罪滅ぼしに…
今月1日からの消費税増税に関連して事前にお知らせした通り、協賛楽座において一部サービスの貫高交換率変更を実施しました。
協賛楽座内にある「戦国のすべて」など、頭に〔弊社運営〕と付くサービスもその対象に入ってたんですが、10月分が既にシステム登録済みで間に合わなかったため、次の11月分から変更後の獲得貫高が適用されます。
具体的には、25,000貫から23,000貫に獲得貫高が変更となります。急なお知らせで誠に恐れ入りますが、ご理解とご了承のほど何卒よろしくお願い申し上げます。
なお、10月31日までに上記のサービスに楽座経由で登録された場合は、変更前の貫高のままですのでご安心下さい。
...ということで、景気の悪い話だけして終わるのもしのびないので、おわびにその「戦国のすべて」から掲載中のコラムを一本供出させました。
10月27日のアプリのクイズで、”小宮山友晴”という武田氏家臣について出題されたことを覚えてますでしょうか?
あの短いクイズの解説文だけでも、「ええ話やなぁ~(;∀;)」と涙腺が緩んでしまうものだったので、この小宮山友晴の逸話コラムを、ブログをご覧のみなさんへ無料でお届けしたいと思います。それではどうぞ。
武将列伝:小宮山友晴
蟄居処分を命じた主を恨まず、その滅亡に殉じた
小宮山友晴は、武田氏の侍大将で使番十二人衆の1人であったが、歯に衣着せぬ発言で上役にも容赦なく諫言したので主君の武田勝頼に疎まれた。
1575年の長篠の敗戦のときも敵前逃亡した武田一族衆を非難し、勝頼の側近である跡部勝資や長坂光堅(長閑斎)、秋山摂津守、小山田彦三郎とも激しく対立。のちに長坂光堅の讒言もあって蟄居処分となってしまった。
1582年3月に織田信長が武田領へ侵攻すると、武田親族衆の木曽義昌や穴山梅雪は寝返り、武田信廉や武田信豊も戦わずに逃亡していった。わずか50名ほどの従者となって天目山に追い詰められていた武田勝頼に対し、小宮山友晴は弟の昌親など一族を連れて駆けつけ、侍大将の土屋昌恒と秋山光綱にお目通りを申し出た。
「押し籠めを破って駆けつけましたが、武田譜代の臣が最後の戦いに臨めぬのは末代までの恥辱。蟄居の許しを請い、御盾となって高恩の万分の一にも報いたい」
勝頼は友晴の忠義に感動し蟄居を解いて戦いに加えた。友晴は奮戦したが、衆寡敵せず鳥居畑で戦死した。しかし、この友晴の忠節に報いようとしたのか、勝頼は弟の昌親に母妻を連れて落ち延びるように命じている。この昌親はのちに徳川家康の家臣となるが、このことで友晴の忠義の逸話が後世に伝えられたのである。
武田勝頼の墓(景徳院、山梨県甲州市)
以上、「戦国のすべて」からの記事転載でした。
罪滅ぼしになりましたでしょうか...
凸 無料で全国3,000城をスタンプラリー!!
「ニッポン城めぐり」 はここからGET↓



凸 足軽くんがアニメーションLINEスタンプになった!
「足軽くんコレクション」 はここからGET↓

