【籠城戦】神仏を恐れぬ信長が襲った聖域 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ

【籠城戦】神仏を恐れぬ信長が襲った聖域

ピックアップ籠城戦って、マイナーな戦いが多くないですか?」と言われたことがあります。


はい、そうなんです。すでに城がテーマの時点でマニアックなブログで、誰もメジャー感なんか期待してないんだから、書籍など他でも読めるような有名な戦いはあえて避けて、普段あまりお目に掛からないものを扱おうという魂胆なのですナゾの人




ということで、今回は “籠城戦かと問われれば、ぐぅの音も出ない” ものを取り上げてみました。




「比叡山延暦寺焼き討ち」です。(これ結構有名!)




城めぐりで攻略できる城郭の中には、「本能寺」や「本願寺」など“城”という字がつかなくとも、実際に戦いが行われた寺院や、堀や土塁などの防御機能を持った寺院がいくつか収録されています。




延暦寺もその中のひとつです。




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神仏を恐れぬ信長が襲った聖域


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「比叡山延暦寺焼き討ち」は織田信長が行った“悪事”のひとつとして人口に膾炙している。しかし、信長がその行為に及んだ過程や動機を知る人は多くないであろう。




延暦寺焼き討ちが行われた元亀2年(1571)以前の信長の置かれている状況は、彼の人生においても最も苛酷で危機的なものであった。その元号をとって「元亀争乱」とも言われる一連の紛争である。




元亀元年4月、信長は大義名分を揃えた上で越前の朝倉氏を攻めた。緒戦は烈火の勢いで侵攻したものの、同盟者である浅井長政の裏切りによって退却を余儀なくされる。6月には、この浅井・朝倉の連合軍を近江姉川において撃破したものの、北近江に勢力を持つ浅井氏を敵に回したことは大きな痛手であった。




7月には三好三人衆らが阿波より渡海、摂津に陣を張った。信長は畿内へと出陣し9月には三人衆らの息の根を止める寸前まで追い込んだ。しかし、今度は後背の石山本願寺の一揆勢が大挙して織田軍を襲った。本願寺の主、顕如が全国の門徒に蜂起を命じたのである。




さらに悪いことに同月、息を吹き返した浅井・朝倉連合軍数万が京への入り口である近江坂本まで南下してきたのである。連合軍は信長部将・森可成、弟・信治らを血祭りに上げ織田勢の退路を断つ構えを見せた。このままでは敵の挟撃によって壊滅すると考えた信長は、三好・本願寺との戦いを切り上げ、急遽京へ引き返し、浅井・朝倉連合軍に決戦を挑まんとした。




優位な立場にあって決戦を急ぐ必要のない連合軍は、織田勢の接近を知ると比叡山に上って各所に陣所を構築した。大軍の籠もる山に攻め掛かる愚を悟った信長は、延暦寺に対し、「分国中の延暦寺領を全て還付するから協力をしてほしい」。さらには、「味方することができないのであれば、せめて中立を保ってほしい」と懇請した。しかし、延暦寺はこの要請を無視し続けたのである。




膠着した状態が続いていた11月には、尾張小木江城を守っていた弟・信興が伊勢長島一向一揆によって攻め殺された。各地で深刻な事態が進行する中、信長はついに将軍と朝廷を動かし、なんとか浅井・朝倉との和睦・休戦に持ち込むことに成功した。この和睦により連合軍は山を下りそれぞれ本城へと撤退していった。




年が明けた元亀2年5月、信長は満を持して弟を殺された憎き長島の一向一揆殲滅のため伊勢に出陣した。しかし今度はゲリラ戦を展開する一揆勢にさんざんに悩まされ、部将・氏家卜全らを失う大損害を出した。




各地で劣勢を強いられ八方ふさがりとなった信長は、この後南近江を安定させ京へのルートを確保することで、敵対勢力を各個撃破する作戦を展開する。その矛先となったのが、前年に信長を大いに悩ませた比叡山延暦寺であった。




南近江の一向衆拠点である守山・金ヶ森を攻略した織田軍は突如として琵琶湖を押し渡り、比叡山の麓にある坂本に放火した。さらに炎上する坂本の町を進んで、次々と延暦寺を目指して攻め上ったのである。




寺院といえども戦国の世、各所に防塁を構え、武装した僧兵達を多数擁していた延暦寺であったが、織田勢が攻めてくることはないという油断もあり、比叡山はたちまち大火に包まれた。日枝社や根本中堂、大講堂はじめ歴史ある建物がことごく焼き払われた。また、織田兵によって山中の老若男女問わず大殺戮が行われ、数千人の人命が奪われたと言われる。




近年の発掘調査・研究によって、比叡山山上はそれほど焼かれておらず、坂本の町から中腹までが重点的に焼かれたと言われているが、とは言え最澄が開いてから700年余り、聖域として存在してきた延暦寺の焼き討ちは人々を震撼させたことは言うまでもない。比叡山は数日間にわたって徹底的に放火され、山全体が焼ける様子は遠く京方面からも空が赤く見えたほどであったという。




信長はこの一事をもって、既存勢力や権益に固執して抵抗する者は、たとえ寺院であっても容赦をしないという姿勢を天下に知らしめたのであった。




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完全に大量殺戮が行われたかのように言われている延暦寺焼き討ちですが、秀吉とかは結構見逃してあげてたという話もあります。




まあ、いずれにしても信長に逆らったら怖いよ、ということですねあせる