【籠城戦】長岡城奪還!八丁沖の戦い
今回の籠城戦はひさびさに幕末期のものです。
わたくしも長岡城は知っているものの、こんな戦いの名は聞いたことありませんでした。しかも、八丁“沖”っていうくらいだから、いかにも海戦っぽいですが、なるほど読んでみて城にまつわる戦いである理由が分かりました。
では早速↓
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長岡城奪還!八丁沖の戦い
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幕末、新政府軍と旧幕府軍の間で行われた戊辰戦争と呼ばれる一連の戦いの中で、最も激しい戦いのひとつが新潟県長岡市周辺を部隊として繰り広げられた北越戦争である。
慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、新式の装備と兵の数で優位に立つ新政府軍が旧幕府軍を圧倒する形で、その戦線を徐々に北上させていった。
同年5月2日、新政府軍が中越地方の小千谷まで迫ると、長岡藩の家老・河井継之助は長岡への侵攻中止を求めて新政府軍との交渉を行う。
河井継之助は藩主の信任を受け家老に抜擢され、日本に3門しかなかったガトリング砲を持ち、ヨーロッパから新式銃を多く買い付けるなど装備の充実を図る一方、近代的な兵制改革を行うなど、多くの改革を行った人物であった。
この時、河井継之助と会談を行った新政府軍の軍監・岩村高俊はこの要望を無能な家老のただの時間稼ぎであると考え、一蹴した。岩村は河井の人となりを知らず、かつ長岡藩は小藩、まともに相手をする必要は無いと考えたためであった。
だが、この判断が後の新政府軍に大きな損害をもたらすきっかけとなった。
迫る新政府軍に対し、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成し、抗戦準備を進める中、中立を保ち無駄な抗戦を避けようと考えた河井であったが、その望みが絶たれたことで交戦を決意、5月4日に奥羽越列藩同盟に加盟する。
長岡藩と新政府軍の間で戦端が開かれると、まず戦局を左右する要衝である長岡より南方の榎峠を確保すべく、同盟により駆けつけた会津藩の軍勢と共に攻撃を仕掛ける。これにより、列藩同盟軍に包囲攻撃を仕掛けられた新政府軍は敗走、榎峠は列藩同盟軍のものとなる。
この報を聞いた新政府軍・北陸鎮撫総督参謀である山縣有朋は、自ら陣頭指揮を執り榎峠に隣接する朝日山奪取を命じた。だが、列藩同盟軍の守りは堅く、新政府軍の朝日山奪取は失敗に終わる。その後、戦況は膠着状態に陥り、散発的に砲撃戦が行われるのみとなっていた。
この状況を打破すべく、新政府軍は5月19日に敵側防衛線の要所である長岡城を攻めることを計画する。長岡城は重要な拠点ではあったが、列藩同盟軍は兵力の大半を榎峠方面の守備にあてており、長岡城が手薄となっていたためであった。
この新政府軍の狙いは見事にあたり、河井継之助が自らガトリング砲を操作するなど奮戦を見せたものの、わずか半日で城は落城してしまう。長岡城が落城するという事態に直面した河井は作戦を見直さざるを得なくなる。そして、今町(現在の新潟県見附市)にある新政府軍本営を衝く、という作戦を立案する。
この作戦は成功し、列藩同盟軍は新政府軍本営を奪取した。これによって戦局は再度膠着状態に陥る。
ここに至り、新政府軍は逐次交戦を行う形から、援軍の到着を待って十分な戦力で複数の拠点を同時に攻めることで、一気に勝負を決する方針に転換した。2ヶ月弱の間、睨み合いが続いたが、新政府軍に援軍と武器弾薬が到着、7月25日に今町と栃尾を攻撃するという計画を立てた。
だが、列藩同盟軍もこれを静観しているばかりでは無かった。新政府軍の攻撃が始まる前に先手を打って攻勢に出て、長岡城を奪還しようという作戦を実行するのである。とはいえ、平城と言っても城は城、かつ相手は援軍の目処が立った新政府軍である。城を奪還するのは容易ではない。
そこで河井の取った作戦は、城の東北に位置し南北5キロ・東西3キロにわたる大沼沢地である八丁沖(はっちょうおき)を深夜に渡って城に奇襲をかける、というものであった。この八丁沖は中央部分は底なし沼になっていると言われ、一面に葦が生い茂り魔物が棲む、と言われた沼地であった。
このような場所であれば、新政府軍も守備が手薄になっているだろう、という予想からあえて非常識な進軍方法を選んだのである。そして、7月24日の深夜、作戦は決行される。
約600名の兵を率いた河井は、兵に杖となる青竹を持たせ、暗闇の中を6時間かけて渡河し、奇襲を掛けた。狙い通り、八丁沖からの敵襲を想定していなかった新政府軍はこの奇襲に対応出来ず敗走した。列藩同盟軍は一度失った城を奪回するという困難な作戦を成功させたのである。
だが、奇襲で城を失ったものの地力に勝る新政府軍は、即座に反撃を始める。長岡城下で市街地戦が繰り広げられる中、河井が膝に被弾し重傷を負ってしまう。これによって河井が指揮を執れなくなり、列藩同盟軍の士気は大きく低下する。
そして列藩同盟軍が城を奪還した僅か5日後、城は新政府軍の猛攻によって再度奪われてしまう。同時に列藩同盟軍が守る新潟も陥落し、越後全域は新政府軍の手に落ちた。また、傷を負った河井は会津に落ち延びたが、銃撃による傷がもとで破傷風となり、8月16日に没した。
最終的に勝利を得た新政府軍であったが、予想外の長岡での苦戦で大きく兵を減らし、戊辰戦争の戦線は会津へと移っていくこととなる。
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ちなみに、「ガトリング砲」とは銃を連射できる機関砲です。
これです↓
こんなの戦国時代に持ってたら、みんなにワーキャーもてはやされたろうなぁーと妄想
してしまうのでした。



