戦国随一のPM
前回のブログから、なんだかんだで続編のような形になってしまいました。今日は、本人は決して望んでいたわけではないのに、結果的に他に類のないプレイングマネージャー(PM)になってしまった島津義弘の生涯を追ってみましょう。
義弘の初陣は天文23年(1554)の岩剣城の戦い。時に義弘19歳。この初陣で義弘は一隊を率いて戦い、華々しく戦国デビューを飾ります。
弘治3年(1557)の蒲生氏との戦いでは自ら敵と一騎打ちを演じ、終わってみれば鎧に矢が5本刺さっていていたというから危険極まりありません。いまどき落ち武者でもなかなか5本刺さってません( ̄ー ̄;
日向伊東氏と境界を接するようになった島津氏は永禄9年(1566)、伊東氏の三ノ山城に攻め寄せますが、ここでも義弘は負傷&島津軍も敗退します。
そして一躍義弘の武名を高めたのが元亀3年(1572)の「木崎原の戦い」。この戦いでは、攻め寄せた3千余の伊東軍を、絶体絶命のはずの義弘はわずか300人で撃破します。当然ここでも自ら先頭に立って戦い、またしても一騎打ちで2人倒したと言うから、もうここまできたら完全に三国志の世界です。
この戦いでライバル伊東氏を逐い、後の耳川の戦いや肥後侵攻に戦勝した島津氏は、押しも押されぬ九州一の大名になります。ここまで来ればさすがに義弘も前線に立つ必要もないでしょう。
と安心したのも束の間( ̄□ ̄;)!! 第二章はここから始まります。
まず、九州平定目前に豊臣秀吉による九州征伐が開始されます。起死回生を期して豊臣の大軍に挑んだ根白坂の戦いで、義弘はまたもや自ら抜刀して戦うもののあえなく敗退。参考までにこの時すでに50歳オーバー( ゚Д゚)ノ
さらには豊臣政権下で行われた文禄・慶長の役では、兄義久の絶妙なサボタージュによって、義弘が居城を出立した時に従った兵はたったの23人。もはやちょっとした合宿の規模感です。その後、兵は三々五々集まったらしく、借りた船でなんとか朝鮮に渡ることには成功…。
朝鮮での日本軍はご存じの通り当初破竹の勢いで進軍します。が、秀吉が没するに至り、全軍撤退の命が下されます。ここからの義弘がまた一段と破れかぶれなのです。
まず、一般によく知られるのは[鬼石曼子(おにしまづ)]の異名を取った「泗川の戦い」。この戦いで義弘は襲ってきた20万の明・朝鮮軍をたった7千で打ち破るという前代未聞の大殊勲を上げます。もちろん誇張が含まれるわけですが、もう誇張くらい全然許してあげられます(TωT)
さらに、あまり知られてませんがこの泗川の戦いの後に起こった「露梁沖の戦い」では、半島に取り残された小西隊を救うべく、義弘や立花宗茂が明の水軍と激突。劣勢の島津軍は次々船を沈められ、ついに義弘の船も浸水し万事休す、というところで辛うじて配下の船に助けられます。
ボロボロになりながらも帰国した義弘ですが、まだ休ませてもらえません。
そう、帰国後まもなくして起こった「関ヶ原の戦い」です。万単位の動員が可能なはずの島津家なのに、またしても国許から兵は来ず、義弘はたったの1,500人で関ヶ原に布陣します。結果はみなさんご存じ、「関ヶ原の退き口」で知られる敵中突破でなんとか戦場を脱出し、そこからさらに半月ほどかけて船で薩摩へ帰還します。薩摩にたどり着いたのはわずか数十名。
ちなみにこの時義弘65歳、人生最後の戦いにおいてもなお、それまでの人生を総括するようなスリルが待ち受けていたわけです。
このように戦歴をつぶさに振り返ってみると、この島津義弘という武将、大大名の当主の実弟で戦にもめっぽう強いというのに、何と言うかこの常にギリギリな感じを醸し出してくれる稀有な存在なのです。
だからこそ今でも多くの人に支持されているのかもしれません。
ぜひ大河で見たいもんです(・∀・)//
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