【籠城戦】甲州武士の誇りを守った若き闘将 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ

【籠城戦】甲州武士の誇りを守った若き闘将

先日甲斐へ派遣していた家臣が、山本勘助を連れてきました。でかしたでかしたわんわん少々給料は高いですが、根気強く派遣しつづけたのが報われた思いです(涙々)




というただの自慢から入りましたが、今日は籠城戦シリーズ。(たまたまですが)そんな山本勘助が大改修したとも言われる城です。




前々回の籠城戦シリーズ「岩村城の戦い
」とは武田氏末期の籠城戦という点でちょっとかぶりますが、今回は高遠城の戦いをピックアップです。




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甲州武士の誇りを守った若き闘将


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天正10年(1582)2月、信濃木曽谷の領主、木曽義昌が主である武田勝頼に対して突如反旗を翻し、織田信長に内通した。義昌は武田家に属した際にその姫を迎え入れ、親類衆に列せられた重鎮である。謀反の理由は、苛酷な賦役や勝頼との不和などと言われるが、やはり長篠の戦い以降、凋落の一途をたどる勝頼に見切りをつけ、強者信長を選択した在地領主の本能であろう。




信長はこの内通を契機として武田討伐の動員令を下し、嫡男信忠を筆頭として河尻、滝川ら重臣の率いる軍勢を武田領に派遣した。また、三河の徳川家康、相模の北条氏政も時を同じくして武田領への侵入を開始した。




織田領との境界近くを守る武田の将たちはこれに大いに狼狽し、下条、小笠原、保科ら信濃衆は相次いで降伏・逃亡し、一門で勝頼の叔父にあたる武田信廉ですら、居城の大島城(下伊那郡松川町)を放棄する有様であった。




このような諸将の不甲斐なさを高遠城で切歯扼腕して見ていたのが、若き闘将、仁科盛信である。盛信は仁科の名跡を継いでいたものの、その父は武田信玄であり(信玄の五男)、その体内には偉大な父の血を色濃く受け継いでいた。




また、信玄の跡を継いだ異母兄勝頼からの信頼も厚く、それゆえに織田との攻防において重要拠点となる高遠城を盛信に守らせたのである。




その高遠城下にもついに織田の大軍が現れた。指揮を執る信忠は、父信長からの厳命もあって、盛信を侮って攻撃をしかけることはなく、まず降伏勧告の使僧を城へ差し向けた。




「国中の諸士がことごとく軍門に降る中、城を堅く守っていることは神妙である。我らに降伏し忠節を尽くせば所領は思いのままである。」


という使僧の口上に対して盛信は、


「我らはただ勝頼様の恩に報いるのみである。他の臆病な輩たちとは違う。信玄以来の武勇をお目にかけるゆえ、早々に城を攻められよ。」


と言い放ち、僧侶の耳鼻をそぎ落として信忠の元へと帰らせた。




ここに至って両者の決戦は不可避となった。3万とも5万とも言われる織田軍に対して、武田軍は3千。しかし、盛信以下、小山田備中や小山田大学など籠城衆の士気は高い。高遠のみ持ちこたえたところで、武田を救うことはできないと分かっていたのかもしれない。ただ、彼らを結束させていたのは甲州武士の誇りであった。




雲霞の如く押し寄せる織田軍に対して、盛信らはまさに死兵と化して戦った。戦後の織田方の資料でも高遠籠城軍の奮戦は称賛され、実際に織田方にも相当な損害があったと言われる。




しかし、屍を乗り越えて城へ襲いかかる織田の兵力は無尽蔵であった。後詰めの期待もできない籠城戦、最初から玉砕覚悟であった盛信は、もはやこれまでと十文字に腹を切り、その士卒は言うに及ばず女子供まで自害して果てたとも言われる。




裏切り・日和見・逃亡・・・、地に落ちかけた武田の武名を回復するのにそれは十分な働きであった。後に武田勝頼は甲斐において自害し滅亡するが、それまでの過程において盛信ほどの抵抗を示した将は他に見あたらない。




この戦いで織田軍の討ち取った首は400余りと言われる。首のない盛信の遺体は彼を慕う地元の農民によって手厚く埋葬され、今も五郎山に静かに眠っている。




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長野県伊那市にある高遠城址公園は、今では桜の名所桜としても知られる風光明媚な観光地です。




時を遡ること約430年前、この地においてひとりの若き武将が壮絶な戦いを繰り広げたことはそんな風景からはなかなか想像できません..。