【籠城戦】安濃津城で奮戦した小大名、富田信高 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ

【籠城戦】安濃津城で奮戦した小大名、富田信高

1週間前に高天神城でスタートしました籠城についての話ですが、ブログのテーマの名称を「ピックアップ籠城戦」にしました。ちょっと軽いタイトルですが、あくまでブログの一企画なのでお許し下さいませ(・・;)




さて、残暑厳しい8月も残すところあとわずかです。来月9月は関ヶ原の戦いがあった月です。今年は関ヶ原から410年になりますが、今回はこの関ヶ原がらみの籠城戦にしようと思います。




関ヶ原の戦い直前に伊勢(三重県あたり)で起こった「安濃津城攻防戦」を取り上げてみます。


※歴史に詳しい方から、「あえてそれ選ぶんかいっあせる」とツッコまれそうですが、あえて選びました。


(注:関ヶ原がらみと言えば、伏見城長谷堂城の戦いの方が一般的ですので...)




━━━━━━━━━━━━


安濃津城で奮戦した小大名、富田信高


━━━━━━━━━━━━




1600年、会津の上杉討伐を発した徳川家康は、諸将を率いて下野小山まで進軍していた。


その時、上方で石田三成が挙兵した、との第一報がもたらされた。7月24日のことである。




家康は、このことを従軍の各将に告げ、東西どちらにつこうとも恨みには思わぬから進退は任せるとした。




この従軍諸将の中に、伊勢安濃津城主、富田信高がいた。




信高は、他の伊勢の諸将とともに、西軍の攻撃から伊勢を守るよう家康から依頼され、東軍につくことを決意、伊勢へと急行した。




伊勢方面で東軍に加担した大名は、福島正頼(長島城)、分部光嘉(上野城)、古田重勝(松坂城)、稲葉道通(岩出城)らで、松坂城を除けば、いずれも2万石足らずの小大名ばかりである。




西軍は京都伏見城を攻略後、伊勢へ進出し、早くも8月19日には安濃津城を包囲した。




安濃津城には信高の他、上野城の分部光嘉も合流、松坂からも援軍が入り、さらには城下の農民、町民ことごとく収容したが、それでもその数は2千に満たなかった。




一方、包囲軍は毛利秀元ら3万余の大軍。


8月24日、総攻撃が開始され、一進一退の熾烈な攻防が展開されたが、多勢に無勢、城方の劣勢は明らかだった。




防塁を乗り越え、本丸近くまで敵がなだれ込む。援将の分部はもとより、城主信高自身も槍を取り討って出て、敵をなぎ倒して意地を見せるが、攻撃軍を押し返すどころか、自身が本丸へ引き上げることさえ困難な状況となっていた。




その時である。




城門が開いたかと思うと、ひときわ容姿端麗な若武者が一騎躍り出て、敵兵数名を鮮やかになぎ倒し、城方の劣勢を一時とはいえ挽回した。




『常山紀談』によると、「容顔美しき武者、紺おどしの物具、中二段黒革にておどしたるを着、槍をさげ来たり」とある。




ともあれ、この若武者の活躍によって、信高は無事本丸の門内へ退くことができた。


束の間の休息を得た信高が、この命の恩人とも言うべき若武者をよくよく見てみると、それはなんと信高の妻であった。




妻は信高に近づくと、「殿が討死したと聞き、たとえ女の身ながら一太刀でも敵に報いようと、討って出ました」、と言い、信高もまた、妻のこの武者働きに驚嘆しながらも、互いの無事を喜びあった。




美しさと強さを兼ね備えたこの妻の取った行動は、よほど当時の人々の心に強い印象を残したのか、後に様々な軍記物に書かれる武勇譚となっている。


落城の運命にある城の城主夫人として人知れず自害するのではなく、討死せんと敵と刃を交えた女性の姿が、戦国の籠城史の中でもひときわ異彩を放っていると言えよう。




この籠城戦は、総攻撃の翌日25日、高野山の木食上人が仲裁に入り、和睦、開城となった。


破滅的な玉砕戦となることは避けられたのである。




信高は剃髪し高野山へ入ったが、その後行われた関ヶ原の戦いの後、家康にこの籠城戦の戦功を讃えられ、加増された上で安濃津城主へと返り咲いたのであった。


━━━━━━━━━━━━




彼女の本意ではないでしょうが、完全にこの妻の方が主役になっちゃってますDASH!女性は強しです。




安濃津城には、後に築城の名人として知られる藤堂高虎が入って大改修を行い、「津城」と改められます。


城めぐりにも津城で収録されています。




津城へお越しの際は、ぜひ「安濃津城時代」の合戦話も思い出してみて下さいひらめき電球