平昌オリンピックと歴史 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ

平昌オリンピックと歴史

 

今日この後20時から平昌(ピョンチャン)オリンピックの開会式が始まるそうです。過去、このブログで夏冬合わせていったい何回オリンピックの話をしたかを振り返ると、時の流れの速さに失神しそうなのでやめておきましょう。

 

ま、そもそも城や歴史のブログなのにオリンピックをネタにしてる事自体どうなんだという議論もありますが、何にでも“歴史”は必ずあるもので、これだけブログを書いていれば、だいたいどんな話でも最後は戦国時代の話に持っていけてしまうのです(´・∀・)ノ だからついつい関係ない時事ネタから入っちゃうんですねー。

 

じゃあ試しに冬季五輪の花形、「スキー」の歴史をひもといてみましょうか?

 

明治44年(1911年)1月12日、当時のオーストリア・ハンガリー帝国の軍人テオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐が、ここ上越市において日本で初めてスキーの指導を行いました。これが日本のスキーの始まりです。

上越市総合博物館公式サイトより引用)

 

あ、明治44年でしたか..(  ゚ ▽ ゚ ;) わ、わりと最近なんですね...。

ちなみに、このスキー発祥の地新潟県上越市には「日本スキー発祥記念館」というものまであるそうです...。さすがの上越市でも、上杉謙信が春日山城本丸からシュプールを描きながら颯爽と降りてきた、という記録は残ってないようです。

 

方向性を変えましょう…。

 

開催地韓国と日本の戦国時代の関連を考える時、やはり最初に思い当たるのは文禄・慶長の役でしょう。ここで戦いの是非を論じるものではありませんが、当時の豊臣軍の進軍路をつぶさに見てみると、四番隊の毛利勝信(森 吉成ともいう)が、まさに平昌を通っていました。

 

ただ、勝信が平昌のある江原道に進軍できたのは文禄の役の話で、続く慶長の役では、日本の再襲来があることを予期して防備を固められていたこともあり、豊臣軍は江原道にすら到達することができていません。

 

その後、各大名たちが飢えと慣れない寒さに苦しんで撤退を余儀なくされたのはご存知のとおりです。壮絶な攻防となった蔚山城の戦いでは、立ったまま凍死する兵もいたというから驚きです。

 

最近のオリンピック関連のニュースでも頻繁に報道されている通り、真冬になると現地は厳しい寒さに包まれます。秀吉の命令とはいえ、そんな中での戦いを余儀なくされた勝信たちの苦労は計り知れないものがあります。

 

ところで、毛利勝信って、大坂の陣で活躍した毛利勝永の父親なんですが、Wikipediaによると、勝信の子孫として3人の人物の名前があげられています。

 

毛利吉盛 - 江戸時代末から明治にかけての土佐藩士。弟である毛利吉雄(出羽守)の子孫。御馬廻役250石。のち京都留守居役。新政府にて静岡県参事。

森小弁- トラック諸島(現在のミクロネシア連邦チューク州チューク諸島)で活躍した実業家。
マニー・モリ - ミクロネシア連邦の第7代大統領。

Wikipedia 毛利勝信の項より引用)

 

土佐藩、トラック諸島、ミクロネシア・・・。あれ!?

 

寒さに苦しんだ勝信の記憶がDNAに刻まれて、子孫たちは本能的に南方を目指した!? 

 

信じるか信じないかはアナタ次第(・∀・)/

さ、家帰って開会式でも見よ。

 


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