【籠城戦】闘将宗茂の意地と清正の誠意 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ

【籠城戦】闘将宗茂の意地と清正の誠意

以前ブログで個人的に福岡の柳川城
へ行ったときの事を書きましたが、今回ピックアップ籠城戦に、その柳川城での戦いを取り上げてみましたメモ




どんだけ立花宗茂好きやねんっ」とツッコまれれば、何ら反論する術はありませんが、あまりこの柳川城周辺の戦いは知られていないマイナーな戦いかと思い、テーマにしてみた次第ですドキドキ




いつも寡兵で頑張る宗茂の「関ヶ原」です。


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闘将宗茂の意地と清正の誠意


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筑後柳川城主、立花宗茂は慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが行われた際、関ヶ原のほど近くにある近江大津城にあった。




決戦前、徳川・石田方双方が全国の諸大名に決起を促す中、宗茂は豊臣秀吉からの恩浅からずとして、いち早く西軍に身を投じて上方へ上っていた。




そして、毛利元康、小早川秀包、筑紫広門ら西軍諸将とともに、東軍に属した大津城(城主・京極高次)攻撃に参加し、これを開城せしめたのである。しかし、まさにこの大津城が開城した9月15日、関ヶ原では東西両軍の主力決戦が行われており、宗茂不在の西軍は惨敗を喫していた。




関ヶ原での西軍の敗報に接した宗茂は、総大将毛利輝元のいる大坂城へ急行し、輝元に豊臣秀頼を擁して籠城するように説得したものの、輝元は煮え切らず、失意のまま本国筑後へ帰国することとなる。




帰国した宗茂を待ち受けていたのは、周囲が敵ばかりという状況であった。南の肥後には西軍に属した小西行長領があったが、すでに加藤清正らに制圧され、北の肥前佐嘉城には、いったんは息子勝茂が西軍に属しながらも、その後東軍に鞍替えした鍋島直茂が在城していた。




直茂は、宗茂とともに北九州で評価を二分したほどの陪臣(宗茂は大友氏、直茂は龍造寺氏のそれぞれ家臣)で、このとき、息子の行動を償う意味でも、手柄を立てることに躍起になっていた。この直茂が10月20日立花領へ侵攻した。




鍋島勢約1万余(文献によって2~3万とも言われるが、この時の状況を考えると1万ほどが妥当であろう)、12段の備えに対して、立花勢も小野鎮幸らの部将が果敢に討って出て、両軍は江上(福岡県久留米市)や八院(福岡県大川市)において激突した。




立花勢は、1,000とも3,000とも言われる寡兵で、一時は鍋島勢の備えを大いに切り崩したものの、先鋒の安東五郎衛門・石松安兵衛が戦死、立花三太夫も乱戦の中で命を落とした。立花右衛門太夫父子も敵を横腹から攻め立て三町ほど切り崩すも、その後討死した。




主力の小野鎮幸も圧倒的兵力差の鍋島勢に対してよく戦ったが、次第に討ち減らされ、手勢の大半を討たれて自身も負傷するという敗北を喫した。




立花方は大将クラスの部将が多数討死するという損害を被ったが、それでも宗茂はなお柳川城にあって意気軒昂であった。宗茂を慕う柳川の領民たちも徹底抗戦を覚悟し、城に迫る鍋島勢に備えた。




そして直茂・勝茂父子がまさに柳川城を包囲した矢先、事態は新たな展開を見せる。西軍方ひしめく九州にあって直茂と同じく東軍に参じた加藤清正・黒田如水が柳川近くに着陣し、和睦へと動き出したのである。




特に清正は蔚山城の戦い(慶長の役)の際に宗茂に救われたことを忘れておらず、宗茂を死なせてはならじと懸命に宗茂に和議を説いた。宗茂も親身な清正の申し出に心打たれ、また、城下を戦乱に巻き込むことを良しとせず、ついに10月25日降伏を決断、柳川城は開城された。




その後、宗茂の所領は没収となったが一命は助けられ、清正から客分の待遇を得た。その後、加藤家に迷惑がかかることを憚り清正のもとを辞した宗茂は浪人するが、慶長11年(1606年)徳川幕府から奥州棚倉に所領を与えられ、さらには元和6年(1620)筑後柳川10万石に加増転封となり、ここに敗将立花宗茂は奇跡的に旧領返り咲きを果たしたのである。




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余談をひとつ。関ヶ原からの帰り道、実父高橋紹運の仇でもある島津氏の島津義弘と出くわした際、今こそ敵討ちすべきという家臣たちをなだめ、むしろ同じ西軍敗将どうし、協力して九州までの海路をともにしたという話が残っています。




はからずも自分の器の小ささが浮き彫りになってしまう、宗茂の男気ある話です。