生涯現役続行… 引退を口にしない男達… | アナリスト杢兵衛のブログ ~ 気になった事をつらつら……

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引退は宣言するものなのか…

現役への未練と思われがちなこのこと…

でもまた違った次元からの…

未練ではなく…

榎本さん…

いつ呼ばれても即戦力となりうるため…

これがプロですね……



プロ野球界では、1軍で活躍し、ある程度名を残した選手は、正式に引退を宣言するパターンが、ほぼお約束だ。 

その一方で、実績は十分でも、引退を口にすることなく、所属チームを退団後、どのチームにも所属していないのに、“現役”という形をとり続ける選手もいる。

 代表的な一人が、近鉄をはじめ日米6球団でプレーし、NPB史上43人目の通算2000本安打を達成した中村紀洋だ。 中村が球界を去るきっかけとなった事件が起きたのは、DeNA時代の2014年5月6日の巨人戦だった。

 2対1の8回無死一塁で打席に立った中村は、一塁走者の梶谷隆幸が二塁をうかがう動作が気になって打席に集中できず、三ゴロ併殺に倒れた。 試合後、中村は「負けている場面なら(二盗も)わかるが、ここは集中したかった」とコーチに訴え、これが采配批判と受け取られた。ベンチが梶谷に「自身の判断で盗塁してもよい」と指示していたからだ。

 中村は2年前にも、ベンチの「フリーで走ってよい」の指示で二盗した内村賢介を「なぜ盗塁するのか」と非難する事件を起こしており、たとえ4番打者でも、2度にわたるチーム方針への反抗は許されなかった。 翌日2軍落ちした中村は、そのままシーズン終了まで1軍に呼ばれることなく、自由契約になった。

 当時41歳の中村は「まだまだできる自信がある」と現役続行を希望し、他球団のオファーを待ったが、翌年7月の支配下登録期限までNPB所属チームから声はかからなかった。 だが、中村は「まだまだチャレンジを楽しんで続けるとあきらめずに常に挑戦する」と“生涯現役”を明言。イベント出演や中学・高校野球の指導者という形で野球人を続け、来季は中日の立浪和義新監督の要請を受け、打撃コーチに就任することが報じられている。

 今年6月、関西テレビのバラエティ番組「こやぶるSPORTS超」に出演した中村は「引退って自分で言う必要があるのかどうかって葛藤があって。わざわざ引退しましたって報告する義務もないやろうし。引退は死んだとき。死ねば引退だと。自分の中で生涯現役。体が動くうちはチャレンジしつづけることが、本来の生き方かなと思います」と語っている。 

現役引退後も、自らを「修業中の身」と定義し、生涯“現役の野球人”を貫いたのが、東京オリオンズ時代に史上最年少(31歳7カ月)の通算2000本安打を達成した“天才打者”榎本喜八だ。 

72年の西鉄を最後に18年間にわたる現役生活に終止符を打った榎本だったが、その後も都内中野区の自宅から約20キロ離れたオリオンズ時代の本拠地・荒川区の東京球場まで1日おきに往復のランニングを続けていた。 77年5月17日付のスポーツニッポンは、グランドコートを着て、トレーニングパンツ姿の榎本が深夜、解体作業中の同球場まで走ってくる様子を1面トップで報じている。 「どんなチャンスが来るかもしれない。そのときに慌てない体力と精神を保ってなければならない」というのが理由だった。 将来指導者として再び声がかかったときに備えてトレーニングを続けているというニュアンスで、本人も「もしコーチとして野球界にカムバックしたら、自分が先頭に立って引っ張ろうと思ってましたからね」(「豪打列伝」文春文庫)と回想している。 

だが、現役時代に“奇言奇行の人”とも呼ばれた榎本は、当時の年齢も40歳とあって、「現役復帰を目指しているのでは?」「通算打率3割(生涯打率は.298)に挑戦するのでは?」などの憶測も飛び交った。常人の感覚では、コーチになるためにそこまでトレーニングに励むストイックさは、理解の域を超えていたのかもしれない。 結局、コーチの話は来なかったが、往復40キロ以上のランニングは、70歳を過ぎても、時々やっていたという。

 冒頭の中村同様、引退宣言しないまま現在に至っている選手といえば、阪神のエースとして2度のリーグ優勝に貢献し、ヤンキース、オリックスでもプレーした日米通算95勝の左腕・井川慶の名も挙がる。

 15年に1軍登板ゼロでオリックスから戦力外通告を受けた井川は、練習参加を経て、翌16年12月、独立リーグの兵庫ブルーサンダーズと契約。17年シーズンは、BFL(現関西独立リーグ)の公式戦で11勝0敗、防御率1.09と「納得のいく内容のピッチング」ができたが、待ち望んでいたNPBからのオファーはなかった。 契約満了で兵庫を退団した井川は「このまま引退ということは考えておらず、現役は続行するつもりで、いったん休養に入りたい」と宣言。

その後も、19年7月29日に開催されたプロ野球OBによるエキシビジョンゲームで、ドリームヒーローズのメンバーとして先発で1イニングを投げるなど、イベントや非公式戦などでプレーを続ける一方、今年からテレビの野球解説者も務めている。 40歳を過ぎても引退を宣言しない理由について、井川は今年3月に出演したYouTube「プロ野球OBクラブチャンネル」で、「いつでも辞めれるんですけど、辞めると復帰できないのかなと思ってしまって……。どうせなら、辞めるって言わないで、できるところまでやってみたい」と語っている。 NPB以外の受け皿も増え、選手の価値観も多様化している現在、引退についての概念も変わりつつあるようだ。(文・久保田龍雄)

 ●プロフィール 久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2020」(野球文明叢書)。