変化と継起 | 小動物とエクリ

変化と継起

 

 

 

B 第二の類推 原因性の法則にしたがう時間的継起の原則

あらゆる変化は、原因と結果を結合する法則にしたがって生起する。

時間的に継起するあらゆる現象はすべて変化にすぎず、すなわちそこで持続性している実体の規定が、継起的に存在し、また存在しなくなることにすぎない。

ことばをかえれば、実体そのものが生起したり消滅したりすることはありえない。

この原則はまた、つぎのように表現することもできたであろう。「現象におけるあらゆる変移(継起)は変化にすぎない」。

私たちが関係しているのは、それでもひたすらじぶんの表象なのであって、物自体そのものが(物自体が、それをとおして私たちを触発する表象を考慮せずに)どのようなものであるのかは、私たちの認識の領域のまったく外部にあるからである。

ここではーー認識と客観との一致が真理なのだからーーただ経験的な真理の形式的条件のみが問われうるのであり、現実が、覚知される表象との対立関係においてそれらの表象とは区別された表象の客観とみなされうるのは、その現象が一定の規則のもとに立つ場合だけなのであって、その規則こそが問題の現象を他のすべての覚知から区別し、しかも多様なものがそのように結合されるしかたを必然的なものとするのである。現象にあって、覚知のこうした必然的規則の条件をふくむものが客観なのだ。

こうしてできごとは条件づけられたものであるかぎりでは、なんらかの条件を確実に指示することになり、その条件がしかもできごとを規定するしだいとなる。

私たちが、したがって、なにかが生起するのを経験する場合、当のなにかがひとつの規則こしたがってそれに継起するなにか或るものが先行していることを、そのさいつねに前提としている。その件を前提としなければ、客観にかんして、その客観が継起すると語ることはできないだろうからである。

数多くのできごとが先行する諸現象に一致しつ継起するのを知覚し、それらを比較することによってはじめて、私たちはある規定の発見にみちびかれる。その規則とは、なんらかのできごとがそれにしたがいつねになんらかの現象に継起するものである。そうすることではじめて、私たちは原因の概念をかたちづくるよう機縁づけられる、というのである。

原因という概念の普遍性と必然性は、その場合には捏造されたものにすぎず、真の普遍的な妥当性をもたないことになるだろう。

すなわち、私たちは経験にあってさえ、(それ以前には存在しなかった或るものがそこで生起するようなできごとの)継起を客観に帰属させ、その継起を私たちの覚知の主観的な継起から区別する。

そればかりか、もともとこうした強制によってこそ、客観における継起という表象がはじめて可能になるのである。
 私たちはじぶんのうちにさまざまな表象を有しており、またその表現を意識することもできる。この意識は、いっぽうそれがどれほどの範囲におよび、どれくらい厳密で精確であろうとそれでもなお表象であるにすぎず、つまりは、あれこれの時間関係において、私たちのこころを内的に規定するものにすぎない。私たちは、ところで、どのようにしてこれらの表象に対し一箇の客観を定立することになるのか。ことばをかえれば、〔こころの〕変容であるかぎりでそれらの表象が有する主観的な実在性を超えて、私のいまだ知らないたぐいの客観的実在性をそうした表象に対して付加するにいたるのだろうか。客観的意味は、(対象と名ざそうとしているものについての)他の表象との関係にあって存立することはできない。

逆にいえば、ただ時間関係における一定の順序が私たちの表象にとって必然的であることによってのみ、表象には客観的意味が分かちあたえられることになるのである。

現象の総合にあっては、つねに表象の多様なものがたがいに継起している。そのことをつうじては、ところでいかなる客観も表象されてはいない。

なにごとかが生起するのを私が知覚する場合、その表象のうちには第一に、なにかが先行していることがふくまれている。それというのも、現象はまさしくその先行するものとの関係で、じぶんの時間関係ーーすなわち、その現象が存在していなかった、先行する時間ののちに現実存在するという時間関係ーーを獲得するからである。だが、現象がこうした関係にあってじぶんの一定の時間的位置を獲得することができるのは、第二にひたすら先行する状態のうちで或るものが前提とされ、その或るものに、この現象がつねに、すなわち規則にしたがって継起することをつうじてである。ここからそもそもあきらかになることがある。第一に、私は系列を逆転させて、生起するものを、それにつづいて当の生起するものが継起するもののまえに置くことができない。第二に、先行する状態が定立されるなら、この特定のできごとは不可避的かつ必然的に継起する、ということである。こうして私たちの表象のもとに順序が生成し、その順序のなかで現前するものが(それが生成したものであるかぎりで)なんらかの先行する状態への指示を与えることになる。先行する状態は、与えられているこのできごとにとっていまだ規定されていない相関者ではある。とはいえ問題の相関者は、じぶんの帰結であるこのできごとに関係することでそれを規定し、そのできごとを時間系列のなかで必然的にじぶんと結合するのである。
 先行する時間が継起する時間を必然的に規定する(継起する時間に私が到達することができるのは、先行する時間をとおしてだけだからである。

時間系列の経験的表象にとって不可欠な法則は、過ぎ去った時間の現象が、それにつづく時間のうちにあるすべての現存在を規定すること、さらに過ぎ去った時間の現象がそれにつづく現象に対して時間のなかでその現存在を規定する、つまりある規則にしたがってそれを確定することがないかぎり、それにつづく現象はできごととしては生じないということである。その理由は、現象においてのみ、私たちは時間の連関におけるこうした連続性を経験的に認識することができるという点にある。
 あらゆる経験とその可能性には、悟性がぞくしている。くわえて悟性が経験のために遂行する第一のことがらは、対象の表象を明瞭にすることではない。悟性はむしろ、対象一般の表象を可能にするものなのである。
このことが生起するのはところで、継起した結果である現象のそれぞれに対してーーそれに先行する現象との関係でーー時間のうちでア・プリオリに規定された位置を悟性がみとめることによって、現象とその現存在とに時間の順序を転移することをつうじてのみである。現象がこの位置を欠いているのなら、現象は時間のすべての部分に対してア・プリオリにその位置を規定する時間そのものとは一致しないことになるだろう。

現象がたがいにその位置を時間そのもののうちで規定し、それらの位置を時間の順序のなかで必然的なものとしなければならない。すなわちそこで継起し、あるいは生起するものは、ひとつの普遍的な規則にしたがって、先行する状態にふくまれていたものに継起しなければならず、それにもとづいて現象の系列が生成するのである。

内的な直観の形式とは、いっさいの知覚がそのうちでそれぞれの位置をもたなければならないものだ。
 したがって、或るものが生起するとは、可能な経験にぞくするひとつの知覚である。この経験が現実的となるのは、私が現象を時間のうちでその位置にかんして規定されたもの、つまりある規則にしたがって知覚の連関のなかにつねに見いだしうる客観とみなす場合なのである。いっぽう或るものを時間の継起にしたがって規定するこの規則は、できごとがそのもとでつねに(すなわち必然的なしかたで)継起する条件が、先行するもののうちで見いだされなければならない、とするものである。かくして、充足理由律が可能な経験の根拠である。ことばをかえれば、時間継起の系列における現象の関係にかんして現象を客観的に認識するための根拠なのである。

すべての経験的認識には構想力による多様なものの総合がぞくしており、その総合はいつでも継起的である。

しかし、この総合が(与えられた現象の多様なものについての)覚知の総合であるとすれば、順序は客観において規定されている。
あるいは、より正確に語るなら、客観を規定する継起的な総合の順序が客観のうちに存在し、この順序にしたがって、或るものが必然的に先行することになるのであって、この先行するものが定立されれば、他のものが必然的に継起しなければならなくなるのである。

その判断にあって思考されるのは、結果が規定されている、つまり結果が時間という点で或るほかの現象を前提とし、その現象に必然的に、すなわちひとつの規則にしたがって継起するというしだいなのである。

グラスはーー水とグラスというふたつの現象が同時に存在しているにしてもーー水がその水平面を上昇させる原因である。私がより大きな容器からグラスで水をすくい上げると、ただちになにごとかが結果するからである。つまり、容器でたもたれていた水平状態がグラスのなかでは凸状を呈するという変化が生じるのである。

はたらきはすでに、原因性の主体が有する結果への関係を意味する。ところで、すべての結果はそこで生起するもののうちでなりたち、かくしてまた、時間が継起にしたがってしるしづける変化しうるもののなかでなりたっている。だからこそ変化するものの最終的な主体は、変移するものいっさいの基体である持続するもの、つまりは実体なのである。

いまや、はたらきは充分な経験的判断基準として実体性を証明しており、知覚は比較することをつうじてはじめて、実体の持続性を探りあてるといったことは不要となるのである。

生成は、こうしてたんなる変化であって、無からの発生ではない。

もっとも、私がすべての事物を現象ではなく物自体と考え、それをたんなる悟性の対象と考えるのなら、それらの事物はーー実体であるにせよ、それでもーーその現存在にかんして異質な原因に依存しているとみなすことができる。

ところで、一般に或るものは、どのようにして変化させられることができるだろうか。ある時点のある状態に対して、他の時点の対立する状態が継起することは、いかにして可能なのだろうか。

かくて、或る状態から他の状態への移行はすべて、ふたつの瞬間のあいだにふくまれている時間のうちで生起する。そのさい最初の瞬間は事物がそこから出発する状態を規定し、第二の瞬間は事物がそこへと到達する状態を規定している。ふたつの瞬間は、だから変化の有する時間の境界、かくてまたふたつの状態のあいだにある中間状態が有する時間の境界であり、そのようなものとして変化の全体にわたってその原因性を証示している。

いっさいの変化は、かくて原因性の連続的なはたらきをつうじてのみ可能であり、そのはたらきは、それが一様である場合にはモーメントと呼ばれる。このようなモーメントから変化がなりたつのではない。変化は、こうしたモーメントをつうじてその結果として産出されるのである。

当の法則の基礎となるのは、時間も時間のなかにある現象も、最小であるような部分から成立するのではないけれども、それでも事物の状態はその変化にさいして、要素であるこれらのすべての部分をつうじて、第二の状態へと移行するということである。

経験的認識のあらゆる増大、さらには知覚のどのような進歩も、内官の規定を拡張するものにほかならない。すなわち、その対象がなんであろうとーー現象であれ純粋直観であれーー、時間における進展にほかならないのである。時間における進展はいっさいを規定するけれども、それ自体そのものとしては、なにものによってもはや規定されることがない。

時間はこのように、現実存在するものが継起して存在するものへと連続的に進行することを可能とする、ア・プリオリな感性的条件をふくんでいるのとちょうどおなじように、悟性は統覚の統一を介して、この時間のうちにある現象に対してすべての位置を連続的に規定することを可能とする、ア・プリオリな条件である。

原因は結果の現存在を避けがたく引きおこし、そのことをとおして時間関係の経験的認識をそれぞれの時間に対して(普遍的に)、かくてまた客観的に妥当させるのである。

 

 

C 第三の類推 交互作用あるいは相互性の法則にしたがう、同時存在の原則

あらゆる実体は、空間のうちで同時的なものとして知覚されうるかぎり、一貫した交互作用のうちにある。

 

 

証明

事物が同時に存在しているのは、経験的直観にあって或るものの知覚が他のものの知覚と交互に継起しうる場合である。

私はまず月を知覚し、そのあとで地球を知覚することも、あるいは逆にまず地球を知覚し、それから月を知覚することも可能である。そこで、これらの対象の知覚がたがいに交互的に継起しうるがゆえに、それらの対象は同時に現実存在している、と私は語ることになる。

これらの知覚のそれぞれについて、他の知覚が存在しないときには一方が主観のうちに現に存在し、また交互にその逆であるということだけであろう。だが客観が同時に存在すること、すなわち一方が存在するときに他方も同一の時間のうちに存在すること、すなわち一方が存在するときに他方も同一の時間のうちに存在すること、さらには知覚が交互的にたがいに継起しうるために、このことが必要であるしだいも示されはしないことだろう。かくて、知覚の交互的な継起は客観にもとづくものであると語ることができ、そのことをつうじて、同時存在を客観的なものとして表象しうるためには、なんらかの悟性概念が必要となる。

こうして、空間のなかにある諸実体の同時存在が経験において認識されうるのは、実体どうしのあいだで交互作用が前提とされる場合のほかにはない。交互作用という前提はしたがってまた、経験の対象である事物そのものを可能とする条件なのである。

 

 



すべての実体は同時的に存在するものであるかぎり、一貫した相互性(すなわち、たがいの交互作用)のうちにある。

諸事物は一箇同一の時間のうちに現実存在しているかぎり、同時に存在している。

それぞれの実体は(実体はその諸規定にかんしてのみ帰結でありうるのであるから)ほかの実体におけるなんらかの規定について、じぶんがその原因としてはたらいていることと同時に、みずからも他の実体が原因であることによる結果であるしだいを、自身のうちにふくんでいなければならない。つまり諸実体は(直接的にであれ間接的にであれ)力学的な相互性の関係のもとに立っていなければならないのである。

さらにさまざまな対象は、同時に現実存在しながら結合されて表象されねばならないかぎりで、その位置を時間のなかで交互的に規定しあって、そのことをとおして一箇の全体をかたちづくらざるをえないのである。もしもこの主観的な相互性が客観的根拠にもとづくべきものであり、あるいは実体として現象に関係づけられるべきものであるならば、一方の実体の知覚が根拠となって他方の知覚を可能にしなければならず、その逆でもなければならない。かくてつねに覚知としての知覚のうちにある継起は客観に帰せられることなく、むしろ客観は同時に現実存在するものとして表象されうることになる。このことはけれども交互的な影響であり、すなわち実体の実在的な相互性(相互作用 commecium)なのであって、この相互性がなければしたがって同時存在という経験的な関係は、経験のうちで生じることがありえないはこびとなるだろう。

いっさいのほかの関係がそこから派生してくるような力学的関係が、したがって三つある。内属の関係、帰結の関係、ならびに合成の関係が、それにほかならない。

こうして経験の三つの類推となる。

その三つの様態とは、量としての時間そのものへの関係(現存在の量すなわち持続)、系列としての時間のなかでの関係(継起的)、最後にまた、すべての現存在の総括としての時間のなかでの関係(同時的)である。時間規定のこの統一は、徹底して力学的なものである。

むしろ悟性の規則が、現象の現存在がそれによってのみ時間関係にしたがって総合的統一を獲得しうる当のものなのであり、その悟性の規則こそが、おのおのの現象に対して時間のうちのその位置を、かくてまたア・プリオリに、しかもすべての時間、それぞれの時間に妥当するように規定するのである。
 自然のもとに(経験的意味では)私たちは、現存在からみられた諸現象の連関を理解する。

それゆえ、自然をはじめて可能とするなんらかの法則、しかもア・プリオリな法則が存在する。

あらゆる現象はひとつの自然のうちにあり、またそのうちに存しなければならない。このア・プリオリな統一を欠くなら、経験のいかなる統一も、かくてまた経験における対象のどのような規定も不可能であろうからである。

「現実存在するものはすべて持続するもののうちにのみ見出される」

「それぞれのできごとは先行する状態のうちにある或るものを、つまり当のできごとがひとつの規則にしたがってそれに継起するなにごとかを前提とする」

「同時的である多様なもののあいだには、相互に関係のうちにある諸状態がひとつの規則にしたがって同時に存在す類推(相互性のうちにある)」

対象の表象が私たちにとって客観的実在性を有するべきであるならば、私たちにとってあらゆる対象は最終的に認識のうえて与えられることが可能でなければならないからである。

概念についても原則にかんしても、悟性の欠陥のすべてを発見し、また気づかせることになるのは、このカテゴリーの手引きだけなのだ。



相互性ががんらい共在という経験的な認識を可能とする根拠であって、ほんらいなら、この経験的認識からその条件であるあの相互性へっさかのぼって推論されるほかはないのである。

 

 

4 経験的思考一般の要請

1 経験の形式的条件(直観および概念にかんする)と一致するものは、可能的である。
2 経験の質料的条件(感覚)と関連するものは、現象的である。
3 現実的なものとこうした関連が、経験の普遍的条件にしたがって規定されているものは、必然的である(つまり必然的に現実存在する)。

 

 

解明

あらゆるカテゴリーはーーそれらがたんに論理的な意味を有するべきものではなく、つまりは思考の形式を分析的に表現すべぎものではなくーー、事物、ならびにその可能性、現実性、必然性と関与すべきものであるとするならば、それらのカテゴリーは、可能な経験とその総合的統一とにかかわらなければならないからである。認識の対象は可能な経験とその統一のうちでのみ与えられるからだ。

これらの概念が、知覚の関係をそれぞれの経験的においてア・プリオリに表現することによってのみ、したがってそれらの概念の客観的実在性が、つまりその超越論的真理が認識されうる。この認識はたしかに経験に依存していないとはいえ、経験一般の形式へのすべての関係ーーさらに対象がそこにおいてのみ経験的に認識されうる、総合的統一へのいっさいの関係ーーには依存せざるをえないのである。

実在性はひたすら経験の質料である感覚にかかわることができるだけであって、関係の形式には関与しないからだ。関係の形式とは、それをもってひたすら経験をもてあそぶことになりなかねないものなのである。

事物の現実性を認識するための要請は知覚、つまり意識されている感覚を要求する。

経験一般におけるあらゆる実在的な結合を示すものである経験の類推にしたがって、対象の現存在がなんらかの現実的な知覚と関連するしだいを要求するのである。

つまり、概念が知覚に先行するとは、概念がたんに可能であることを意味するけれども、概念に対して素材を提供する知覚がたほう、現実性の唯一の特徴である、ということである。

ところで、〔事物の〕現存在を間接的に証明しようとするこのような規則に対して強力に反論しようとするものが、観念論なのである。だから、それを論駁するのにここがふさわしい場所となるだろう。

 

 

観念論の論駁

観念的(ここでは実質的観念論を考えている)とは、私たちの外の空間中にある対象の現存在について、それをたんに疑わしく証明できないと説くか、あるいは虚偽で不可能であると説く理論のことである。

蓋然的観念的はこの点についてはなにごとも主張しない。それはたんに、直接的な経験によって、私たちの現存在の外部にあるものの現存在を証明することは不可能であると言いたてるものなのであり、合理的で、徹底した哲学的思考様式にかなっている。すなわち、充分な証明がみいだされないうちにはどのような決定的判断も許容しない、ということだ。必要とされる証明は、だから私たちが
外的な事物について経験をも手にしており、たんに想像を有しているのではないことを示すものでなければならない。この件を示すことができるのはおそらく、デカルトにとって疑いえないものであった私たちの内的な経験すら、外的な経験を前提とすることによってのみ可能となる、そのしだいを証明しうる場合にかぎられることだろう。

 

 

定理

私自身の現存在についてのたんなる意識、とはいえ経験的に規定された意識によって、私の外部にある空間中の対象の現存在が証明される。

 

 

証明

私は私の現存在を、時間のうちで規定されたものとして意識している。いっさいの時間規定は、知覚における持続する或るものを前提としている。この持続するものによって、はじめて規定されうるからである。したがって、この持続するものの知覚は私の外にある事物によってのみ可能となるのであり、私の外にある事物のたんなる表象をとおして可能となるものではない。かくて時間のうちにある私の現存在の規定はただ、私の外で私が知覚する、現実的な事物の現存在をとおしてだけ可能となるのである。

すなわち、私自身の現存在の意識は同時に、私の外部にある他の事物の現存在についての直接的な意識にほかならない。

註解1 ここで証明されたのは、外的な経験がほんらい直接的なのであって、その外的経験を介することによってのみ、たしかに私たち自身の現実存在の意識ではないにしても、時間のうちにあるその現実存在の規定、つまり内的な経験が可能となるということである。もちろん「私は存在する」という表象は、いっさいの思考にともなうことのできる意識を表現しており、ある主観の現実存在をみずからのうちに直接ふくんでいる。だが、それはなお主観のいかなる認識でもなく、かくてまた経験的認識、つまり経験でもない。経験となるためには、現実存在する或るものについての思考のほかにくわえて直観が、ここでは内的直観が必要だからである。この内的直観にかんして、すなわち時間について、主観は規定されなければならないのである。そのためには外的な対象がどうしても要求されるのであり、かくして内的経験そのものはたんに間接的に、つまり外的経験をとおしのみ可能であることになる。

外的事物の現存在についての直接的な意識は、右の定理にあって前提とされているのではない。むしろ、そうした意識の可能性を私たちが見とおしていようといまいと、証明されているのである。こうした意識の可能性について問われているのは、私たちが有するのは内官にかぎられていて、外官はまったくそなえておらず、たんなる外的な想像をもつにすぎないのか、ということだろう。

つまり感官に対して直観のうちで描きだすためだけにでも、私たちはすでに外官を有していなければならず、この外官によって直接に、外的直観のたんなる受容性を自発性ーーこの自発性があらゆる想像を特徴づけているのだーーから区別しなければならない、ということである。外官をただ想像するだけでも、想像力をつうじて規定されていると称する直観能力なるものは、じぶんを否定することになるだろうからである。

 

註解2

私という表象における私自身の意識はまったく直観ではない。思考する主観の自己活動についての、たんに知性的な表象である。したがってこの「私」はまた、持続するものとして、内官にあっての時間規定の相関者として役だちうるような、直観からえられるーーたとえば、不可入性が経験的直観としての物質において有しているようなーー述語をすこしも有してはいないのである。

 

 

註解3 外的対象の現実存在が、私たち自身についての規定された意識が可能となるために必要である。

そのような表象はけれどもたんに、以前の外的な知覚を再生することによって生じるのであり、当の外的知覚がひたすら外的対象の現実性によってのみ可能であることはすでに述べたところである。

経験と思いこまれているあれこれのものが、たんなる想像にすぎないものであるかどうか。この件については、その経験の特殊な規定にしたがい、あらゆる現実的経験の規順と関連させることで探られなければならないのである。



ところで、与えられたほかの現象を条件とすることで必然的なものとして認識されうる現存在は、与えられた原因から原因性の法則にしたがって生じた結果の現存在のほかにはありえない。したがって、事物(実体)の現存在ではなく事物の状態についてのみ、私たちはその必然性を認識することが可能なのである。

つまり、生起するいっさいは、現象のうちあるその原因によってア・プリオリに規定されているということである。こうして、私たちが認識するのはひたすら、その原因が私たちに与えられているかぎりでの自然における、結果の必然性なのである。

「生起するすべてのものは、仮言的に必然的である」。

「自然のなかではどのような必然性も方向をもたないものではなく、条件づけられた、かくてまた理解可能な必然性である」(運命なるものはない non datur fatum)は自然法則である。

悟性は、感性および統覚の主観的で形式的な条件にしたがって、経験一般に対してア・プリオリに規則を与えるだけであり、経験を可能にするのはそうした条件のみである。

悟性がかかわるのは、ひたすら、与えられたものの総合だけなのだ。

「いくつかの可能的なものは現実的である」

このしだいは、そもそも、「現実的ではない多くのものが可能的である」ということと同等なことがらを意味するように見える。

可能的なものにさらに付けくわえられるべきものなど、ありえないからである。私の悟性に対しては、経験の形式的な条件との一致ということを超えたなにかのみが、すなわちなんらかの知覚との結合だけが付けくわわることができる。

事物の可能性が経験の到達する以上の範囲におよびうるかどうかを知ろうとする場合には、しかしながら、可能性ををめぐる問題はあらゆる観点からとらえられることになるのである。

様相の原則が、ある概念について語るところは、それゆえ問題の概念がそれをつうじて産出される、認識能力のはたらきにほかならない。

様相の原則は事物一般についての私た知の概念を増大させることがなく、総じてどのようにして、その概念が認識する力とむすびつけられるかというそのしかたを示すにすぎないからである。

※事物の現実性によって、私はもちらん可能性以上のものを設定するけれど、しかしそれは事物のなかにではない。

 

 

原則の体系に対する一般的注解

つねに直観を手にして、直観において純粋悟性概念の客観的実在性を呈示しなければならないのである。

「すべての現存在のなかには、実体が、つまりただ主語として現実存在し、たんなる述語としては現実存在するこてのできないものがある」

変化とはところでそのものとしては、或る原因によってのみ可能となるできごとであり、だからその原因が存在しないこともそれじたい可能である。したがって、偶然性が認識されるのは、或るものがただ或る原因の結果としてだけ現実存在しうることからである。

運動を例とすることによってのみ、変化を直観化することができるのであって、変化の可能性は、どのような純粋悟性も把握することができないのである。変化とは、たがいに矛盾対立する規定が一箇同一の事物の現存在において結合していることである。

そしてその直観とは、或る点が空間のなかで運動することであって、点がさまざまな場所に(対立する諸規定が継起することとして)現存在することではじめて、私たちは変化を直観化するのである。

空間はすでにア・プリオリに、形式的な外的関係をうちにふくんでおり、この外的関係が、(作用と反作用、したがって相互性の)実在的関係を可能とする条件となるからである。

純粋悟性のいっさいの原則は、経験を可能にするア・プリオリな原理にすぎない。だから、あらゆるア・プリオリな総合的命題も経験の可能性にのみ関係している。


第三章 あらゆる対象一般をフェノメノンとヌーメノンに区別する根拠について

ひたすら経験的な使用にだけ従事し、じぶん自身の認識の源泉について熟慮もしない悟性であっても、たしかにかなり順調に歩をすすめることができるけれども、そのような悟性にはけっして成しとげることのできないことがらがひとつある。つまり、じぶん自身で悟性の使用の限界を規定し、みずからの全領圏の内部あるいは外部になにがありうるかをも知ることである。

私たちがただちに感性の条件にまで、かくしてまた現象の形式にまで降りたってゆかないなら、カテゴリーのどれひとつとして実在的に定義することができず、つまりはカテゴリーの客観の可能性を理解可能なものとすることもできない。カテゴリーは、したがって、その唯一の対象である現象に制限されなければならないのである。

*実在的説明とは、したがって或る概念を明瞭にするばかりでなく、その概念の客観的実在性をも同時に明瞭にするものということになるだろう。

「量とは、或るもののうちで一[単位]が何回定立されているかということで思考されうるような、当の或るものの規定である」



あらゆる感性的直観(これが私たちの有しうる唯一の直観にほかならない)が除去された場合には、こうした概念のすべてはなにをもってしても証明されることはできず、したがってその実在的可能性を示すことができない。

つまり概念(思考)が可能であるかどうかというだけである。問題は、しかし論理的可能性にあるのではない。概念が客観に関係し、かくしてなんらかのもの指示するかどうか、なのである。

つまり、カテゴリーは普遍的で感性的な条件を介することによってのみ一定の意義と、なんらかの対象への関係を有することがてきるのであって、けれどもこの条件が純粋なカテゴリーを除去されてしまえば、カテゴリーは、多様なものをひとつの概念のもとにもたらす論理的機能以外のなにものもふくむことができない。そこではまさしく、一般に対象がその形式のもとにぞくしうるためにしたがう感性的条件が捨象されているからである。
かくしてカテゴリーは、純粋悟性概念のほかになお、カテゴリーを感性一般に適用するための規定(図式)を必要とする。そうした規定を欠くならカテゴリーは、ある対象がそれによって認識されて、他の対象から区別されるような概念ではない。

判断一般の論理的機能ーー単一性と数多性、肯定と否定、主語と述語ーーは、循環を犯すことなく定義されることができない。定義はやはりそれじしん判断でなければならず、したがってこのような機能をすでにふくんでいなければならないからである。

量とは、量を有する判断(一般的判断judicium commune)によってのみ思考されうる規定であり、実在性とは、肯定判断によってだけ思考されうる規定であって、実体とは、直観との関係にあって他のいっさいの規定の究極の主語とならざるをえないものなのである。

つまり、純粋悟性概念を超越論的にもちいることはけっしてできず、それはつねに経験的にのみ使用されうる。さらには純粋悟性の原則は、可能な経験の一般的条件、すなわち感官の対象にのみ関係するのであって、これに対して、(私たちが事物をどのようにして直観するかという、そのしかたを顧慮することなく)事物一般にはけっして関係することができないということである。

超越論的分析論には、かくして、重要な帰結がともなっている。すなわち、悟性がア・プリオリに遂行しうるのは、可能な経験一般の形式を予料することのみであって、だんじてそれ以上のものではなく、さらに、現象でないものは経験の対象たりえないのだから、悟性は感性の限界をけっして踏みこえることができず、感性の内部でのみ対象は私たちに与えられうるということである。悟性の原則は、現象を究明する原理にすぎない。

思考とは、与えられた直観を対象へと関係づけるはたらきのことである。この直観のしかたがまったく与えられていない場合には、対象はひたすら超越論的であって、悟性概念は超越論的な使用以外にはもちいられない。つまり多様なもの一般を思考において統一するにすぎないのである。

さて、概念を使用するためには、さらになお対象を概念のもとに包摂する判断力の機能が必要であって、かくてまた、或るものがそのもとで直観のうちに与えられうる、すくなくとも形式的な条件が必要とされる。

可能な経験の領野を超えてしまえば、ア・プリオリで総合的な原則は、およそどこにも存在しえないのである。

カテゴリーは感性のいっさいから分離されればまったく使用されない。すなわちいかなるいわゆる対象にもまったく適用されることができないのである。むしろこうしたカテゴリーは対象一般ならびに思考にかんして悟性使用の有する純粋形式にすぎないのであり、カテゴリーだけではやはり、なんらかの客観を思考したり規定したりすることはできない。
 にもかかわらず、ここには避けるのに困難な錯覚が根底に存している。

カテゴリーには、だから、あらゆる感官の対象を超えて拡張された適用がゆるされているかにみえる。しかしながらカテゴリーは、そのものとしてはふたたびたんなる思考形式にすぎず、その思考形式は、直接において与えられた多様なものをひとつの意識のうちへとア・プリオリに統合する論理的能力をふくむだけである。

感性的形式によってなら、それでもすくなくとも或る客観は与えられるのに対して、私たちの悟性に固有な、多様なものを結合するしかたは、多様なものがそこにおいてだけ与えられることのできる直観が付けくわわってこないかぎりは、なにも意味しないからである。

私たちが現象としてのなんらかの対象を感性体(フェノメノン)と呼び、そのさい、私たちがその対象を直観するしかたと、その対象の性状自体そのものを区別するとしよう。そのばあい私たちはこれらの対象をそうした性状のままには直観することはないとはいえ、当の性状自体について、〔現象としての対策と〕おなじその対象を知性体(ヌーメノン)と名づけるか、あるいはまた、他の可能な事物ーーこちらは、私たちの感官の客観とはまったくならず、たんに悟性によって思考された対象であるーーを感性体といわば対立させて、知性体(ヌーメノン)と名ざすか、のいずれかである。問題となる点はこうである。すなわち、私たちの純粋悟性概念は、この知性体にかんして意義を有しうるのかどうか、したがってそれを認識するしかたでありうるのかどうか。
そもそもそのはじめから、ここにはしかし、ある両義性があらわれているのであって、それが大きな誤解を招きかねない。

悟性はカテゴリー以外のなにものも提供するところがないのだから、対象自体という意味での対象も、すくなくともこの純粋悟性概念によって思考されることが可能でなければならない。このことにより、かえってあやまって、私たちの感性の外部にある或るもの一般である知性体についてのまったく無規定な概念を、私たちが悟性をつうじてなんらかのしかたで認識しうる存在者にかんする規定された概念とみなすことにみちびかれるのである。

現象は、それがカテゴリーの統一にしたがう対象と考えられるかぎりでは、フェノメノンと呼ばれる。私が、たほうたんに悟性の対象である事物を想定するとすれば、そのような事物はヌーメノン(叡智体Intelligibilia)となづけられることだろう。

したがってまた世界を感性界と叡智界に区分することもみとめられているのである。

私たちの表象はすべて、じっさい悟性をつうじてなんらかの客観に関連づけられる。さらに、現象とは表象にほかならないのだから、悟性は現象を感性的直観の対象である或るものに関係づける。しかしこの或るものは、そのかぎりでは超越論的客観であるにすぎない。この超越論的客観は、たほう或るもの=Xを意味し、私たちはそれについてまったくなにも知らず、またそもそも(私たちの悟性が有する現在の仕組みからして)知ることもかなわない。かえってその客観は、感性的直観における多様なものを統一するための統覚の統一に対する相関者として役だちうるだけであって、この統覚の統一を介して悟性は感性的直観の多様なものをひとつの対象の概念のうちで結合するのである。

この客観は、だから、認識の対象自体そのものではない。対象一般という概念のもとに現象を表象したものにすぎず、しかもこの概念は現象における多様なものによって規定可能なのである。

カテゴリーはむしろ、超越論的客観(或るもの一般の概念)を、感性のうちに与えられたものによって規定し、かくして現象を対象の概念のもとで経験的に認識するためだけに役だつのである。

感性とその領野、すなわち現象の領野は、物自体そのものにではく、事物が私たちの主観的な性状におうじて私たちに現象するしかたにのみかかわるべく、それじしん悟性によって制限されている。この件は超越論的感性論全体の結論であった。

現象は、それだけでは、つまり私たちの表象のしかたの外部ではなにものでもありえないからである。したがって、果てしない循環が生じるべきではないとすれば、現象ということがすでに或るものへの関係を指示しているのであって、その或るものの直接的な表象はたしかに感性的なものであるとしても、それ自体としてはーー私たちの感性にこのような性質(つまり私たちの直観の形式がそれにもとづいるいるような性質)を欠いていたにせよーーなお或るもの、つまり感性には依存しない対象でなければならないということになるのである。
 ここからところで、ヌーメノンの概念が生じる。

ヌーメノンがあらゆる現象から区別されるべき真の対象を指示するためには、私の思考を、感性的直観のすべての条件から解放するだけでは充分ではない。私はさらに、この感性的直観とは別種の、ヌーメノンといった対象がそのもとで与えられうるような直観を想定する根拠を有していなければならない。そうでなければ、私の思考は矛盾をふくまないにしても、それでもなお空虚だからである。

知性的な直観のしかたは、しかし私たちのものではなく、私たちはその可能性さえも見とおすことができない。それても、こうしたものが積極的な認識においてヌーメノンであるということになるだろう。
 感性についての教説は、そうなると、同時に消極的な意味におけるヌーメノンについての教説でもあることになる。

つまり私たちの思考はそのばあい概念のたんなる形式にすぎないのかどうか、さらには思考からこのように感性的直観が分離されたとして、はたして客観がのこるかどうか、である。

カテゴリーはやはり思考のたんなる機能にすぎず、思考の機能によっては私に対象が与えられることがないからである。かえって直観のうちに与えられるだろうものだけが思考されるのだ。

だから私たちがヌーメノンと呼んでいるものは、たんに消極的な意義でヌーメノンであると理解されなければならないのである。

私がいっさいの直観を棄てさるとしても、それでもなお思考の形式はのこる。つまり、可能な直観における多様なものに対して、或る対象を規定するしかたは残存するのである。

しかしながら、感性の領野の外部で対象がそれによって与えられ、悟性が感性の領野を超えて断定的に使用されうるようなどのような直観も、それどころか、可能な直観の概念すらも私たちは携えていない。ヌーメノンという概念は、したがって、感性の越権行為を制限するためのたんなる限界概念であって、それゆえただ消極的にしか使用されない。

そもそも、感官は私たちに対象をそれが現象するとおりに示すいっぽうで、悟性はそれが存在するがままに示すと語る場合に、後者は超越論的な意義でとらえられてはならない。むしろたんに経験的な意義で考えられるべきである。

悟性にとっては、その概念のうちに存するものを知ることで充分であって、概念そのものがなにに関係しうるのかは悟性にはどうでもよい、ということなのである。

そもそも、純粋でたんに叡智的な対象の概念は、それが適用されるいっさいの原則にかんして完全に空虚である。ひとつに、そのような対象が与えられるべきどのようなしかたも考えだすことができないからである。さらに、このような対象にそれでも場を開いておく蓋然的な思考は、空虚な空間がそうであるように、経験的原則を制限するのに役だつだけなのであって、経験的原則の領圏の外部にある認識のなにかべつの客観については、それをうちにふくむことも、それを指示することもないからなのである。

 

 

付録
反省概念の多義性について
ーー経験的な悟性使用と超越論的な悟性使用の取りちがえから生じるところのーー

反省(reflexio)は、対象から直截に概念を獲得するために、対象そのものとかかわるものではない。かえって反省とは、そのもとで概念へと到達しうる主観的な条件を見いだすために私たちがまず準備する、こころの状態
なのである。

「私たちの表象は、どのような認識能力に共属しているのか」

「それらの表象を結合し、もしくは比較するのは、悟性なのか感官なのか」

多くの判断は習慣から想定され、あるいは傾向性によって結合される。とはいえ、そのような判断にはいかなる反省も先だって遂行されず、もしくはすくなくとも事後に批判的に反省が引きつづくこともないのだから、このような判断は、悟性のうちにその起源をふくんでいたものとみなされることになる。いっさいの判断が探求を、すなわち真理の根拠に注意をはらうことを必要とするわけではない。

私が超越論的反省と名づけるのは、表象一般を表象がそこで設定される認識する力と比較し、対照して、そうすることにより表象が純粋悟性にぞくするのか、あるいは感性的直観にぞくするのかを、表象をたがいに比較しながら区別するはたらきのことである。ところで、概念がこころの状態のうちで相互に共属しながら有しうる関係は、一様性と差異性、一致と対立、内的なものと外的なもの、最後に規定可能なものと規定(質料と形式)の関係にほかならない。こうした諸関係をただしく規定することは、これらの概念が主観の側からみてどちらの認識する力のなかで相互に対立しながら共属しているか、感性にあってなのか、悟性においてなのか、〔を見きわめること〕にもとづいている。

あらゆる客観的判断に先だって、私たちは概念を比較する。そのけっか全称判断のためには(ひとつの概念のもとでの多くの表象の)一様性、あるいは特称判断の産出にさいして概念の差異性、肯定判断がなりたちうるために一致、否定判断がなりたちうるためには対立等々へいたりつく。こうした理由によって私たちは、ここで挙げられた概念を比較概念(conceptus comparationis )と呼ぶべきであると思われる。

だからたしかに、論理的な反省はたんなる比較であるといってもよい。

 

 

1 一様性と差異性

空間のひとつの部分は、それがなるほど他の部分とまったく類似しており、同等であるとしても、それでも他の部分の外に存在している。

 

 

2 一致と対立

すなわち、同一の主語のうちでひとつにされている場合には、一方が他方の結果を全面的に、あるいは部分的に否定することがありうる。

 

 

3 内的なものと外的なもの

空間のうちにある実体を私たちが知ることになるのは、ただ空間中で作用して、他のものをじぶんに引きよせる力(引力)や、他のものがじぶんのなかへと侵入してくるのを斥ける力(斥力と不可入性)によってだけである。空間のなかに現象し、物質と呼ばれる実体の概念をかたちづくるものとして、私たちはそれ以外の性質について知るところがないのである。

 

 

4 質料と形式

質料という概念は規定可能なもの一般を、形式という概念は規定可能なものの規定を意味する(両者ともに超越論的な意味でもちいられている。与えられるもののいっさいの区別と、それが規定されるしかたが捨象されているからである)。論理学者はかつては一般的なものを質料、種別的な区別をこれに対して形式と名づけていた。

あらゆる存在者にあってその構成要素(essentialia)は質料であり、その構成要素がひとつの事物のなかで結合されるしかたが本質的な形式である。

かえって質料の可能性のほうこそが、形式的直観(時間と空間)を与えられたものとして前提にしているのである。

 

 

反省概念の多義性についての注解

ライプニッツは、いっさいの事物をただ概念どうしで比較した。

感性は、ライプニッツにとって混乱した表象の様式にすぎず、表象のとくべつな源泉ではなかったのである。現象は、かれにあっては物自体そのものの表象であった。

ひとことでいえばライプニッツは現象を知性化し、同様にまたロックは悟性概念を、(そうした表現をもちいることがゆるされるなら)その概念発生論(Nogonie)の体系によって総じて感性化したのである。

したがって私たちが実体に付加することの可能な内的状態は、私たちがじぶんの感官そのものをそれによって内的に規定するもの以外にはありえない。それがつまり、表象の状態なのだ。このようにして、そもそもモナドは形成され、そのモナドが全宇宙の根本素材をかたちづくるものとされたのである。モナドの活動力は、とはいえただ表象のうちに存するばかりであって、モナドは本来この活動力によってたんにじぶん自身のなかではたらくことになる。

こうしてライプニッツは、空間を実体の相互性におけるなんらかの秩序と考え、時間をそれらの状態が有する力学的な継起と考えたのであった。

ライプニッツは、空間と時間の概念を現象に対して妥当させようとしたのである。

現象は物自体そのものをあらわすものではないからである。

かくして、空間と時間は物自体の規定ではなく、現象の規定となるのである。物自体がどのようなものでありうるか、私の知るところではないし、私がそれを知る必要もない。私にとって事物は、現象にあって以外にはだんじて現前しえないからである。

私たちが手にするのは、したがってやはり、端的に内的なものではなく、ただ相対的に内的なものなのであって、後者はそれ自身また外的な諸関係からなりたっている。しかしながら、物質の有する端的に内的なもの、すなわち純粋悟性からみて内的なものも、たんなるひとつの幻想にすぎない。物質は、どこであれ、純粋悟性にとっての対象とはならないからである。

私たちが理解するのは、じぶんのことばに対応することがらを、直観のうちに随伴するものにかぎられるからである。「私たちには、事物の内的なものを見とおすことがまったくかなわない」。

私たちの感性が有する客観への関係、すなわちこうした統一の超越論的根拠はなんてあるのかが、ひどく深いところに隠されていることは疑いもない。

たんなる反省のはたらきから出発する推論に対して、このような批判をくわえることがきわもて有用であるのは以下のような事情にゆる。すなわち、〔第一に〕この批判によって、ひたすら悟性のうちでたがいに比較されている対象についてのいっさいの推論が空虚であるしだいがあきらかに示されて、〔第二に〕さらに同時に、私たちが主として強調してきたことがらが確証されるのである。

現象とは、ことばをかえれば、概念に対してそこで直観が対応する場所なのである。
 たんに論理的に反省するばあい私たちはひたすら、私たちの概念を悟性のなかでたがいに比較する。つまり、ふたつの概念が同一のものをふくんでいるかどうか、たがいに矛盾しているかどうか、或るものが概念のうちで内的にふくまれているのか、あるいは概念に付けくわえられたのか、ふたつの概念のうち、どちらが与えられたものとして妥当し、どちらが他方ただ与えられたものを思考するしたかとしてのみ妥当するものなのか、などを比較するのである。

〔第一に〕事物一般としての対象の表象は、いわばたんに不充分であるばかりではない。表象の感性的規定を欠き、経験的条件から独立してしまえば、じぶん自身のうちで矛盾する。

これに対してたほうまた現象は対象自体そのものではありえない。

私がたんに事物一般を思考している場合にはもちろん、外的な関係の差異がことがら自身の差異をかたちづくることはできず、ことがらそのものの差異をかえって前提としているうえ、一方のものの概念が他方のものの概念と内的にまったく区別されないとき、私はただ一箇同一の事物をあいことなる関係において定立しているだけだからである。◉さらにくわえて〔第四に〕、たんなる肯定(実在性)が他の肯定に付けくわわるさいには、たしかに積極的なものが増大させられ、そこからなにものも引きさられたり、廃棄されたりすることはない。だから、事物一般における実在的なものがたがいに矛盾することはありえない、等々のことが証明されるのである。



たんなる概念という点からすれば、内的なものはいっさいの関係、あるいは外的な規定の基体にほかならない。私が、したがって直観のあらゆる条件を捨象して、ひたすら事物一般の概念にのみ固執するならば、外的関係のすべてを捨象することもできる。その場合には、いかなる関係も意味せず、たんに内的規定だけを指示するようなものの概念が、それでもなお残存することになるはずである。

くわえて、私たちは、内官によるもの以外には端的に内的な規定をひとつも知らないのだから、この基体はただ単一であるばかりではなく、(私たちの内官との類推にしたがい)表象をつうじても規定されている。すなわち、いっさいの事物はほんらいモナド、あるいは表象を賦与された単一の存在者なのである。

事物の抽象的な関係は、私たちがただの概念からはじめるかぎりで、一方のものが他方のもののうちにふくまれる規定の原因であると考えるほかはありえないことだろう。原因であるということが、関係そのものにかんする私たちの悟性概念であるからだ。



だが実例は、経験以外のどこからも手にいれられることができないし、経験は現象以上のなにものもけっして提供しない。したがってこの命題が意味しているのは、「たんなる肯定しかふくまない概念は、否定的ななにものもふくむことがない」という以上のなにごとでもない。


私たちのいっさいの悟性概念を客観的に使用するさいの条件は、それをつうじて私たちに対象が与えられる、じぶんの感性的直観のしかただけであり、そのしかたを捨象してしまえば、悟性概念はなんらかの客観への関係をまったく有さなくなるからである。

ヌーメノンという語がその場合そもそも語ろうとしているのは、私たちの直観のしかたはすべての事物にかかわるのではなく、ひたすらじぶんの感官の対象に関係すること、その結果として、私たちの直観のしかたは、その客観的妥当性について境界づけられており、したがってなんらかの他の直観のしかたに対して、かくしてまたそうした直観の客観である事物に対しても、余地が残されといるということだからである。とはいえ、この場合にはヌーメノンの概念は蓋然的なものであって、つまりは私たちが可能であるとも不可能であるとも語ることのできない事物の表象である。

つまりカテゴリーだけではなお物自体そのものの認識へは到達することができず、感性の所与がなければ、カテゴリーは悟性の統一のたんなる主観的形式にすぎず、対象を欠いたままであろうということなのである。

ヌーメノンの概念は、それゆえ、客観についての概念ではない。

超越論的客観については、したがって、それが私たちの内部にあるのか、それともまた外部にあるのか、感性とともに同時に廃棄されるのか、あるいは私たちが感性を除去してもなお残存するようなものであるのか、まったく知られることがない。

私たちは、とはいえ、じぶんの悟性概念のどれひとつとしてその客観に適用することができないのだから、こうした表象は、やはり私たちにとって空虚なままであり、その表象は、私たちの感性的な認識の限界をしるしづけ、可能な経験によっても純粋悟性を介しても、充されることのできない空間を残しておくという以外に何の役にも立たない。

こうしたあやまりの原因は、たほうまた統覚が、統覚とともに思考が、表象のあらゆる可能な規定された順序に先行しているしだいにあるのである。◉私たちは、だから或るもの一般を思考し、一面ではそれを感性的に規定しながら、それでもやはり、普遍的で抽象的に表象された対象を直観するしかたから区別する。そのさいいまや私たちに残るのは、対象をたんに思考によって規定するしかたである。そのしかたはたしかに内容を欠いたたんなる論理的形式であるにもかかわらず、じぶんの感官に制限されている直観を顧慮することなく、客観自体が現実存在するしかた(ヌーメノン)であるかのように私たちには見えてしまうのである。



超越論的哲学が、通常はそこからはじめられる最高概念は、一般に、可能なものと不可能なものとの区分である。



1 対象を欠いた空虚な概念としての
2 概念の空虚な対象としての
3 対象を欠いた空虚な直観としての
4 概念を欠いた空虚な対象としての

光が感官に与えられていなければ、いかなる闇も表象されえず、延長を有する存在者が知覚されていないなら、どのような空間も表象されえない。否定も、たんなる直観の形式も、実在的なものを欠く場合にはなんら客観とはならないものなのである。

 

『純粋理性批判』イマヌエル・カント/著、熊野純彦 /訳