【籠城戦】目に見えぬ敵に敗れた堅城
今日はオフィスの下の階が改装工事まっただ中で、うるさくて仕方ありません
。
床張り替えるくらいなら何の害もないですが、なにしろ今日は天井に穴を空けているとかいないとかで(理由は定かではありません)、下からの突き上げる轟音
に、辟易しているところです。仕事のやる気をそがれます。(いつもはモチベーション高いのに
)
ということで、本日はそんな穴掘りに関係した籠城戦をお届けしましょう。(強引に)
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目に見えぬ敵に敗れた堅城
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武蔵松山城は、現在の埼玉県比企郡吉見町大字南吉見にあった城で、その遺構の素晴らしさ、残存状況から国の史跡にも指定されている。
関東平野の中央に位置し、小田原、江戸、上野、甲府など、各地への交通に適した松山城は、それゆえに戦国時代、幾度も戦乱の的となった。
古くは扇谷上杉・山内上杉氏の抗争から、後北条氏の進出、北からは上杉謙信の関東出兵など、戦火が絶えることがなかったのである。
天文14年(1545)、河越夜戦の勝利で北条氏康が勢力を拡大すると松山城はその支配下となったが、上杉方の太田資正が奪還、その後城代の上田朝直が寝返り再び北条方へ戻るなど、戦国後期に北条・上杉・武田の三大勢力による衝突が激化するにしたがい、松山城の帰属はめまぐるしく変わる。
永禄4年(1561)には、上杉謙信の南進によって松山城は再び上杉方の手に戻り、謙信は太田資正に城を預け、資正は城代として上杉憲勝を置いた。
要衝松山城を奪われた北条方では、これを早期に取り返すべく、前城主上田氏の旧領回復を名分に出陣。当時同盟者であった武田信玄もこれに加わり、攻撃軍は5万を超える大軍となった。
憲勝は、同じく武蔵の岩付城に籠もる太田資正に急を告げ、越後の上杉勢の来援を待った。このとき、松山城内で飼われていた軍用犬が、首に密書を入れた筒を付け包囲陣を突破して岩付城へ届けたと言われている。(資正は普段から有事に備え犬を訓練していたという。)
北条・武田連合軍は大軍にものを言わせて力攻めに猛攻を加えるが、松山城は周囲を蛇行する川によって三方を囲まれ、残る一方を大空堀や沼、湿地で防御し、容易に落ちる気配を見せない。
強攻策は通用しないと見た信玄は、氏康と協議の上、ある奇策を採った。
本国甲斐から金掘衆を呼び寄せ、城外から城に向けていくつもの坑道を掘らせたのである。金掘衆とは普段は金山の採掘に従事する者たちだが、信玄はしばしばこの集団を城攻めに活用した。
地下から不気味な進軍を続ける連合軍を目の当たりにした籠城軍は、金掘衆に狙いを定めて鉄砲を乱射して一定の効果を上げたが、連合軍側でも竹を数十本束ねた「竹束」を使って矢玉を避け、徐々に城方を圧迫していった。
『北越軍談』などには、この金掘衆の活躍によって松山城の櫓を2つ堀崩したとあるが、実際に城を攻略する上でどれだけの実効性があったかは不明である。しかし、見下ろす先々でこちらに向かって穴が掘られている様は、籠城兵の心胆を寒からしめたことは想像に難くない。
事実、包囲から約3ヶ月、これ以上の籠城は不可能と判断した上杉憲勝は連合軍に降伏。松山城は三たび北条の手に戻ったのである。
この時、越後から後詰めのために来援した上杉謙信が、すぐ近くまで迫っていたという。
戦国時代を代表する二大名が共同で行った攻城戦であり、かつ奇策をもって敵を疲弊させ城を攻略した興味深い戦いであると言えよう。
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華々しい合戦話があるわけでもないのに、随所に逸話があって、知られざる名攻城戦ですかね![]()
他にも、武田軍にいた米倉晴継という武将が城攻め中に被弾して重傷を負ったものの、寄親(上司みたいなもの)の甘利昌忠がむりやり馬糞汁(馬のウ○コを水で溶かしたもの)を飲ませて治療した、とかいう汚い美談も残っていたりします。どこまで本当かは知りませんが、この米倉晴継、その後も別の戦さに出ているので、治ったことだけは確かなのでしょう![]()
お食事中の方、失礼致しましたm(_ _ )m