無媒介的なもの、何でもよい何か | 小動物とエクリ

無媒介的なもの、何でもよい何か

 

 

内在する隔たりーー現前の審級(執拗さ)

 

テーゼーー触れえないもの、可逆性の核心にある空虚は、触覚による他化の潜勢力にほかならないーーこのことが第一に意味するのは、この潜勢力が触覚なるものを他化する潜勢力だということである(というのも、現前の変形可能性に触れることは、感性的経験の諸条件そのものを変形することによってのみ可能性となるからだ。このような操作は、バタイユによれば、あらゆるアイステーシス的なものに由来する。

 かくして、結局のところ内在する隔たり[distance immanente]ーー内奥の隔たりは、まなざしの過剰な近さにおいて、突如として触覚のうえに直に生じるのである。バタイユの直観がそこへと向かっていく逆説的な直接性は、媒介なしの接触を、つまりは自己構成の基礎となる接触を、他化する身振りに、他化という身振りに変形することを前提としている。

 

したがって、内在する隔たり(バタイユ的な巨大な亀裂を私なりに置き換えたもの)とは、内在のなかにある隔たり、あるいは内在に属する隔たりではなく、唯一の内在としての隔たり以外の何ものでもないーーそれは、原初的な身振りとしての他化とともに作動する隔たりなのだ。

 この隔たり、このインターヴァルは、空虚や無や純粋な否定性ではない。それは変形の場であるが移行の場ではなく、別の様態への跳躍の場、様態変化の場である。これが、実体という観念のいっさいを廃する様態の存在論のはじまりを表明するにちがいない。そうだとすれば、隔たりが内在するのは、変形の潜勢力、出来事の潜勢力を間違いなく隔たりが保持しているからである。隔たりの注入は逆説的な免疫化であり、内部の飽和に抗する免疫化、したがって感染という逆説的な免疫化となり、現前のウィルスからの保護となるだろう。つまりそれは、そこから経験が現働化するーー世界をつくりだす現働化のーー場そのもののように、還元不可能な外部性を保護することなのである。現前の放擲、それが経験である。

 私たちは空虚ないし触れえないものに触れるのではない。そうではなくて、まさしく触れるということが変形の場から、すなわち存在論的表面が展開する場から現実的なものとなるのである。こうしたことは、世界がそれを起点に存在するようになる出来事なのだ。

 

 

隔たりとはdis-tance[離れて- 立つことである]。

 

とはいえ、隔たりは外で外れて、別のところで絶えず作動しているスタンスであろう。語源学的に言えば、内在する隔たりとは瞬間[instant]、審級=内に - 立つこと[in-stance]であり、最も下層にあるーー無限に有限なーー立つこと[stance]が「自己」へと降下することである。この自己は内[in]の反省的内部性であり、それは別のところからの到来(あるいは別のところなるものの到来)によってのみ開かれる。つまり離れて[dis ]ということが、内に[in - ]の運動の可能性の条件なのだ。無差異[in-difference]そのものとしての世界が隔たりにおいて措定されていることが明確に意味しているのは、現前がその瞬間や審級に内在する隔たりのように内的に - 異なっている[in-difference]ということである。現前の差異は現前のうちに書き込まれているのであり、むしろその差異を含み込んでいる。現前に含み込まれているもの、それは触覚であるところの我有化しえない外部性だ。世界の肉とは、内部性、根底、資源の閉鎖性ではなく、火の肉という純粋な強度なのである。

 かくして現前は、それ固有の図式ーー内在する隔たりの触覚ーーを感性的なものに直に跡づける。

触覚の審級は根源的な図式を、つまりは現前の根源的なアイステーシスを構成するのである。

 

 

  存在 - 感性的地平

 

 他化という潜勢力は,抵抗や変形の潜勢力なのだ。この潜勢力は、実体の存在論から思考されてはならず、言い換えれば可能態における実体のように(アリストテレスにおける物質のように『形而上学』)、実体のもつ潜勢力のように思考されてはならない。

 

この存在論は、現前の再-現前化や可能態の現実化といった考えから生まれるのではなく、純粋な様態変化という考え、変形の潜勢力という考え、すなわち様態の存在論から生まれるのだ。

 

潜勢力とは、ある実体の資源ではなく、ある出来事の強度なのだ。それは現実態の他の縁ではなく、縁そのものである。

潜勢力ーーつまりは出来事の表面であり、出来事の感性的な境界面であるところのもの。外部に直面し、外部に曝されることで、潜勢力はつねに布置を変化させ、その境界面を変化させる。絶え間のない変形だ。したがって、変容をもたらす出来事とは、現実態と可能態の識別が不可能になる点である。

 

 

世界の物質の強度ーー火

 

太陽の火は、エネルギーからも空間からも切り離せない物質であり、それはおのれを純粋な強度に、いわばエネルギーに変形する物質なのである。

 そのため、火の純粋な強度とは他化する潜勢力であり、言い換えれば感性的物質である。

テーゼーー強度は、おのれを質量に凝縮しうるのであり、質量はおのれをエネルギーへと変形しうる、したがって、あらゆる物質は感性的物質である。

 

 

付記ーー見ることの他化、身体の他化。プロメテウスとしてのファン・ゴッホ

 

すなわち、バタイユにとっては生産的でもなければ破壊的でもない他化こそが現実的だと言えるのだ。

 

生はつねにおのれを超過し、おのれの不充足によっておのれを超過する。そのため、生を保存しようとするいっさいの有機的努力は、諸器官の潜勢力を汲み尽くすしかなく、その結果として諸器官を他化することとなるのだーーしたがって生とは、この他化、この変形そのものにほかならない。

 

バタイユにとって重要な例証となる人物を思い起こすことができる。その人物こそファン・ゴッホ、「プロメテウスとしてのファン・ゴッホ」にほかならない。彼は太陽の火を前にして立ち上がり、それによって眩んだ目は火という物質に純粋な強度に触れるのだ。

 

他のいかなる条件にもまして、人間存在は物の安定性と永遠性を求める。それにより、甚大で暴力的なあらゆる浪費に対して、人間存在は曖昧な態度をとるようになる。この浪費は、それが自然によって行われるときも、人間自身によって行われるときも、ありうるかぎり最大の脅威を示している。そのため、この浪費が引き起こす感嘆と恍惚の感情は、遠くからこの浪費に感嘆したいという配慮をもたらす。

 

つまり<太陽>とは放射熱と光の巨大な喪失、炎、爆発にほかならないが、それは人間から遠く離れているために、人間の方はーー安全な場所でーーこの巨大な異変の平穏な産物を享受できるのである。

 

火の爆発は、そこにおいて表象がラディカルな触覚となる限界である。いわば太陽光は触覚空間となるタブローの表象的表面を輝かせるのだ。かくして創造的身振りが結集することで、「物質的支持体」は表象を構成するエレメントに変形するのである。たとえこの変形が表象の限界において、その限界線上で行われるとしてもそうなのだ。

 

テーゼーー表象空間の他化は、身体の他化する身振りと不可分である。

 

プロメテウスとしてのファン・ゴッホは、神の火を奪い去る巨人ではなく、超越と内在の仲介者、すなわち公現する主体でもない。それは存在の現前に対する留保なき露呈において危険を冒す者であり、太陽の火とはこの者の強度なのだ。そしてそれは、諸感覚ーー感性に免疫を与えることの不可能生を経験する者である。さらには、この露呈=外 - 措定[ex-position]においていっさいの主体性を放棄=脱 - 措定する者であり、まさにこの露呈=外 - 措定によって、現前は目を魅惑し、見開かせ、抉り取り、見ることに内在する隔たりを開くことで、この隔たりを抹消するのである。したがってそれは、感性的なものが感性的なものとなる運動において主体 - 世界となる者なのだ。

 

つまり触覚的なものは、そこにおいて見ることが放棄される限界であり、そのようにして触覚の潜勢力を開くのである。

そのため、触覚とは見ることの過剰な身体であり、強烈な身体なのだ。まさしくそれは炎、光線、放射、火傷であり、みずからの他化の強度によって触れる触れえないものである。

 

このとき、破壊者としての太陽の火に曝され、肉体の過剰な近さに曝されている視覚のラディカルな試練は、触覚になることなのだ。視覚は、触覚としてみずからを試練にかける。

 

テーゼーー生自体の止揚ーー言い換えれば生の昇華ないしはカタルシスーーを阻んでいるのは、まぎれもなくこの他化する潜勢力である。

 

他化ーーそれは有限性の犠牲にしえないものなのだ。

 

 

第四章 裸の真理、イメージ

 

視覚とまなざし

 

視覚と触覚の関係、より正確に言えば両者の緊張関係ないし揺れ動きは、レヴィナスの著作において根本的なものである。というのも、両者の複雑な緊張関係は現象学や基礎存在論に対するレヴィナスの議論の核心に見出されるものであり、今度はレヴィナスがそれらの視覚中心主義を告発しているからである。「聖アウグスティヌスを受けてハイデガーが指摘したように、私たちは視覚という用語をすべての経験に対して一様に用いている。経験が視力とは別の感覚機能を巻き込んでいるときでさえ、そうなのである。[…]対象化がまなざしのなかで特権的な仕方で働いていることは、誰の目にも明らかである。だが、あらゆる経験に形を与えるというまなざしがもつ傾向が、存在のうちに、しかも曖昧さを残すことなく書き込まれているかどうかについては定かではない」『全体性と無限』。一見すると、レヴィナスは視覚に特権を与えているかのようである。しかし、彼のテーゼは根本的に批判的な見地から、すなわち対象化に対する批判、存在者をひとつの対象へと還元することに対する批判的な見地から構成されている。彼によれば、視覚はまさに物を把握する母体を、それゆえ対象化の母体を表わしているのだ。「触れる手の動きが空間という「虚無」を通り抜ける点で、触覚は視覚に似ている。けれども視覚は触覚に対して次のような特権を有している。すなわち、視覚はこの空虚のなかで対象を維持し、ひとつの起源であるかのようなこの無にもとづいて対象をつねに受け取るが、触覚において無は無知が自由に動くかぎり現出する。このように、視覚と触覚にとって存在はいわば無から到来するのであり、まさしくこの点に視覚と触覚の伝統的な哲学的威信があるのだ」

 したがって、この点に関するレヴィナスの決定的な問いは、いかにして視覚による把握から脱するのかを知ること、そして、いかにして対象なき感覚作用を思考し、対象化なしに存在との関係を思考するのかを知ることである。

 

レヴィナスによれば、これはいっさいの存在論的把握に抗する倫理的超越を肯定する哲学の倫理的使命である。この使命の根源的な身振りは、いかなる対象化も行わず、他者という存在にかんして中性的で非人称的な存在を前提とすることもなく、つまりは主題化を行うことなしに<他者>から思考を方向づけられることに存している。光のなかで<他者>を現れさせるもの、現前の光のなかに到来するものは、もはやひとつの全体性として思考されてはならないのだ。全体性は、それ固有の理解を要請し、さらにはこれを課すことによって主体の地位を取り戻すーーそれも、さまざまな物や普遍的な物がそれに対して公現することとなる主体を創設することによって。だが、光のなかで<他者>を現わさせるもの、現前の光のなかに到来するものは、他者の顔として思考されねばならない。この顔は、<同>が見ることによって固定されえず、静態的ななイメージに還元されることもなく、つねに<同>の形象を溢れ出すものなのだ。そうであれば、哲学の倫理的要請とは、他者を還元したり、措定 - 形象化したりすることなしに無媒介性を経験することであろう。

 

レヴィナスが主張するように、接触とはすでに前提とされた地平における主題化であり、さらに言えばそれは対面のうちに存しているのである。「接触という観念は、無媒介的なものの本源的様態を表わしてはいない。接触とはすでに主題化であり、地平の準拠である。無媒介的なものとは、対面である」『全体性と無限』。

 

「私たちが主張してきたのは、享受ーーそれは対象化や視覚の図式に収まるものではないーーが見える対象を形容することで、その意味が汲み尽くされるわけではない、ということである。[…]表象はただまなざしの産物であるだけではなく、言語作用の産物である」。

 

「視覚は超越ではない。視覚は関係を可能にし、それによって意義を付与する。<同>を越えて絶対的に他であるようなもの、言い換えれば即自的であるようなものを、視覚はいっさい開示することがない」『全体性と無限』

 

ハイデガーにおいては、一般的に「何か」が現出するためには、ある存在ではない存在ーー「何か」ではない存在ーーに対して開かれている必要がある。

 

つまりレヴィナスはある無起源を告げ知らせているのだ。「かくして即自存在の主体性は、聴き取られる以前に完遂される命令の遵守のようなものであり、いわば無起源そのものである」『他者のユマニスム』けれども、分離は隔たりとは異なる。分離とは、他者が唯一混沌や暴力から身を守ることのできる無秩序なのである。[…]他人の懇願はあらゆる視覚に先行する。

 

まなざしとは主体のまなざしではなく、ましてや「純粋な観客」のまなざしでもない。まなざしは、それ固有の贈与のうちでおのれを与える開けにおいて生じるのである。

 

見ることの贈与は存在の贈与なのだ。

 

 

倫理的直接性ーー顔、パロール

 

無媒介性を思考する条件そのものの変化という要請ーー無媒介性を他者の還元や他者の固定的な形象化とすることなしに経験せよという要請に従って、無媒介性という概念規定はレヴィナスにおいて次のように見直される。つまり、無媒介性とは接触ではなく対面である、と。とはいえ、まなざしによる掌握や視覚に対立するこの対面は、触覚の領域に属しているのだろうか。そうではない。実際、レヴィナスは「語の感性的意味での経験、すなわち相対的でエゴイスト的な経験」が他人の顔との対面の母体でありうる可能性を拒否し、経験についての超越論的な代案を提起している。「超越者は感性とは際立った対照をなし、開放性の極地であって、超越者を見ることとは際立った対照をなしていて、観想の用語でも実践の用語でも実践の用語でも語られえない。超越者の外見とは顔であり、その啓示は発話である。他人との関係のみが超越の次元を導入し、それが語の感性的意味での経験、すなわち相対的でエゴイスト的な経験とはまったく異なる関係へと私たちを導くのである」。「無媒介的なものの哲学は、バークリーの観念論においても現代の存在論においても実現していない。存在者は存在の開けのなかでしか暴露されていないと述べることは、私たちはけっして存在者そのものと直接に共にいることはないと述べることである。無媒介的なものとは呼びかけであり、いわば言語の命法である。接触という観念は無媒介的なものの本源的様態を表わしてはいない。接触とはすでに主題化であり、地平への準拠である。無媒介的なものとは、対面である」『全体性と無限』

 このようにしてレヴィナスは、今度は超越論的な領域に訴える。たとえこの領域が形而上学の全体化(レヴィナスによれば、この全体化は現象学にまで拡大されており、とりわけ現象学の方法論とするハイデガーの基礎存在論にまで広がっている)によって我有化しえない他性、全的存在に抗する他性のようにしか理解されないとしても。この倫理的超越は顔の強度の周囲に集中するのだが、この超越の「素材=物質」が言語なのである。言語は顔が生じる=場をもつ空間そのものである。それゆえ私たちは逆説的な思考の歩みの手前に位置している。言語という典型的な媒介は、少なくとも前世紀のあいだのセメントで塗り固められたような考えに従えば、ここでは無媒介性の命法に支配されている。ここにおいてレヴィナスは、見かけよりもはるかにハイデガーに近いところにいるのだ。両者にとっては、存在を表す真の様態である言語のみが、現前、すなわち存在の現前ないしは<他者>の現前との対面の無媒介性を保証することができる。

 とはいえ、そうであればハイデガーの「全的」存在と同様に、言語それ自体が中性的で非人称的な空間なのかどうかを、つまりは他者を前提とし、それゆえに他者を主題化する地平なのかどうかを知るための問いが提起される。おそらくレヴィナスは、みずからの思考が直面しなければならない重大な危険性に気づいていた。

 

つまり、彼にとっての言語とは表出なのだ。

 

発話という観念は、近代言語学の文脈において適切ではないとは言わないまでも、少なくとも慎重に扱うべきものである。

 明らかに、この選択には「否定的規定」が存在している。というのも、表出を前面に押し出すことは、典型的に条件づけられたもの、つまりは表象に対するラディカルな批判によって条件づけられているからだ。

 

「哲学の説として志向性が提示されるいなや、姿を現したのは表象の特権性である『全体性と無限』ーーこのテーゼは『論理学研究』以降のフッサールの著作全体に「強迫観念のように」回帰してくるものである。それゆえレヴィナスの批判は、現象学の核心に照準を定めているのだ。この批判の目的論は、表象から「溢れ出す」ものと、表象の純粋な現在ーー超越論的意識による構成の「事後的」契機にーーにおいて構成され対象化されることによる掌握に永久に抵抗するもの、すなわち顔へと私たちを導いている。「顔の概念は、表象されるあらゆる内実とも異なる。[…]表出の最たるものである顔が、最初の発話を行う。これは、あなたを見つめる目のように、自分自身の記号の切っ先に浮かび上がるシニフィアンである」。ここで問題となっているのが現象学に対するラディカルな批判だけではなく、現象の現れという原理によって支配された、ディシプリンとしての、より正確に言えば西洋的な思考の方法としての記号論に対数するラディカルな批判であるといことだ。「記号論の」言語、記号という「阻止された」言語とは対照的に、言語は「世界を差し出すこと」として定義される。レヴィナスにおける表出という観念と顔の形象には、フッサールの意味付与に対する批判と同時に、ハイデガーの存在論的概念である自由に対する批判はみられる。これらレヴィナスの分析において並置されており、表象は根本的自由の現れとして理解されている(周知のとおり、レヴィナスはこの根本的自由に正義、すなわち倫理的経験を対置している)。

 

意義の存在とは、構成する自由そのものを倫理的関係のうちで問いただすことに存するのだ。意味とは他人の顔であり、語に訴えることのいっさいはすでに言語という本源的な対面の内部に場を占めている。語に訴えるうったえることのいっさいは、この第一の意義の和解を前提としているが、和解とは「~についての意識」として解釈される以前に、社会であり義務なのだ。意義とは<無限>であるが、無限が現前するのは超越論的思考や有意味な活動性に対してでさえなく、まさに<他人>においてである。<無限>は私に面と向かい、私を問いただし、無限であるというその本質によって、私に義務を負わせる。意義と呼ばれるこの「何か」は言語とともに存在のうちに出現する。言語の本質とは<他人>との関係だからである」。

『全体性と無限』

 

表出とは、現象という媒介なしに意味を直接的に表現するため、意味の起源に直接的に触れることを言わんとしているのだろうか。

 

存在者の本源的な有意味性ーー存在者がその身みずから=人格として現前すること、あるいは存在者が表出することーー存在者が成型された像の外に絶えず突き出る仕方が具体的に生じるのは、全面否定の誘惑としてであると同時に、無防備なあの目の、これ以上なく柔らかく、これ以上なく覆いを剥がされたものの頑強な抵抗のうちで、他なるものとしての他者を殺すことに無限に抵抗することとして、である。存在者としての存在は、道徳性のうちにしか生起しない。『全体性と無限』

 

したがって倫理とは、そこにおいて発話の個々の現動化がその意味を汲み取る強度に満ちた空間(「和解」)である。言語とは、この倫理的潜勢力そのものなのだ。ところで、表出という観念はそのより深遠な根拠を示している。というのも、それは現前の無媒介性を名指すという根本的な使命を負っているからである。かくして結局のところ、顔と言語の観念によってなされる表象に対する批判は、現前を強化することとなる。『全体性と無限』

 

言語は現前の無媒介的な贈与だが、唯一の真なる現前は他者の現前であるため、現前の無媒介性は逆説的にも隔たり、跳躍、強度の高まりによって媒介性となる。それゆえ表出は決定的で批判的な概念である。この概念は表象という観念に対立する。

 

「言語とは、隔たりを介した接触であり、触れられないものとの空虚を介した関係である」『全体性と無限』

 

レヴィナスにおける「世界を差し出すこと」としての言語と、「存在の住拠」というハイデガーの」「存在論的」言語の関係は一体いかなるものなのだろうか。

 

 

他化された無媒介性

 

顔や言語といった批判概念が、ある種の「現前の形而上学」に対して免疫をもたないということ、すなわち根源的超越の媒介なき現前や(たとえ聖なるものの純粋な現在性という超越的地平が不在であったとしても)聖なる発話の潜勢力に対して免疫をもたないということは明らかである。

 

「存在するとは別の仕方で語ることのうちで言表されるが、語られることにおいてはもはや存在するとは別の仕方でが別のし仕方で存在することしか意味しなくなるため、存在するとは別の仕方で語られたことから引き剥がすために、語ることは語られるとともに語り直されなければならないのである」。それゆえ表出は、倫理的なものの媒介なき表出によって、純粋な表現性への一種の抵抗として再定義される。

 

「<他人>の顔は、それが私に委ねる造形的なイメージを絶えず破壊し、そこかた溢れ出す」『全体性と無限』顔はまなざしによる形象化に抵抗し、それゆえ造形的表象にも抵抗するーーしたがって顔は、プラトン的な造形主義によって確立されたような造形的形象学の伝統にも抗するものなのだ。

 

「<他者>が私のうちなる<他者>の観念をはみだしながら現前する様態を、私たちはまさしく顔と呼ぶ」。「存在者の本源的な有意味性ーー存在者がその身みずから=人格として現前すること、あるいは存在者が表出することーー存在者が成型された像の外に絶えず突き出る仕方」『全体性と無限』

 

顔に内在する抵抗とは他化する抵抗、すなわち横溢であり、過剰なのである。

 

バタイユの変質=他化における形象化の起源は、実際のところ「創造」という行為そのもののうちに上記の抵抗が導入されることを表わしている。これは内在的抵抗という行為であり、その潜勢力である。バタイユもレヴィナスも、表象に対する(超)批判(そこには形象とイメージに対する(超)批判も含まれている)を起点とすることで、表象の罠から抜け出すための代替的な二つの操作を提起している。すなわち、レヴィナスの答えは表出であり、バタイユの答えはーー変質=他化なのである。

 

唯一の無媒介性は、他化する想像力に対する批判的無媒介性である。このようにしてレヴィナスの逆説的なテーゼは、現前の他化に通じる空間を思考において開く。この運動は対面の静態的な強度ではなく、そこにおいて同と他の対立(対決=相互に- 境界を接すること[con-frontation]、対面)が存在しない動力学である。経験はつねに外的なものであり、他なるもの、他者に属するもの、他者の他者である。それはいかなる尺度ももたない共通の強度、倫理の無限な危険であり、有限性の無限な経験なのである。

 

 

足への盲目のまなざし、裸の真理

 

顔は遮断するひとつの要素であり、存在の秩序を中断させる。

 

「<他人>としての人間は、外側から、分離したものとしてーーあるいは聖なるものとしてーー、顔として、私たちのもとに到来する。<他人>の外部性ーー言い換えれば私へのその呼びかけーーが、<他人>の真理なのだ。[…]存在やその観念に対する真理の剰余は、あらゆる真理の神的な志向性を意味している。もしかすると、この「空間の湾曲」が神の現前そのものなのかもしれない」。

 

顔は顔以上のものであるーーこのことはレヴィナスにとって、顔は顔以下であるということを意味している

 

「顔の肌は最も裸で、最も剥き出しのままの肌である。慎み深い裸ではあるが、裸の最たるものなのだ」。

 

顔とはつねに他者による還元不可能性による顔だからである

 

私は思うのだが、真理はひとつしか顔をもたない。暴力的な否認の顔である。真理はアレゴリー的な形象、裸の女たちの形象とは何の共通点ももっていない。

 

「非推論的実存、笑い、脱臼は、人間をーー最終的にはーー企ての否定に結びつけるのだが、結局のところ人間とはそのようなものなのである。ーー最終的に人間は、自分がそうであるところのものの全面的な抹消に、あらゆる人間的主張の全面的な抹消に沈んでいく。これがーーヘーゲル的で世俗的なーー労働の哲学から、聖なる哲学ーー「刑苦」がこれを表現しているが、より接近可能なコミュニカシオンの哲学を聖なる哲学は前提としているーーへのゆるやかな移行であろう」『内的経験』

 

存在神論の真理は、まなざしの光が最も暗い深淵へと差し込まれ、これを照らし出すような、絶対的で偏在するまなざしの現前において与えられる。この普遍的なまなざしは、私たちがけっして出会うことのないまなざしである。

 

このまなざしを引き受けることは、死すべき運命にある見ることの限界を超過する。別様に言えば、接触不可能で触れることのできないこのまなざしは不在の現前の形象ーーあるいは同じことであるが現前する不在の形象であり、超越の形象なのである。それは絶対的な現前であり、現前の不在を、それに直面することの不可能性を認めさせるものである。

 

形象化とは、まさしく不在の現前としての現前の不在である。形象化は真理を見えるようにすることなく形象へともたらす。なぜなら、真理を見ることは死ぬことを意味するからだ。真理は真正面から見つめること、真理のまなざしに出会うことは、生の真理としての死をもたらすことになるだろう。

 

このような主張は、ふたつの重大な帰結をもたらす。第一に、この主張は死とは生の真理であるというあらゆる存在論の基礎にある逆説的な定式を反復しているようにみえる。しかし、死が生の真理であるということは、死が大いなる崇高な生の名、純化された生の名ーーそしてこのような生への移行ーーであるということをすでに前提としている。形而上学の体制(これは表象の体制とも言えるだろうが)において真理は、生が死とは切り離しえない崇高な生となる啓示や黙示録の絶対的瞬間において与えられる。この崇高な瞬間(これは時間が停止する契機[moment]であるがゆえに、これを慣例的な意味でのみ瞬間[moment]と呼ぶことができる)において生を失うことは、絶対的な贈与である。死へとみずからを委ね、真正面から真理 - 死をまなざすことで、絶対的な主体が自己に与えられる。この絶対的な瞬間、つまりは自己贈与ーー自己形象化とも言えるだろうーーの反省的契機において、連続性が再構成される。そしてこの再構成の道具となるのが主体のまなざしである。したがって逆に、主体とは本質的にまなざしの主体なのだ。形而上学のまなざしは、つねに英雄的な対面を前提としている。

 

形象化とは、英雄の身振りの代わりであると同時に模倣でもある。もちろんこの身振りは自己反省的であるーーすべての画家はみずからを描くーーが、このことが意味しているのは、形象化する者がパースペクティヴの英雄的リズムのなかにすでに刻み込まれており、そのゆえにおのれを英雄に形象化するということである。 

 

つまり、たんに画家が自身を描くという意味から、優れた画家は自分自身を描くものであるという意味に変化している。

 

 そして真理の啓示において、真理の啓示として死を与えるこのまなざしが私たちに教えるもうひとつのことは、見ることの命法ーーたとえ死ぬことになるとしても見よという命法ーーは、生の命法に等しいということである。

 

まさに生の、まなざしの抗い難い命法のせいで、生は逃れてゆくのである。

 あらゆる現象の現れの下部構造を守る、源泉であり資源である純粋な生としての存在が形而上学的に現前するという真理、つまりはこのような存在が啓示され - 現前化するという真理をバタイユが拒絶しているということは、例証の否定的暴力、生きられた経験の盲目にさせるようなイメージが有する否定的暴力によって支えられている。この暴力が際立たせるのは、絶対的な否定性ーー超過的で永遠的な大いなる生との弁証法的な絆のうち捕われた<死>ーーが生の真理ではないということ、すなわち真理は死ではないということである。あらゆるものを貫くまなざしは、その形象ではない。

 

バタイユの真理は盲目にさせるのではない。それ自体が盲目なのである。

 

真理は盲目である。にもかかわらず、真理の盲目のまなざしこそが、いかなるまなしざしの可能性ももたない失明そのものこそが、私たちをまなざし、私たちに触れるのだ。

 

非 - 知やこの亀裂の潜勢力は、執拗に存続し、あらゆる現動化に抵抗するのだ。

 

魅惑とは、表面によって吸収され、脱中心化され、根本的に有限な無差異の無限のうちへ横滑りするまなざしである。

 

深遠な性質は、根本的ではあるものの根源的でもあるこの他性においてのみ意味をもつのである。

それは世界の根源であり、崇高なものの空虚な枠組みの真理のようにみだらな物なのである。

 

不充足の深淵は、存在に「固有の」ものなのだ。「充足を求めることは、存在を何らかの点に閉じ込めようとするのと同じ誤りである。私たちは何ものも閉じ込めることはできない。私たちが見出すのはもっぱら不充足だけなのだ。私たちはおのれを神の現前のうちに置こうとするが、私たちのうちで生きている神はすぐさま私たちに死ぬことを要求し,私たちは神を殺すことでしか神を捉えることはできない」『内的体験』

 

過剰は、それがあらゆる根拠の不可能性のうちで存在を構成しているという意味で、存在に絶対的に先立っているのである。したがって存在とは、過剰のひとつの様態[mode]なのだ。

 

過剰によって存在は、まずもってあらゆるものに先立ち、あらゆる限界の外にある。過剰とはまさにこのようなものなのだ。

 

何でもよい何かは、在るもの以上に在るものである。なぜなら、何でもよい何かは、在るものに甚だしく及ばない在るものだからだ。

 

いかなる一致も、可能な対面もなく(そこにおいてもはや面[face]の可能性がない)、超批判は在るもの以上に在るものに直面する経験を名指すための唯一の名なのである。「思考(反省)さえもが私たちにおいて完了するのは、過剰においてのみである。過剰という表象の外部で、真理は何を意味するのだろうか。もし私たちが、脱自において享楽するのが耐え難いように、見るのが耐え難いものを見る可能性を超過するものしか見ないのであれば、そして、思考する可能性を超過するものを私たちが思考するとすれば、はたして真理は何を意味するのだろうか」『エロティシズム』

 

したがって、真理とは引き裂きなのである。

 

 

顔の裸性と裸足

 

「とはいえ、全体性と客観的経験のこの「彼方」は、たんに否定的な仕方で記述されているわけではない。この「彼方」は全体性と歴史の内部に、経験の内部に映し出されている。終末論的なものは歴史の「彼方」としての資格にもとづき、歴史と未来がもつ裁判権から諸存在を引き剥がすーー終末論的なものは諸存在を各自の十全たる責任へと駆り立て、責任を果たすように呼び求めるのである。[…]終末論の最初の「ヴィジョン」(かくしてこれは実定数の啓示された臆見からは区別される)は、終末論の可能性そのものに、言い換えれば全体性の断絶に、文脈なき意味の可能性に到達する」。『全体性と無限』

 バタイユの内的経験との対比が目を引く(「この「彼方」は、[…]経験の内部に映し出されている」。どちらの場合も、「絶対的に他なるもの」への直面だけが経験の出発点となっている。この「絶対的に他なるもの」は、経験を司り、あらゆる固有性を脱-固有化し外-固有化する。しかし、経験というものがまさに絶対的に他なるものとの関係をーーつまりは思考から絶えず溢れ出るものとの関係をーー意味するとすれば、無限との関係は経験の最たるものを完遂するのである」

 

レヴィナスにおいて抹消された暴力は「私」の暴力である。それは、まなざしによって掌握する暴力、他者という存在者を客観化されたヴィジョンへと還元する暴力である。

 

フッサールの表象概念を批判するなかで、レヴィナスは次のように述べている。表象がもつ超越論的な野心は、「表象が構成しようと野心を抱いている存在のなかにすでに植えつけられた生によって絶えず打ち消される」。けれども、表象のあらゆる可能性がまさに廃されたようにみえるところで、つまり表象不可能なものに直面するところで、暴力的な否定が衰えることのない強度でもってその現前を告げ知らせている。現前の暴力ーー構成的暴力ーは、表象の構成的暴力の現前から溢れ出すのだろうか。これは、バタイユにおいて表象を解任する「生」なのか。

 

客体化された限界を破ることは、暴力的なことではないのか。逆説的にも、レヴィナスにおいて全体性と暴力に抵抗するもの、すなわち外の我有化不可能性は、バタイユにおいてはまなざすことで、脱我有化することで暴力を生みだす同じものなのだ。 

 しかし、暴力なき超越は存在しない。超越はつねに暴力的である。なぜなら、「根本的に」他なるものは、あらゆる内在から差し引かれ、退隠によって私たちがそれに触れることも想像することもできないような<まったき他者>の純粋な生(死んだ抽象化、同じものへと回帰するもの)ではないからである。「根本的に」他なるものは、けっして自己にとどまらず、汚染する。他者へのあらゆる露呈は、感染的な接触なのだ。免疫化された対面など存在しない。あらゆる暴力がそこで崩壊する顔は、表出という操作によって、そしてこの操作において、つまりそれが場を持つ=生じるということそれ自体によって暴力的なのだ。顔は、その内容の面では暴力的ではないものの、その表出の面では暴力的だ。表出とは純粋な暴力だ。

 

倫理とは免疫化でも病気の予防でもなく、感染なのだ。触覚に変形する視覚、視覚の触覚化、無媒介性の共役不可能な裂け目における隔たりの消去、こうしたことが正確に言わんとしているのは、露呈は顔を引き裂くということである。この露呈はあらゆるものを覚悟しなければならないということ、そして出来事はけっして正面からやってくるわけではなく、斜めから、背後から、下から、いわば足の近くから不意打ちしてくるということを意味している。

 

潜在する暴力なくして救済の約束はない。救済的に形象変化する潜勢力があるのだ。<他者>とその顔の超越は、つねに救済の約束であるような約束の無限性を保持している。

 

「私は私の同胞たちの無限の可能性のなかで私を破壊する。この可能性はこの私の意味を無化する」『内的体験』

 

バタイユの「逃走」は、他者との対面ではなく、経験のーーあるいは潜勢力のーー深淵における他化である。それゆえバタイユの外は、崇高な生の我有化不可能な外部性、すなわち内在を純粋な生という形象に変化させる最高の保証やあらゆる超越による救済の約束などではまったくないのである。

 

 超倫理の危険性は計り知れない。それは倫理的かつ政治的危険性だ。

 

 だからこそ超倫理は、この計り知れない危険性ーー耐え難いものに触れることに盲目となる危険性ーーを遠ざけたり、拝したりせず、この危険性を前にして目を閉じることをしない身振りをまさに命じているのである。

 

他者の顔において耐え難いもの、まなざすもの、言い換えれば引き裂くものは、ラディカルな有限性である。

可能時の極限において交流は引き裂かれ、裂け目が交流するのだ。

 

「生の輝きが精彩を欠いた実存を横切り、その姿を変化させるためには、死と同等の喪失が必要であるように思える。というのも、まさにただ死の自由な根こぎだけが、私のうちで生と時間の潜勢力になるからだ。こうして私は、宇宙が光の鏡であるのと同じように、死の鏡以上のものであることをやめる」

『内的経験』

 

 

ラディカルな倫理と超倫理

 

テーゼーーレヴィナスは過剰の哲学者である

 

倫理的要請、すなわち満たされえない要請が純粋な過剰であるということなのだ。

レヴィナスの言う「聖潔さ」とは過剰の名である。

 

根本的に<無限>は欲望の過剰に結びついている。<無限>とは、バタイユの過剰が存在の過剰であるのと同様に、存在を中断させるものなのだ。「過剰とは、まさにそれによって存在があらゆるものに先立ち、あらゆる限界の外にまずもってあることになるものである」『エロティシズム』

 

テーゼーーバタイユは根本的に倫理的な哲学者である。

 

 「根本的に倫理的」とはいかなる意味であろうか。このようにして私が示そうとしているのは、ある経験なのだ。

 

つまり救済の約束なき倫理学を、いかなるエコノミーも欠いた倫理学を思考しなければならないという要請である。

 

それゆえ私たちは、倫理という観点からバタイユの超批判を先鋭化する必然性に応えなければならないのである。バタイユのラディカルな美学は、感覚的なものの限界なき経験を意味している。

 

美学と倫理学を分離し、対立させえする境界は、感性的経験の領野において、限界なき感性の領野において避け難く問い直されることになるのである。

 

 

経験と他化

 

触れることも還元することもできないこのまったき他者という形象を、他化のプロセスに対置することは、このような対立図式を描き出すことではじめて可能となる。バタイユは我有化不可能な外部性に抗して、他化としての経験を思考しており、この経験は他者についてのまったく異なる「ヴィジョン」を含んでいる。他化としての経験が意味しているのは、他が同に絶えず取り憑いているということだけではなく、まったき他者を定立するようないかなる可能性もないということである。同の絶対的な自己参照などまったくもって欠けており、まったき他者の対面に-置かれ、まったき他者に直面するために至高な仕方で構成される「自己」は、多数の諸存在が取り憑いた家の幽霊でしかない。バタイユから出発しながらも、とりわけブランショの影響下で私が魅惑と呼んでいるものは、ブランショの言葉を借りれば「本質的な曖昧さ」の空間にほかならない。

 

倫理的要請のエコノミーは、生の限界において停止するのだろうか。

 

強調しておかなければならないが、バタイユの「内的」経験の出発点は、たんに他者の経験に、死すべき他者ないし死にゆく他者の経験にあるのではない。そうではなくて、バタイユの出発点は死んだ他者なのだ。

 

「生者はみずからの同胞が死ぬのを見るとき、もはや自己の外にしか存在できなくなる」『呪われた部分 有用性の限界』

 

死体は、無-差異=無-関心なものとなり、それゆえにこそ現前する。他性は他化へと変形したのだ。

 

したがって、根本的な他性への露呈は、経験を構成するのである。バタイユにおいては、感性的経験の全体がこの限界- 経験から出発する。これは、それについて経験することが不可能であるものの経験であり、そうでありながらも経験を駆り立てるものの経験であるーーそれは同化吸収しえない抵抗の場である。

 

メルロ=ポンティ的な見地に立てば、一見すると死体は可逆性が崩壊する場であるように思われる。

死体にはもはや可逆性の可能性がない。

 

私たちは正確には何を感覚しているのだろうか。それは、感覚することの無関心さそのものである。死体は、感覚的なものの経験から根本的に差し引かれおり、私たちの触覚に対して無関心である。それゆえ死体は、触覚の挫折を私たちに知らせ、触覚の内部にある深淵を開くこととなる。私たちが触れているのは、可逆性の経験を崩壊させるものでありながら、感性的経験にとって構成的なものである。私たちはそこで何でもよい何かを感覚しているのだ。

 

死体は変質=他化の場そのもの、見えるものと触れられるものの想像を絶した形象変化の場そのものであり、それもいっさいの可逆性の彼方ーーないし手前ーーの場なのである。

 

「私」は、この生気を欠いた無関心の力において、そしてこの力によって、まったくもって把握可能であり、消去される。現前とはまさに、現前が絶対的に無関心であり、「自我」との比較において生気を欠いており、自己に閉じているとされることにおいて、絶対的に知覚に強く訴えかけることなのだ。とはいえ、自己に閉じていることだけが、現前に内在する隔たりを開くことができるーーこの隔たりは、逆説的にも現前と経験のあいだの不連続な連続性を保証する亀裂なのだ。

 

死んだ他者との対面が経験を構成するものであれば、当然ながら、他者の問いが無理矢理にでも提起される。

つまり、死んだ他者との対面が、経験を構成する自己からの脱出の現働化であるならば、他者は死者という資格においてのみ触れられるものであることを意味するのだろうか。

 

経験ーーその本来の条件は、根本的な問いではないとしても、次のように重要な倫理的問いが提起される。経験ーーその本来の条件は、根本的な他性への驚きであるーーは、最終的には他者の消去、他者の無化であるのだろうか。別の言い方をすれば、経験の最終的な条件、つまりは経験の最終局面は、他者の消滅ということになってしまうのだろうか。

 

「したがって経験と言えども、そのなかで素描されていないいかなるものも私たちに教えることはできない『見えるものと見えないもの』

 

一見してこの主張が、みずから感覚するさまざまな感性的なもののあいだの絶対的な可逆性を還元し、一般化された独我論を、すなわち書き込みや投影や一致といった内と外の相同性を再構築しているように見えるだけに、なおさら詳細に検討されなれればならない。

 

「哲学的に言えば、他人の経験は存在しない」。メルロ=ポンティの説明は、彼の理論のエコノミーにおいては非常に明快で論理的である。経験は「すでに私から出発して可能であったものを現動化するだけ」なのだから、他人の経験は存在しないのだ。ここでメルロ=ポンティは、経験についてのバタイユのさまざまな主張を念頭に置いても提起される根本的な問題を的確に定式化している。自己からの脱出を引き起こすのが他者との出会いであるならば、私というある種の内在がまずもって存在するということが前提とされるだろう。そうでなければ、メルロ=ポンティが言うように、他人の経験は存在しない。なぜなら経験とは、つねにすでに外にあるものであるからだ。この根本的な逆説は、バタイユの思考の核心ーーあるいは最も深い裂け目ーーに触れているのである。

 

ところで、問題となっているのはトラウマ的な対象を一般化することではない。

哲学の仕事に従事すメランコリックな意識が問われているわけではないのだ。

 

死に触れ、死へと身体を明け渡し、死へと身体を与え、死を具現化しながら、バタイユは生を肯定する。たとえそれが、形而上学的な意味での偉大で至高な生ではけっしいてないとしても、バタイユは生を肯定するのだ。まさにこれを同じ思考が、イメージの限界に触れ、例証の炸裂に触れる。それは限界なき変形可能性としての生なのである。

 

 

現前のまなざし

 

しかしこの何でもない何かを前にして、引き裂くような痙攣が存在を自己の外へと連れ出す。そして、その根本的な外部性からの要請によって、存在は何でもよい何かの条件を把握するよう最も大きな負担を強いられる。端的に言えば、存在は現前を経験するよう強いられるのだ。

 

ハイデガーにおいて人間である現存在が、死という不可能なものの可能性を経験することのできる特権をもった唯一のものであり、それゆえにただ動物のように終わるのではなく、死ぬことのできる唯一の存在であるとすれば、非人間的なものの経験、バタイユにおける何でもよい何かの経験が示しているのはまさに次の二つのことであろう。それは何でもよい何かにおける現存在の他化の底知れぬ可能性ーーあるいはむしろこの可能性が炸裂することを妨げることの不可能性ーーと、崇高な死ぬこととみだらで「動物的な」終わることのあいだのあらゆる区別を消し去る生者の絶対的な破壊可能性の深淵である。

 

少なくともここで言えるのは、バタイユの経験は人間学化する形而上学のあらゆる残余の彼方に向かうということである。

 

「見る者は、みずからが行使する視覚を物の側からも受け取っているのであり、多くの画家が言ったように、私は自分が物によって見つめられていると感じ、私の能動性は受動性を同一だということになる」『見えるものと見えないもの』

 

実際のところ、まったくまなざすことのできない何らかのもののまなざしが問題なのだ。私たちがそれに対して根本的に露呈されているものーーつまり現前ないし現前の汚染は絶対に私たちをまなざすことがない。それは絶対的な無関心だ。そこには私たちに向けられたいかなるまなざしも存在しない。私たちをまなざすためのものは何ひとつないのだ。そして、まさに私たちをまなざすものは何もないということこそが、私たちを絶対的に露呈されたものにするのである。したがって、私たちをまなざすものは何もないということがまなざしなのである。現前とは、まなざしのこの無、無関心のこの無にほかならない。

 

否定性の平面の述語は、同時に実存(存在)という観念にとどまりつづけているが、私たちが主張したいのはそういったことではなく、存在そのものとしての無が、現前とともに到来するということなのだ。現前とは無以上のものである。現前が生じるという否定性は、おそらく否定の否定という二重性として現れるが、この否定性はいかなる総合にも至らず、その強度が止揚されることはない。それは止揚の止揚を含むあらゆる止揚の宙吊りなのである。

まなざしの無、この無に対して私たちは絶対的に露呈されている。なぜなら無は輪郭線を引かず、私たちが基礎づけたり構成したりすることもないからだ。まさにこのような意味で、私たちは絶対的に露呈されている。そのようにして露呈は、場の絶えがたさ、自己自身において維持することの不可能性、みずからを維持することの不可能性、実体=下に立つもの[sub-stance]ないし主体であることの不可能性、みずからを維持することの不可能性なのだ。だからこそそれは自己からの脱出であり、経験なのである。そして、この非人称的なものへの脱出、無関心とその強度への脱出は他化すなわち変形の潜勢力であるところの激しい衝撃を引き起こす。要するに、現前とは「私たちを」私たち自身から、私たち自身の不在から脱出させるのだが、にもかかわらずこの不在において私たちは変形するのである。空虚とは、変形の潜勢力に内在する隔たりにほかならない。

 

この変形の中性的で強度に満ちた空間こそが経験であるーーそれはつねにアイステーシス的で、つねに他化するものなのだ。他化とは現前への到来の特異な様態であり、世界の現前なのである。ーーそのような現前はけっして実体的ではなく、つねに様態をもち、様態変化するものなのである。

 

 

付記ーー死とイメージ

 

ブランショの分析は、死が硬直する瞬間、彼自身の言葉で言えば死の停止=死の宣告がその出発点となっている。これは、死体の奇妙な類似にかかわっている。これは、死体の奇妙な類似にかかわっている。彼のテーゼは、死体はそれ自身に似ており、死体とは類似の場そのものであるという逆説的なものだ。この主張から、私たちはある重要な帰結を即座に導き出すことができる。その帰結とは、分析の由来が何に対してであらゆる類似を喪失することや、死体が何でもよい何かへと生成することをも意味する死体の恐るべき形象変化にあるわけではないというものだ。ここでの死体は、絶対的な瞬間のなかで、時間の停止(あらゆる時間性の宙吊り)によって見張られ、凝視されているーー死体とはまさしく、類似の瞬間なのだ。

 

別の言い方をすれば、あらゆる類似の終わり、類似が自己から決定的に脱すること、不可逆的な危機、類似の絶対的な崩壊につねに先行している。

 

死体の無関心、死体の生気のなさは、最終的には死体が横たわっている場所を覆いつくすことしかなりえない。それは不安をかきたてる決定不能性のどん底であり、もはや自己へと回帰することのありえない可逆性のカタストロフである。死体はそこに現前し、生気を欠き、無関心なまま、同時に場所を我有化したのであり、さらにはーーすでに彷徨を始めてしまったのである。

 死体の見かけ上の可逆性は、決定不能性の無限の瞬間に運んでくるーーこの可逆性は、死体を本質的な彷徨に委ね、中性性へと導く不確かで曖昧な道へと通じている。死体の現前の両義性は、「想像上のものの二つの解釈」が語るイメージの二重体制の典型的な表明ないし提示である。この両義性は、そのような体制の事例であり、例証なのだ。一方でイメージは、可逆性-類似という打開策によって形象を保存することで仮象を救う。つまり、そこにはイメージが安らっているのだ。他方でイメージは、根本的な不安や決定不可能性を表している。

 

「かくしてイメージは、存在の排除しえない残滓が私たちに向けて押しつけてくるあの不定形の虚無を鎮め、人間化するというその機能のひとつを果たすのだ。イメージは虚無を清掃し、浄化し、愛すべき純粋なものにするのである」。

 

イメージとは一体何であろうか。何も存在しないとき、イメージはそこにみずからの条件を見出すが、そこでイメージは消え去るのだ。イメージは中性性と世界の抹消を要求し、そこでは何ものも肯定されえない無関心な底部にあらゆるものが立ち返ることを願い、空虚の中でなおも存続するものの内奥を目指す。これこそがイメージの真理なのだ。しかしこの真理はイメージを超過する。イメージを可能にするものは、イメージが停止する限界なのである。

 

 

おそらくは盲目であろう神

 

不在のまなざしに対するまなざしを欠いた現前もまた、怪物的な形象をもっている。それは、おそらくは盲目であろう神の形象だ。「私たちは「死んだまなざし」の魅惑のもとに生きている。いやむしろそのもとに生き延びていると言ってもいい。」

 

類似の支配は中性性の支配であり、それゆえみずからに似るイメージは「何でもよい何かになる」形象なき<誰か>の耐え難いイメージなのだ。

 

西洋の存在論が望んだような純粋な生の絶対的な現前ではなく、神は死としてしか現前しないのだ。みずからを死に至るまでイメージのなかに置き入れることで、神は死の空間としての表象空間を開いたのであろう。

つまり死体とは、イメージのプロトタイプが存在しないこと、現前がイメージへと到来することを、最も高い強度を伴いながら示すイメージであり、あらゆる把握や作品化や反復、可逆性ないし他性への止揚に抵抗する「始源的な」両義性だということである。

 

絶対的な否定性というこの無によって、現前 - イメージは、不在の現前となることでひとつの肯定性のようにみずからを基礎づけることになってしまうだろう。他化とは、根本的な他性の運動であり、この他性はみずからを超過し、それゆえにこそ他性の把握を不可能にするのである。

 

 

世界の現前、イメージ

 

出来事、すなわち特異性は、つねに二重化されている。

というのも、現前の経験としての出来事は、他性ないし他化の潜勢力を表出しているからである。

 

イメージとは、それ自身の過剰であり、炸裂であるーーつまりそれ自身の例証である。

 

現前は、みずからに似ず、決定不可能性や無関心や強度といった底においてまさしく底が抜け、それ自身とは根本的に異なるようになり、生気を欠いた状態や固定化の魅惑の力において(おのれを)自己から無限に差異化していく。

このような現前は、変形の潜勢力へと通じているのである。

 

イメージはつねにひとつ以上のものなのである。

 

単数形の現前よりもむしろ複数形の現前について語る必要があるからこそ、イメージとは現前への到来であり、現前という潜勢力の現動化であり、変形可能性の形骸化なのである。

 

 

現前の透明さ

 

 公現が光に由来するものとしての現出の主な現象であり、より正確に言えば現出の図式であるとするならば、透明さは自己自身としての光、現前を開き、その亀裂が現前そのものであるような内在する隔たりとしての光であろう。

それは色の差異であり、その強度だ。

 

透明さとは、見えるものでも見えないものでもない現前。すなわち強度なのである。

 

 

訳者あとがき

 

本書に書かれているとおり、「他化」はバタイユの「変質」というキーワードにもとづいているが、マンチェフにとっての「他化」は質の落ちる悪い方向への変化とはなんら関係なく、ただひたすらに他になること、別様になることを意味する語である。彼にとっての「もの」=質量は、外部から「かたち」=形相を与えられ、それによって支配されるような受動的な何かではなく、むしろ「もの」に単一の実体はありうるはずもなく、すべては様態となり、様態は「実体の支配を離れて冒険する」。

 

『 世界の他化 ラディカルな美学のために』ボヤン・マンチェフ/著、横田祐美子/訳・井岡詩子/訳より抜粋し、流用。