佐和山城と磯野さん、そして本能寺 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ

佐和山城と磯野さん、そして本能寺

つい先日埋蔵文化財のことをブログで書いたところですが、昨日、滋賀県文化財保護協会が彦根市の松原内湖遺跡で、元亀元年(1570)に信長が佐和山城攻めの際に築いた堀切などの遺構を発見したと発表しました。(現地説明会が1/25にありますヨ(・ω・)/)

近江佐和山城と言えば、一般的には「石田三成の城」のイメージがあるので(たぶん...)、なんで信長が三成を攻めてんの?と思う方もいるかもしれません。


『佐和山城図』(個人蔵)

佐和山城は実は鎌倉時代くらいから存在していて、信長が攻めた頃の佐和山城主は浅井氏家臣であった磯野員昌(かずまさ)という武将なのです。

この磯野さん、浅井家中でも猛将の呼び声高く、姉川の戦いでは劣勢の中で織田軍の13段の構えのうち11段まで突破した、“姉川十一段崩し”と呼ばれる離れ業をやってのけたという伝説の持ち主(あくまで伝説)。

さらに姉川で敗れた後も居城の佐和山城に籠もって戦いますが(冒頭の遺構はこの時のものだとか)、籠城半年あまり、主君長政からの援軍もなくついに降伏します。

降伏後、近江高島郡を与えられるという異例の厚遇を受け(離れ業伝説のおかげ?)、信長の甥の津田信澄を養子に迎えます。その後しばらくは信長配下として働くものの、天正6年(1578)に突如として逐電してしまいます。

『信長公記』には、「上意を違背申し、御折檻なされ」とあって、何らか信長の逆鱗に触れたことが理由と考えられていますが、ここは諸説あってよく分かってないところです。

ところで、今日(23日)の産経WESTで、“「本能寺の変」黒幕は… 作家・矢的竜さんが新作「光秀の影武者”というニュースがありました。なんでも、彦根市在住の作家が、本能寺の変は磯野員昌の恨みと知略によるものという、新たな切り口で『光秀の影武者』という小説を出版したとか。

確かに、光秀も磯野さんも外様だし、近江に居城があったし、津田信澄とも縁が深いし、二人とも“折檻された嫌な思い出もあるし、ということで意外と共通点が見つかります( ̄Д ̄;;

磯野さんが逐電した後の行方は分かっていないわけで、そういう意味では復讐のために境遇の似てる光秀をそそのかした、と考えるのもあながち荒唐無稽とは言えないかもしれません。

「本能寺の変の真相は?」と「その“しぶとさ”が憎めないのは?」の選択肢に、磯野さん、入れとけばよかったかなー(;´▽`)


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