生きること=失うこと
ヒースクリフの死期が近づいた。
「ネリ、何かふしぎな変化が忍び寄ってきていて、おれはもう、その影にのみこまれているらしい。おれは、日々の生活にすこしも興味がなくなって、食うこと飲むことも、ほとんど忘れてしまった。」(『嵐が丘』阿部知二訳、岩波文庫、251ページ)
こうして彼の口から「変化」について言及されるが、この科白はある意味、小説が終わりに近づいたことを知らせていると考えられる。日々の生活に興味が失われたということは、これまでネリーの口を通して描かれてきた日々の生活が抱えるある種の興味が失われつつあるのを告げいるようだ。小説は、続いているときは悠々と進んでいくが、終わるのは難しい。上に引用した科白は終わりに向かう coda のようなポイントである。
「おれにとっては、いったい何ものがキャスリンと結びつかないか、何ものが彼女を思いおこさせないか。おれがこの床を見れば、敷石に彼女の顔があらわれずにはいない! […] 彼女の面影が、おれをとりかこんでしまっている! そこいらのありふれた男や女の顔が ―― いや、おれのこの顔もが、彼女の顔に見えてきて、おれをなぶりものにする。世界全体が、かつて彼女が生存して、そしておれは彼女をうしなったという、おそろしい覚え書きの集合体なのだ。」(前掲書、252ページ)
彼にとって生存は喪失との接触であった。彼は若くして愛する者を失い、その面影をたどるようにして生きてきた。だが、世界全体がその面影を歓喜するあまり、生きることはただの責め苦でしかない。生きることとはそうした悔悛の念なのだろうか。人を動機づけ、生に耐えさせるのは、夢ではなく、なんらかの失われた思い、喪失感、そしてそれに対する責め苦といったところなのかもしれない。人生は出会いに溢れている。明日との出会い、明後日との出会い、来年との出会い、というように。だが同時にわれわれは毎日、そして一瞬一瞬、喪失を経ている。今日一日の終わりは、今日一日の喪失である。人は過去という思い出を増やしながら生きていくが、思い出は「失われた時」である。生きることとは往々にして失うことなのだろう。
「ネリ、何かふしぎな変化が忍び寄ってきていて、おれはもう、その影にのみこまれているらしい。おれは、日々の生活にすこしも興味がなくなって、食うこと飲むことも、ほとんど忘れてしまった。」(『嵐が丘』阿部知二訳、岩波文庫、251ページ)
こうして彼の口から「変化」について言及されるが、この科白はある意味、小説が終わりに近づいたことを知らせていると考えられる。日々の生活に興味が失われたということは、これまでネリーの口を通して描かれてきた日々の生活が抱えるある種の興味が失われつつあるのを告げいるようだ。小説は、続いているときは悠々と進んでいくが、終わるのは難しい。上に引用した科白は終わりに向かう coda のようなポイントである。
「おれにとっては、いったい何ものがキャスリンと結びつかないか、何ものが彼女を思いおこさせないか。おれがこの床を見れば、敷石に彼女の顔があらわれずにはいない! […] 彼女の面影が、おれをとりかこんでしまっている! そこいらのありふれた男や女の顔が ―― いや、おれのこの顔もが、彼女の顔に見えてきて、おれをなぶりものにする。世界全体が、かつて彼女が生存して、そしておれは彼女をうしなったという、おそろしい覚え書きの集合体なのだ。」(前掲書、252ページ)
彼にとって生存は喪失との接触であった。彼は若くして愛する者を失い、その面影をたどるようにして生きてきた。だが、世界全体がその面影を歓喜するあまり、生きることはただの責め苦でしかない。生きることとはそうした悔悛の念なのだろうか。人を動機づけ、生に耐えさせるのは、夢ではなく、なんらかの失われた思い、喪失感、そしてそれに対する責め苦といったところなのかもしれない。人生は出会いに溢れている。明日との出会い、明後日との出会い、来年との出会い、というように。だが同時にわれわれは毎日、そして一瞬一瞬、喪失を経ている。今日一日の終わりは、今日一日の喪失である。人は過去という思い出を増やしながら生きていくが、思い出は「失われた時」である。生きることとは往々にして失うことなのだろう。