その日私は、石炭ストーブの炊かれた教室でコートを着たまま、講義を受けていました。
教養課程の1年半を新潟市で過ごし、学部校舎があった長岡市に9月に移転していました。
海に近い新潟市と異なり、内陸というか山が近くなる長岡は少なくともこのころは豪雪地帯でした。
従って、本来教室ではコート/オーバー類を脱ぐことはマナーでしたが、スチーム暖房が行き届いていなかった大正時代の建物の我が母校では、ストーブ周りでないと暖かくなく教室でコートを脱がない事は許されていたのです。
かの地、長岡市に移転して2ヶ月ほどの10月の終わりころから2~3度試しの雪が降った記憶がありましたが、この日は朝から雪で止む気配を見せませんでした。
暖国静岡生まれの私は深々と降る雪は初めてだったので、それが珍しくまたどこか嬉しくて講義はそっちのけで窓の外を午前午後のずっと眺めていました。 ただし午後の講義は市内の民間会社からの特別講師がおこくなってくれた「精密機器材料」にかんするものだった事は何故か覚えています。 担当のA先生は特に雪の話はしませんでしたが・・・・
結局降り続いた雪が、その年の根雪となりました。 「根雪」という言葉を初めて知ったのはこの時でした。
先の大戦の関係者であった 山本五十六さんの故郷 長岡であった事と12月8日という特別な日が間もなく60年にのなろうとする今も思い出されます。
これはその時の10年後の写真
この正面玄関を入ると教務課や左手奥が図書館だったと記憶していますが・・・
私が入学する前の年の当時のグラフ雑誌 「アサヒグラフ」 にこの立派な校舎裏面につながる長い廊下 通称「百閒廊下」が雪の重みで壊れそうだなんて記事を書いていたのを思い出します。
この写真の雪は当時の雪の中ではまあずっと少なく 本写真の西隣/右手を 悠久山から走って来た越後交通の電車が長岡駅に着いたら1両足りないと大騒ぎになった事がありましたが、前の車両に乗っていた私は気づかず帰りに一つ手前の停車場/駅の近くで転がっていたのをみましたが、誰も怪我もせず電車も殆ど傷付かずで済んでしまったようでした。 その頃の付近の家々は雪下ろしの雪で1階部分は埋まってしまい、2階部分から出入りする家は無かったと思いますが、階段を上って地下から出てくる感じの生活を送られていました。
今つらつらWikipediaで調べてみたらこの越後鉄道 栃尾線は私の卒業後の1973/75年に配線になったようで、所謂軽便鉄道の範疇の鉄道だったようで、長岡から北には1駅しか乗車していなかったので在学中に終点 である栃尾まで乗っておきたかったなと後悔しています。
私の地元でも静岡鉄道駿遠線 別名 藤相鉄道という軽便鉄道があって同じ頃廃線になったようです、こちらはまだ山向こうの静岡市に住んでいたので気づきませんでした
たったの4年でしたが雪国に暮らすことはやはり厳しいなという当たり前の事
①ただ1日中ずっと4度C程度の気温で朝晩の冷え込みはこちらの方がキツイと思われます
大体 池の水は凍らないのですよね
②水道の蛇口を少し開けて水を出しておかないで凍らせてしまうと春まで使えなくて悲惨になる
寮の蛇口で1度失敗しました。 4月初めまで使えなかったけれど冷え込みがきつくないので水
道管の破裂は無かったです。
③春になって晴天に遭ったらとても嬉しくなったのを覚えています。 正月にはいつも静岡に帰って
いたのに
⓸雷は 夏に多いものというのは太平洋側の話 雪国は冬の雷が多い ともに積乱雲が関係する
から あの頃も今も雪国では雪下ろしの時の事故で亡くなる人が出るのが残念なことです。
暖房費と雪下ろし等の除雪費用等も大変ですね。
私のお隣さんは新潟県の妙高山の裏の町 豪雪地帯の能生町の出身で、ご両親の亡くなった実家を雪対策の為に解体処分したと言っていました。