【籠城戦】長州藩、単独で欧米列強と激突! | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ

【籠城戦】長州藩、単独で欧米列強と激突!

以前ブログで「台場」について取り上げましたが、今日のピックアップ籠城戦はそんな台場を舞台に繰り広げられた“欧米列強”との戦いです。今回は戦国時代の戦いでは起こりえないことばかりで、戦国脳になっている方には新鮮です。

いやぁしかし、日本の中のたった一つの藩が単独で外国に喧嘩を売ったわけですから、気概に満ちあふれていたと言うか、ただ無知だったというか、今考えればすごいことです…。

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長州藩、単独で欧米列強と激突!
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嘉永6年(1853)、アメリカのペリー艦隊が日本に来航したことに端を発したその後の開国・開港の流れは戦わずして外国に屈したという印象を国内に与えた。その結果、これを批判する勢力は外敵討つべしという攘夷運動に結集し、それまで開国・開港を進めていた幕府も攘夷を唱えざるを得ないところまで追い込まれた。

このような流れの中、攘夷運動の中心であった長州藩は、独自に攘夷を決行することを決断、文久3年(1863)5月に下関周辺の砲台と軍艦2隻からアメリカ商船に対し無警告で砲撃を仕掛けた。また同月にはフランス艦、オランダ艦にも砲撃を仕掛け、相手方が攻撃を予期していなかったこともあり、これらの攻撃はすべて成功した。

だが長州藩の快進撃はここまでであった。自国船を砲撃されたことを知ったアメリカが横浜にいた軍艦ワイオミング号を急ぎ長州に向かわせたのである。

6月になり下関海峡に入ったワイオミング号は砲台の射程外から長州藩の軍艦3隻を砲撃しこれを撃沈・大破させる。そもそも長州藩海軍の軍艦とワイオミング号では性能に大きな差があり、これまでのように不意打ちを行えない長州藩海軍に勝機はなかった。

さらに同月、フランス艦隊も報復のため下関海峡に入った。艦隊は海上から陸上の砲台へ向けて砲撃、これを沈黙させた上で陸戦隊を上陸させ砲台を占拠した。フランス軍は長州藩の大砲を破壊し周辺の民家を焼き払った後に撤退した。

これらの敗北にも攘夷の志を捨てなかった長州藩は、欧米列強に対して軍事力の強化を推進、これによって武士以外の身分のものも含まれる高杉晋作の奇兵隊などが結成されることとなる。

この後、同年8月、京都において八月十八日の政変が起こり攘夷派公家や長州藩が中央政局から排除され、攘夷派勢力は後退する。
だが長州藩は引き続き攘夷の姿勢を崩さず、翌元治元年(1864)に至るも下関海峡は封鎖状態のままであった。

これにより、貿易船の航路が封鎖され経済的に被害を被っていること、また長州藩の攘夷継続で開国政策の遅れを心配するイギリスは長州藩を徹底的に叩く方針を打ち出す。これに同意したアメリカ、フランス、オランダは4カ国の連合艦隊で下関を攻撃することを決定する。

この時、イギリスに留学していた長州藩士、伊藤博文と井上馨はこの攘夷戦争に全く勝ち目がないことを理解していたため、急遽帰国し藩首脳部の説得にあたるが翻意させることは出来ず、説得は失敗に終わる。

そして同年8月、17隻5,000人の兵力を誇る4カ国連合艦隊が長州藩に攻撃を開始した。

艦隊は陸上の各砲台に猛烈な砲撃を仕掛け、続々と砲台を沈黙させていく。長州藩側も奇兵隊を中心に反撃するが、彼我の戦力差は歴然としており、一方的な戦いとなった。また海上からの砲撃に留まらず、前田砲台や彦島には連合国軍の陸戦隊が上陸。陸戦隊同士の戦いでも最新鋭の装備を持つ連合国軍に長州藩は全く歯が立たなかった。そして砲台周辺は焼き払われ大砲は持ち去られるという被害を生み出した。

惨敗を喫した長州藩は、海峡通行の自由や砲台撤去、賠償金支払いなど連合国軍の要求を受け入れ講和を成立させる。そして、この下関戦争の敗戦によって進んだ欧米文明を理解し、攘夷の不可能を悟った長州藩は、前年に同じく薩英戦争に敗北した薩摩藩と共に攘夷の方針を翻し、その後の倒幕運動へと進んでいくことになるのである。

なおこの戦役の際、前田砲台に上陸した連合国軍にイギリス人の従軍写真家ベアトが同行しており、彼によって撮影された写真は広く配信され、今も残っている。またこの前田砲台は「長州藩下関前田台場跡」という名称で国史跡に指定されている。 
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前田台場

まさにこの写真↑がそれです。これはいけません
( ̄□ ̄;)!! お台場に観光に来ている外国人とはわけが違います。戦いを仕掛ける相手を間違えましたね…。