【籠城戦】豊臣水軍に包囲された海の孤城 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ

【籠城戦】豊臣水軍に包囲された海の孤城

伊豆下田と言えば、幕末期にペリー提督(当時はペルリだったらしい)が艦隊を引き連れてやってきたところとして有名ですが、戦国時代、同じく豊臣の大艦隊が襲来したことをご存知でしょうか?

豊臣秀吉による北条征伐である小田原の役(1590年)では、関東の多くの城で籠城戦が展開されましたが、武蔵忍城などと並んで結構長いこと持ちこたえたのが伊豆下田城なのです。

今回はそんな下田城の戦いを取り上げてみました。

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豊臣水軍に包囲された海の孤城
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中央において豊臣秀吉が統一政権を樹立しつつある時、関東北条氏の当主氏直は周辺へ領土を拡げる一方、叔父の氏規を上洛させ秀吉に謁見させるなどして融和策にも心を砕いていた。

徹底抗戦か降伏か、容易に意見がまとまらず秀吉との間に微妙な緊張関係が続いていたさなか、北条氏に激震が走った。いわゆる「名胡桃城事件」である。秀吉の裁定によって、上野沼田の地の3分の2を北条が、残り3分の1を真田が領有していたのだが、あろうことか沼田城代の北条家臣、猪俣邦憲が真田氏の名胡桃城を奪い取ってしまったのだ。

自らの顔に泥を塗られた形となった秀吉は激怒し、ここに小田原征伐が諸大名に発せられたのである。天正17年(1589)の終わりより全国から続々と軍勢が集結し、複数の侵攻路をとって北条領へと迫った。その数20万を超えたという。一方、事ここに至って北条氏も臨戦態勢を整え、関東各地100ヶ城あまりに臨時挑発した農兵10万以上の兵力を籠め、長期戦を挑んだ。

この北条方支城のひとつが伊豆下田城である。下田城にはかねてから重臣清水康英が城将として配され、康英の一族・郎党や伊豆衆、さらには小田原からの援軍として江戸朝忠らが派遣されていた。しかし、これらを合わせてもその兵力は600あまりと非常に心許ないものであった。

明けて天正18年(1590)、豊臣方は水軍として長宗我部元親、九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明らが参陣し、駿河の港に集結していた。その数1万以上。3月には徳川水軍も伊豆半島沿岸に出没して安良里城・田子城などの北条方諸城を攻略、さらに4月には豊臣水軍が早くも下田沖に現れた。

しかし、豊臣方もうかつに下田城に手を出せない。下田湾口を扼する西側の岬そのものを城域として取り立てた下田城は、岬の周囲に複雑に入り組んだ入江を持ち、三方を海に囲まれた天然の要害である。

豊臣方は海上から砲撃するも切り立った岸壁はこれをまったく寄せ付けない。一方、加藤嘉明らの軍は下田湾へ入り、城の対岸に上陸し出丸である武峰を占拠した。また、他の部隊も陸路続々と城へ攻め寄せたが、勇将の誉れ高い康英の巧みな指揮と、城兵の働きによってこれらをたびたび撃退した。

豊臣方が下田城の予想外の抵抗によって城を落とせないでいる中、秀吉から諸将への通達があった。この通達により、長宗我部らの部隊を残してそれ以外の水軍はみな小田原城の攻撃へと回された。一方で、包囲軍が大幅に減少したとは言え、これまでの戦いによって康英ら籠城衆の消耗も激しかった。

4月20日、包囲軍の脇坂・安国寺からの矢文が城内に届いた。それは、降伏すれば城主以下すべての命を助けるという寛大なものであった。康英はこれ以上籠城を続けてもいたずらに犠牲者が増えるのみと決断、ついに4月23日、両名と起請文を交わし城を開けたのである。

豊臣の大軍が伊豆に乱入してから、実に50日あまりの籠城であった。

他の北条方支城のほとんどが降伏または数日の戦闘で落城した中で、下田城籠城戦は北条武士の面目を躍如した戦いであると言えよう。
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今では北条氏の代表的な城郭として有名な八王子城や山中城でさえ、たった1日で落城したことを考えると下田城はかなり持ちこたえた方ですが、何と言ってもやはり秀吉は物量が違います。

ペルリさんよりも恐ろしい、豊臣艦隊襲来の話でした。