精神病の事象で、無意識の欲望が成し遂げられるのを可能にして、主体の存在全体を一つのドラマとして組織する「装置」dispositifに起因します。運命や宿命といったものは、そのように「配備された」欲望の法則に従属する患者の人生がとる形態です。

マルクス主義者は人類を脱疎外させることに専心してきたと信じていました。人間の疎外は、せいぜい場所を変えただけで繰り返されているのです。

ニーチェは、彼が形而上学と呼ぶものから、思考を、思考様式を解放しようとします。

ニーチェの思考の中心的テーマは、いかなる「との一致」もないということです。

あらゆる言説は、科学や哲学の言説も含めて、一つの遠近法、一つの世界観にすぎないのです。

そうして、彼の哲学は形而上学の過程を反復し、その本質を執拗に繰り返し完遂させさえするのです。というのも彼が探求を締めくくる意志の形而上学は、近代西洋のあらゆる哲学的システムが隠匿している形而上学そのものなのです。それがハイデガーが示していることです。

つまり、自らが再び-書くところのものの反復から、できうる限り逃れているような書き直しとはどのようなものでありうるのか、という反省です。

想起する際に、人はあまりにも多く〈欲し〉ます。過去を奪取しようと欲し、過ぎ去るものを捉えようと欲し、最初の罪、失われた罪から情動上の脈絡を、つまりは誤ちや恥辱や慢心や苦悩という共示(コノテーション)を取り除くことができるかのようです。そして、その共示(コノテーション)に、ひとは今なお浸り切っているのであり、またそれらの共示(コノテーション)こそが、まさに起源という観念を動機づけているのです。

というのも、欲望は我慢のきかないものであるため、自己自身から解放されんと欲することもまた、欲望に本質的だからです。

人は思い出そうと試みます。それはおそらく、再び忘れる良い方法です。

私がここで引き合いに出しているのは、ラテン語のredigereと英語のputting downがともに語る二つの意味、つまり、「記載すること」と「抑圧すること」という二つの意味です。writing downが記入あるいは登録であると同時に価値の引き下げを示唆しているのと同じです。多くの歴史のテクストにこの手の書き直しが見られます。

おそらく私たちが書き直しについて持ちえる最も適切な考え方があるのは、前進しまた後退するというこの二重の身振りの中です。

 

 
「平等にただよう注意」

先入見をもたないこと。判断を差し控えること。受け入れること。到来することすべてにたいして到来するがままに同じ注意を払うこと。

つまり、発話行為を成り行きにまかせること。すべての「観念」、形象、光景、名前、文章を、それが口をつき身体上に生起するがままに、「無秩序」に、選別も抑圧もなしに、湧き出るがままにすることです。

私が思い起こすのは、徹底操作において、自由に使える唯一の導きの糸は感情に、あるいはよりよく言うなら、感情の聴取にある、なということです。文の一断片、情報の一つの切れ端、一つの単語が、到来します。

そのように前進しながら、ひとは少しずつある光景、何かの光景に近づくのです。ひとはそれを記述します。それが何であるかはわかりません。確信していることは、それが最も遠いと同時に最も近い過去、自分自身の過去と同時に他者の関係に関係しているということだけです。失われた時は絵画に描かれるように再現されませんし、現前することさえありません。失なわれた時は、絵画、それもありえない絵画の諸要素を現前させるものです。書き直すということは、その諸要素を記録することなのです。
 明らかに、この書き直しは過去についてのいかなる認識も提供しません。それこそフロイトが考えていることでもあります。分析は認識に従うのではなく、「技法」、技術に従うのです。分析の結果は、過去の要素の定義ではありません。逆に分析は、過去自身が、光景を構成する諸要素を精神に与える当事者あるいは動作主である、ということを前提としています。

現象の美しさはその流動性、その可動性、そのはかなさに比例しています。

構想力が精神に「多くの考えるべきこと」を、語性の概念上の働きが与えうるよりもはるかに多くのものを与えるのだと。

そのような考え方に従えば、それぞれの瞬間、それぞれの今は、「〜に自らを開くこと」として存在します。

美についての快は、スタンダールやアドルノが書いているように、「幸福の約束」であるか、あるいはカントのように、自分自身とのそして同様に他者との主体の感情的共同体の約束、共通感覚 sensus communisなのです。

徹底操作が何よりもまず、自由な構想力に関わることであり、それが「いまだなお」と「すでにもはや」と「今」との間で時間を繰り広げることを必要とするということが認められれば、新しいテクノロジーの採用は徹底操作から何を保存し維持できるのでしょうか。いかにして徹底は、概念と再認と予測の法則から逃れうるのでしょうか。

モデルニテを書き直すこと、それはこのように想定されたポストモデルニテの書き方に抵抗することなのだと。


3 物質と時間

提起されている問いの一つは、現代哲学における物質概念の使用法です。

「概念の使用法」とは何なのでしょうか。概念とは道具なのでしょうか。

力学的エネルギー、つまりポテンシャル・エネルギーおよび/あるいは運動エネルギーは、ある対象を変換するためその対象に適用されます。空間における位置移動、質的変化すなわちアロイオースつまり、「生産的」使用法です。

これらのエネルギー形態のそれぞれが適用される「質点」は全く異なります。デカルトの力学が研究しているのは、人間による観察において知覚可能な「物体」であり、そして人間の経験に類比的な変換です。

その物質観念について、たとえ無知で臆病な哲学者といえども、その観念が実体的なモデルにいかなる正当性ももはや与えないように思われるということは、少なくとも指摘しているのです。

 

 

1

個別的な意味において物体とは、延長の一部です。運動とは、この物体の移動、ある物体の隣接関係から別の関係への移動です。運動はただ、静止していると判断される観察者に相対的であるにすぎません。したがって、静止と運動のあいだには実体的な差異はありません。運動はどんな個別的な形態も必要としませんし、それは運動体の一つの属性であり、静止はもう一つ別の属性です。力学とは、運動している諸形象の研究と産出である幾何学の一部です。

デカルトの物質とは一つの概念であり、幾何学的=代数学的思考においては完全に透明な延長なのです。諸感官を通して物質から私たちのところへ来るいかなるものも、仮象として物質から引き出されたものです。私の身体もまた延長の一部ですので、それは延長一般について、そしてその数学的論理について私に何も情報を与えることはできません。生理学は逆に、形象や運動のメカニズムのみによってもろもろの仮象(堅さ、重さ、色など)を説明しようと試みます。機械装置を、その舞台効果でしかない感性のもとに見出さなければならないのです。

「物質的な他者」の排除は、自己の身体についての「知」を拒否する決断の動機となります。魂と身体の統一は論じがたい謎のままです。魂は、生得的諸観念、諸カテゴリーという自己に固有な変換装置を通して、自己自身とのみ結合するのです。

身体は不明瞭な話者です。つまり、直線や曲線、衝撃や関係を話す代わりに、それは「柔らかい」「暖かい」「青い」「重い」と語るのです。
 このように拒否され排除された物体は、この暴力的なまでに近代的な思考のうちに現前し続けています。

つまり、背後から私たちにやって来る。あらゆる「以前の」ものの混乱です。その混乱、先入見とは思考における物質であり、望まれ理解される前に起こった過去の無秩序、自ら何を語っているかを知らない過去の無秩序であり、その過去を、現時点で能動的に絶えず明晰な直観に翻訳し修正しなければならないのです。幼児期、無意識、「その時」とは「今」のことであるがゆえに時間、古いもの、それらは瞬間的な直観intuitusの現動と現在性において、語性が解決しようと望む物質なのです。
 あらゆるエネルギーは、自らが語っているものを語り、自らが意欲しているものを意欲する思考に属するものです。物質とは思考の挫折であり、その慣性質量であり、愚かさです。 
 デカルトのモダニズムには、何という焦燥、何という不安があることでしょうか。

 

 

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私のようにあまり事情に精通していない者にとってはどれほど混乱したものであるとしても、そうした転倒された物資のイメージに、現代思想は何らかのかたちで必然的に立ち向かわざるをえないのです。
 物質のイメージのこうした転倒の一つの本質的な軸は、身体と精神の関係についての分析における時間の優位性にあります。ベルクソンはこう述べています。「主観と客観、それらの区別と統一に関する問題は、空間よりもむしろ時間の関数として提起されなければならない」(『物質と記憶』)。

「どんな物体も記憶をもたない瞬間的な精神と見なされうる」『アルノー宛書簡』

真の精神とは記憶と想起であり、連続する時間です。それにもかかわらず、そうした記憶は局所的であり、ある「視点」に限定されたままです。

創造された諸モナドの局所化は、それらの時間性の空間的な翻訳です。諸モナドが空間に対する内在的な「視点」を持っているのは、それらモナドが時間に内在的であり、充分な記憶を持たず、充分に思索することがないからです。

それゆえ、ベルクソンは(『物質と記憶』において)この質点を「イマージュ」と呼ぶことができ、そしてライプニッツはその質点に「知覚」〔表象能力〕を付与しているのです。世界全体はそれぞれの質点において映し出されます。

言ってみれば、その質点が多くの情報を収集すると同時に保持する能力をもつ、という条件でのみ可能となるのです。さもなくば、記録がいくら行われても無駄であり、認められず埋もれたままとなります。したがって、物質から精神へ、ただ集積し保持する能力に起因する程度の差異だけがある、と考えなければなりません。精神とは、自らの諸相互作用や内在性を覚えている物質のことです。

おのおの人間の身体においても事情は同じです。*身体はその質料においてはたえず変換しつづけ、それが現実的で正確な統一を持つのは、ただその差異、つまりその「視点」によってのみであり、その「視点」自体はその「形相」によって、いわば自らに及ぶ諸作用(私たちが相互作用と呼ぶもの)を集積する能力によって決定されているのです。

いかなるモナドも自己の鏡のなかに世界の全体を持ちはしません『モナトロジー』さもなくば、そのモナドは他のものと識別不可能となるでしょう。

 

 

3

意識的な知覚の「瞬間」は、実際には振動からなる持続の分割不能な一つのかまたまりなのですが、そのような「瞬間」において、「記憶は莫大な数の震動を凝縮しており、それらは継起的であるにもかかわらず、私たちにはすべていっしょに現われるのである」(『物質と記憶』)

人間の眼は瞬間ごとに、おのおのその震動そのものであることになるでしょう。それは「純粋な」もしくは「裸の」質点であることになるでしょう。

 

 

4

もし私たちが、本来私たちの意識の外に出てある振動、いわば「質点」としてのみ私たちを規定する振動(多くの放射線がそうである)を、自分たちにとって獲得しうるやり方で記憶することのできるインターフェースを意のままにしうるのであれば、そのとき、私たちは自分たちの差異化の力と記憶を拡張し、いまだ制御されていない反応を遅延させ、自分たちの物質的自由を増大させます。

プラグマティズムは、その名が指し示しているように、ヒューマニズムの数多くの解釈のなかの一つです。それが前提とする人間の主体はたしかに物質的であり、ある環境にはめ込まれており、行為に向けられています。

理論的、実践的な諸変換装置の複雑化は、つねにその効果として、人間の主体の環境への適合を不安定なものにしてきました。そして、この複雑化はそうした適合をつねに同じ方向に変容させます。つまりこの複雑化は、反応を遅らせ、可能な応答を増やし、物質的自由を増大させるのであり、そしてこの意味において、人間にもどんな生物にも書き込まれている安全性への要求をただ失望させるだけかもしれません。

そうした要求は休息と安心と同一性を欲し、一方、欲望はそれらを必要とせず、いかなる成功も欲望の気に入るものとはならず、欲望を止めもしません。

唯物論的な精神が援用することができるのは、デモクリトスやルクレティウスのように、偶然性と必然性だけなのです。物質は弁証法を行なうものではありません。

つまり、人間は宇宙の中心にいるのではなく(コペルニクス)、人間は生物の最初のものではなく(ダーウィン)、人間は意味の主人ではない(フロイト自身)。現代の科学技術によって人間が学んだことは、人間は精神、いわば複雑化を占有しているのではないということであり、かといって、この複雑化は物質のうちに運命として書き込まれているわけでもなく、複雑化は物質において可能なのであり、まさに人間に先んじて、いきあたりばったりではあるがはっきりと生じたということです。

また人間が学んだことは、このようにして人間か自らを起源としても帰結としても見なすべきではなく、自らを一つの変換装着として見なすへきであるということであり、その変換装置は、その科学技術、芸術、経済発展、文化によって、そしてそれらが含む新しい記憶保存によって、宇宙における複雑性に対して確実に追加を行なっていくのです。

われわれの努力のなかで物質は自らの想起を行なうのです。

 

 

4 ロゴスとテクネー、あるいは電信〔遠隔書記法〕

1 技術とは、科学というある目的のための一手段でなはないし、これまでも決してそうではなかった。

 

 

3 新テクノロジーは公共空間と共通の時間を侵略しており(「文化的な」生産と消費を含んだ、産業的な生産と消費という形態でそれらを侵略しており)、しかもそれは全地球的規模にまでなっている。それゆえ、たとえばもっとも「私的な」時空間が、そのもっとも「基礎的な」綜合においてさえ、テクノロジーの現状にせめたてられ、悩まされ、おそらく変容させられている。

あらゆる技術は意味の「客体化」つまり空間化であり、そのモデルは、言葉の通常の意味において、書くこと(エクリチュール)自身によって与えられます。そして書き込み、跡を残すことは、一方で、それが「読解可能」(お望みであるならば、コード解読可能といってもいいですが)であるゆえに、公共的な意味空間を開き、使用者=生産者共同体を生みだし、また一方で(?)、空間的な支持体上へのその刻印によって永遠性を与えられているがゆえに、過ぎ去った出来事の徴候を保持し、あるいはむしろその徴候を、意のままにすることができ、呈示可能で、再現実化可能な記憶として生産するのです。

 

 

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疎通 = 習慣と違って、記憶把持の綜合は、現前するものとして現在において過去を保持することだけでなく、過去そのものとして綜合し、(意識の)現在における過去として過去を再現前化することも含意しています。記憶把持は、把持されたものを同定すること、および暦と地図の上にそれを分類し位置づけることを含意しているのです。
 カントは覚知と再生産の綜合だけでなく、再認の綜合についても語っていました。ベルクソンは、刺激にたいする反応における遅れだけでなく、またこの反応を潜勢的なものとして宙吊りにし留保することーーつまり習慣ーーだけでなく、この反応が現在の状況によって促されていないときでさえ、この抑制された反応が差し止められていることについて語っていました。そのことは、どちらの記述においても、現在の場所と時間から独立して、作用-反作用の総体を自己自身の上に書き込み、保持し、自由に処理可能なものにするメタ審級の介入を含意しています。それゆえそれはすでに遠隔書記法なのです。それはカントにあっては概念であり、ベルクソンにあっては意識=大脳皮質です。それは厳密な意味で音声学的なその二重の分設化によって特徴づけられる人間の言語活動です。

単なる疎通と違って、記憶=言語は、習慣の未知の諸特性を含意しています。つまり、それらの特性とは、記憶=言語がとどめているものを(その象徴的転写のおかげで)外示すること、回帰性(記号の組み合わせが、その単純な生成の規則つまりその「文法」からして無限であること)、そして自己言及性(言語活動としての言語学の方が言語の技術性のもっとも間近に迫っています。というのも、テクネーとは、生みだすこと、生成させることを意味するティクトーから派生した抽象物だからです。

私たちの惑星上の生命の歴史は、一般的な意味での技術の歴史と同一視はできません。なぜなら、生命の歴史は、記憶把持によってではなく疎通によって進行したからです。

それゆえ言語活動がそれ自身のうちに無限の組合わせ能力をもっているがゆえに、自らの書き込みを含めてどんな書き込みにも存在する有限なところを同時に露わにします。書き込みは、実際、書き込まれるものの選別を要求するのです。言語構造自身が、音素的、意味論的、神話的、物語的などの、あらゆるレベルで、排他的操作子なのです。

そして、それによって彼らは、「言うべきこと」の無限の地平、つまり新しい文と規則を生みだす無限の課題を発見しているのです。その課題こそ、当時哲学という奇妙な語で呼ばれていたものです。

しかしこの審級は公共の空間においてはほぼ制度に近いものとして現われ、それが生じる場である諸習慣の文化を外示的に捉えて、それを疑問に付すのです。

こうして、未知なるものの征服の過程、伝統的な文化経験を越えた実験の過程、疎通から受け取られたテクノロゴスの複雑化の過程としして、科学が、もろもろの科学が生まれるのです。その過程こそ、私が走査と呼ぶものにほかなりません。

まさに外示的なものとしてその過程が、私たちが探求や発展と呼ぶものにおいて制度として現われるに至ります。現代の科学技術(テクノ・サイエンス」は、数世紀もの間のはっきりとしない形成を経た後、そこから直接発現してきたものです。しかし今私たちは、不可逆に「それが起こった」ということを知っています。

明らかなことは、現状における科学技術とともに、私が冒頭で述べたような「系列化」の力、綜合の能力こそが、地球という惑星上で作動しているのです。新しい複雑性の高みへと昇るためには、遠隔書記法的になるためには、なおも生物-文化的な種にすぎないという意味で、人間という種は自らを「脱人間化」しさえしなければなりません。科学技術によって提起されている倫理上の諸問題は、ここにおいては、問いがすでに提起されていることを証言するためのものです。

 

 

3

エネルギーの消費なしには疎通も走査もありせん。通過が確実に他の技術よりも多くの力を消費するのは、それが規則を欠いた技術、あるいは否定的な規則つまり脱規則化に従う技術であるからです。つまり通過とは、もし可能であるならば、装置の不在以外のいかなる装置ももたない生成性なのです。

一般的に言えば、重要なのはまさしく、綜合を越えていくことです。
 あるいは、お望みならば、重要なのは忘れられたものを思い出すことを越えていくことである、と言ってもいいでしょう。

それはある忘れられた書き込みではありせん。その現前は、書き込みの支持体の上に、反射する鏡の中に、場所も時も持ちません。その現前は疎通からも走査からも知られないままとどまるのです。

「最初の」や「第二の」という用語は厄介なものです。それらの用語は明鏡を鏡と同質なものにしてしまいます。

精神分析医にとってテクノロジーとは、第三の耳をそばだて、(残りの二つの耳をふさぐことによって)他の二つの耳から予め書き込まれているものすべてを取り除き、どんなレベルであれ、つまり論理的修辞的なレベルである、さらには言語的レベルであれ、すでに確立されている綜合を放棄することであり、して通過するものつまりシニフィアンに属するものが、たとえそれほど不条理に思われたとしても、自由に浮遊するよう働くにまかせることです。

通過は、新しい諸テクノロジーを特徴づける書き込みと記憶化の新しい様態とともに可能となり、将来的可能になるのでしょうか。

しかしまさにそのことによって、それらのテクノロジーはまた、私たちの相起的抵抗を鋭敏にする手助けとはなっていないでしょうか。


5 今日、時間とは

1

現前との関係では、ある出現の時間を現在として、ただ現在としてのみ想像しなければなりません。こうした現在は、そのものとして把捉できないものであり、それは絶対的なものです。それは他のもろもろの現在と〈直接的に〉綜合されえないものです。それが関係づけられうるもろもろの現在は、必然的にして直ちに、現前した現在、すなわち過去に変えられてしまうのです。
 現前化の時間を注釈して、「それぞれの」文はそれぞれの時間に出現すると結論するとき、ひとは現在が過去へと不可的に変換されることを忘れ、同じ理由からあらゆる瞬間を唯一かつ同一の通時的な直前上に位置づけることになります。


「今」が絶対的であるという事実によって、「今」が現前させる現在は把捉不可能です。それは「いまだなお」、あるいは「もはやすでに」現在ではないのです。現前化そのものを把捉してそれを現前化するには、つねに早すぎるか遅すぎるのです。出来事の特殊で逆説的な構成とはそういうものです。何かが到来するということ、つまり出現が意味することは、精神が所有権を剥奪されているということです。「〜が到来する」という表現は、自己による自己の非支配の定式そのものです。出来事は、己れが何であるかを自己が所有し制御することを不可能にします。出来事は、自己が本質的に、回帰する他性を感受する存在である、ということを証言しています。

 

 

2

*意識は、その語が示唆しているように、基本的な「過去把持」というフッサール的な意味で、記憶を伴います。意識は、綜合を不連続性に対置することで、他性に挑戦するものそのものであるかのように思われます。この衝突において賭けられているものは、意識が瞬間の(今日の言い方では、『情報』の)多様性を包摂し、必要となる「その度に」それらを現実化することができる諸限界を確定することです。

いくつかの理由から、情報の多様性を綜合する能力に対して二つの極限的な限界を、つまり一つは最小、もう一つは最大の限界を想定することができます。

現代の物理学は、時間が物資そのものから流出するものだと考える傾向にあり、異なる諸時間を一つの普遍的な歴史として集めることを機能とするような宇宙に対して、時間は外在的なあるいは内在的な実体ではない、と考える傾向にあるのです。

 

 

3

すべては同じ目的に向かって収斂するように思われます。すなわち、地上以外の生存条件に身体を適合させること、あるいは身体を別の「身体」に置き換えることです。

より正確には、*物語とは、時間的なフィルターのようなものであり、そのフィルターの機能は、出来事に結びつけられている情動的な負荷を、最終的には意味のような何ものかを生みだすことができる一連の情報単位に変換することです。

「ポストモダン」の文化は局地的で単独的な経験を廃棄しようとする傾向があり、粗雑なステレオタイプで精神を打ちのべ、反省や教育のためにいかなる余地も残しておかないように思われます。
 新しい文化が、一般化と破壊という非常に分岐した効果を生みだすことができるのは、その文化がその目的によってもその起源によっても人間の領域には属していないらしいからです。テクノ・サイエンスのシステムの発展が明らかに示しているように、テクノロジーとそれに結びついた文化は、必然的にその飛躍的発展を追及せざるをえず、この必然性は、人類が宿る宇宙の圏域で生じた(負-エントロピーの)複雑化の過程に関係づけられねばなりません。人間という種は新しい諸条件に適応しなければならないのです。人類の歴史において事態はずっとこのようなものであった、とおそらく言えるでしょう。そしてもし今日私たちがそのことに気づくことができるとすれば、それは現在、科学や技術に影響を及ぼしている指数関数的な経済成長のおかげなのです。
 地球上に広がるエレクトロニクスとコンピュータのネットワークは、伝統文化の記憶能力と共通の尺度をもたず、宇宙的な規模で見積もらねばならないグローバルな記憶能力を誕生させています。この記憶が含み持つパラドックスは、それが最終的には誰の記憶でもないということにあります。

コンピュータはつねにより多くの時間(「度」)を綜合することができるようになるので、人類自体がかつてありえた以上にずっと「完全な」モナドを生みだしつつある、とライプニッツがこの過程について語ることもできたでしょう。

人間という種は、まったくありそうにない複雑化の過程における一時的な乗り物であったことになるでしょう。脱出は早くもすでにプログラムされています。成功する唯一のチャンスは、自らに挑んでくる複雑性にその種が適応することです。

 

 

4

結果として、モナドが完全であればあるほど、それに付随する出来事はそれだけいっそう中性化されることになります。

情報で一杯にすることは、より多くの出来事を中性化させることです。すでに知られているものは、原理的に言って、出来事として経験されません。

「今」の「後」に生起するものは、「今」の「前」にやって来なければならないでしょう。

しかしながら、時間はそこから出発して、つねに未来の「いまだなお」と過去の「もはやすでに」のあいだに配分されなければならないのですが。

「現実の時間」とは、貨幣の形態で保存された時間が現実化する瞬間にすぎません。

近代の物語は確かに、儀式的な態度よりは政治的な態度をもたらします。

神話とは違って、近代のプロジェクトは確かに、自らの正当性を過去ではなく未来に基礎づけています。

 

 

5

1 ハイデガーが「組立」Gestellと名づけるテクノ・サイエンスの装置は実際、彼が書いているように、形而上学を「成就」させます。根拠律という理性の原理は、「物理学」の領域のなかに理性を局限しますが、それがなされるのは、世界のあらゆる出来事がある原因の結果として説明されねばならず、そうして理性とはそうした原因(あるいは「根拠」)を決定することにある、つまり所与を合理化し未来を中性化することにある、という形而上学的な公準によってです。

精神、そして魂さえも、あたかもそれらが物理的な過程におけるインターフェイスであるかのように研究されています。かくして、コンピュータは、いくつかの心的作用のシミュラクルを提供しはじめるのです。

 

 

2 資本は経済的社会的現象ではありません。それは、理性の原理が人間の諸関係に投げかける影です。コミュニケーションを行なうこと、時間と金を節約すること、出来事を制御し予告すること、交換を増大させること、このような諸処方はすべて、「大きなモナド」を拡張し強化するのに適したものです。「認識的」言説がその他のジャンルの言説にたいしてヘゲモニーを獲得したこと、「詩的なもの」がだんだんと注意に値しなくなっていくように思われるのにたいして、日常言語においてプラグマティックで相関関係的な側面が前面に出てくること、ーー現代の言語状況のこれらの特徴はおしなべて、交換の単なる一つの様相の諸結果として、つまり経済的歴史的な科学が「資本主義」と呼ぶそのたんなる様相の諸結果としては使えないでしょう。それらは、言語の新しい使用が登場していることの徴候であり、そこで問題となっているのは、諸対象をできるかぎり正確に認識し、科学的共同体において支配的であると見なされていると同じくらい幅広い共通認識を、それらが対象の主体に、つまり通常の発話者のあいだに実現することです。
 認識に関しては、あらゆる対象はそれに適していますが、それは次の二重の条件においてのことです。まず、その諸規則と用語が曖昧さを最低限におさえて伝達されうる論理的かつ数学的に確固とした語彙と統辞法においてこの対象に言及できること。そして次に、そうして形成される諸命題が指示する諸対象の実在性についての何らかの証明が、その対象との関係において関与的であると判断される感覚的データを公開することで、提出されること。

少なくともこのかぎりにおいて、認識の諸手段は生産の手段となり、そして資本は、認識的な言語の領域にまで到達し複雑性を現実化するための、唯一のものでないにせよ、最も強力な装置として現われます。*資本は実在性の認識を支配するのではなく、認識に実在性を付与するのです。

むしろそれは、人間という種が住みついている宇宙圏域を「加工する)travaillerように見える負エントロピーの過程にあるのです。

 

 

3 今日、思考は合理化の過程への協力を要請されているように思われます。その他のあらゆる思考方法は、非合理化なものとして、断罪され隔離され排斥されます。
 

 

「形而上学を超克すること」

言語活動とは、実在についてのもっとも正確な認証を精神にあたえ、その転換をできるかぎり制御するようにとくに差し向けられた道具なのでしょうか。そのとき哲学者の真の任務は、純粋で一義的な象徴言語を構築することによって、自然言語が有している一貫性のなさを科学が免れるのを助けることにあります。

結局、合理性は、認識的なものも含めて大部分の言語活動において存在する、開かれた感受性と制御されていない創造性に参与することをもし否定するならば、その名に値しません。

いずれにせよ確かなことは、諸科学の論証的共同体から取り入れていると表明される共通認識のモデル、そして人間社会に理想として提唱される共通認識のモデルは、言語が潜在的に有している言説ジャンルの多様性にたいして、どれほどこの「合理性」がヘゲモニーを握っているかを証言しているということです。

 

 

4 思考が思考する準備をしていなかったものを受け入れる能力があること、それこそ思考行為と呼ぶべきものです。

しかしながら、もし思考することがまさに出来事を受け入れることにあるのであれば、思考していると主張すれば必ず、時間を制御する手続きに直面する抵抗の位置に事実上いることになる、ということを決して忘れてはなりません。
 思考することは、思考や問いや過程も含めて、すべてのことを問うことです。さて、問うこととは、その理由がいまだ知られていない何かが到来することを必要とします。思考するとき、出現をそれがあるままに、つまり「いまだなお」決定されていないものとして、受け入れるのです。

時間がまさに生まれでようとするその深淵について証言することなしに、書くことはできないのです。

記録することあるいは過去志向することは、精神の能力でもないし、到来するものへの接近可能性ですらありません。そうではなくて、それは、出来事における、精神とは別な のもので「時おり」到来する何ものかの把捉不可能で否定不可能な「現前」なのです。

 

 

5 しかしながら、プラトン以降、芸術=技術あるいは詩作は整形、つまり「プラティン」〔形作ること〕として考えており、それは、政治家がそれによって、しかじかの形而上学的な理想に沿って共同体を形作ろうとする主要な様態でした。

政治の問題とは、人間の共同体を形作るために、善のモデルである良きモデルを遵守することにしかありせん。

ナチズムはいわばこの関係を転倒させたのです。明らかに、そこで政治の代わりをするのは「芸術=技術」です。

 

 

6 さて、思想や言葉の交換、それらの販売と購入は、矛盾したかたちで、いかに書くべきか、いかに思考するべきか、という問題の「最終的な解決」に寄与せずにはおきません。

今日、公共空間は文化財の市場に姿を変えており、そこでは「新しいもの」は、剰余価値の付加的な源泉となってしまっているのです。


6 瞬間、ニューマン

天使

次のように時間を区別しなければなりません。タブロー〔枠張りされた絵画〕を描くの画家に必要な時間(「生産」の時間)と、この作品を鑑賞し理解するのに必要な時間(「消費」の時間)と、作品が指示している時間(ある瞬間、ある場面、ある状況、一連の出来事、つまり、物語内容の指示対象の時間であり、タブローによって語られる歴史=物語の時間)と、作品がその「創造」から鑑賞者にまで到達するのにかかった時間(流通の時間)と、そして最後に、おそらく作品がそれ自体〈である〉時間とに。

つまり時間とはタブローそれ自体である、という答えを与えているということです。

ニューマンのタブローは、持続が意識を超えていることを見せることを目的としているのではなく、それ自身が出現であり、到来する瞬間であることを目的としています。

ニューマンのタブロー、それは天使です。それは何も告げません。それは告知そのものなのです。デュシャンの大作で造形的に問題とされているものは、視線(および精神)の裏をかくことです。なぜなら彼は、時間がいかにして意識の裏をかくのかを類比的に表現しようとと努めているからです。しかしニューマンは現前しえない告知を表現するのではなく、その告知をして自らを現前するがままにするのです。

それは、〈そこにある〉という感情です。それゆえ、そこには「消費する」べきものはほとんど何もありません。あるいは何だかわからないものがあるのです。ひとが消費するのは出現ではなく、ただその意味だけです。瞬間を感覚することは瞬間的なことなのです。

 

 

責務

眼は〈見抜くように〉という体制のもとで探索するのです。

というのも、責務とは空間よりも時間の様態であり、その器官は眼よりも耳だからです。

 

 

「主題」

ニューマンにおける創造は、何者かの行為ではなく、非決定性のただ中で(そのことが)到来するということなのです。

 

 

崇高なもの

現前とは、歴史のカオスを中断する瞬間であり、存在するもののあらゆる意味作用に先立ち「存在する」ことのみを呼び戻す、あるいはよびだす瞬間です。

 

 

7 崇高と前衛

1 ニューマンは、自分のタブローにおいて彼が専念しているのは、「空間の操作でもイメージでもなく、時間の感覚」であると書いています。だからといって、つねづね絵画の主題であった、ノスタルジーの感情や大がかりな悲劇の感情やもろもろの連想や歴史=物語で覆われた時間が問題なのではない、と彼は付け加えています。

ニューマンの〈今〉、端的な〈今〉、それは意識には未知のものであり、意識によっては構成不可能なものです。それはむしろ意識を作動不能にし意識の権限を奪うものであり、意識がうまく思考できないものであり、意識が自らを構成するために忘れ去ってしまうものでさえあるのです。私たちがうまく思考できないもの、それは何かが到来する、ということです。

到来するということは、到来するところのものに関わる問いに、いわばつねに「先立つ」のです。あるいはむしろ、問いがそれ自身に先立つのです。というのも、「到来すること」、それは出来事としての問いであり、「その後で」問いは到来したばかりの出来事に関わるからです。

思考はそこでは受け入れられているものにたいして行使され、それを反省し乗り越えるべく努めます。思考は、すでに思考されたもの、書かれたもの、描かれたもの、社会化されたものを規定して、そうなされたものを規定しようと努めます。私たちはそのことを認識しています。

デリダの言うように、問いはあらゆる音調に転調されえます。しかし疑問符は、何も到来しないかもしれないという感情として、つまり今の虚無として、「今」now あるのです。

絵画芸術に限定すれば、いまだ決定されていないもの、到来することは、色彩であり、タブローです。色彩、タブローは、出現、出来事として、表現可能なものではなく、それはまさに絵画芸術が証言すべきものなのです。

おそらくロマン主義と「近代の」前衛主義の間にある差異のすべてはこの位置移動にありますが、この位置移動に忠実であるたむには、《The Sublime is Now》を、〈崇高なものはいまある〉、と訳すのではなく、〈崇高なもの、それは今である〉と訳さなければならないでしょう。それは他の場所ではなく、高みでも、奈落でもなく、より早くでも、より遅くでもなく、かつてでもありません。

物事を把握する知性を放棄すること。知性の武装解除、絵画のこうした出現が必然的なものでも予測可能なものでもなかったという告白、〈到来するのか?〉を前にした欠乏、あらゆる防御、図解あるいは注釈「以前に」出現を見守ること、注意を払い見つめる「以前に」、今nowの庇護のもとに見守ること、それこそが前衛の厳格さです。

 

 

2

芸術は自然を模倣するのではなく、パウル・クレーなら中間世界Zwischenweltと言い、平行世界Nebenweltと言うこともできるであろう、別の世界を創造するのであり、そこでは、怪物的なものや不定形なものは、それらが崇高なものでありうるがゆえにそれなりの権利を有しているのです。

いずれにせよ崇高の観念は、芸術についての反省が本質的に対象にするのは、天才の孤独に委ねられる作品の送り手ではもはやなくて、その受け手である、ということを説明しています。以後なすべきとは、受け手を触発する手段、受け手が作品を享受し経験する手段、作品を判断する方法を分析することです。

もはや問題は、いかにして芸術をつくるのかではなく、芸術を経験するとはどういうことなのかです。ところが、非決定性は、この後者の問いの分析の中にまで回帰してくるのです。

 

 

3

崇高の感情ははるかに無規定であって、苦しみの混ざった快、苦しみから生じる快です。

その観念は、理性の〈理念〉のように、ただ考えられうるのみで、感性的な直観を欠いたままにとどまらなければなりません。呈示の能力、つまり構想力は、このような〈理念〉にふさわしい表象を与えることができません。

構想力の無力さは、構想力が見せられえないものまでも見せようと努め、そうすることで自らの対象を理性の対象と調和させようとめざしている、ということを反対推論によって証言しています。そして同時に一方では、イメージの非十全さは、〈理念〉の無限の力能の否定的なしるしであることを証言しています。諸能力間のそうした不調和状態が、美の静謐な感情とは異なる崇高のパトスを特徴づける極限的な緊張(カントの言うところの動揺作用Agitation)を引き起こすのです。断絶の極限においては、〈理念〉の無限、あるいは〈理念〉の絶対は、カントが否定的現前あるいは非現前とさえ名づけたもののうちに再認されうるでしょう。

ほとんど無にまで縮減された眼の快は、無限を際限なく考えさせるのです。

苦しい状況と無視意識に結びついている表象の手段をただ介するだけで、あたかも身体が外部からやってくる苦痛を感じているかのように、魂も身体に作用しうるのです。全く精神的なこの情念は、バークの用語においては、恐怖と呼ばれています。さて、もろもろの恐怖はもろもろの喪失に結びついています。

しかしもし芸術の目標が、作品の受け手に強い感情を体験させることであるならば、イメージによる形象化は感情的な表現のもろもろの可能性を制限する拘束となります。

言葉はそれ自身、情念上の連想で満たされており、可視的なものを考慮せずに魂に属するものを喚起することができます。最後に、バークは次のように付け加えています。「私たちは言葉によって、他の方法では到底実現すべくもないような結合を生み出す能力を獲得する。」

とりわけ衝撃とは、何もないのではなく(何ものがが)〈到来する〉こと、宙吊りにされた喪失です。

芸術家は、出来事を可能にするもろもろの組み合わせを試みます。

芸術愛好家は作品から、自分の感情と着想の能力の強化を期待するのであり、両義的な享楽を期待するのです。作品はモデルに従うのではなく、現前しないものがあるということを現前させようと試みます。作品は自然を模倣するのではなく、人工物であり、シミュラクルです。社会共同体は作品のなかに自らを認めず、作品を無視し、理解できないものとして作品を拒絶します。

 

 

4

前衛は「主題」に到来するものにではなく、〈到来するのか?〉に、つまり窮乏に専念するのです。

前衛芸術は、受け手の共同体との関係において作品がそれまで果たしていた同一化の役割を放棄します。

ところで、情報は定義上短命な要素です。情報は、伝達され共有されるやいなや、情報であることをやめ、状況についての一つのデータとなるのであり、「すべてはすでに言われ」、つまりみんな「知っている」のです。

情報が占めている持続は、いわば瞬間的なものです。二つの情報のあいだには、定義上何も起こりません。

すなわち、到来しているものつまり新しいものと、〈到来するのか?〉、つまり今 nowとの間の混同がありうることとなるのです。

もしこう言うことができるならば、「有力な」情報は、受け手が意のままにできるコードにおいてその情報に付与されうる意味作用に反比例します。それは「ノイズ」に似ています。

ひとはキッチュやバロックをめざすことさえもできます。ひとは趣味を持つこともない大衆の「趣味」に媚び、自由にできる形態や対象の増加によって弱められた感性の折衷主義に媚びるのです。このようにひとは、時代精神を表現していると思いこみますが、市場の精神を反映させているにすぎません。*崇高性はもはや芸術においてではなく、芸術についての思索のなかにあるのです。

前衛の責務は、依然として時間にたいする精神の思い上がりを解体することにあります。崇高の感情とは、この窮乏の名なのです。

 

『非人間的なもの 時間についての講話』ジャン=フランソワ リオタール/著、篠原 資明 上村 博・平芳 幸浩 /訳