【籠城戦】周辺諸侯を震え上がらせた政宗の撫で斬り
うーん、実に久しぶりな気がします。「ピックアップ籠城戦」。大変ご無沙汰しております(((゜д゜;)))
特にこれといった理由もないのですが時間が空いてしまいました。今回は、今までにこのシリーズで取り扱ったことのなかった、東北地方の戦いをピックアップしてみました。お・そ・ろ・し・やー\(゜□゜)/
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周辺諸侯を震え上がらせた政宗の撫で斬り
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後に東北の雄となる伊達政宗が、父輝宗から家督を相続したのは弱冠18歳の時であった。天正12年(1584)、輝宗もまだ41歳の働き盛りの頃である。
これだけ早い家督相続には理由があった。ひとつは政宗の母である義姫に、政宗弟の竺丸を次期当主に据えようとする動きがあり、これを抑えるためであり、さらには、当時の伊達氏を取り巻く状況にもその訳があった。
陸奥・出羽を制するには、白河から岩瀬・安積・安達、信夫を経て仙台へと続く長大な仙道地方を制覇することが必須であったが、この頃の仙道、特に南奥州の各地では、蘆名・二階堂・結城・岩城・石川・白川らの諸氏が割拠し、伊達氏の南進を阻んでいた。これらの勢力との対決を考えると、情勢が安定しているうちに家督移譲を行い、輝宗の後援の下、家中一丸となって戦う体制を構築する必要があったのである。
政宗が正式に家督を譲られると、直後からこれを祝賀する者が米沢城に相次いで訪れた。その中に、安達郡小浜城主、大内定綱という武将がいた。定綱は蘆名や佐竹らの間を渡り歩く小勢力であったが、今後は米沢に居を移して伊達氏に従属したいと申し出たのだ。
政宗はこの申し出に大いに喜んだ。定綱の小浜塩松は仙道の中央にあって、これを抑えられれば仙道制覇への大きな一歩となるからであった。政宗は定綱に米沢城下において屋敷を与え、これを丁重に遇した。定綱もこれに対して謝礼を述べるとともに、そのまま米沢で越年した。
天正13年(1585)正月、定綱は諸事始末を終えた上で妻子を伴って改めて戻ってくると言い残し小浜城へ帰っていった。しかし、それを最後に定綱が再び米沢に現れることはなかった。不審に思った政宗は小浜へ使者を差し向けその真意を質すが、定綱の答えは「伊達に服するつもりなど毛頭無い」というものであった。蘆名氏の圧迫に服して再び誼を通じていたのだった。
この変節に激怒した政宗は、家中の反対を押し切って裏で糸を引く蘆名領への侵攻を行ったが、これが不首尾に終わるとすぐさま矛先を変え、この謀反の張本人である定綱の討伐に乗り出した。
同年閏8月、政宗軍は小浜城の支城である小手森城へ襲いかかった。小手森城は標高500m程の山に築かれた城塞であったが、その実態は砦のようなもので要害堅固とは言い難く、城兵もわずかに500名を数えるのみであった。
伊達軍の攻撃は苛烈を極めた。蘆名氏の援軍なしでは定綱も単独で後詰めはできない。孤立した小手森城では、城主である菊池顕綱が城を開けて降伏することを申し出たが、政宗はこれを許すことなく力攻めを断行、城方の抵抗をものともせずに即座に落城させた。
しかし、定綱に愚弄された政宗の怒りは小城をひとつ落としたくらいでは収まらなかった。城主菊池氏以下、城兵は言うに及ばず、女子供に至るまで、城内に避難していた者のすべてを殺害したのである。さらには、牛や馬など“生”のあるものはすべてその刃から逃れることはできなかったという。
800余人を切り捨てたとも言われるこの殺戮は、「小手森城の撫で切り」と呼ばれ、周辺の敵対勢力を戦慄させた。大内定綱も、恐怖のあまり小浜城を自焼して蘆名氏のもとへ落ち延びる始末であった。
これまで敵同士であっても、数代前からの複雑な姻戚関係で結ばれていた東北諸豪族の間には、戦をしても一方が壊滅的になるまでの勝敗はつけないという暗黙の了解が存在した。しかし政宗はこれを否定し、自分に敵対する者がどのような末路を辿るのか、この戦いでまざまざと見せつけたのであった。
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当時の人々にとってはまさに、新人類登場という気分だったでしょう。まぁ、新当主ということでわりと張り切っていたということも考えられますが...。
関係ないですけど、天正13年(1585)って本能寺の変の3年後ですから、すでにこの頃信長はいないんですねー。改めて、政宗が遅れてきたヒーローであることを実感(゚Д゚)!


